政治はオカルト

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371自治スレでローカルルール他を議論中
26 黄 黄城陽 40.6.2 「治安粛正」の掃討作戦で家宅捜査中、新婚妻を強姦しようとして抵抗され、衣服を剥ぎ取り下腹部から刺殺。 1
27 寿光 牛頭 40.6.23 女子青年を見つけると凌辱、女子青年十数人を守ろうとした老婆を凌辱した後、裸にして十字路にさらす。 多数
28 寧津 李満庄 41.1.16 200余人の婦女を学堂に監禁して凌辱。14歳の少女を輪姦後、縛ってトウモロコシ殻で焼殺する。 200余
29 掖 朱盤溝 41.2.22 抗日自衛像員が日本兵を殺害した報復に村を掃討、病気で避難できずに畑小屋に隠れていた主婦を強姦刺殺。 1
30 平度 楊家 41.4.16 女教師を捕え、県城に連れ帰り、熱したスコップを胸に押しつける。2人の女子工作員を拠点に連行、裸にして、焼きゴテを全身に押しつけ、最後は射殺。 9
31 東明 許庄 41.5.5 妊婦を強姦しようとしたが、老母とともに抵抗したので2人を射殺、陰部と乳房を刀でえくり、胎児も出す。 2
32 掖 尚家山 41.9.30 同村にあった八路軍の抗日 民衆運動幹部訓練所を急襲、訓練生の男子は建物に開 じ込めて焼死させ、女子訓練士は引きずり出して強姦した後、
                火に投げ入れて焼死させる。20歳以下の女 子訓練土6人、男子2人を拉致して連行。 10余
33 文登 営南 42.3.26 農家に隠れていた若い女性5人を強姦、負傷して動けない18歳の女子の衣服を剥ぎ取り、乳房、下腹部を突き刺して惨殺。19歳の女子を輪姦して殺害。 8
34 ●城 箕山 42.4下旬 付近の国民党軍に損害を受け報復、主婦の乳房と下腹部を割いて殺害、孫の女児を刀で突き刺して投棄。 数人
35 昌邑 30余村 42.5.18 4日間にわたり、30余か村で「治安掃討」作戦を展開、青壮年751人(男646人.女105人)を連行、その内約500人が虐待により身体を損ねたところを
                家族が身代金を払って連れ戻す。200余人は済南に送られ、さらに76人が東北の炭鉱へ強制迫行され、6人が逃亡したほか全員死亡 。 多数







372自治スレでローカルルール他を議論中:2010/10/20(水) 05:02:55 ID:rSx2lexL0
36 寿光 清水泊 42.6.9 掃討作戦中、白昼、女子青年を捕まえては凌辱し、最後には殺害。 多数
37 ? 東節 42.7.12 民兵が日本軍のトーチカを襲撃したことへの報復、凌辱に抵抗した婦女を生き埋めにする。42人の村民を拉致して身代金を要求、支払えなかった6人を殺害。 数人
38 菜蕪 雲鳳 42.8.29 抗日根拠地への掃討作戦中、14歳の少女を輪姦して死なせる。鍬を振り上げて娘を助けようとした父親も刺殺。分娩3日後で避難できなかった主婦を輪姦殺害。 数人
39 乳山 馬石山 42.11.23 八路軍への「冬季大掃討作戦」中、19歳の女子を陵辱した後、殺害。 数人
40 海陽 郭城 42.11.27 民兵に痛めつけられた対日協力者が日本軍を案内して報復、山洞に姉妹を発見して妹を段殴り殺し、姉を強姦、ショックで
                    後に死亡させる。防空壕に隠れていた30人を捕縄、中から女性6人を煙台に連行して、全員陵辱、1人の母親が泣き叫んで娘にとりすがるのを銃で撲殺。 8
41 蓬菜 大谷家 42.12.14 掃討作戦中、青壮年80人を煙台に連行、東北の炭鉱へ強制連行、婦女100余人を陵辱 100余
42 梁山 前集 43.8.5 数か村へ報復の掃蕩作戦中、37人の婦女を強姦。 37
43 単 辛羊廟 43.9上旬 抗日根拠地への掃蕩作戦中、婦女会長を裸にして、乳頭
に電線を繋ぎ,感電死させる。 数人





