政治はオカルト

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375自治スレでローカルルール他を議論中
◎B級戦犯 平手嘉一大尉(8)
◇日本軍に捕らえられた捕虜達は?
 前号では『戦陣訓』をレポートしましたが、今号は太平洋戦争で日本軍に
 捕らえられた捕虜達がどのように扱われたか、次に林博史著『BC級戦犯裁判』
から要点を拾ってみましょう。
 
「アジア太平洋戦争で日本軍の捕虜になった連合軍将兵は約35万人にのぼる。
そのうち29万人が開戦後6か月以内に捕まった者である。このなかで約15万人が
イギリス、アメリカ、オランダ、オーストラリア、ニュージーランド、カナダの
本国軍将兵だった。残りはインド人やフィリピン人など植民地軍で、かれらは
日本への協力を宣誓して釈放され、日本軍が編成したインド国民軍に編入されたり、
あるいは労働力として日本軍に配属され太平洋の島々に送られたりした。
なかにはシンガポールで捕まったマレー人や中国人捕虜のように日本軍への協力を
拒否して処刑された者もいた。

 中国でも長年の戦争のなかで大量の捕虜がいたはずだが、日本軍は中国では
捕虜の存在そのものを認めず俘虜収容所も設けなかった。日本軍に捕らえられた
中国軍将兵はただちに処刑されるか、労務者として使われたうえで殺されたり
釈放されたりした。花岡鉱山で強制労働させられていた中国人の多くはこうした捕虜だった。」
 ここで挙げられている「花岡鉱山」を筆者が調べたところ、秋田県大館市にありました。
そこに国民軍捕虜を含む968人が強制連行され(途中7人死亡)、鹿島組の管理下に
満足な食事も与えられず、河川改修等の過酷な労働で137人が死亡しました。戦争末期、
昭和20年(1945)6月30日、中国人達は絶望から蜂起し、失敗、逃亡者は警官・消防団員・
在郷軍人らに捕らえられ、拷問等で約100人が殺され、同年10月までに合計で418人が
死亡したとされています。この中国人強制連行に関連して、当市での実例を挙げると
留辺蘂イトムカ水銀鉱山に、戦時中、中国人1,090人が送り込まれ、27人が死亡したといわれています。