被差別部落にまつわる怖い話 18

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834本当にあった怖い名無し
>>831
戦前の西浜部落の有力者たちの近代的で豪華な邸宅の写真が見られるよ。

近代における部落の経済的二極分解
http://dlisv03.media.osaka-cu.ac.jp/infolib/user_contents/kiyo/DBj0100005.pdf

写真4は、第二次大戦下の、この西浜の女性達の姿である。
正装して本願寺の門主を迎える時のものだが、着物もさることながら、背後にある家並みには、蔵やコンクリート製の建物が見える。
その頃ここで育った人からの聞き取りによると、学校から帰ると、ビリヤード台の置かれた友達の家でいつも遊んだ、という。
ところが、この西浜部落の姿を表すもう一枚、写真5がある。
写真1から年月としては僅か17年後、距離では100メートルも離れていない。
その間に空襲があり、西浜部落は焼け野原となった。
写真4の場所は焼け、富裕な革革業者の多くは部落を出て、ほとんどが二度と帰ってこなかった。
その意味で、西浜部落の本格的な貧困化とは戦後のことであった。
835本当にあった怖い名無し:2012/10/30(火) 15:01:16.46 ID:n72nLOLp0
労働力を吸収できる部落産業が都市に育つと、農村部落でも二極化が進んだことで、没落した貧困層は都市部落へと流入した。
たとえば表4では10人が、表6では7人が、宅地まで失っている。
しかし、当時まだ差別は厳しく、たとえ都市部であっても、一般社会への流入は困難であった。
彼らが移り住むのは都市部落であった。
貧しい人びとが都市部落に増大し、競争によって労賃を引き下げると、上層部の経営を一層活性化させることになる。
こうして、都市の二極化はいっそう拡大することになった。
こうして、大阪西浜部落の場合、移住してきた貧しい人びとの多くは周辺に新しく居住地を得ることになる。
福原宏幸は表7と下図を引きつつ西浜町の戸数・人口の停滞と、その周辺部の木津北島町では人口増加したと指摘したが、
その背景にはこうした都市─農村部を貫く二極分解のダイナミックスがあった。
福原は、1910年代(大正期)に「西浜地区住民の7%にあたる『中等以上生活者』は、同地区の頂点に位置し莫大な資産を有していた。
他方、無産者は約85%で、とくに20%の人々が同地区の貧困層を形成した。
まさに、『貧富ノ縣隔甚シ』いものがあった」と総括した。西浜部落における二極分解の姿である。
また、先に引用した『明治之光』で見たように、富を集めた人びとは、部落の中心部にあった古く狭い家屋を壊し、
そこへ大邸宅を建て、いっぽう貧しい人びとは部落の周辺部へと追いやられていった。
先に見た写真4は部落の中心付近、写真5はその周辺地域を写していたことになる。
こうして部落を外から見ると、部落は貧しくなったと印象づけられることになる。
このような誤解も含め、近代に部落は急速に貧困化したという見方が広がったといえよう。
「近代において部落は貧しくなったのか、豊かになったのか」という問いに対して、
確かに貧しくなった部落の方が多く、豊かになった部落は少ないと言うべきだろう。
また二極分解の結果、部落は共同体としての統一性を次第に失っていき、
豊かな人々の部落からの脱出が始まることが報告されている。
すると残された人たちはさらに貧しい人々が多数になる。
こうして部落は、近代において、全体としてゆっくりと貧困化が進んだのである。