日本人・日本社会についてオカルト的に掘り下げていくスレ
2 :
本当にあった怖い名無し:2013/03/25(月) 00:22:28.45 ID:Gr+VVGF60
単発糞スレたてんな!より先に、2ゲット!!!
単発糞スレ立てんな死ね
単発糞スレ立てんな死ね
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単発糞スレ立てんな死ね
>>2 乙
※書き忘れ
社会学・心理学的要素にも触れます、悪しからず。
607 :オイラーの森 ◆cmuuOjbHnQ:2010/02/28(日) 05:31:42 ID:6qXL85WU0
「君達、この日本と言う国の特殊性をどう考える?
呪術的と言うか、精神文化的な側面から見た特殊性という意味で」
「前に聞いたのですが・・・、建国以来途絶える事無く続く、制度的・精神的『中心軸』としての『皇室』の存在ですか?」
「そう、確かにそれもある。
じゃあ、その『皇室』を中心とした『日本国』或いは『日本民族』を存続させてきた『力』の根源は何だと思う?
王朝や帝国は地中海沿岸や中国大陸、エジプトやメソポアミアにもあった。
日本の皇室以上に呪術的な王朝は数限りなく存在したが、なぜ、日本の皇室や日本国だけが存続できたと思う?」
俺も、イサムも答えに困った。
熊倉氏の説明によれば、それは日本列島を覆う豊かな森林に負う所が大きいと言う事だった。
日本は先進国中ではトップクラスの、世界的に見ても特に森林の豊かな国と言う事だ。
乱開発による伐採によりかなり減少したとは言え、日本の国土の68%が森林であり、バブル期の乱開発の前は実に75%の森林面積を誇っていたのだ。
68%の森林率は、森林国として有名なフィンランドの73%強に続き、同じく森林国のスウェーデンの67%弱よりも大きい。
因みに世界の陸地の森林率は30%を割っていると言うから、日本が如何に森林に恵まれた国かが伺われる。
この日本の森林の際立った特徴は、森林蓄積の割合で、自然林は意外に少なく、実にその6割以上が植樹による人工林と言う事らしい。
608 :オイラーの森 ◆cmuuOjbHnQ:2010/02/28(日) 05:32:35 ID:6qXL85WU0
日本列島には、太平洋の海流エネルギーが集中し、日本の海域には世界でも最も流線密度の高い暖流が流れている。
流線密度の高い海流が集中する地域は、穏やかな気候に恵まれ雨量も豊富となる。
気候が良く雨量に恵まれれば、その地域に人口が集中し、大都市が形成されやすく、文化・文明が発達する可能性が高い。
海流流線密度が低い地域は乾燥した気候が多く、その分遠隔地から真水を引いてこなければならない。
砂漠が広大となれば大都市が発達する可能性は低く、発達しても都市を支える後背地の自然環境が悪ければ居住環境も劣悪となる。
人口が集中しても文化・文明を発達させる余力に乏しく、貧困やスラムを産むだけだ。
日本列島は元々有利な自然・地理的環境にあったが、そこに住む日本民族自身が、良質な真水を得るために大変なエネルギーを自然に加え続けてきた。
真水を生み出すのは豊富な森林である。
過去、世界で森林を失った国は忽ち砂漠化し、文化・文明から大きく取り残される事になった。
現代においても、産業や先端技術を支えるのは教育の普及などの人的側面も大きいが、物的側面として良質な真水の存在が欠かせない。
産業の基礎となる鉱物資源等を入手する事以上に良質の真水を得ることは難しい。
だが、ただ豊かな森林があるだけでは、例えば広大な熱帯雨林があるだけでは高度な文明や文化は発達しない。
自然環境と人的エネルギーの融合が無ければ、人間の文化・文明を支える良質な背景的自然環境に成り得ないのだ。
日本人は、この自然環境との共生が民族的深層心理のレベルで最も進んだ民族と言うことだ。
日本の神社には必ず森があり、神木がある。
日本民族古来の自然・宗教的な無意識領域では、森が無ければ神は天降ってこない事になっているからだ。
日本民族は、この日本列島と言う自然環境に気の遠くなるようなエネルギーを注ぎ込んできた。
そして、民族的深層心理のレベルで『一体化』を図ってきたのだ。
609 :オイラーの森 ◆cmuuOjbHnQ:2010/02/28(日) 05:33:32 ID:6qXL85WU0
高麗時代、朝鮮半島にも豊かな森があり、白磁・青磁に代表されるような高度な文化・文明があった。
森を切り開いても、その跡には植林が施されていたらしい。
蒙古の侵略を受け、軍船の建造や製鉄の為にかなりの森林が失われたが、それでも植林は行われ森は残った。
高麗の宗教が儒教ではなく、仏教だった事が大きく作用していたようだ。
しかし、500年前、李朝になった途端に朝鮮半島の森林は荒廃し始め、植林も全く行われなくなった。
李朝は、過激なまでに儒教を奨励し、仏教を始め従来の宗教を徹底的に弾圧した。
儒教の教えは人間関係の道徳だけである。
森が無ければ神は降りてこないといった、日本の神道に見られるような、自らの生存基盤である自然環境と調和しようとする民族的深層心理の醸成に全くと言って良いほどに寄与しない。
画して、李朝時代の朝鮮半島では材木や燃料として木を切り出しても植林される事は無く、山々から緑は失われた。
やがて、『森を失った李朝』は衰退し、朝鮮民族は文化・文明的な死に瀕することになる・・・
熊倉氏の説明に俺は疑問を感じた。
森の生み出す『真水』の重要性は理解できるが、朝鮮半島には漢江のような流量の豊かな河川が数多く流れているではないか?
