ゴミ投棄防止結界
鳥居に書かれてる文字はそれぞれ違うんだよね。
ホントなんなんだろう、あれ。
いや、だからゴミ投棄防止策...........
マジでゴミ投棄帽子結界なの?www
なんという大袈裟なwww
でも、確かにあんなのあったら祟られそうでゴミ捨て辛いかもね
よほど投棄ひどかったんでしょ
まぁ、立小便禁止なんかでもふつーにミニ鳥居おくしな
別に珍しいことじゃない
先日行ってきた。
おのころ島神社といざなぎ神宮は、まぎれもなく超パワースポットだった。
伊勢神宮や出雲大社に並ぶ神社のはずなのに、なんだかマイナー感があるよね。
元井戸にも行ってみよう。
国之常立神
王仁三郎
350 :
346:2012/05/02(水) 12:49:52.24 ID:x6A5ym8/O
お土産に買ってきた淡路島玉ねぎ美味い。
351 :
本当にあった怖い名無し:2012/05/04(金) 20:57:05.23 ID:9lAcQa0J0
へー
淡路島をバイクで走るついでに、おのころ神社と天浮き橋を見に行ってきた
何ていうか、期待ハズレだった
特に天浮き橋、最初気づかずに通り過ぎた。しかも、お供え物か知らないけどワンカップのお酒が1つだけポツンと置かれてたし
葦原国の鳥居は行かなかったの?
355 :
本当にあった怖い名無し:2012/05/15(火) 07:19:39.13 ID:NJEm9G2h0
淡路島における災害と記憶の文化 −荒神信仰を中心に−
http://www.nichibun.ac.jp/graphicversion/dbase/forum/pdf/fn204.pdf 2 森と記憶―淡路島の大地震の体験と出来事
「天災は忘れた頃にやって来る」という、みなさんがよくご存じのことばは、
日本人が持っている災害についての深い知識を私に思い起こさせてくれます。
この知識は、人間と環境との相互作用の賜物です。しかしこれは、環境の絶え間のない変更と、
地方の過疎化、都市部における人口の過密化などとともに、いくらか再考を必要とするようになってきました。
ところでいま、私が知識といった時に、これが意味しているのは、通常は、宗教と呼ばれている文化の一側面を指しています。
これから、私は、荒神信仰として表現された民間信仰が、1995年に発生した阪神淡路大震災に際して、
淡路島北部の島民の間で、どのようにして、彼らが体験した破局を説明するための装置となったかについて紹介していきます。
言い換えると、荒神信仰は、大地、もしくは島の、地質学的特徴についての、具体的に表現された知識を象徴するものなのです。
この物語は、淡路島の北淡町から始まります。淡路島は、日本の文化的記憶にとって極めて重要な地域です。
日本神話の中では、アマテラスオオミカミ〔=天照大神〕が、天皇家の祖先神であるとされていますね。
『古事記』では、淡路島は、アマテラスオオミカミの両親である、イザナギ・イザナミの二柱の神々が、最初に生んだ島と書かれています。
『万葉集』では、淡路島は「御食国」とされ、食べ物が豊富で、島民たちは奈良の天皇に食べ物を貢納していたとされています。
この島はまた、古代から後世に至るまで、中国大陸や朝鮮半島と行き来する際に、海を航海する人たちにとって、
重要な目印であり、中継地でした。淡路島は、本当に特別な「場」であったのです。
しかし、中世においては、淡路島は、本州から四国の阿波へ旅する際の単なる通り道でした。
現在では、淡路島は、明石海峡大橋によって本州に結び付けられています。
この橋が架けられる30年以上前、すなわち、1970年代から1990年代にかけて、インフラストラクチャーの革命が北淡町で起こりました。
淡路島の北部は、兵庫県、特に神戸市の市街地の土地の拡張と再構築のための資材の供給地になりました。
1970年代から、多くの盛り土が北淡町の丘の地表からはがされました。
その結果として、丘陵地帯だった町は平坦になり、谷と平野が大きく広がるようになりました。
また、切り崩されてテラス状になった地域もあります。さて、ここで、土地利用について見てみましょう。
