神秘の宝石騎士団 27

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207糖質ですが
桃中軒雲右衛門(1873−1916)の生涯は実に興味深い。判例集では「岡本峰吉」と
称しており、父は結城家の家臣となっていたが、他にも「山本幸造」(父は上州高崎
出身の祭文語り)という説もあるのだ。芸能人生は「20代でこそいったん挫折するが、
30代では大活躍をし、40歳で芸能界の頂点に立ち、44歳で死没した」ということに
なる。
ここでいう「20代の挫折」とは、師匠の女房との姦通、だといわれ、このために宮崎滔天
の助けを得て九州での活動を余儀なくされている。しかし、1907年には大阪道頓堀の
中座に進出し、関西地方を席巻し、師匠の遺族や門弟に詫びて回って東京復帰を
果たしている。
復帰の舞台は本郷座で、歌舞伎座・新富座と並ぶ権威のある大劇場だった。この興行は
大成功で、5日目で「蔵入」(くらいり)したという。蔵入とは経費を取り戻すことで、6日
以降の入場料はすべて儲けとなる。その興行が27日間続いたのだ。
1912年にはついに歌舞伎座の舞台に立つ。彼の浪曲のレコード化が問題になるのも
無理はなかったのだろう。
そもそも「雲右衛門事件」とは、民法の不法行為の要件に「権利の侵害」という文言が
あることから「著作権法上の権利でなければ保護されない」とされた民法学の歴史の
一こまなのだ。今では「違法性」概念、あるいは「過失」概念の論争となっているものだ。