熊倉氏に疑問をぶつけると、彼はニヤリと笑って答えた。
610 :オイラーの森 ◆cmuuOjbHnQ:2010/02/28(日) 05:34:24 ID:6qXL85WU0
そう、豊かな水が有るだけでは、多くの人口が集まるだけでは豊穣な文化も高度な文明も生まれない。
そう言ったものが生まれるには、人間のエネルギー、『気』や『念』と言ったものが集積され昇華されることが必要なのだ。
その源泉となるのが、太陽や大気からの『気』、或いは土や岩石などの大地からの『気』なのだ。
だが、人間を始めとした動物は、そう言った天地の『気』を自らの力として直接に使うことは殆ど出来ない。
風水などを用いて『気』の流れに手を加えるのが良い所であり、肉体や精神に自然界の『気』を取り込むには特殊な技術を要する。
太陽や大気、大地と言った『無生物の気』『環境の気』を直接使える『生きた気』に変換出来るのは植物・・・つまりは森だけなのだ。
自然環境を破壊して森を失った民族は、エネルギーの源泉を失い、やがては衰退して行く。
風や太陽、大地などの『無生物の気』は非常に強く、それに抗う人間という生物の持つ『気』は余りに微弱なのだ。
疑問もあったが熊倉氏の話には納得できる点も多々あった。
確かに大気中の二酸化炭素を光合成によって酸素と炭水化物に、或いは土中から各種の無機物を取り入れ栄養素と出来るのは植物だけである。
これ程までに科学の発展した現代においても、光合成の完全人工化には未だ成功してはいないのだ。
無生物から生物への気の流れの話は、『森が無ければ神は降りてこない』という話とも辻褄が合う。
納得仕切る事は出来なかったが、面白い物の見方だと俺は思った。
呼びつけて申し訳ない
気(波動)の話と子供の話、見つけたんでどうしても伝えておきたかった
上のリンクの
「黒い御守り 」「チルドレン 」の二話に言及がある
人違いか
待ち人が来ないから別のネタからにしようかな
まずは70万恐喝問題辺りから切り込んでいくか
でもまずは寝よう
13 :
本当にあった怖い名無し:2013/03/26(火) 13:05:31.73 ID:Br/TE5luO
寝た
他スレで好き放題書くのは楽しいぜ!(外道)
とりあえず
>>12は取り下げ。
最近、「失われた20年」における二〜三十代はある意味「経済特攻隊」だったんじゃないかと思うよ。
もっとも当時の中高年層もこの時期ある程度の人員整理は受けてはいるが、
「新卒無業・新卒非正規」で職務経験すらまともに積めず、
社会に経済的にコミットできない程の状況に追い込まれたわけではあるまい。
「特攻隊」の例になぞらえるなら、こちらはランク的には「傷痍軍人」だろう。
大体半世紀で人生めちゃめちゃな若造が大量創出されるのはオカルトやわね
さて、共同体志向性の強いこの国で「社会に参与できない」ことは死刑宣告に近しい。
だからこそ、本来ならこの層(一部じゃSNEPとか呼ばれるらしいが)をなんとか救済しないと
この国は未来に繋がらない。もっとも、上はその気は無いらしいがね。
こういう「社会」という安全な玉座に座り、「空気」というきらびやかな絶対正義の冠を被って、
「甘え」「自己責任」「若造死ね」と強者の論理で武装して
まるごしの後進を機銃掃射の如く死刑執行して得意な顔をしてる連中を何とかせにゃいかんのだが
やっぱりどうしても、強すぎる。そして何より撃たれる方も、
学習性無力感だか知らんが、蜂の巣にされることに馴れてしまっている。
せめて
この国にとりつき、蝕んでふんぞり返ってる魔物「空気」の正体を、一端でも顕に出来れば。
何か経済ネタになっ巷
書きたいこと自体はいっぱいあるんだよなあ
でも洗練されて無い上にクズ長文でその上体系立てて書き込めないwww
自分が思った以上に馬鹿だったのに加え
徒手空拳の手探り状態で1から書きあげていくとか
産みの苦しみをなめてたね、根性も何も無いごみなのにこんなこと始めちまってどうしようもない
読みやすい文と分りやすい構成をしたかったがいきなりは無理か。
幸か不幸か見てる人はあんまり居らっしゃらないようだけども。
《◎》見てますよ〜w
そりゃなんかスレタイからあやry
wですからねw
この世に蔓延るゴミどもの事を、よくよく的確にエグり出されていると思いますwグリグリとw
グリんグリんw
ほ
埋まっちゃったか。仕方ないからこっちに書く
【今、世界に起きる現象は何を意味してる?】3
お疲れ様でした。
得たものは非常に多かったように思う、そのことを感謝。
以下コピペだが。
>東征が終わっていなかった「戦時(火の時代)」には役立たずの丙種とされた者達は、
>やがて無意識下に秘めた己の力を発揮し新時代を芽吹かせていくでしょう。
>これからは、一人一人の中に抑圧されていた「内なる地母神」が各運勢を含め
>セルフから見て人生に最適な環境を用意し、人々はその中で自己実現(個性化)を
>生きながら魂を成長させていく時代になっていくでしょう。
俺は半世紀、早くても30年はかかると思う。
社会権力を握り人口で多数派を占めている世代が、その玉座をやすやすと渡すはずがない。
その間にも可能性を孕んだ丙種は焼かれていくのだろうし
自分もそれに漏れないと考えると「なんだかなぁ・・・」と思ったり
焼かれて灰になっても
花さか爺さんに撒いてもらえる灰になりたいもんだと
丙種ながらに思う
おっと身の上話になった
何だか発想が時代を先取りしすぎているような気がするんだよ、
そんな簡単に世の中が変わる筈はないだろうし
「時代が変わっても負け組は負け組」みたいな冷めたマインドも俺の中にはあるし
ましてや数百年数千年単位の話だし
と、理性で否定しつつも感情的には大分わくわくさせてもらったから
正直悔しいけれど御礼を言わざるをえないwww
なにはともあれお元気で。
はぁ
乙
あれ…お客さんだ
じゃあため息保守だけでも無粋なのでここでひとつ。
現在無職につき、当方求職活動中。考えた事。
まぁぶっちゃけ内定獲れない。というかそもそもそれ以前の対応をされている。
人事「履歴書拝見次第御連絡差し上げます」→連絡無し。とか
人事「合同説明会ありがとうございました。面接の日程は後日改めて御連絡差し上げます」→連絡無し
というサイレントアタックしてきたり
身の程弁えて中小企業に絞ってもこのザマ。
13卒既卒+職務経験無し+一浪+就留+文系だから
「人間扱いされなくても当然のレベルだろ」と言われるかもしれないが
就活か……何度聞いても恐ろしい話だな
最近テレビでも大学生の就活自殺の話を見かけた
続き
あと俺が舐められやすい外見をしているというのもあるだろうがね。
でも人事活動に幾ら余裕が無いからといってあんまりだなぁ、とは思う。
そしてたまに面接まで行くと圧迫で言いくるめられるというwww
雇う気ない人事のwwストレス発散wwwww
どこ行っても虐められる事除け者にされる事の多かった身だが
社会にすら出してもらえないとはこの世の仕組みに恐れ入る
まぁこんなの俺だけじゃないんだろうけどね
