103 :
本当にあった怖い名無し:2012/07/31(火) 15:53:50.46 ID:OmAH6gPz0
>>101 仰るとおりです。空を判断するための材料というべきものでしょうか
104 :
本当にあった怖い名無し:2012/07/31(火) 15:59:07.83 ID:wvCBNxgU0
>>102 それができれば新人類は間違いないです。
そのような新人類さんが増えれば争いはなくなるでしょうね。
新人類でない私がお答えするのは恐縮ですが、
ドグマは必要だと思います。
絶対的なものとの相対という点においての意見ですが。
105 :
本当にあった怖い名無し:2012/07/31(火) 16:03:25.79 ID:wvCBNxgU0
>>103 そうですね。
「空」を理解、実践することは、どのような自力の修行段階でも最終段階に近いものだと思います。
それに至るための材料ですね。
106 :
本当にあった怖い名無し:2012/07/31(火) 16:09:10.30 ID:OmAH6gPz0
>>105 有難うございます。私は"悟り"の概念を持つ仏教がこれからの世界の
架け橋になると思ってます
二項対立は進化に欠かせないものと認識しておりますが、地球が有限
であると考える限り、上記の結論に達っさざるを得ない状況です
毘盧遮那仏と大日如来のいずれを神道で表される天之御中主神な存在と解釈して宜しいか?
もしくはいずれとも高御産巣日神と神産巣日神みたいな存在と考えた方がいいのですか?
そうなると最高仏神はどなたなんだろう・・・
108 :
本当にあった怖い名無し:2012/07/31(火) 17:12:33.86 ID:wvCBNxgU0
>>107 創造の仏ということですか??
ということでしたら、そのような仏はいないと思います。
仏教に最高仏神という思想はありませんね。
目の前に答えを転がしても理解する気が無いんだから無理なんだろうなぁ
仏教徒はなんで匿名なんですか?何宗の誰なんですか?
111 :
本当にあった怖い名無し:2012/07/31(火) 18:07:14.16 ID:4dNxzJWr0
俺は仏教徒だが、験しか信用しないな。
修業して験を出せる人しか信用しない。
日本の仏教とインドの仏教は全然別物になってしまってるよね
先祖供養ひとつとっても何でこんなに違うの
>>112 仏陀釈尊の基本姿勢が対機説法だからじゃないかな。
>>111 加持祈祷を行ったことが、仏教の普及に大いに役立ったことは確かだな。
思想や哲学を語っているだけでは、現実に苦悩する大衆を救うことは出来ないからね。
ただ、更に進んで仏法の思想も学んで欲しい。
>>91 回答ありがとう。
指摘が少しでも参考になれば幸いです。
けれどもちょっとよくわからないんだけど、
戒律の戒はもともと戒の条項を自身によって自戒する事だよね。律は教団によって守れと強制されるものだよね。
>戒律は受けるものというより、自戒という形に変わっていくべきとおもいます。
ってのは
律を自身で決めて守っていくってこと?
それとも戒の条項を自分で決めるって事?
それと戒の主体というものはどういうものでしょうか?
戒の形骸化は抑えられても、律の形骸化はどうやって食い止めればいいのでしょうか?
>>1はニートなんですか?
聖☆おにいさんってあるじゃん? それって実際宗教を信仰してる側だとどう思う?
仏教での最高仏と云うのは語弊があるだろうけど、中心となる
仏さまは大日如来さまでしょ?
その周囲を菩薩や諸天が囲んで、所謂曼荼羅が出来上がって
居る訳で。
119 :
本当にあった怖い名無し:2012/07/31(火) 22:16:54.41 ID:wvCBNxgU0
>>115 すみません。言葉不足でしたね。
第一に戒や律が形骸化すること自体がおかしいわけですので、
自らが戒律の中に生活をしているという意識が必要ということです。
自らの意識のもと戒や律を守らないと形骸化は防げません。
120 :
本当にあった怖い名無し:2012/07/31(火) 22:18:11.23 ID:wvCBNxgU0
121 :
本当にあった怖い名無し:2012/07/31(火) 22:19:38.47 ID:wvCBNxgU0
>>117 あれ、おもしろいよね。
しかし、たまに間違っていることが書かれているので要注意です。
読む分には、とてもおもしろい。
122 :
本当にあった怖い名無し:2012/07/31(火) 22:22:47.89 ID:wvCBNxgU0
曼荼羅やシュミ山の思想の上ではそのように成ることが多いですね。
しかし、大日如来を中心と考えるのはどうかと思います。
>>119 >
>>115 > 自らが戒律の中に生活をしているという意識が必要ということです。
でも、現在の各宗派においては授戒はあっても受律が無く、
すでに律が名称のみを残して実態の無い藻屑と化してしまっていますよね?
> 自らの意識のもと戒や律を守らないと形骸化は防げません。
そこで守るべき律とは何ですか?
