粗暴な野盗の喧嘩殺法に、凄惨たる殺人現場、か、、ほれ見れ、それだって正解としてある不安だ
その不安の根元も、在りたいと思う真我が出元。真我とは「放出だけ出来る光」だ
出すモン変えるしか俺たちには出来やしない。愛されたいではなく、愛したいに
ガンジーという爺さんが「非暴力不服従」を念頭に、無抵抗に虐められるだけの大行進を起こし、利で動く人間の一国家からの支配から独立を勝ちとった
最期は射殺されてしまうが、死に際のガンジーは、銃弾が飛んできた犯人が居るだろうその方向に向かい、合掌して絶命した
覚者どもも同じく無力でしかないが、意味は残るし、暴漢にブッ殺されてもぶっちゃけそれしか出来ないよ
非暴力不服従こそ、真の民主主義であるはずだ。もっと贅沢を言えば、最初は暴力が否定された、次は利がうまく否定される世になっていけば、願ったり叶ったりだが、、
大きく見て、どうすれば良いか、とか、別に無理してヒーローになればいいってもんじゃない
真我の訴えは、初めはもっと小さなモノが欲しかった筈だ。「みんなと仲良く自分が在りたい」
諸法無我は、視力0.01だった奴が、ある日突然に視力2.0に復活するようなものだから
それでも十分。はっきりくっきり東芝さん。いろいろ考えても、けっきょく南極大冒険。マジで
でもまあ、まだ苦悩してる奴らは、やっぱり何かしらこう、哲学的な「解釈の言葉」に、ついつい期待して救いを探そうとするんだろうけど、その痛みも勿論、すっげー分かるし