「就活とは否定される事と見つけたり」ってな気分だわ
「大丈夫、就活以前に人生から否定されてるよ」って声が聞こえた気がしたが
気のせいだな、うん
>>24 奨学金と言う名の借金があると本当にどうにもならない
その上最近はバイトすら仕事の奪い合いだし
例えばかつてはコンビニバイトはぱーとのおばちゃんか学生が多数だったが
今は明らかに場違いなおっさん連中がレジ打ちしてたりする
この傾向は郊外やベッドタウン地域でのコンビニで顕著
一方都市部のコンビニはアジア系留学生ばかりだからパッと見はあんまり変化無いように見えるね
借金+仕事無い+アテに出来る人いない=自殺
大学出てまでホームレスになるようだったら自殺するってのもわからなくはない
しかもうまく行っている周りの友人知人は家庭を持ったりし始めるわけだしな
そして親も自分の時代の常識で考えるから子供をきつく批難する
さりとて仕事は無い、だから現状からは抜け出せない
そんな環境に置かれれば
そりゃあおかしくもなるでしょうし自殺もするでしょうよ
政府統計では年間約千人だそうだが、どんな統計のとりかたしてるんだか……
定年退職と年金開始年齢の引き上げ
まだ元気な熟練技術者を使いつづけられるのは良いけど、
技術の無い高齢フリーターはバイトとか年齢で引っかかって無収入に
熟練社員が退職しないので若者の募集も減るうえ、高齢者と職を取り合う
その通り。
アベノミクスで景気がよくなるのは勝ち組だけだよ。
下々におこぼれが回ってくるのは数年先だし、
それまでに欧州・中国・アメリカのうちのどれかで金融危機が起きれば
それもまたパーになる。
でも金融危機が起きても日本自体は平気だろうね。
ドサクサに紛れて主要都市に核でも落とされない限りは
それよりももっと恐ろしいのは
高齢熟練社員が天寿を全うする十数年後、日本の労働者の大多数が
「技術の無い高齢フリーター」で占められているだろうという事。
これについて言及している人はあんまりいないね、
多分ガチでやばいからなんだろうけど。
少なくとも技術立国ではなくなってるんだろうね
なんで俺アベノミクスの話をし始めたんだ……?
>>29の上半分はカットで
悪文ばかり書いてしまって申し訳ない
大規模農業とやらで日本の原風景が失われるのは嫌だなー
野菜は大都市近郊の農業ビルで生産され、自給率は100%になる
機械で管理されている為、従業員は少数の科学者のみ
高齢フリーターは放置され、田舎はやまとの原風景に戻る
日本の批判をするやつは在/日だとネト/ウヨがほざいてた
国家が国民を守る意志と能力を示し続ければこそ、国民は国家に対して忠誠心を持つ。
国民を守らない国は、その正当性を失い、忠誠心を維持することが出来なくなり、
国民は国に忠誠心を持つ意味や必要性を感じなくなる。
シャルル・ド・ゴール
ぽえーん
ho
he
me
日本は終わった国になっても文句を言えない
41 :
本当にあった怖い名無し:2013/07/03(水) 21:16:20.42 ID:1DpZHFVU0
41
日本社会自体、某学会も真っ青なほどのカルト宗教ですなw
日本に限ったことじゃないだろうけど、洗脳される人間が多すぎるな
44 :
本当にあった怖い名無し:2013/09/10(火) 21:24:05.90 ID:zK70OpLo0
ho
45 :
◆JGns1esOXw :2013/09/19(木) 21:25:48.48 ID:m+TkA+Wy0
最近所々で暴れているわたしの本拠地はここ
ひとこと言いたきゃお書きなさいな
うふふのふ
日本二大カルト宗教
社蓄真理教
世間学会
医療が金持ちの道楽になっているんだが
保険きかなすぎだろ
人口すくねーなーおい
彼方此方でオイタしまくってるのに(ごめんなさい)
>>46 漢字間違ってんぞ
蓄えるってナニをだ?貯金かストレスか?ww
>>47 病気や自治体やらによるとしか
でも昔より確かに自己負担分は増えてる
国が医療に充てられる金がないし
医療が利権化したせいで従事者が減って担い手も減ったし
同じく利権化のせいで金もうまく流れないし
年齢じゃなくて
QOL維持できてるか・いないかとかで
保険や年金の支給や自己負担をどのくらいにするかを決めれば
保険財政も多少改善されるんだろうけど
変えるのにも手間と税金がかかるし、
既得権益者の説得が……orz
______ ___________
V
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|:::::::::::::::::|_|_|_|_| /、 ヽ なんかキチガイがブツブツほざいていて怖いですwwww
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|::( 6 ー─◎─◎ ) q -´ 二 ヽ |
|ノ (∵∴ ( o o)∴) ノ_ ー | |
/| < ∵ 3 ∵> \. ̄` | /
::::::\ ヽ ノ\ O===== |
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我慢するのが美徳→理不尽な暴力をするやつが調子こく
だから、日本人はもっと怒ってもいいと思う
51 :
【吉】 :2013/10/01(火) 00:49:06.10 ID:XCy0nvqt0
奥歯の歯科金属は利権で守られていたのか
歯科医師と政治はなぁ……
「歯科医師会 選挙」でググレばざっくざっく出てくることでお察し
>>46 カルト宗教が嫌いという理由でSOUKA学会を叩いている人は多いが、
空気教(or世間教)や社畜教という、SOUKAも真っ青な世界最悪のカルト宗教は誰も叩かないよねw
>>53 俺様のスレで何言ってんの?
俺は物の数にもはいらないの?
と思ったけど最近は分析ばっかりで
叩いてるって感じじゃないかもな確かに
……メモ帳にまとめてはいるからまぁそのうちね(書き込まないとは言ってない)
55 :
本当にあった怖い名無し:2013/10/07(月) 23:59:15.34 ID:Jvygp3x80
ばあちゃんスレからきたんだけど。。。ここのスレ主さんがお話して誘っていた人
きてないのかな。覗いて書いてくれたらいいのになぁ。
さっきよんだけど、あの流れは興味深かったよ。
いますよ、せっかくですし、善性について色々とまとめているところです。
ですが、なにやら長文を何回も投下していたので、忍法帳というシステムにひっかかってしまい、
色々な制限がかかってしまったようです。
57 :
本当にあった怖い名無し:2013/10/08(火) 01:22:33.98 ID:wIftfBIc0
早速のレスをありがとう。楽しみにしてます。 >善性について色々とまとめ
58 :
本当にあった怖い名無し:2013/10/08(火) 02:50:14.15 ID:/j2fPkOO0
層醴醴醴醴醴醴醴嬲夢體醴靦gggji!;'..、..'` .. .(巳|jc'}i,.
