中国分裂、朝鮮真空パック 第154夜

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934本当にあった怖い名無し
前にこのスレで載ってたと思う、宮古島の尖閣丸の話。

久松五勇士(ひさまつごゆうし)

日本中が固唾を飲んでバルチック艦隊の行方を心配していた
明治38(1905)年5月23日、宮古島の沖合で漁業をしていた
奥浜牛という青年が、バルチック艦隊を目撃します。
奥浜牛の乗った帆かけ船の小さな漁船の近くを、バルチック艦隊
が通過したのです。
バルチック艦隊も、彼の乗った船を目撃します。
しかし、たままた彼の乗った船が龍の絵柄の大漁旗を掲げ、沖縄の
海人独特の長髪をしていた。
このため幸いなことに、艦隊側では彼を中国人と誤認し放置してくれたのです。
奥浜青年は、バルチック艦隊の通過を見届けると、即座に網をあげ、
宮古島の漲水港(現・平良港)に、報告のために駆け込みます。
それが、5月26日の午前10時頃のことだった。
そして、漲水港の駐在所で状況を話し、すぐさま駐在所の警察官
と一緒に、宮古島の役場に駆け込みます。
宮古島役場は、大騒ぎとなります。
いま、日本海軍が躍起になって探しているバルチック艦隊を発見したのです。
すぐさま日本海軍に報告しなければならない。
ところが、当時の宮古島には、通信施設がないのです。
無線も電話もない。
役場の重役たちは、島の長老達と会議をひらき、すぐさま石垣島に
この情報を知らせようと決意します。
石垣島には郵便局があり、そこからなら無線電報で日本海軍に
知らせることができるのです。

つづく
935本当にあった怖い名無し:2011/02/08(火) 11:13:14 ID:AEw+/y1U0
しかし宮古島から石垣島までは、170キロの距離があります。
当時は、モーターボートも飛行機もヘリもありません。
あるのは、サバニと呼ばれる手漕ぎボートだけです。
サバニというのは、全長9メートル足らずの丸木舟です。

長老たちは、宮古島の島民の青年から、屈強な若者5人を選抜します。
選ばれたのは、松原村の垣花善、垣花清兄弟、与那覇松・与那覇蒲兄弟、
久貝原村の与那覇蒲の5人です。

5人は、すぐに宮古島を出港します。
そしてなんと、15時間、ぶっとおしで丸木舟を漕ぎに漕ぎ、ようやく
石垣島の東海岸に到着します。

ところが、せっかく石垣島に着いたのに、折からの干潮のために港に
入ることができない。
やむをえず彼らは、潮が満ちるのを待って、ようやく港に船を付けます。

到着した時には、さすがに全身の骨が砕けるかと思うほど、5人とも
くたくたに疲れ切っていた。

そこで港の住民に、郵便局はどこあるかと聞くと、なんと港からは
険しい山を越えた反対側に局はある。
電話のある時代ではないのです。
車があるわけでもない。

5人は、疲れた体にムチ打って、30キロの山道を5時間かけて、
走って峠越えをし、ようやく27日午前4時に、八重山郵便局に到着します。

局員は、5人から文書を受け取り、電信を那覇の郵便局本局へ打ちます。
電信はそこから沖縄県庁に打たれ、そこから東京の大本営へと伝えられた。

つづく
936本当にあった怖い名無し:2011/02/08(火) 11:15:22 ID:AEw+/y1U0
そのときの電文です。

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
五月ニ八日午前七時十分 八重山局発
五月ニ八日午前十時 本部着

発信者 宮古島司、同警察署長
受信者 海軍部

本月二十三日午前十時頃、
本島慶良間間中央ニテ軍艦四十余隻、
柱、二、三、
煙突二、三、
船色赤ニ 余ハ桑色ニテ、三列ノ体系ヲナシ、
東北ニ進航シツツアリシガ、
内一隻ハ東南ニ航行スルヲ認メシモアリ。

但シ、船旗ハ不明。右、報告ス。

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

実際には、同じく28日午前4時45分に、海軍に徴発されていた
日本郵船の貨客船「信濃丸」が、「敵艦見ユ」の文句で有名な、
「敵艦203地点ニ見ユ0445」を打電し、これが海軍軍令部が
確認した最初のバルチック艦隊発見の報告となりました。

久松五勇士の報告が軍令部に着いたのは、午前10時なので、
約4時間遅れです。

つづく
937本当にあった怖い名無し:2011/02/08(火) 11:17:15 ID:AEw+/y1U0
けれど、いまどきの「自分さえよければ」という考えからは、
絶対に、絶対にこんなにたいへんな久松五勇士のような行動は
できないです。

彼らが15時間もかけて、荒海を手漕ぎ船で乗り越え、さらに
陸にあがって5時間も駆けに駈けたのは、彼らがたとえ本土から
遠く離れた島の漁師であったとしても、公に奉じるという
国家意識を明確に持っていたからであると断言できます。

戦前は、彼ら久松五勇士の物語は学校の教科書に掲載され、
日本本土だけでなく、満州や台湾、パラオ、フィリピン、
インドネシアなど、日本が統治した諸国の教科書でも広く紹介されました。

ところが久松五勇士に関する記述は、戦後GHQによる干渉が
はじまると、すぐに教科書に、真っ黒に墨を塗られ、以後、
教科書から完全に姿を消してしまいます。

以下省略
2011年02月07日
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