1943年頃、ビルマ、ロンシ
ビルマ・タイ鉄道での捕虜の葬儀。14ヶ月以上にわたる鉄道の建設工事で
61,000人の捕虜の内およそ12,400人(英国人6,318人、オランダ人2,490人、
豪州人2,815人)が命を失った。彼らの大多数は栄養失調、病気、日本人と
朝鮮人監視人による虐待で死亡した。タイのヘルファイアー峠での切削工事の際には、
68人(推計)の豪州人捕虜が殴り殺された。
AWM P00761.012 1943年頃、ビルマ・タイ鉄道
ビルマ・タイ鉄道沿いの捕虜収容所にある病院の切断手術用病室。
病院といっても竹造りの小屋である。捕虜の手足の切断は、主に鉄道建設作業中に
受けた外傷が化膿し、治療しようのない熱帯性潰瘍として広がっていった結果による。
AWM P01433.033 1945年、タイ
1942年から1943年のビルマ・タイ鉄道建設の間、捕虜監視兵を務めたオカダ伍長。
オカダは「死の医者」として知られた。彼の虐待方法の一つは、病気と報告した捕虜を
木刀で殴ることであった。終戦後、彼はその残虐行為により戦犯として裁判にかけられ、処刑された。
1945年、タイ、ナコムパットン
病院の小屋にいるやせ衰えた原地民の患者。1942年から1943年のビルマ・タイ鉄道建設の際、
およそ27万人のアジア人労働者が、日本軍によってビルマ、インドネシア、マレーその他の地域から
ほぼ強制的に連れてこられた。彼らの収容所の環境は劣悪で日本軍から提供される医療品も
無いに等しかった。その結果、彼らの内72,000人が死亡したとされるが、死者はさらに多く
92,000人に上るという別の調査もある。
http://ajrp.awm.gov.au/ajrp/ajrp2.nsf/d38294366b52191fca2565df00041b06/f514bc6663409732ca256bd00013f76c?OpenDocument