373自治スレでローカルルール他を議論中:2010/10/20(水) 05:05:04 ID:rSx2lexL0
44 ?澤 馮庄 43.10.18 衆目注視の中で25歳の婦女を輪姦、陰部にコーリャン 殻を挿入、最後は刺殺 1
45 肥城 安駕庄 38.1-44.9 安駕庄周辺9か所の拠点の日本軍は147人の婦女を強姦・輪姦、被害者は70余歳の老整から8、9歳の少女 まで、その内14人が死亡。 147
46 済南 新華院 44.6 済南に大規模な日本軍施設「新華院」が作られ常時2、3千の捕虜を収容。脱走を試みた男女の捕虜20余人を
                裸にして男子は刺殺、女子は軍用犬に陰部を食いちぎらせてから下腹部を裂く。 数人
47 臨邑 姜坊子 44.11.2 村に悪事にきた日本兵に対して民兵が発砲したことに報復して村を襲撃、多くの婦女を凌辱。 多数
48 泗水 戈山庵 45.2.5 八路軍が泗水城の日本軍襲撃したことへの報復、実家に帰っていた妊婦の腹を割き9か月の始児を引き出す。婦女30余人を八路軍家族と見てコーリャン殻で焼殺。 1
49 荏平 張家楼 45.3.31 抗日根拠地の村を襲撃、村民333人を殺害。追跡した嫁と妹が井戸に身を投げたのを石を投げて殺害。 2
50 諸城 小岳戈庄 45.7.3 村の自衛隊隊員を殺害、夫を殺害した後、新婚妻を裸にし
て踊りを強要、拒絶したので輪姦して殺害。

T 加害資料と被害資料による性犯罪の証明

 日中全面戦争期の中国戦線における日本軍の戦争犯罪としての性犯罪について、その一端を拙稿「中国戦線における日本軍の性犯罪−河北省・山西省の事例−」(『季刊戦争責任研究』第13号)および
 同「日本軍の残虐行為と性犯罪‐山西省盂県の事例−」(同前、第17号)にまとめたことがある。前者は、季秉新・徐俊元・石玉新主編『侵華日軍暴行総録』(河北人民出版社、1995年)に収録・
 記録された河北省と山西省における日本軍の残虐・虐殺事件の中から、婦女凌辱が記述されている事例を抜粋して整理したものであった。本稿はその続編として山東省と湖北省における事例を整理した。
 山東省と湖北省を選んだのは、本誌『季刊中帰連』に掲載された六編の元兵士の証言記録が、両省においてなされた性犯罪行為を告白しているものとを照合させるためである。





374自治スレでローカルルール他を議論中:2010/10/20(水) 05:18:04 ID:rSx2lexL0
前掲拙稿で書いたように、日本軍将兵が残した記録・証言には、中国民衆を殺害した、放火、略奪したという類の不法・残虐行為については、多く書かれたり、語られたりしているが、
 性犯罪である婦女凌辱行為については、それが広範におこなわれていたにもかかわらず、自らの体験を記したり、告白したりする元兵士は例外出にしか存在しない。
 それは、性犯罪が平和な日常生活においては重罪にあたるだけでなく、犯した者の人間性、人格、理性が疑われ、市民的名誉を完全に失うことになるように、戦争中の性犯罪を記録・
 証言した元兵士も周囲からそれに準じた道義的・精神的制裁を受ける可能性があるからである。

 こうした状況を考えると、本誌の元兵士の証言記録は貴重である。本稿は、被害者の側の記録資料を整理したものであるが、記載されている犯罪行為の内容があまりに残虐非道で、非人間的であり、
 野蛮で猟奇的であるので、被害者側中国農民の噂や推測を加えた誇張や作り話の可能性もあるのではないかと疑ってみたくなったほどである。しかし、それらが事実としてあり得たことを、
 本誌の加害者側の元兵士の証言が証明しているのである。加害者側の資料と被害者側の資料が内容的に一致すれば、歴史事実としてあったことが証明されたといえよう。その意味で、本誌特集号は、
 日本軍の性犯罪の事実を解明するうえで高い歴史資料的価値を持っている。

 


375自治スレでローカルルール他を議論中:2010/10/20(水) 05:19:00 ID:rSx2lexL0
◎B級戦犯 平手嘉一大尉(8)
◇日本軍に捕らえられた捕虜達は?
 前号では『戦陣訓』をレポートしましたが、今号は太平洋戦争で日本軍に
 捕らえられた捕虜達がどのように扱われたか、次に林博史著『BC級戦犯裁判』
から要点を拾ってみましょう。
 