、 j醴醴醴醴醴醴鬱゚゚^ 、 ゙゚゚『醴醴齟ggpu. ` '}II}カ^`|I
、|[醴醴醴醴醴鬱′ . ゙゚憫醴醴豐s,,. 、 I';゙..、}],
.:][醴醴醴醴鬱’ . ゙゚『嬲靈齔.,__、,,,,゜ ._〈[ 草饅派の波平さんにわたくしのものを味見していただきたく存じます
爼醴醴醴醴‡ . ‘『層醴醴匝 )llig$ .
爼醴門醴鬱` . _y444egj,... 、,,,ggg,,,_'『攜醴齔j,.,..']][l .
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層鬮.゚'';,}',. . ゙゚゚゚ . . ‘゚゚゚゙` .. ゙゙^ . .l}]ぽ
.']]醴$ .'l|_ i「゙゙I゜
、 ゙濁髟. |i ′$ .
>>56 待ってるから頑張れ
忍法帳のレベルあげも頑張れ
「世間」というカルト宗教
社交性は絶対正義なのか
>>59 できあがってはいるんですが、
とにもかくにもこの忍法帳のレベル上げというのが大変ですね・・・・・・
あ、それと少しだけ善性とは一切関係ありませんが、
とても興味が引かれる言葉を◆JGns1esOXwさんがいってたので考えてみたいです。
>しかし価値観の多様化した社会では、
>自分と違う考えの人が自分と違う方法で喜んでいるのを見るケースが増えるし
>その結果「あたしは本当に幸せなのかしら?」「お前それは間違ってる」となって諍いしかうまれない。
ここですね、これは本当に面白いことで。
こういうのはあちこちで引きおこっているが故に面白いですね。
私は、もはや「自分の考え」などというものが半分ぐらい破壊されつくされているものですから、
私某の意見というのより、「考え」の働きのほうが先で、言葉を放っているのは「コギト」ではない、ではなにかといえば「ロゴス」となるので、
イマイチの実感としてはよくわからないのですが。
ここも、いわゆる倒錯というか、人は言葉と思考のトリックに惑わされがちだということを端的にあらわしていますね。
いわゆる、この「幸福」の形についてですが、
面白いのはこれは幸福とは「内容」だと思っている。
しかし、私にはどうにも幸福とはその内容ではなく、
それを受け取る側の「形式」の問題なのではないでしょうか。
不幸なる心ならば、どのようなものを得ても不幸だということです。
ですから、例えば自らが「何か」を幸福だとするのならば、
それが叶えられない状態は、その人にとっては「常に不幸」ということになってしまいますね。
シンプルに考えてみると、それは実は内容の問題ではなく
それを「幸福」としか思えない自らの「形式」の問題なのでしょう。
例えば、社交を至上の喜びであり幸福であるとするAさんが、
孤独を不幸だというふうに思っているとします。
そして、その人は、例えば孤独を愛するBさんを「それは違う」といいますでしょう。
それこそ、いわゆる◆JGns1esOXwさんのおっしゃる争いにも繋がりますね。
ただ、これよく考えれば、それは正しいとか間違っているではないのです。
なぜなれば、そのAさんはそれらを「幸福」だと思っている自らの心の「形式」ゆえにそう思っているだけであり
孤独を不幸だとするのもAさんの心の「形式」ということです。
そういう意味で考えれば、社交を幸福として、孤独を不幸としかできない
その形式はある種の「不幸」ではないでしょうな。
なぜならそのようにしか受け取れず、自らの心の形式上、彼は社交によってしか幸福であるということを認識できない。
それは「盲目」という一種の「不幸」を背負っている。
そして、私は努力とはまさにこの「形式」を広げることだと考えています。
今の心の「形式」に当てはまるピースを探すことというのは、
いわゆる自らの側を変えることは、つまり考えることはしていないということです。
何かを不幸だと思うのな、それまさに自らがそれらを不幸だと思うからにすぎず、
同時に何かを幸福であると思い、それらが絶対というのはそれらを絶対としてしまうから。
我々は、常に我々の「精神」と「言葉」によって騙され続けている。
汝自身を知れ、というのはこの事を言っているようにも考えられますね。
>>65 ×その形式はある種の「不幸」ではないでしょうな。
○その形式はある種の「不幸」ではないでしょうか。
×何かを不幸だと思うのな、それまさに自らがそれらを不幸だと思うからにすぎず、
○何かを不幸だと思うのなら、それまさに自らがそれらを不幸だと思うからにすぎず
まず私の言い回しはことごとく誤解を与えやすいようなので、なるったけ分かりやすいように話そうと善処します。
ソクラテスは私である。という言い回しをしてしまった結果、多大なる誤解を与えていることにも習いましょう。
私としては、彼らが語っているのは普遍的事実なのだから、誰にとっても普遍的事実なのである。
ただそれこそ普遍的事実はなぜ普遍的事実なのか考えた者が分かる。といいたかっただけです。
別に私はソクラテスの生まれ変わりである。という意味ではありません。
そもそも何をもってしての生まれ変わりかもわかりませんしね。
では、最初にまず皆が思い描く善性とは何かを考えて見ます。
つまりは、共通意識としての善性、社会的通念としての善性ですね。
これらは要するに他者に優しくや、他者を救う、自己犠牲的、
もしくは社会貢献などが当てはまるでしょうか。
道徳などもそうですね。道徳などでは「して良いこと」と「してはいけないこと」を教えるかと思います。
たとえば「人を殺してはいけない」だとか
たとえば「人の物をとってはいけない」だとか
たとえば「人を苛めてはならない」だとか
たとえば「人に優しく」だとか
いわゆる、人としての「善性」を持たせようという試みだと思います。
まあ、今の道徳の授業がどうなっているのかは私にはわかりませんが、
ばあちゃんの予言スレでも、時たまに「道徳の授業をもっとしっかり」などといいますね。
子供達へ、しっかりと道徳の授業を学ばせることだと。
ですが、この道徳は、いわゆる法律やルールと変わらないと思うのです。
法律もルールも道徳も社会通念も、他者へと、人へと「強いる」ものだからです。
法律や社会通念ならば、自らにも他者にも強いられ、道徳ならば、それらを説かれる側へと強いられる。
曰く強要であり、それらは強制される。
法律か、道徳かルールかというのは、内実それらは本質的に同じなのです。
ただ、強制力の違いが生じているということだけ。
法律は厳格に、道徳は持っておくべきものとして、ですね。
社会通念も同じ、いわゆる暗黙の強制力としての力です。
ですが、それは果たして言われている本人は本当に分かってはいるのかどうか、ということです。
つまり、人を殺してはいけないという決まりがあるとして、それらを本当に分かっているとは限らないということです。
分かってはなくとも、決まりは守ることはできるからです。
それらを行うことと、それが「なぜそうなのか」を考えることは一致はしていないのです。
別に考えなくとも法律は守れます。
法律や道徳の徹底整備によって、確かに悪と呼べるような行為をすることを無くせるかもしれません。
ただ、そうだとしてもそれは「法律や道徳があるから」してはいけないというだけで、
それらがなくなれば「したい」と思っているかもしれない。
悪を成したいと思う人間の側は何一つとして変わってはいないではないですか。