1. たとえば、1975年から2005年の間に、居住地域である可住地面積が27.552平方kmから32.594平方kmと、
おおよそ5.042平方km拡大したことを含めて、牧草地が増加しました。
この増加は、丘陵部の掘削に原因があり、それゆえ、平坦地の拡大を意味しています。
もとの高台の土地から、それと等しい平坦な土地に換算するための手続きに問題があるため、
実際には、以前の丘陵地帯の所有者の多くは、自分たちの取り分を手に入れていません。
拡大した平坦地の下の大きな凸凹のわだちの跡は、日本のバブル経済がはじける前の投機の結果を象徴しています。
土地投機家たちは、ゴルフコースや別荘地の開発を計画していました。
バブル経済がはじけた時、投機家たちは淡路島経済を破産させたまま去っていきました。
要するに居住地・牧草地は、1975年を100とすると、2005年には約1.18倍に拡大したことになります。
2. 森林地域が削られた結果、かつて12.179平方kmあったものが8.619平方kmへと、ほぼ3.56平方km減少しました。
すなわち森林地の場合、1975年を100とすると、2005年には70.7へと減少したことになります。
3. もう一つの興味深い変化は、農地が減少し、造園地が増加したことです。農地は0.888平方km減少しました。
すなわち8.453平方kmから7.665平方kmへと減少しました。つまり、農地は1975年を100とすると、2005年には95に減少しました。
4. 造園地は1.381平方kmから3,240平方kmへ、すなわち1.859平方km増加しました。
1975年を100とすると、造園地は、2005年には234に拡大しました。
造園地が好まれて農地が放棄されるということは、コミュニティが老齢化して後継者がいないことを示しています。
北淡町のインフラストラクチャーに関係した最初の大きな観光産業は、今日も存続している1964年に建設されたゴルフコースでした。
1970年代の直前には、斗の内地区の周辺で巨大なベルトコンベアーによる、丘陵から輸送船へと直接に土砂を運び出す事業が始まりました。
これらの丘陵から採取された土砂は、関西国際空港の建設に際し、大阪湾を埋め立てるために使われました。
これは1980年代の後半まで続きました。
1970年代初期、島内の交通は、山々を切り開いて、島の東海岸から西海岸へと島を横切る斗ノ内バイパスが建設されたことによって再編成されました。
豊島地区の採掘操業を奨励する記述のなかで、1971年の写真の見出しは、毎日のように際限なく森が消えていくことを
「豊島では開発の波が押し寄せ、緑は日一日と消えていく」と表現されています。
このような「破壊」が続いた結果、淡路島の住民は1973年には、仁井地区に空港を建設する計画に対する反対運動を起こしました。
しかし、北淡町の浅野出身の野心家で、国会議員であった原健三郎氏は、
淡路島と本州を結び付ける橋を建設するように国土交通省を説き伏せることに成功しました。
その地鎮祭が1986年に行われました。10年の後、淡路島を通る本州・四国連絡橋が開通しました。
しかし、その1年前の1995年、マグニチュード7.2という大地震が関西地方を襲いました。
震源地が淡路島にあったことから、この地震は、後に阪神・淡路大震災と命名されました。
淡路島では、野島断層と名付けられた活断層が発見されました。
野島断層は、北の江埼灯台から南の野島川に至るまで、南北に約7kmにわたって続いている断層です。
断層は二つに枝分かれしており、長い方の断層は豊島の南部に向かって断続的に続いていて、
全体で約10kmに及ぶ活断層をなしています(中田高・岡田篤正〔編〕『野島断層』一九九九、一三五―六)。
地震から11ヵ月後の12月12日から18日にかけて北淡町の各地で行われた毎年恒例のお祭りの儀礼に際して、
祭司を勤めていた僧侶は、数多くの荒神様が断層に沿って分布していることに気づきました。
「環境破壊」が最も激しかった時期の出来事と年代を示した図をご覧下さい。
ここにご紹介したお坊さんのように、この地域の住民の多くは、荒神様の怒りは北淡町の土地を丸裸にしてしまったことの結果であると信じました。
