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30核実験について
信濃毎日新聞 文化面 08年11月28日掲載 チベット 人々の祈り (野田雅也)
第4回 放射能 知らされぬ住民

■青海省海北チベット族自治州の西海は、古くからチベットの人々が
羊やヤクの放牧を行なってきた地域だ。海抜三、〇〇〇メートルを越す草原は、
夏の時季には黄色や白の花々が一面に咲き乱れる。

■その広大な草原地帯に、巨大な廃墟が点在している。
かつて核兵器の研究開発や核実験に使われていた施設跡である。
中国の核兵器開発の拠点だった西海は、今でこそ地図に名が記されるが、
軍事機密都市として長くその存在が極秘にされていた。

 一九五〇年のチベット侵攻で、アムド地方(青海省)を占領した中国は、
五八年に核兵器の研究開発基地(221工場)を西海に創設。
旧ソ連の技術援助を受けて核兵器の開発を始めた。
六四年六月に西海で核爆発実験を行ない、同年十月に
新疆ウイグル自治区の核実験場で原爆実験に成功すると、
原爆、水爆、その他核兵器の開発と実験、製造を本格化させた。

■「地面から大きな煙が上がったり、きのこ雲が丘の上に
わき上がったりするのを何度も見た」。
西海の核実験場で一九八〇年代から羊の放牧をしていた
カルデン=仮名=(36)は、爆発があった場所を両手で示しながら話した。
「煙が消えると兵士たちが爆発した場所に行って土を調べ、
その後、軍用トラックに土を積んで遠くに埋めていた」

 その土には毒≠ェあるとカルデンは言う。
だが、それが何か、人間や家畜にどんな影響を及ぼす毒かは知らない。
ただ彼は「ここで育った羊は、寿命が四年ほどと短い。
歯がなかったり、反対に歯が異常に長く伸びた羊もいる。
生後数カ月で死んでしまうことも多い」と語った。

 中国は核実験のデータを公表していないため、
実験場周辺の核汚染や住民の健康被害、あるいは放射性廃棄物が
どう処理されたのかも闇の中だ。
NGO「チベット国際キャンペーン」(本部・米ワシントン)の資料によると、
八四年に西海周辺住民の血液検査を行ったチベット人の内科医タシ?ドルマが
「小児白血病の発症が著しい」と報告している。
また、その当時現地に入った米国人医師が「原爆投下後の広島と長崎で見られた事例に
類似している」とタシ?ドルマに告げたという。だがそれ以上には、住民の健康被害の状況は明らかになっていない。

■八七年に西海での核実験は中止され、九五年にすべての施設が閉鎖された。
しかしそれによって、残留放射能による土壌汚染や健康被害の危険性がなくなったわけではない。

 カルデンによると、西海の住民たちは九〇年代、
家畜の成育の異常は「草に毒≠ェあるからではないか」と、省政府に調査を求めた。
すると「北京の中央政府から派遣された調査員が来て、水や土、草を持ち帰った」と言う。
その後、住民に伝えられた調査結果は、西海から南へ三キロ離れた錫の精錬工場に原因があり、
「排煙や排水が大気や土壌を汚染し、食物連鎖によって家畜に影響が出ている」というものだった。
放射能については何も知らされなかった。

■住民たちは今も、草原に放置された施設跡やかつての核実験場の周辺で、家畜を放牧している。
実験の計測施設跡を家畜小屋や倉庫に利用しているチベット人男性は
「ここには毎年、軍隊が調べに来る」と言った。
兵士から「毒≠ェあるのでここに食べ物を保存しないように」と注意されているという。
怖くないかと尋ねると、男性は「大した影響はないさ。この通り、私はピンピンしている」と
不安を振り払うかのように言った。

【写真キャプション】 広大な草原地帯に核兵器開発基地の施設跡が廃墟となって残る。
奥右側の煙突がある建物は核爆弾の製造工場だった=2008年 青海省西海 
31亡命と拷問について:2008/12/19(金) 11:32:57 ID:WLnS4Wne
「チベット 人々の祈り」第5回 自由求め故郷逃れた難民