「アジア太平洋戦争で日本軍の捕虜になった連合軍将兵は約35万人にのぼる。
そのうち29万人が開戦後6か月以内に捕まった者である。このなかで約15万人が
イギリス、アメリカ、オランダ、オーストラリア、ニュージーランド、カナダの
本国軍将兵だった。残りはインド人やフィリピン人など植民地軍で、かれらは
日本への協力を宣誓して釈放され、日本軍が編成したインド国民軍に編入されたり、
あるいは労働力として日本軍に配属され太平洋の島々に送られたりした。
なかにはシンガポールで捕まったマレー人や中国人捕虜のように日本軍への協力を
拒否して処刑された者もいた。

 中国でも長年の戦争のなかで大量の捕虜がいたはずだが、日本軍は中国では
捕虜の存在そのものを認めず俘虜収容所も設けなかった。日本軍に捕らえられた
中国軍将兵はただちに処刑されるか、労務者として使われたうえで殺されたり
釈放されたりした。花岡鉱山で強制労働させられていた中国人の多くはこうした捕虜だった。」
 ここで挙げられている「花岡鉱山」を筆者が調べたところ、秋田県大館市にありました。
そこに国民軍捕虜を含む968人が強制連行され(途中7人死亡)、鹿島組の管理下に
満足な食事も与えられず、河川改修等の過酷な労働で137人が死亡しました。戦争末期、
昭和20年(1945)6月30日、中国人達は絶望から蜂起し、失敗、逃亡者は警官・消防団員・
在郷軍人らに捕らえられ、拷問等で約100人が殺され、同年10月までに合計で418人が
死亡したとされています。この中国人強制連行に関連して、当市での実例を挙げると
留辺蘂イトムカ水銀鉱山に、戦時中、中国人1,090人が送り込まれ、27人が死亡したといわれています。



376自治スレでローカルルール他を議論中:2010/10/20(水) 05:19:43 ID:rSx2lexL0
 「日本は大量の捕虜を現地の俘虜収容所だけでなく、日本本土や朝鮮、台湾、上海などの
俘虜収容所に送った。輸送船で移送する際に、熱帯地方にもかかわらず船倉にすし詰めにされ、
移送中にも多くの犠牲が出した。/捕虜を移動させる際に1万数千人が死亡したフィリピンの
『バターン死の行進』は特に悪名高い。これは1942年4月、バターン半島で捕虜にした米軍と
フィリピン軍将兵、計7万6000人に100キロ以上を炎天下、徒歩で行進させ、数か月に及ぶ戦闘での
疲弊に加え、飢餓や病気、日本兵による暴行によって多数の犠牲が出た事件だった。」

 「日本は捕虜の『無為徒食』を許さないという方針を取り、各地で捕虜を強制労働に従事させた。
きわめて乏しい食糧や医薬品、劣悪な生活環境、監視員による日常的な暴行、厳しい強制労働のなかで
多くの捕虜が倒れた。各国の捕虜団体の調査によると、上記の6か国の捕虜14万8711人のうち4万246人、
28.5パーセントが死亡したのである。ナチス・ドイツの捕虜となった英米将兵の死亡率が7パーセント、
シベリアに抑留された日本兵の死亡率が約10パーセントであったことと比べても、きわめて高い死亡率だった
(油井大三郎・小菅信子『連合国捕虜虐待と戦後責任』)。」(ただし、別の資料を見ると、ナチス・ドイツでは
ソ連軍捕虜は別扱いで、捕虜570万人のうち330万人が死亡したと言われ、ここでも「人種的偏見」が
捕虜の運命を大きく左右していたことがわかります。)
 大日本帝国がこんなに多くの捕虜達を殺した事実を、今でも多くの日本国民は知りません。反対に英米で





