神秘の宝石騎士団2

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72本当にあった怖い名無し
 「日本は大量の捕虜を現地の俘虜収容所だけでなく、日本本土や朝鮮、台湾、上海などの
俘虜収容所に送った。輸送船で移送する際に、熱帯地方にもかかわらず船倉にすし詰めにされ、
移送中にも多くの犠牲が出した。/捕虜を移動させる際に1万数千人が死亡したフィリピンの
『バターン死の行進』は特に悪名高い。これは1942年4月、バターン半島で捕虜にした米軍と
フィリピン軍将兵、計7万6000人に100キロ以上を炎天下、徒歩で行進させ、数か月に及ぶ戦闘での
疲弊に加え、飢餓や病気、日本兵による暴行によって多数の犠牲が出た事件だった。」

 「日本は捕虜の『無為徒食』を許さないという方針を取り、各地で捕虜を強制労働に従事させた。
きわめて乏しい食糧や医薬品、劣悪な生活環境、監視員による日常的な暴行、厳しい強制労働のなかで
多くの捕虜が倒れた。各国の捕虜団体の調査によると、上記の6か国の捕虜14万8711人のうち4万246人、
28.5パーセントが死亡したのである。ナチス・ドイツの捕虜となった英米将兵の死亡率が7パーセント、
シベリアに抑留された日本兵の死亡率が約10パーセントであったことと比べても、きわめて高い死亡率だった
(油井大三郎・小菅信子『連合国捕虜虐待と戦後責任』)。」(ただし、別の資料を見ると、ナチス・ドイツでは
ソ連軍捕虜は別扱いで、捕虜570万人のうち330万人が死亡したと言われ、ここでも「人種的偏見」が
捕虜の運命を大きく左右していたことがわかります。)
 大日本帝国がこんなに多くの捕虜達を殺した事実を、今でも多くの日本国民は知りません。反対に英米で