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糖質ですが:
「善き生き方」とは人によって多様であり、それを他人に押し付けるのは「邪悪な生き方」
に対する「聖戦」となってしまう。「理想の世界」を実現するための血みどろの闘争よりは、
両立しがたい神々が共存しうる、それほど高邁ではないが平和な社会を実現すべきである。
このような社会の実現は、人間にとっては自然発生するものではなく、ある種の「不自然な
選択」に支えられた人為的体制なのである。
このような国家においては、人々は「なにが人々の共通の利益になるか」を理性的に話し合う
用意がなければならない。逆に言えば、社会共通の利益が関わらない領域では、各自はその
究極の価値を自由に追求し、志を同じくする仲間と自由に結集する余地が保障されるべきである。
民主的政治過程を支える公共空間は、表現の自由が厚く保障され、多様な情報が行き交うこと
で始めて成り立つ。
グロティウスは、あらゆる人は自己保存の権利を持つし、理由もなく他人を傷つけたり、その
財物を奪ってはいけない、と言う二つの規範を受け入れるであろうとし、これを「自然権」と
呼んだ。人として生きる以上、受け入れざるを得ないものなのだ。
以上のように、ある社会がリベラルデモクラシーでありつづけるためには、価値観の分裂が
存在するか、それがどれほど深刻か、という事情と、当該社会のメンバーが、価値観の分裂
にもかかわらず、社会の共通利益について決定する公共空間を開拓・維持しようという意思を
どれほど強くもっているかに依存しているのだ。