377自治スレでローカルルール他を議論中:2010/10/20(水) 05:23:53 ID:rSx2lexL0
強制労働の最悪例として有名なのが、筆者が子供の頃に観た昭和32年(1957)製作の映画『戦場にかける橋』の
題材で、昭和17年(1942)10月から始まった泰緬鉄道建設です。
 その「泰緬鉄道とは、タイのノンプラドックからビルマのタンビュザヤまでの415キロを結ぶ鉄道で、
大本営の命令によりわずか1年たらずの突貫工事で完成した。熱帯の山岳地帯のジャングルでの作業は
困難を極めたが、それに加えて劣悪な宿舎や貧困な食糧・医薬品などの状態のなかで過酷な強制労働に
駆り立てられ、日本兵からも度重なる暴行を受け、多くの犠牲を出した。泰緬鉄道建設に駆り出された連合軍捕虜
約6万1800人のうち約1万2300人、アジア人労働者20万人中4万2000人(日本側推定)、
あるいは7万4000人(イギリスの推定)が死亡した。まさに『死の鉄道』であり、日本軍による捕虜虐待の中でも
とりわけ非人道的なケースとしてしられている。」
 「こうした捕虜虐待の情報は、戦争中から連合国にさまざまなルートで伝わっており、連合国はくりかえし
日本に抗議をおこなっていた。ポツダム宣言においても『吾等の俘虜を虐待せる者を含む一切の戦争犯罪人に対しては
厳重な処罰を加へらるべし』と捕虜虐待を明示して、その責任者の処罰を宣言していた。」
(以上の引用は、全て『BC級戦犯裁判』より)






378自治スレでローカルルール他を議論中:2010/10/20(水) 05:28:32 ID:rSx2lexL0
1946年12月19日、東京
 東京戦争犯罪裁判でアメリカ人検察官T.F.E.マーネーン中佐の質問を
受ける豪陸軍第8師団業務団のウィリアム・ヘクター・スティチプウィッチ准尉。
スティチプウィッチ准尉は1942年2月15日にシンガポールで日本軍の捕虜となり、
後に北ボルネオのサンダカン捕虜収容所に入れられた。終戦間際に、サンダカン
捕虜収容所の捕虜はそこから260キロ離れたラナウへの移動のため、強制的に行進させられ、
この間に大多数の捕虜が死亡した。1945年初期に生存していた2,500人と推定される
豪州人と英国人捕虜の内、終戦まで生き残ったのはわずか6人の豪州兵だけで、
スティチプウィッチ准尉はその1人である。東京戦犯裁判の際に、彼は日本軍による
捕虜の虐待と拷問について、サンダカン捕虜収容所内で、またラナウへの行進の間と
ラナウ到着後に彼が目撃したことを証言した。彼の証言によってサンダカン捕虜収容所の
>>76
元日本人監視兵数人が有罪と確定された。

>>76
林博史著『BC級戦犯裁判』からの引用だからですw

この本は連合軍の裁判記録を調査してかかれたものです
頭大丈夫ですか?w





379自治スレでローカルルール他を議論中:2010/10/20(水) 06:38:14 ID:rSx2lexL0
1943年頃、ビルマ、ロンシ
 ビルマ・タイ鉄道での捕虜の葬儀。14ヶ月以上にわたる鉄道の建設工事で
 61,000人の捕虜の内およそ12,400人(英国人6,318人、オランダ人2,490人、
 豪州人2,815人)が命を失った。彼らの大多数は栄養失調、病気、日本人と
 朝鮮人監視人による虐待で死亡した。タイのヘルファイアー峠での切削工事の際には、
 68人(推計)の豪州人捕虜が殴り殺された。

AWM P00761.012 1943年頃、ビルマ・タイ鉄道
 ビルマ・タイ鉄道沿いの捕虜収容所にある病院の切断手術用病室。
 病院といっても竹造りの小屋である。捕虜の手足の切断は、主に鉄道建設作業中に
 受けた外傷が化膿し、治療しようのない熱帯性潰瘍として広がっていった結果による。

AWM P01433.033 1945年、タイ
1942年から1943年のビルマ・タイ鉄道建設の間、捕虜監視兵を務めたオカダ伍長。
 オカダは「死の医者」として知られた。彼の虐待方法の一つは、病気と報告した捕虜を
 木刀で殴ることであった。終戦後、彼はその残虐行為により戦犯として裁判にかけられ、処刑された。

