未解決事件の真相

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213紅鯨団
731部隊の悪行の数々は凄まじく、惨たらしいものであった。
しかし、部隊の給料は非常に良く、また食事も行き届いていた。
石井氏は部隊員の学歴を問わなかった。必要としたのは、体力があり
仕事に忠実な者達であった。彼の故郷の千葉県芝山町の小作人の倅達も
多くいた。彼は地主の息子であったため、その上下関係を利用したのである。
新人には研修として六角棒で丸太を殴り殺す経験をさせ、度胸をつけさせた。
上官たちはどうせ死刑になる奴らなんだから、お国のために役立ったほうが
よかろう、と口々に言い自分たちの行為を正当化していった。
一度、人を殺すとだいたい肝が据わるらしく、最初ブルブル震えていた新人隊員
ですら、数ヵ月後にはりっぱな隊員として生体実験に携わるようになっていく。
しかし、戦後731部隊の隊員達は自分たちの存在を口外しなかった。
それは731部隊の掟であった。従って、恩給を受け取らない者までいた。
申請すれば、自分の過去がばれてしまうからである。そういう中に一人の
屈折した元部隊員がいた。彼は戦時中軍医として731に来た。
彼の腕は確かで薬物の知識も豊富でエリートといっても過言ではなかった。
しかし、戦争が終わると彼も自分の過去が暴かれるのを恐れ恩給を申請
しなかった。50才になろうとしていた身にはとても辛く、日々の食料にも
ことかく毎日であった。東京のGHQ管轄の研究所で働き出してからは
生活に余裕も出てきた。そんなとき、彼はふと思った。何で御国の為に働いて
きたのに、自分だけが加害者のように扱われなくてはならないのか、と。
恩給も受け取れず屈折していた彼の心が悪魔の過去を呼び起こす。
昭和23年1月26日、午後3時帝国銀行椎名町支店に彼は防疫衛生者を装い
事件を起こすに到る。この日は午後から研究所が休みであり、彼にとっては
好都合であった。16万円の現金と小切手を奪い、彼は東京を離れた。
昭和35年7月彼は滋賀県甲西町で安らかにこの世を去った。享年63才である。
この事実を知る者は非常に少ない。私はこの事実を書くことを躊躇った。
しかし、書くことこそが被害者のため、そして彼のためになると思い書いた次第
である。彼の名前は野原である。私は現在奈良にいる。その野原の遠縁にあたる
者である。