1997年の1月には、荒神様の怒りという噂が広まっていたと私は考えております。
この1年後には、実際の断層と、断層によって倒壊した家屋を保存した震災記念公園が建設されました。
ここには、震災の被害の様子を展示する展示館もあります。
さらに2年後には、震災記念公園の職員が、北淡町の教育委員会の職員に断層に沿って存在している七つの荒神様の祠を調査するように依頼しました。
荒神様の写真が撮影され、荒神様の祠に関する短い報告書が作成されました。
しかし、報告書の執筆者によると、荒神様が断層線に沿って存在しているという現象に触れた資料や文献を何も発見できなかったということです。
結局、この調査は、この短い報告書が出されただけで終わってしまいました。
淡路島における災害と記憶の文化 −荒神信仰を中心に−
http://www.nichibun.ac.jp/graphicversion/dbase/forum/pdf/fn204.pdf 3 破壊と祟り
荒神さんは荒神山とも書かれ、荒ぶる神の宿る山という意味になります。
一般には荒神さんと言われ、「さん」(または「様」)は敬称で、「尊いお方」を意味することになります。
蟇ノ浦出身のインフォーマントによると、荒神山とは、荒神さんの社が祀られている丘の上の場所だそうです。
この二つの言葉は、「さん」という発音に当てられた同音異義語ですね。荒神さんは、土地の神様です。
日本の、他の多くの場所と同じように、蟇ノ浦でも、これは妥当な見方です。
『日本民俗事典』(一九八六、一六四―五、二四五)の記述によれば、荒神さんとは、竈神を指し示す囲炉裏の神様だそうです。
みなさんがご存じのように、日本の伝統的な家屋では、台所は土を突き固めて作られていました。
近畿地方では、それは荒神様と呼ばれており、その性格は、火の神様、同族の守り神、部落の守り神、
あるいは、家の敷地の、つまり屋敷の神様、などとされています。
全体として、それは、血縁でつながっているか、隣接する場所を共有している世帯、
もしくは世帯の集団を包み込んでいる特定の場所の神を意味しています。
荒神さんは、普通、東に面した丘陵地域の森に位置しているか、台所の供物台の上にあります。
荒神信仰は、北日本から、沖縄まで広範囲に分布しています。
瀬戸内の島々や、九州、中部地方では、一般に、荒神さんは土地の神として知られており、荒ぶる神とされています。
大分県では、旦那さんは、奥さんが怒っている状態にある時、それを荒神さんと呼ぶそうです。
本質的には、荒神は、台所の神で、特に水の神であるようです。
すべての村に共通しているのは、荒神さんの存在している地域への女性の立ち入りを禁止していることです。
このタブーに関しては、原因不明の病気に悩むことになった地方新聞の記者についての有名な話があります。
彼女は、朝の六時から始まる荒神祭りを取材しようとして、その準備のために一人で早朝の三時に荒神様のある場所に行ったそうです。
それからというもの、彼女は、原因の診断がつかない病気に悩まされたということです。
直江広治氏(『淡路島の民俗』一九七四、二八二―三)によると、二つのタイプの荒神信仰が存在しているそうです。
すなわち、一つは、屋内、もしくは台所に見出されるもので、三宝荒神の信仰と呼ばれて敬われているものです。
もう一つは、家屋の外に存在しているもので、部落神、同族神、組神、株神、屋敷神といったものです。
これらのなかで、淡路島で見出されるのは、部落神と組神だけです。
荒神を祭る祭祀が継続されないと、何か悪いことが起こるという信仰があります。
荒神森という場所があって、そこには、儀礼の主要な部分が行われる小さな祠が祀られています。
淡路島北部の島民の先祖は、野島断層について知っていたのではないかという議論は、
荒神様の祠の環境を検討してみると何らかの信憑性が生じてきます。
私たちは、丘陵は何万年も前に起こった地底からの隆起によって形成されたものであることを地理学で学びます。
地震が、いくつもの丘陵や山岳を消滅させることがありますが、同時に、それらを創り出すこともあります。