■ヒマラヤ山脈を間近に望む、インド北西部の町ダラムサラ。
ここには、一九五九年に亡命したチベット仏教の最高指導者ダライ?ラマ十四世をはじめ、
チベット難民約八千人が暮らす。
 彼らの大半は、ヒマラヤ山脈をひそかに越え、故郷から逃れてきた。
標高六、〇〇〇メートル近い雪山の峠越えは、気温が氷点下三〇度以下に達し、凍死や遭難死の危険も大きい。
中国の国境警備隊に見つかれば、投獄されるか、その場で射殺される。
そのため、昼間は氷河の谷間に身を隠し、夜になってから月明かりの下で断崖を歩く。

 死と隣り合わせのその困難を乗り越えて、毎年二千人以上の難民がチベットからダラムサラにたどり着く。
そして、この半世紀で、世界各地へ離散したチベット難民は十二万人を超す。

■「十二年間投獄され、釈放後すぐに故郷を離れた」。
チベット自治区の町から、ラサを巡礼して、今年二月にダラムサラの難民収容所に到着した僧侶、
ジャンバ?タシ(39)は言った。

 彼は一九九四年三月、同じ寺の僧侶五人と「チベットは私たちの国だ」と書いた紙を
町役場の壁に貼り、逮捕された。 たった一枚の貼り紙に対して、十二年の刑が言い渡された。

 タシの寺は、文化大革命期(六六―七六年)の徹底的な宗教弾圧で破壊され、その後、寺の一部を再建したが、
数百人いた僧侶は二十五人に減った。
九〇年代に入ると、中国政府の新たな規制で僧侶が十三人にまで制限され、
タシを含め十二人が追放された。

「中国は表向き信教の自由を認めているが、さまざまな規制で、チベット仏教が衰退するように
操っている」とタシは言う。 貼り紙は、チベットの宗教や文化が奪われていくことへの
抗議の意思表示だった。

■投獄されたタシは、最初の一カ月間、一日三回の拷問を受けたと言う。
「両手、両足を縛られ、こん棒で殴られた。気絶すると水をかけられ、濡れた体に電気を流された」。
看守たちは「おまえを操っているのは分裂主義者のダライ一派か」と詰問した。
タシが「自分の意志だ」と言うと、高圧電流が流れる棒を口に押し込まれた。
「全身が激しく痙攣し、口が裂け、皮膚がはがれ落ちるようだった」

 拷問で右膝を傷めたタシは足が不自由になり、後頭部を強打されて視神経が切れ、
右目は今もほとんど見えない。
しかし彼は今も、「正しいことをした」という誇りを持っている。
「非人間的で、残虐な行為をする彼らこそ、憐れだ」と。

 ダラムサラでは、仏教をあらためて学び、英語も勉強したいという。
「何をするにも、ここでは自分の心に従って決めることができる。これが自由≠ネんですね」と
タシは言った。

■チベットから逃れる人々のなかには、子どもたちも多い。
ダラムサラで暮らす難民の三分の一は十七歳以下だという。
やはり今年二月にダラムサラに着いたノルブ(14)は、
「故郷の町は軍隊と漢民族ばかりで、チベット人はいつも見下されていた」と語る。
サンデン(17)は、ヒマラヤ越えの際に凍傷になった足の親指が壊死して黒ずんでいた。
「読み書きもできないので、もう一度、勉強をやり直したい」と言った。

■今年三月のチベット騒乱以降、国境地帯の警備は強化され、軍隊の厳重な監視下に置かれている。
しかしそれでも、国境を越えて、抑圧下のチベットから逃れようとする人たちは絶えない。
この冬、いったいどれほどの難民たちが、ヒマラヤを無事に越えられるだろうか。

【写真キャプション】
「父さんがいたから怖くなかった、でも寒くてお腹ペコペコだったよ」。
今年2月、ダラムサラに到着したペマ(6)と父親=2008年3月 インド・ダラムサラ 
撮影:野田雅也
32現在について:2008/12/19(金) 11:35:59 ID:WLnS4Wne
第五回は「信濃毎日新聞文化面 08年12月5日掲載」です。