「したいとおもっていた」ことを規制の繰り返しによって「出来ない」とさせるだけであり、
その個人個人の考えまでは規制はできないではありませんか。
ですからいよいよもってして、「バレなければいい」となるのです。
法律が強化されれば、その法律を掻い潜ろうとなるのです。
法律のグレーゾーンを渡りながら悪事をなしている人間が「法律に違反してないからいい」といったとき、どうするのです。
見事に我々はそもそもなぜそれが悪いことなのか、なぜそれが善いことなのかを頭から置き忘れているではないですか。
それに理屈ではない感情としても「信号無視をする」と「人を殺す」とでは、
たとえ同じルールに違反していようとも、そこに対する響きが違うはずです。
処罰が違うんだから当然、と思うかもしれませんが、そういう意味ではありません。
純粋に信号を無視するのと、人殺しをするとのでは、後者のほうがおそらく重く感じるはずです。
法律やルールを全て排除して考えてみるとして、「法律がないんだから信号無視してみよう」と思うことと「法律がないんだから人を殺してみよう」とでは、
なにか後者のほうがおそらくは精神的な重みが違うのではないでしょうか。
つまりは、人は本来、「悪いことは悪い」と法律がなくとも、ルールがなくとも、道徳がなくとも思っているはずなのです。
でなければ、逆説的には「いけないことだ」として、法律やルール、道徳は生まれなかったはずだからです。
人殺しが「素晴らしいことだ」と本当に人が感じているならば、そもそもそれらを禁止するルールや法律、道徳などは生まれでないはずなのです。
だって、人間にとって素晴らしいことを人間が規制するわけが無いではないですか。
私は、この法律やルール、道徳や社会的通念を一回横におき、それらによって語られている事柄を「考えてみよう」と言っているだけです。
別に、法律など意味がない、だとか、ルールは守らなくてよい、だとか、道徳なんていうものは下らない、といっているわけではないのです。
これについては社会や、他人や、価値についても同じです。ですから、私は断じて批判をしているわけではない。
肯定と否定の前段階の話として話をさせて頂いているということです。
だから考えてみたらどうですか?と言っている。
かつて、何度か私は「自覚」という言葉を使いましたが、ここでもその在り方の話をしています。
泥棒はしてはならない、といわれ、ソレに対し真剣に「なぜ泥棒はしてはならないのか」をひたすら問わない限り、
それが本当にしてはいけないのかどうかの「自覚」というのは持ちえません。
私の語る「自分さえ善ければ良い」というのは、要するにこういったことを言っているのです。
そうなると、他者は関係なくなります。道徳として強要され、法律として強制されていることを、一度自らで考えるのですから、
そこで考えられたことは自らしか分かりません。要するにただの倫理観の問題なのです。
ただ、道徳を倫理と勘違いしがちなため、これらの当たり前のことを正しく自覚するのは難しい。
ここさえ自覚すれば、孔子の説法は、強制にあらず「自らの内側」で納得するしかない事実となりえる。
かつて、何度か私は「自覚」という言葉を使いましたが、ここでもその在り方の話をしています。
泥棒はしてはならない、といわれ、ソレに対し真剣に「なぜ泥棒はしてはならないのか」をひたすら問わない限り、
それが本当にしてはいけないのかどうかの「自覚」というのは持ちえません。
私の語る「自分さえ善ければ良い」というのは、要するにこういったことを言っているのです。
そうなると、他者は関係なくなります。道徳として強要され、法律として強制されていることを、一度自らで考えるのですから、
そこで考えられたことは自らしか分かりません。要するにただの倫理観の問題なのです。
そもそも、人は、内的に悪いことを悪いと知ってできないはずなのです。
理由としては、人はそもそも「悪い人間」にはなりたくないからです。
悪い人間になる人というのは、ソレすなわちそれらを悪いと思わずやっているか、もしくは悪いと思いたくはないかです。
誰が一体、「私は悪人で、それはそれは凄い人間で素晴らしい人間だ」などというのでしょうか。
悪いのだから、それは善いなどというのはその言葉からして無理です。
例えば、泥棒している人を捕まえて聞いてみるとして、
「私は泥棒をすることを素晴らしいと思っている。私は人間として何も間違ってなどいない。
社会に貢献しているし世界に貢献もしている。」
といった言い方をする方はおそらく本心で言う人は少ないでしょう。
だからこそ、「他の人間もみなやっている」などの言い訳や、「生存するために」と言う。
それらは自己の防衛本能といってもいいかもしれない。そして私はそれを咎めたいわけではない。
ただ、そうやって自己防衛をしているということは、
本来、人は自らが悪を成していると自覚して悪を成すのはとても苦しい状態だということです。
これらに当てはまらないのは、俗に言われます「サイコパス」かもしれません。
しかしそういう人たちはそもそも精神の構造が違う、だからおそらく悪か善かというのもないでしょう。
それら特殊な人とよばれる人はそう多くはない。それらが人にとって多いのだとしたら、そもそも現在の言う皆さんのルールは存在していない。
ということは、人は善を行うことで少なからず救われているところがあるということです。
すなわち、悪を本当の意味で自覚してしまって悪に向かうのが苦しいように、
善を知れば、善性に向かわざるを得ないということです。
この泥棒が私だとすれば、私は泥棒せずに飢えて死にます。
それしか道がないのであればしょうがありません。
そもそも、私は生きるために食べているのだから、食べるために生きているのではありません。
2度目になりますが、自分さえ善ければ、というのはここの自覚を持つことだと、私は思います。
善がどうして善なのかを考えないから、それがどうして善かが分からない人と、
善がどうして善かを考えるから、それがどうして善であるのかを分かっている人の違いということです。
これを悪と置き換えてもいいでしょう。
これらを理解しているならば、そもそも善性をもたざるを得ないと思うのです。
よく考えられ、果てにはそうする以外になくなってしまった道徳こそが偉人達のいうあの「道徳」です。
彼らは、自らが思う「善いこと」はなぜそもそもそれが「善い」のか考えた結果、行動全てが人から見た通俗道徳そのままになってしまっただけでしょう。
だから、私は自分が善人といいたいわけでもない、ただ、私は道徳を悩むのではなく考えている。倫理をなんとかしてつかもうと苦しんでいる。
そこに気付くことでしか、私は動物から人間へと進めないような気がするだけです。
つまるところの一人ひとり倫理を考えよということですね。
なんのことはない、おそらくは論議されつくした平凡な結論でした。
されど、真実とはいつも誰にとっても「当たり前」なことなのでした。
物凄く長くなりましたが、善性について考えていることは終わりです。
>>75 ありがとう。乙。
返事はもうちょっと待って
77 :
本当にあった怖い名無し:2013/10/15(火) 20:36:09.59 ID:Q+lVfgL10
休みが欲しい
時間元気ないけどちょっとだけお返事。
俺が「何故アレをばあちゃんすれに投下したか」の
核心的な所に
>>63から
>>65で触れてくれているので(はっきり言ってこれは大感謝!!)