北淡町では、長年にわたる丘陵や森林などの自然の破壊によって、荒神様の祠のいくつかが掘り返されてむき出しの状態となり、
そうでないものも、適当な避難場所に移転させられました。
私は、これらの森に覆われた丘陵に住んでいる神々の典型的なものに光を当てようと思います。
そうすると、石上の荒神様が典型的なもので、おそらくそれは他の祠よりも、もっと古いものだと思われます。
私の考えでは、荒神様の祠の理想的な形は、富島の石田にある荒神様のように森に覆われた丘に位置しているものだと思われます。
この写真では、荒神様は女性の立ち入りが厳重に禁止されている丘の上に存在していることを示しています。
轟のように丘陵が卓越している地域では、海を見晴らすことのできる丘の上に荒神様の祠が祀ってあります。
蟇ノ浦では、荒神様の祠は氏族の第二の埋葬地に程近い森に覆われた丘の上にあります。
それで、これら三つの例は、これらの荒神様の祠が緑に覆われているか、森になった高い場所にあることを示しています。
しかし、すでに言及しましたように、丘陵のいくつかは平坦にされてしまい、
祠の他の地への避難と、荒神様の住まいの雰囲気の変化を招きました。
小倉の祠の場合は悲惨な例です。小倉の長畠地区の河野さん一家のお話によると、丘の上の場所には四軒の世帯が住んでいました。
彼らの山の居住地域では、1970年(昭和45)から神戸製鋼により、
西宮と大阪湾に使用するための土地掘削が始まり、それが、約10年間続きました。
荒神様のお社は、保護のために、20年間にわたって近くの場所に移転されていました。
1989年の平成時代の初めから、再び、ここの土砂は、関西国際空港の建設に使用されるようになりました。
そして平成になってお社は現在の場所に帰ってきました。
しかし、1995年の地震がお社に沿って通り過ぎていきました。
そして、この地域一帯は地震の記憶を保存する記念公園を作るために政府によって買い上げられました。
1998年の記念公園の完成により、敷地のなかの他の四つの神聖視されている神々を含めて、
荒神様の新しい社は、現在では、誰でも見る事が出来るようになっています。
これは、荒神様の石の目印が現在どのように見えているのかの様子です。
他の暴かれてしまったものに較べれば、この祠はまだ運の良い方だと思われます。
私は、時に、隠されていない、あるいは剥き出しにされてしまった荒神様は、
その正体が暴露されてしまったことによって、その力を失ってしまったと考えたくなります。
なぜなら、それらは、もはや森に覆われた丘の上の聖域ではなく、
そこに行くための舗装された道路に付属している平地の開かれた場所にあるからです。
神秘的な何かは、どこかへ去ってしまいました。
もちろん、全ての荒神様が同じ不運に見舞われている訳ではありませんが。
かつて舟木の一部である小倉にあった運の良かった荒神様が、舟木の山の神の間に再建されています。
この荒神様は、現在では権現様と不動明王とともに森に覆われた丘を共有しています。
それは、石上神社にある荒神さんと共に崇拝されています。
この荒神様のための森に覆われた特別な丘は、その領域のなかへの女性の立ち入り禁止が厳格に守られている
唯一のものであるという点で、全ての荒神のなかでも別格です。
そこでは、木々の住居と石上さんとお稲荷さんという神々もまた隣り合って保存されています。
北淡町で祭られている全ての荒神様のなかでも、この荒神様は、書き残された文書に基づいて規定されている
最も複雑な儀礼と祭儀で守られています。
この、特別な荒神様は、野島断層の上にはありませんが、それでも、やはり、その近くにあります。
次に、とくに舟木部落の荒神祭りを例として取り上げ、やや詳しく紹介してみたいと思います。
舟木部落には、現在22の世帯が居住していますが、1955年には30世帯が存在していました。
これらの世帯が、この儀礼執行の主体となることになっています。
しかし、現在では、そのうちの21世帯が、儀礼への積極的な参加を続けています。
この参加は、世帯主の奥さんの状況によって左右されます。
時には、家族の中の誰かが亡くなった、というような理由で、ある世帯とそのパートナーになる世帯が参加できないこともあります。