チベット 人々の祈り 第6回(08年12月12日掲載)「真実とは何か」問う闘い

■一九五九年三月十日。
それは、チベットの人々の心に深く刻まれた日だ。
一九五〇年の侵攻以来九年に及ぶ中国の政治・軍事圧力に対し、この日、ラサの民衆が一斉に蜂起した。
しかし、ラサを包囲した人民解放軍はこれを圧倒的な武力で押さえ込み、中国がチベット全土を完全支配するに至る。
インド・ダラムサラにあるチベット亡命政府は「ダライ・ラマ十四世をはじめ八万人以上が亡命を余儀なくされ、
八万七千人が殺害された」と、当時を記録している。

■それから四十九年。
北京五輪を前にした今年三月十日、ダラムサラからラサに向けて、難民たちの帰還大行進が始まった。
それに呼応して、ラサでも僧侶たちが平和行進を起こした。
中国の武装警察によって行進が阻止され、僧侶たちが次々と拘束されると、抗議のデモがチベット全土に波及した。
ラサでは十四日、怒ったチベット人たちが警察署や漢民族の経営する商店を襲撃し、衝突が一気に激化する。
中国は軍隊を導入して徹底的な弾圧を始め、銃撃によって多くの市民が犠牲になった。

■三月末、インドの首都ニューデリーで、チベット難民たちによる大規模な抗議デモが起きた。
インド生まれの難民二世、ロブサン・シャスティ(27)は、その群集の先頭に立ち、
「チベットに自由を」と声を張り上げた。
「叫ばなければ、怒りと悲しみで胸が裂けてしまう。
中国はなぜ、チベットの国を、宗教や文化を、そして仲間の命を奪うのか。
これ以上、私たちの何を奪い取るのか」。
チベットで射殺された犠牲者たちの写真を手に、彼は唇を震わせた。

 ロブサンの両親は、一九八一年にチベットからインドへ逃れた。
彼を妊娠していた母親は、ヒマラヤを越える逃避行の疲労から、出産直後に衰弱死した。
やがて父親も病死し、ロブサンは九歳で孤児になった。
海外から支援を受けて運営される寄宿舎で育った彼は、奨学金を得て大学まで進んだが、
難民≠ニいう境遇が壁として立ちはだかる。
インド国籍がないため、正規雇用の仕事に就くことができず、指定された難民居住区以外に
住むこともできない。
難民キャンプの小さな食堂で皿洗いとして働き、生活をつないでいる。

 「ここには思想、言論の自由も、宗教の自由もある。
けれども、難民であるがゆえに社会的権利はない」とロブサンは言う。
中国の圧政下で生きる仲間たちを思えば、「耐えるほかないのはわかっている」。
けれども、国とは何か、自分は何者なのか、果てしない苦悩が彼を苛む。
「チベットの草原はどんな匂いがするのか。空はどれほど蒼いのか。想えば想うほど、故国が恋しい」

 ニューデリーの抗議デモに参加した人たちは、杖をついた年配の人から、まだ幼い難民四世の子どもたちまで、
世代を超えて「チベットに自由を」と声をあげた。
その言葉には、帰郷の夢叶わぬ難民たちの、そして圧政にあえぐチベットの人々の、痛切な思いが込められている。
「これは真実とは何かを問いかける闘いなのです。世界の人々はチベットのことを知ってもなお、
心の眼を閉ざすのでしょうか」とロブサンは言った。

■抗議デモは三月以降、日本を含め世界各地へと連鎖した。
それは、半世紀に及ぶチベットの受難の歴史のなかで、人々の祈りの声が
ようやく世界に届いた瞬間だったようにも私には思える。

■チベットは今、大規模な経済開発とそれに伴う漢民族の流入によって中国化≠ェ急激に進んでいる。
そして、伝統的な人々の暮らしやそれに根ざした文化も、信教も、この地から消し去られようとしている。
自由を、と願うチベットの人々に、残された時間は少ない。

【写真キャプション】
チベットの弾圧の犠牲になった人たちのために追悼の祈りを捧げる家族=2008年3月20日
インド・ダラムサラ   撮影:野田雅也