このあたりの件はずばり「流行が無くなる」とリンクしている。
「流行」とは何か?一言であらわすなら
「マスコミとつるんでいる企業とマスコミが、金儲けのために作り出した社会現象」。
なんでそう言い切れるのか?それは「広告の機能」を考えてみればわかる。
(広告代理店はマスコミの親分的存在、ってことや金の流れは説明せんでもええよね?)
「この服を着ればもっと魅力的になれるよ」
「これを食べると痩せるよ」
「このワックスでモテモテだよ」
得てして、広告が読み手に与える直接的なメッセージってこうだろ?
要約すると「この商品であなたはしあわせになれますよ」ってことなわけよ。
こういった広告に従って商品を買った場合、
「自分で考えた結果」ではなく、「広告に考えさせられた結果買っちゃった」というケースも含まれるだろう?
多少なりともバイアスかかっちゃってるんだから。
例
TVCM「小学生に大人気!みんな持ってる○○!」
小学生「買わなきゃ」(使命感)
……こうなっちゃうと、仮に「手にはいらない」状況だった場合
飢餓感にも似た満たされなさに襲われてしまう。
そして「幸せを感じられなく(=不幸に)なってしまう」
上の小学生で言うなら、
TVCMさえ見なければそんな不幸に苛まれる事も無かったかもしれないのに。
>そういう意味で考えれば、社交を幸福として、孤独を不幸としかできない
>その形式はある種の「不幸」ではないでしょうか。
そう。その通り。
「孤独」とか「社交」に関わらず、色んな言葉・対立するもの同士でも言える。
つまり「幸不幸は関係性によって決まる」わけよ。相対的なわけ。
「塞翁が馬」の故事が本当に示したかった事ってこういうことなのかとも思ったりする
(禍福というのは予測できないもの、という解説が通例だけど)
そして、あなたの言う「形式」を狭めさせているものの1つが
「広告産業をはじめとするマスコミ」というわけ。
何故マスコミや企業がそんなことをしたのか?
「形式」を狭め、「画一化」することは、
「大量生産・大量消費の社会」において利潤をあげる近道であったから。
……明日も仕事なんでひとまずこの辺で。
あなたが俺の言いたかった事、ちゃんと拾ってくれて嬉しかったよ。
眠い頭で急いで書いたのでお粗末な文ですまない。
「ここどういうこと?」といった疑問点があったら可能な限り答えるよ。
……あっちにも投下したいところだったが、
そんな事をすると俺を精神病認定する罵詈雑言でスレが埋まりそうなんで
ちょっと様子見。
素晴らしい、◆JGns1esOXwさんの言っていることは非常にわかりやすいですね。
その通り、相対的なのですが、しかし、同時に「幸福とは相対的である」というのは私はなんだかつまらない気がする。
なぜなら、それすなわち何も言ったことにならないからです。
変な話でいえば、善悪もそういうのが多く。
例えば善悪とは相対的である、と、そこで歩みを止める。
思考の歩みというのをやめてしまうのは、非常にもったいないと感じる。
だって、善や悪が主観によるものなのは「当然」ですが、
しかし、なぜそもそも善と感じ悪と感じるのか、一体それらはなんなのか?
という根源的問いに挑んでないからです。
挑まずに、何も分かってないことを分かって「安心」しているというのはなんだか妙な話ではありませんか。
82 :
本当にあった怖い名無し:2013/11/09(土) 03:33:39.16 ID:YPWCULku0
age
83 :
本当にあった怖い名無し:2013/11/09(土) 04:28:19.69 ID:BrOhtF/Pi
日本の悪の元凶は儒教文化
84 :
本当にあった怖い名無し:2013/11/09(土) 04:29:44.43 ID:BrOhtF/Pi
日本の儒教道徳について調べれば、日本がどれほど儒教に害されてきたのかがよく分かります
南北鮮人の妄想ねw
それ、本国人に言ってやんなよ?w
腐れエセ儒教を棄てないとミンジョクが絶えるって教えてあげたら?w
多分もうとっくに手遅れなんだと思うけどw
現在の朝鮮半島で信奉されている儒教と
日本の儒教的価値観って微妙に温度差があると思うの
第一、江戸時代に「朱子学」にカスタマイズされているわけだし
それに
儒教の内容だけでなく、現実世界の動きも考えないと
人口ピラミッドが逆三角になってしばらく経つのに、
頑なに「今までどおり」を貫こうとすればそりゃ齟齬が出る
さて、
>>81への返事が長文になりそうだ……orz
88 :
本当にあった怖い名無し:2013/12/15(日) 14:32:28.97 ID:XAUw+pzOQ
規制かな?
