第72話【 神隠し未満 】 [ 1/3 ]
稲荷さんに行った。
午後1時頃、最寄り駅で電車を降りる直前。
「パァン!」
音がした。
左手にしていた、さざれ石のアクアマリンの数珠が弾け飛び散った。
ガラガラの車内。ほかの乗客が振り返るほどの音で。
どっかにひっかけた、って思った。
ちょっと緩めの糸周(いとまわ)りだったし。
ちょいと坂道になっている門前町を抜け、
強面(こわもて)のお狐さんの像を過ぎ、
願いの行方を占う石のある辺りを抜けて、
奉納された鳥居がずらりと並ぶところまで。
延々と続く丹塗り(にぬり)の鳥居。
見えない。
見えるのは、朱(あか)。 朱(あか)。 朱(あか)。
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立ち並ぶ鳥居の中を歩くものたち。
…足りない。
ああ。
音。
音か。
静寂(せいじゃく)が広がる。
「ここ、進んだら出られないなあ。」
「あの、二股に分かれた所。あの手前から完全に”ちがう”ところだ。」
なんてフッと思って。
途中、鳥居の隙間から左手に原っぱが見えた。
おあつらえ向きに古びたベンチまで置いてある。
急にそこに座りたくなった。
無性に懐かしくて、小さい頃に戻ったような、守られる感覚。
「座らなきゃ、座らなきゃ、座らなきゃ。」
「座ったら戻れる」って。
座ったら、妙に落ち着く。カバンの中からフルーツサンドイッチを取り出し、食べ、
ぼーっとして、山を背に流れる雲を眺めて。
気が付いたら午後4時をとうに回ってた。
3時間弱、そこに何もせず座ってたわけだ。
「ああ、もう、いいか。」そう思って、お山は登らずに引き返した。
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社務所の辺りにきた。ざわめきが広がった。
「音」が戻った。
あたかも朝に、いきなり幸せな夢の中から、かーちゃんの
スピードの乗った踵落(かかとおと)しで
優しく蹴り起こされた時と同じ覚醒感。
― 弾き飛ばされたのは、数珠ではなくて、自分だったのかもしれない。―
山にこもる趣味の知人に、そう、話したら
「ああ、お前とは合わないからだろ。よかったな、持ってかれなくて。
前日にお前の神さんにお参りしておいてよかったな。
異界だよ、あそこは。今もな。力がある。
話(ナシ)つけてくれた神さんにお礼言っておけ。」
と事も無げに言われた。
案外、神隠しって身近なのかもしれない。
【 了 】