また、戒も円頓戒や梵網戒のようなものが一般化されてしまって
それにともなって極めて抽象化が行われてしまっていますよね。
元来、律蔵に基づく厳格な戒と律の厳守がなくなってしまった現在。
律のみを再び再構築するべきなのか、それとも戒律を再構築すべきなのか、
けれども再構築となったら伝統はどうなるのか、
現在日本では在家と出家の区別は授戒と宗脈の有無のみになってしまっているのが現状です。
これらの現在における戒と律の有様についての>>1の考えを拝聴したい次第です。
それと法華経等の大日如来を想定する宗派、経典論典においては大日如来が中心になり、
その法華経等の大日如来を想定する経典を踏襲しない立場にある宗派経典論典においては大日如来を中心と捉えないように思います。
曼陀羅や須弥山の思想に限定するのは如何なものかと。
また、須弥山の思想というものはヒマラヤを中心と捉えるインド古来の宇宙観に基づくものであり、仏教における導入も倶舎論などを見てもわかるようにインド思想の踏襲ですので、
その点からも
>シュミ山の思想の上ではそのように成ることが多いですね。
というのは誤謬を伴った理解に思えます。
124 :
本当にあった怖い名無し:2012/08/01(水) 02:09:59.36 ID:eNhntpwk0
>>101 確かにetcは色んな解釈ができますね、相対性の世界で何を
これから掴むのかは自分次第なのでしょうね
125 :
本当にあった怖い名無し:2012/08/01(水) 02:19:38.38 ID:eNhntpwk0
そして"空"と"進化"はイコールで結べますね、なるほど
126 :
本当にあった怖い名無し:2012/08/01(水) 03:47:31.02 ID:EZcUv0TX0
>>114 そうか?
確かに加治祈祷のような現世利追求が、大衆に仏教を広めるのに役立ったのは事実だが、仏教思想自体でも十分人を救えるだけのものはあると思うんだけど。
なんだニートか。じゃあ全部許す
>>126 うん、そうなんだけど、世俗の価値観以外にも見るべき世界があるということを知らしめるためには、
世俗の価値観に竿を指す形から入っていかないとキツイと思うんだよね。
そして徐々に、仏法の本質に導くというやり方が一番効率がいい。
>>127 今はニートなのかもしれないが、一応浄土系の僧侶として出家得度を済ませた人らしい。
つまりは坊主。
5 名前:本当にあった怖い名無し[] 投稿日:2012/07/28(土) 18:21:09.95 ID:99tgORSa0 [1/15]
スレ主です。俺自体は南無阿弥陀仏の方の僧侶だが、一般仏教僧侶として答えたい。
130 :
本当にあった怖い名無し:2012/08/01(水) 17:56:33.17 ID:QCh72k9d0
仏教徒の人は聖天様やダキニ天様を財運福徳で信仰してる一般大衆の人をどう思われますか?
仏教的な観点において戒律に反した場合はやはりユダヤ・イスラム両教のように罰を持って制する必要がありますか?
あくまで原則論ですけど因果応報により生じた罪という概念に罰という行為は必要無いような気もします
仏教にも原始キリスト教のベースでもある懺悔と許しを基本とした理念ってあるんですかね?
もちろん後世には阿弥陀信仰という許しをベースとした思想も現れていますが、この点お釈迦様はどうとらえていたんだろう?
132 :
本当にあった怖い名無し:2012/08/01(水) 21:02:09.81 ID:5sHPHYDhO
餓死は自殺に含まれますか?
仏教的に自殺の定義ってあるんですか?
133 :
本当にあった怖い名無し:2012/08/01(水) 21:27:34.87 ID:017wSPKuO
仏教なんて、キチガイ以外誰も信仰してないし、いらないでしょ。
寺も潰し、何も産み出さない僧侶は食えないようにしろ。
134 :
本当にあった怖い名無し:2012/08/02(木) 09:02:40.35 ID:UxsMoMXa0
なんで坊主はハゲなの?
>>132 捨身や解脱自体が自殺的行為とも解釈できる
136 :
本当にあった怖い名無し:2012/08/02(木) 16:56:28.82 ID:WSpFaQzi0
>>131 仏教における戒律は自らの成仏の為に必要なもの。
よって、戒律をおかした者を罰を持って制する必要はないと思われます。自分が成仏できないだけです。
しかし、教団の維持といった観点で言えば必要といえる場合もあるでしょうね。
137 :
本当にあった怖い名無し:2012/08/02(木) 16:59:31.47 ID:WSpFaQzi0
続き
原始キリスト教のような懺悔と許しを基本とした思想は仏教にありません。
どちらかといえば、罪を許してもらうというより、罪の根本を除こうとするのが仏教です。
138 :
本当にあった怖い名無し:2012/08/02(木) 17:00:40.30 ID:WSpFaQzi0
>>133 あなたは、何か信仰をもったことがありますか?