いちおう保守しとこうか
89 :
本当にあった怖い名無し:2013/12/15(日) 16:27:32.66 ID:ZvLd3Og5i
愛し合って結婚した男女が子供ができたらお互いを『お父さん』『お母さん』と呼び合うの、理解できない。
90 :
本当にあった怖い名無し:2013/12/24(火) 02:03:57.13 ID:AAQdSqwZI
面白いな。ただ途中で会話が途切れていて残念。
もう終わってしまったんだろうか?
気づくのが遅かった。
>>90 私はまだいますし◆JGns1esOXwさんの回答をまっておりますけどね。
おお、いたのか。JGns1esOXwさんの返事もまだみたいだから
少し質問があるんだけど、いいかい?
なにかご質問があるならどうぞ。
といっても答えられるかはわかりませんが
>>93 まず感想だけど、あなたの言っていることは面白いと思う。
>>63-65で語ってたことと似たようなことを考えていた。
この世界で行われていることは情報伝達だと考えている。
情報伝達には情報の出し手と受け手がある。これが重要だ。
ある状態が幸福なのではなくて、それをどう感じるかが幸福を
決めるんだというあなたの話の例で言うと
ある状態(情報の出し手)が放つ情報を、ある人(情報の受けて)の
価値観で解釈した時それが初めて幸福という意味を持つということになる。
本題の
>>67-75の善悪についての質問
なんで善や悪がそれだけで存在しているって「あなた」が思っているのかが
理解できない。
あなたは、ばあちゃんの予言スレで「貨幣」は存在し「ない」と言っていた
ように思うけど、何故、善悪は存在して「いる」と思うんですか?
>>94 そうですね、というより、情報とはあくまで情報であり、
それらは決して知識ではない、つまりある状態が放つ情報を、
自分で考えたとき初めて知識になるように、幸福もまた同じということです。
ただ、それらの価値観もまた「疑わしい」という前提がなされているので、
どうにもままなりません。「幸福とはこうだ!」というのも、やはり思い込みかもしれないのです。
>>95 私もそう思っています。価値観は絶対ではないし、
ある人に取っての幸福が他の人からみると不幸に感じられることは
ままあるでしょう。
ばあちゃんの予言スレであなたを攻撃していた人は
まさにそんな感じでしたね。
あなたの今の境遇を不幸だと思っていたんでしょう。
なのに、あなたがちっとも不幸らしく振る舞わないから
苛ついて攻撃してきた。
ばあちゃんの予言スレであなたを攻撃していた人は
まさにそんな感じでしたね。
あなたの今の境遇を不幸だと思っていたんでしょう。
なのに、あなたがちっとも不幸らしく振る舞わないから
苛ついて攻撃してきた。
>>95 それに関していいましょう。
私はどうやらまたひどく紛らわしいことを言ってしまったようです。
申し訳ない。
私は、確かに「貨幣」は存在などしないとはっきりといいました。
だけど、貨幣は存在するのですよ。
なぜなら貨幣とは、ただの金属片や印刷されてる紙です。
しかし、それらを人々は「貨幣」という思い込みによって貨幣にしているのです。
例えば、国などどこにもないのに、国を作ったように。
我々はあらゆるものを観念として「思い込む」ということをしなければ、存在すらできないのです。
存在もまた、言葉なしにそれらを何一つとして指し示せないからです。
私に何人かの方々がいいました。「貴方は観念的すぎる」と
しかし、私が観念的なのではなく、観念こそが人の全てなのです。
そうでなければ、なぜ貨幣に貨幣としての価値がありましょうか。
それらを「貨幣」としているのはまさに我々の観念である。
要するに、現実を見ろというのも、同様に現実という「空間」事態もすでに観念であるということです。
人間には理解できないものへの恐怖心がありますしね。
ですから、そういう意味でいえば、善と悪は観念ですから無いのです。されど世は全からく、観念なのですから、善と悪は「存在」するのです。
まさに我々が「そう認識する」というところにおいて、存在してしまっているものなのです。
そうでないなら、そもそも悪という言葉と善という言葉はなぜあるのでしょうか。
善悪など無い と語っているところに記されている善悪がすでに言葉として在るではありませんか。
善悪などないと言っているところの「善悪」とはそもそも何を意味しているのでしょうか。
それらを無いといえるということは、逆説的にそれらを「理解」してなければならないのです。
善悪の実態が分からないのであれば、まさしく善悪が「在る」か「無い」かも分からないではないですか。
死後の世界を誰も見たことないから、在るともいえないし無いともいえないのと似ています。
だからこそ、私は言葉としての善悪とは何なのか、そもそも善とは何か、悪とは何なのかを知りたいと思って考えているだけです。
確かに私の言っていることは矛盾しているのかもしれません。
しかし、落ち着いて考えれば考えるほど、人はこの矛盾のようなメビウスの輪のような構造になってしまっているのです。
そして、私は貨幣など無い、と断言したのは貨幣はただそれら金属片や紙を何かの交換に使おうとするために作られた観念ということで、ひとまずの結論は出ているからです。
そうでないのならば、我々人類の発生以前に貨幣というものが存在してなければならないのではないでしょうか。
貨幣は人の作り出した観念ではない、絶対的な価値であるというのならば、人が存在する前から「貨幣」という存在が存在してなければならないのです。
ただ、我々は無いものを、「あったほうがいい」というだけで、あたかも存在するかのように思って振舞っているだけ。
私があのとき、無いと断言したのは、その観念を本当の本当に「在る」と思い込んでいるような人が多いように見受けられたからいっただけです。
所詮どちらも在る在るいっても、それらは人間が在るということにしたから在るんだという観念の産物でしかないという自覚を持っている人が多いなら、その無い発言に今更驚くことも反発することもないはずです。
同時に、貨幣とは所詮貨幣に過ぎない。ゆえに清貧も裕福もどちらであろうと、あまり関係なくなるのではないでしょうか?
とかく、全ては言葉(ロゴス)から始まった。
始めに言葉ありき というのも、なんだかそのような気がしませんか?
>>100 そうなのでしょう。そしてそんな我々の頬をはたくように
ヘレンケラーは「障害は不便ですが不幸ではありません」と言ったのかもしれません。
それと私を糾弾されたかたは、こぞって社会が厳しいと語られました。
私はいままで甘い人生を送ってきていると、しかし、ではなぜ甘い社会というやつではいけないのでしょうか。
やはり、そこにはそうでなければならない何かがあるのでは?