1945年、タイ、ナコムパットン
病院の小屋にいるやせ衰えた原地民の患者。1942年から1943年のビルマ・タイ鉄道建設の際、
およそ27万人のアジア人労働者が、日本軍によってビルマ、インドネシア、マレーその他の地域から
ほぼ強制的に連れてこられた。彼らの収容所の環境は劣悪で日本軍から提供される医療品も
無いに等しかった。その結果、彼らの内72,000人が死亡したとされるが、死者はさらに多く
92,000人に上るという別の調査もある。




380自治スレでローカルルール他を議論中:2010/10/20(水) 06:40:01 ID:rSx2lexL0
【質問】
 南京大虐殺では結局,何人虐殺されたんですか? 諸説入り乱れて良く分からんのですが・・・

 【 序 】
 まず最初に心得ておくべきは,軍事板では南京虐殺やホロコーストについての話題は好まれない,ということである.
 これらは既に戦史の域を離れてプロパガンダの道具と化しており,プロパガンディストの罵り合いに発展し易いからである.
 「アンネの日記」の項でも述べられているように,細かい部分での議論は専門家に任せたほうがよろしい.
 素人が適当に議論の端っこだけつかまえて,討議しようったって,水掛け論の信仰告白にしかなりゃしない.
 もし専門的に討議したいのだったら,BBSで不毛の論争を繰り返すよりも,大学の史学科に入るなど,相応しい場を求めた方がよろしい.
 まあ,人それぞれの人生だが….

 【回答】
 さて,その南京虐殺ですが,「幻」説から「30万人」説まで,外交的意図も絡んで諸説入り乱れており,現在も真相はよく分かっていません.

 ただし,虐殺否定と30万人説は,完全に否定されているようです.

<捕虜や便衣兵を揚子江沿岸に連行して射殺・刺殺した件に関して>

 まず,虐殺否定説では,その論拠である「陸戦ノ法規慣例ニ関スル規則」によって,その殺害は交戦の延長としての戦闘行為,そして,
 便衣兵は捕虜の資格がないので殺害しても不法殺害にならない,としている点.
 これは,武装解除している捕虜・便衣兵を自己の管理下に置いていながらそれを殺害するのは,戦闘の延長とは言えず,叛乱を
 起こしていない限り,不法殺害となる.
 また,第一線部隊ではその処断権限はなく,軍法会議あるいは軍律会議の判決により処断すべしと言う,国際的慣習であり,現に上海派遣軍,
 中支那方面軍,第十軍に軍律会議があるので,勝手に処断できないはず,と言う論旨.

 また,下関付近での包囲撃滅戦,揚子江を船や筏で逃げる兵士を射殺したのは,ハーグ陸戦規則の第23条ハ項を根拠にしているが,これは,
「武器を捨てまたは自衛の手段尽きて降を乞える敵を殺傷すること」を禁じており,降伏の意思表示を示さずに逃亡する敵兵はこれに当たらない,としている.


381自治スレでローカルルール他を議論中:2010/10/20(水) 06:40:48 ID:rSx2lexL0
 その人数に関しては,「南京地方法院検察処敵人罪行調査報告」での数値を論拠に,30万人説が打ち出されてはいるが,日本側の証言・史料からは,
 第9師団歩兵第7連隊の安全区掃討作戦による便衣兵殺害の6,670名,第16師団第33連隊の太平門,下関,獅子山付近の捕虜3,096名の殺害,山田支隊の
 幕府山付近に於ける捕虜など数千名,第十六師団第30旅団が南京西部地区警備中に捕らえた敗残兵数千名,第114師団第66連隊第一大隊が雨花門外で
 捕らえた捕虜1,657名をそれぞれ殺害しており,日本側は都合20,000名であり,民間人の死者は,金陵大学のSmythe教授の調査によって(
 但し,これは推計の範囲を出ないと注記している)南京市部における暴行死者2,400名,江寧県の被殺者9,160名.

 これに加えて,第16師団歩兵第38連隊の捕らえた捕虜7,200名を南京に護送して収容.
 第6歩兵師団歩兵第45連隊第2大隊が5,500名の降伏捕虜を釈放,国崎支隊の歩兵第41連隊が,2,350名の捕虜を武装解除後,釈放.
 また第16師団歩兵第30旅団が2,000名の便衣兵を収容している.
 この何割かが死亡したとしても….

>>102
だから出典ってわかる?w
ちゃんと引用先を出しています

あなたがそれを覆す資料を出せばいいのです

たいめん鉄道の死者数などねw