近親者が亡くなった時の喪に服している状態は、ケガレの観念によって不浄であると信じられているからです。
1884年以降は、儀礼のやり方が書き残されるようになりました。
その中には、お供え物の作り方、荒神祭りの準備と実行に責任を負う当番の順番、饗応されるべき食べ物、などが決められています。
それ以来、村の人々は当番の指示に従って役割を果してきています。荒神さん祭りは、二ヵ所で行われてきました。
一ヵ所が石上神社の荒神さんで、もう一ヵ所は、山ノ神の荒神さんです。
これらのコミュニティの森林の丘の二つとも、他の村の守り神です。
石上神社の中には、石上さんとお稲荷さんの祠があると言われていまいますし、
山ノ神の中には、権現さんと不動明王さんがあるそうです。
ここの荒神さんは、もともと小倉にあったのですが、採石に伴って森に覆われた丘は平坦にされてしまい、
そのため、その地域の住民は、現在の場所でお祭りを行うように依頼されたのだそうです。
淡路島における災害と記憶の文化 −荒神信仰を中心に−
http://www.nichibun.ac.jp/graphicversion/dbase/forum/pdf/fn204.pdf 4 結びに代えて
景色の美しい小島の名前であった野島は、もはや『万葉集』の歌のなかに残っているだけです。
それは、その場所に因んで名づけられた近くの村の名前です。
それから、何百年もたって、この名前は、丘陵地帯の人々の生活に凄まじい破壊をもたらした大地の亀裂の残された傷跡として、
もう一度、今度は永遠に記憶されることになったのです。
大昔の祖先たちは、後世の人々に、危険な場所はどこであるかを知らせるために、そこに荒神の祠を祀ったのでした。
荒ぶる神を喜ばせることは難しいことではありませんでした。
その怒りをなだめるために、12月にお供え物を捧げて儀礼を行い、
祝うことによって、コミュニティは、それを記憶しておくように注意を促されていたのでした。
荒神信仰は、大地、土地、あるいは場の観念が、いかに取り扱われるかが理想的であるかを示しているのです。
この考察は、私に、糸魚川から静岡にかけて走っている日本列島最大の断層で、本州を二つの地理的なエリア、
すなわち東の関東と西の関西、に分割しているフォッサ・マグナについての類似した見方を思い起こさせてくれました。
30年以上前の日本の人類学者によると、地質学的な分割は、文化的な分割に対応していると言われています。
すなわち、東日本の文化は家を中心とする見方で理解できるのに対して、西半分のそれは、組や講、座の存在によって理解できるというのです。
私たちはこの見方を民俗的と呼ぶかもしれません。
しかし、それはまた、長期にわたる文明のなかで、自然環境と社会環境の調和を通して、
日本人がどのようにしてその知識を蓄えてきたかを理解するもう一つの道となるかもしれません。
数十年前の民俗の消滅についての柳田國男の嘆きは、人々が、1930年代における、
日本の急速な近代化に吸収された工場労働者の単なる一人となってしまうならば、
私たちの祖先が残してくれたものを、学ぶことはないだろうという意味でした。
しかし、阪神・淡路大震災の後に、彼らは、もう一度声を発したのです。
今こそ、私たちは、民衆の叡智に耳を傾け、再考する時ではないでしょうか。
文化の解釈者としての私の作業は、私自身に、森や自然の破壊、祟り、そして共同体のあり方について考えさせてくれました。
淡路島の人々の経験を通して、森は、荒神様のお住まいになっている神聖な茂みとして再来しました。
地の神様は、他の人々が自分達の島を建設しようとしたことによってその住まいから追い立てられて、淡路島の森の自然破壊が生じました。
淡路島を真っ二つに引き裂いた一九九五年の阪神淡路大震災は、
何千年にもわたって荒神様が守ってきた自然の無差別な破壊に対する祟りであると解釈されました。
毎年のお祭りの体験のなかで、荒神様を讃える儀礼を通して、人々は、荒神さまの「力」を私達の周囲の環境を守っているものとして理解し、
このことにより地域共同体が存続してきました。
荒神様の祟りじゃあ!
