神秘の宝石騎士団 27

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明治期の東京の人口は明治11年に107万人、大正元年には276万人だったとされる。
大衆芸能は大劇場・小劇場・寄席を含めてのべ年間500万人が足をはこんだそうだ。
桃中軒雲右衛門が提示した「浪花節=義士伝=武士道鼓舞」のパターンは確立し、
日露戦争後を代表する芸能となる。昭和中期にいたるまで、映画と並ぶ大衆娯楽の王座
に浪花節(浪曲)はついた。
実際に、雲右衛門の浪花節は、彼と親交のあった玄洋社・国竜会系の壮士や大陸浪人
の感化を受けているともいわれ、雲右衛門と密接な関係のあった宮崎滔天も、国竜会の
内田良平と親交があったそうだ。
雲右衛門の義士伝ブームの背景には日露戦争後の不況や労働争議、暴動・大逆事件
などの社会不安があったことは確かであろう。