139 :
本当にあった怖い名無し:2012/08/02(木) 17:05:28.79 ID:WSpFaQzi0
>>132 自殺は自らを殺すと書くように、自分を殺そうとする意思があるかどうかです。
よって餓死は自殺ではないと思います。
仏教的に自殺の定義があるかは、わかりません。
他者の為に自らが犠牲になるという、説話がよくあるので、
他のために死ぬことは自殺にならないと考えます。
140 :
本当にあった怖い名無し:2012/08/02(木) 17:08:47.83 ID:WSpFaQzi0
>>130 加持祈祷など思想の違いですので、あまりどうこう思わないと思いますよ。
141 :
本当にあった怖い名無し:2012/08/02(木) 17:16:53.30 ID:WSpFaQzi0
>>134 結構難しい問題なんですよね。
近年、剃髪している方と有髪の方が分かれていますね。
宗派の規則などで剃髪していらっしゃる方もいらっしゃいます。
なぜ坊主にするのかというと、もとをたどれば、釈尊に由来してます。
>>141 なんで宗派によって違うん?
釈尊に由来ってのは釈尊がボーズだったん?
でもお釈迦様パンチじゃね?
>>141 頭を洗わなくていいとかシラミが湧かないとか言う現実問題だったら笑えます
144 :
本当にあった怖い名無し:2012/08/02(木) 18:04:47.77 ID:WSpFaQzi0
>>142 釈尊は出家した当時髪を剃りました。
真理を悟り、仏となった後は螺髪(パンチ)となりました。
よって、出家したら髪を剃るという規則がある宗派もありますが、
そのような、規則がなく個人の意志に任せる宗派もあります。
145 :
本当にあった怖い名無し:2012/08/02(木) 18:06:22.26 ID:WSpFaQzi0
>>143 髪がない方が楽ではありますので、そのような理由で髪を剃る僧侶もいらっしゃいますよ。
無知ゆえの質問なので根本から間違ってたらごめんなさい
般若心経で有名な一説に「色即是空」というのがありますが、これは「自我を捨てて無になる」と自分は解釈してます
そこで質問なんですがこの「自我」というものが「無」生まれたそもそもの原因なんかは教典なんかで解説されてるんですかね?
まあ「自我」というものがなんなのかすら自覚できないからそれを知ったところでどうしょうもないんですけどね
147 :
本当にあった怖い名無し:2012/08/02(木) 20:10:54.46 ID:WSpFaQzi0
>>146 「我」というものを「虚空(「無」と近い意味)」「縁起」によって否定解説した経典はあります。
仏教でよく言われる「我」はバラモン教などで言われる、アートマン、ブラフマンの「我」であります。
一般的な意味での「我」は仏教ではあまり用いませんね。
>>146 そこまで興味あるなら「スッタニパータ」を読んでみなよ。
ただ業に流される主体として、「自我」を見る限り
何の答えも出ては来ないよ。
仏教なんだから。
149 :
本当にあった怖い名無し:2012/08/02(木) 20:48:07.20 ID:LH2ennX50
>>146 仏法は唯識という心理学で解釈したほうがいいです。
>>148 あとダンマパダとウダーナヴァルガ。
あれは名典だと思うし、法句経として大乗仏典でも翻訳されてるし。
律蔵的で教えの哲学的な部分には迫りにくいけど、タメになるとは思う。
仏教を知るにはダンマパダから読むと良いと思った。
なんだか回答が不適当なような気がする箇所が目についたので、間違ってるかもしれないが幾つか指摘します。
>>131 仏教的に戒や律を違反した場合は教団追放としての罰か反省が要請されます。
おっしゃる通り、仏教においては因果論、
つまりは業論を重んじるために肉体的精神的金銭的な罰は存在しません。
また懺悔については、先にも述べたように戒律を違反した際に反省として
複数人の僧侶の前で違反内容を告白し、悔い改める事の宣誓を行います。
また釈尊は重い罪(阿羅漢や母父を殺したり仏に傷をつけたり)を行ったものには
それを上回る善業を積むことを進めたとされています。
>>132 自殺の定義というか自から死を選ぶ事には種類があり、
他人のために自身が自殺することは善であり、勧められます。
しかし、自分が現実が苦しく、苦しみから逃れるための自殺は否定されます。
ここでの後者が俗に言う自殺であり、ここでの定義は苦しみから逃れるために自身を自身によって殺す事です。
他者によって自身を殺さしめるのは自殺とされますが、他殺としても認められてしまいます。
>>142 よく一般の方が重要視される「色即是空空即是色」という般若心経の一句ですが、
「自我を捨てて無になる」と解釈するのは少し難しく思えます。
この「色即是空」は難しいことをいってるのではなく
「物という存在があるのではなく、今は色々なものが集まって物という状態であるにすぎず、ずっとある物なんてない」
って言うことを言っているにすぎません。
空は縁起(すべてのものは原因と縁によって生じて、常に変化し続ける。)と同じことを指していると思ってくださって結構です。
自身で色々と考えてみるのもいいですが、何かを読んでみるのもいいと思います。
般若経などに興味があるならば 中村元「龍樹」を、我に対する執着の解明に興味があるならば 三枝「バウッダ」
あたりが手頃でいいと思います。
また、諸法無我などの無我は近代仏教学以前はバラモン教批判だとされてきましたが、
近代の研究に基づくならば素朴な我執や我慢をさした素朴な我であるとされています。