30年ぐらい前に洲本第3小学校に大きなトイレがあった
そこにある和式便器が緑色に変色していて何時の間にか周りで便器から緑の手が出て追いかけてくると噂になって
トイレを我慢してお漏らしする奴がいた
保育園の隣りにある2階建ての校舎があった場所に元トイレがあった
今はないのか
腐緑便所
【ミステリー】兵庫・三熊山に謎のカレーの匂い 正体つかめず
http://www.asahi.com/food/news/OSK201205270010.html 洲本城がある三熊山の山中で、「プ〜ン」と、カレーの匂いが漂う、という。日によって匂ったり匂わなかったり、
場所も違ったりして“神出鬼没”。早朝登山の人たちは「皿とスプーンを持ってこんと」と、冗談を言いながら登っている。
三熊山登山会のメンバーは朝早く山道を上り、6時半からお城の広場でラジオ体操をするのが三十年来の習わしだ。
「カレーの匂いに気付いたのは、10年ほど前」とメンバーたち。 今シーズンは4月末から、匂っている。去年は
まったく匂わなかった。特に雨の翌日によく匂い、間もなく訪れる梅雨のころが「本番」だそうだ。
同市下内膳の東田弘さん(78)、千代子さん(74)夫婦は三熊山とは20年近い付き合い。千代子さんは「山では
木の花の匂い、タケノコのゆでたような匂いなど、いろいろ匂いがする。でも、カレーの匂いは特別」。
仲間内では、10年間毎日、夜間登山で午前0時きっかりに記帳し続けた女性、100歳近くまで登っていた男性と
「カレー」を、“三熊山の三大不思議”と呼ぶ。その最高齢男性が3年ほど前、匂いの元を突き止めようと山に分け
入ったが、正体はつかめなかった。
カレーに縁のある草木には、葉が香辛料として使われ「カレーの木」と呼ばれるオオバゲッキツ(大葉月橘)や、
カレーに似た香りがするとされるツリガネカズラなどがあるという。植物に詳しい洲本市宇山の南光重毅さん(86)は
「三熊山の植物は十数年前、大学の先生たちが調べたが、そんなものはなかった。それに、私は三熊山でカレーの匂いを
かいだことはないのだが……」と首をかしげる。
三熊山のナゾの正体は?(由本昌敏)
カレー臭
野糞臭
test
阿波児島
377 :
本当にあった怖い名無し:2012/06/28(木) 02:07:09.34 ID:6X27F5Ot0
n
379 :
本当にあった怖い名無し:2012/07/04(水) 08:10:21.23 ID:DzjRxiY4O
犯人は「シャーオラー」と意味不明な言葉を叫びながら立ち去った
380 :
本当にあった怖い名無し:2012/07/04(水) 08:17:19.66 ID:GIgoNFvFO
>>372 普通に浮浪者が山のどこかでカレーを煮てるんだろうね
用心深い浮浪者は人からは逃げようとするし
リンゼイ事件の犯人も島で野宿してたらしいし
正体はサンカ
正体はインド人
あわわわ
385 :
本当にあった怖い名無し:2012/08/09(木) 00:19:04.64 ID:c5RklaXci
淡路島にピラミッドは無いけれど、日本の富山県に
有りそうだよね。
尖山のことか?
先山
388 :
本当にあった怖い名無し:2012/08/19(日) 01:18:02.56 ID:BDcpVZsdQ
先山。
柏原山。
丸山(弁天島)
雨乞山(生穂、賀茂神社神奈備。伊弉諾神宮ー伊勢神宮の東西線上、常隆寺の真南。)
月の山/釜口山。
摩耶山。
愛宕山(伊勢久留麻神社の神奈備か?境内に愛宕社。また京都の愛宕山の鬼門裏/伊弉諾神宮の夏至の日出方向、ランドマーク。近世まで山頂の三本の大松がご神木で有名でした)
三対山/城山。岩屋地区の語源か。神功皇后がわざわざ参拝に来た程の小岩山の神奈備。
戦国時代までは山上に石屋神社が鎮座。
東麓の洞窟は伊弉諾尊の幽宮伝承地。
日本の建国史に何やら曰く因縁有り?
岩屋の真北の二つ並んだ播磨富士、雄岡山、雌岡山。(真東は交野の星田妙見権現ほか)
雌岡山の山頂は日本標準時子午線が通過。
雄岡山の真南は三対山、石屋神社。
諭鶴羽や先山と違って、柏原山はあまりパワースポット的な話ないね
神社もないし
柏原山は滝水寺って廃寺があるぐらいだな