私にとって、社会には厳しさも甘さもありません、なぜならそれ自体がすでに観念だからです。
ですが、社会は厳しいということにしておけば、そこに順応できている自分に対する特別さを見出すこともできましょう。
承認欲求として、自らはこの厳しいと思われる世界のおいて、なんとかやっていけているという感覚を見出せるのかもしれません。
同時に、それら彼らが語る厳しい社会で頑張れないものたちは、全て自己責任で努力不足だとしておけばいいのです。
そうしておけば、頑張っている自分と、頑張れなかった不幸な者達との「差」が実感としてもてます。
それらによっていっそう存在の特別さを手に入れることができるのでは?
106 :
本当にあった怖い名無し:2013/12/24(火) 23:08:19.90 ID:vIOjtBdT0
>>104 私の質問も紛らわしかったみたいです。
貨幣が観念であるとあなたが認識していることは理解しています。
そして、私もそう思っています。
分からなかったのは善性を、人間に生まれつき備わっている
普遍的なものだと書かれていることです。
善性は概念ですよね?
ある行為が善なのではなく、それをある価値観で解釈して初めて
善と認識されるはずです。
>>67-75でその価値観が多くの人には普遍的に備わっているように書かれている
ように感じたのですが、それだと矛盾しませんかという質問でした。
107 :
本当にあった怖い名無し:2013/12/24(火) 23:10:52.58 ID:vIOjtBdT0
すいません。なんか連投規制中です。2ちゃん使いにくいですね。
108 :
本当にあった怖い名無し:2013/12/24(火) 23:22:30.80 ID:vIOjtBdT0
>>105 私もそんな感じはしますが、「あなた」が相手を批判すると
同じ穴のムジナになってしまうので、ほどほどがいいと思いますよ。
せっかく面白いことを考えているのだから、概念だけでなくて
それを社会の中で実装してはどうですか?
この観点はかけている人が多いので、盲点でインパクトありますよ。
私はちょこっとやっています。
>>106 そうなんですよ。、
矛盾しているのです。
おっしゃるとおり、善性とは概念であり、人が考えた結果の「観念」なのです。
ですが、考えれば考えるほど、人は普遍的に善性が備わっているとしかいえないのです。
言葉としての「善」の前に、人には善性が存在してしまっているのではないか?としかいえません。
なぜなら、ある行為が善か悪か、の判断を自らの価値観として、つまり倫理として考える前に、
何がしかの感情として、何かタブーに触れてしまったような感覚に陥るときもあります。
性善説とも性悪説とも違う、どちらもすでに人はなんらかで「知っている」のではないかという感覚になるのです。
それは、論理的に考えていくと、善と思われることはないからです。
逆説的に論理的に考えていくと、悪と思われることもないのです。
変な話、人殺しですら、なぜそれがいけないかも、本当に考えていけば、それがどうしていけないのかなんていう答えはないのですよ。
善も悪もそれ自体、なぜそれが善くて、なぜそれが悪いのかを問いただしていくともう何も言えなくなってしまう。
だというのに、はっきりと我々は悪と書かれていることをすると、素晴らしいことをしたと思えない。
じゃあそもそもなぜか?と考えていくと論理とか関係ない備わっているセンサーのようなものとしかいえなくなるのです。
これが私にもよくわかってない壁です。
ですから、矛盾してしまっているんです。
論理的に考えれば、善も悪もただの観念であり、人がそれらをそう思い込むにすぎず、
実際のところ、それらは存在しないはずなのですが、
なのに私達は善いということを行ったとき、悪いことをしてやったとは思えず。
同時に悪いことを行うとき、素晴らしいことを行ったと思えない。
いわゆる、これが私の限界です。
ですから私には、人は善に向かいたくなるんじゃないのか?としかいいようがないのです。
だから、善かれと思って時には戦争を行うのかもしれません。
しかし、私達は一体何が善で何が悪なのかすら理解できない。その構造上の矛盾を抱えているのではないかと。
>>108 失礼しました。確かにさっきのは多大に憶測が入っているし、
ちょっと意地悪がすぎましたね。
社会の中で実践ですかぁ・・・
ちょっとどうすればいいのか、さっぱり浮かびませんね。
111 :
本当にあった怖い名無し:2013/12/24(火) 23:29:50.87 ID:vIOjtBdT0
すいません。そろそろ寝ます。ではでは。
>>111 おつかれさまでした。
非常に面白かったです。
113 :
本当にあった怖い名無し:2013/12/24(火) 23:42:43.64 ID:vIOjtBdT0
>>109 寝ますと言っといてなんですが、最後に一言だけ。
私もまさにあなたの壁と本質的に同じ壁にぶつかっているように感じています。
(テーマは善ではないですが)
ただ、その手前の考え方だけでも社会で生かせるので、そちらを使って
プログラムを作るように実際に実装してみては?という提案でした。
具体的に実装するとより理解が深まりますよ。
114 :
本当にあった怖い名無し:2013/12/25(水) 20:42:37.24 ID:Gn7rBQ1w0
>>112 昨日は質問に答えてくれてありがとう、私もとても楽しかったです。
>>109 そうなんですよね。全てが観念であるというカント主義を突き詰めていくと
反実在論に行き着いて終わるんです。
ただ世界はそれだけではないとも感じていて、なんとか脱したいのですが
私も手がかりがつかめていないです。
115 :
本当にあった怖い名無し:2013/12/25(水) 20:45:18.77 ID:Gn7rBQ1w0
ともあれ、哲学を哲学すると思考の袋小路にハマるので
社会の中で哲学を実装し具体的に役立ててそのフィードバックを得ると
楽しいし、思考の発展につながるのではと思います。
例えば、今の観念論を応用して、
空気のように認識しにくい仮定に縛られていないか?とかね。
ある問題がその仮定から発していた場合は、それを解決すれば喜ぶ人がいて
自分の承認欲求が満たされます。
ほとんどの人は問題解決したことのみを評価するので、なぜそう思ったかは
あまり聞かれないですが(なぜなら気づいてしまえばあたりまえだから)、
解決する上で思考の訓練が出来て一石二鳥です。
純文学も小説も全く触らないのに、知らなきゃいけない情報になっているのはおかしい
スポンサーとワイドショーに洗脳されすぎ
神々も根源主もクソだってことがわかったわ
自分の都合のいい道具なら何やってもいいんだな
未だに人権侵害のデタラメ校則が作られているようだな
教育現場にナチ的な洗脳状態の支配体制が維持されてるのは、
教育や運営の概念を正しく理解出来ないんだろうな