神秘の宝石騎士団 26

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758糖質ですが ◆/dRpTBnZTC3y
353 名前: 糖質ですが ◆/dRpTBnZTC3y 投稿日: 2009/07/26(日) 03:28:23 ID:WF+N1IEB0
「法の概念」
・まず、法に関しては、事実としての法、という発想がありうる。人々は一定の状況でこのように
行動するであろう、などといった「行動の観察や意識の調査」を重視し、規範の効力の概念をもっぱら
経験的事実に即してとらえるのだ。こうした立場を「経験的法実証主義」と呼ぶことができる。
・一方、ルールないし規範としての法、という発想がある。新カント派の立場に立つケルゼンが
「存在と当為」という用語を用いて説明するものであるが、存在と当為は相互に還元することのできない
2つの基本的な思考様式であるとしつつも、「当為」は人に一定の行為をなすように向けられた意思作用
ではなく、その「意味」であるとする。当為はその意思作用の主観的な意味なのである。そして、その
主観的意味が上位の規範によって授権されている時にその意味は客観性を持ち、それを「規範」と
呼ぶ。このように、法の存在や妥当は分析的な判断という認識の問題であり、それらに対する評価
とは区別しなければならないとする立場を「分析的法実証主義」という。
では、「〜すべし」という法と「〜はよい」という評価を区別するとすれば、法哲学は長い間、法の概念と
正当性の概念の関係について争われてきたのである。
自然法論は、実定法が法であるために最低限満たさなければならない一定の価値や目的があるとした。
一方、分析的法実証主義は、公的機関や法律家が法をそのように運用しているという「距離をおいた
内的視点」、あるいは「合法的視点」から、法の正当性を見ている。
これに対して、自然法論や反実証主義の立場からは、それは結局「評価」ではないかと批判される。
いずれにせよ、法実証主義の立場からも、何らかの正当性の説明がなされなければならない、という
点が理解できればさしあたり十分である。
759糖質ですが ◆/dRpTBnZTC3y :2009/07/26(日) 04:34:54 ID:WF+N1IEB0
354 名前: 糖質ですが ◆/dRpTBnZTC3y 投稿日: 2009/07/26(日) 04:32:05 ID:WF+N1IEB0
「法の体系」
法の体系的自立性に関しては、その典型的見解は分析的法実証主義に見られる。
ケルゼンによれば、ある法規範が妥当するのは、それより上位の規範によって授権されている時
である。この授権の連関をたどって行けば、基本的には立法権限や手続きに関して規定した憲法
規範にいたる。この憲法に発する授権連関に位置づけられるもののみが妥当する法規範である。
こうして、法は道徳規範などの他の社会的行為の意味から明確に区別されて、ひとつの自立的な
体系を構成することになるのだ。
ハートの見解も基本的にこれと異ならない。「一次的ルール」「二次的ルール」に分けて論ずるのだが、
「一次的ルール」は命令や禁止を規定する行為規範であり、それは社会道徳などの諸ルールと
異ならない。しかし、これでは「何が妥当するルールであるか(認定のルール)」「ルールの変更は
どのようになしうるか(変更のルール)」「ルールの違背にはどう対処するか(裁決のルール)」という
3つのルールを決定する公的機関が必要であり、公的権限を創設・付与するルールが「二次的ルール」
であるとする。
そして、それらの法体系の中で重要なのが、何が法であるかを定める「認定のルール」であるとする。
ケルゼンは憲法規範も規範である以上、その妥当性が問われるとするが、価値相対主義の立場から
は、そのような規範は自然法のような何らかの実質を持つものではありえず、「おおかた実効的な憲法
に従え」ということだけを内容とする規範を想定するしかないとする。それが「根本規範」である。
ハートによれば、「認定のルール」はおおかたの人々の実践の中で事実的に受容されていればよく、
事実的な慣習によって支えられているという意味で実定的なルールであると考えられている。
760糖質ですが ◆/dRpTBnZTC3y :2009/07/26(日) 11:45:25 ID:avNeH6nD0
「法による諸正義と価値」
法的ルールや決定は妥当を要求しており、その要求はなんらかの理由に基づいていると考えられるが、
このことは、法がその理由をなす価値や目的を体現ないし追求していることを意味する。
ラートブルフによれば、法は共同体を秩序づける現実的な命令という側面を持つと同時に、評価規範
という側面を持ち、したがって価値関係的な現実と捉えられる。この法の概念はその価値関係性と
いう点において、まず正義という主要な価値理念を抜きにしては理解できないとされる。
その場合、正義は「等しきは等しく取り扱え」という形式的な意味に理解されている。そこでさらに、法は
その内容ないし実質的価値をその社会において目指されている「目的」から受け取る。そうした目的
としては、個人の自由を中心とする人格価値、国家共同体の存続を中心とする集団価値、そして個人と
国家の双方を超える文化価値の3つが挙げられる。
指摘しておきたいのは、正義においても、何をもって「等しい」とするかなどの具体的基準が必要である
が、こうした具体的基準をたとえばケルゼンのように「相対的でしかありえない」とすることが多い。
しかし、価値相対主義は「最後の言葉」ではないと考えられるし、この議論がそう簡単に放棄できる問題
ではないととらえられている。
配分的正義などは、社会の基本的な制度あるいは基本構造をどのように構想するかという問題にも深く
関わっている。さらに、政治的共同体としての統一性は、その共同体の社会的文化とも密接に結びついた
側面を持ち、したがって文化も法を通じて追求される社会の目的となる。近代以降の「国民国家」形成が、
言語政策や国民教育などの文化政策をともなう「幻想の共同体」形成という性格を持ったことは、このことを
示している。
761糖質ですが ◆/dRpTBnZTC3y :2009/07/26(日) 13:12:06 ID:avNeH6nD0
「価値相対主義と絶対主義」
正義も価値であり、相対主義的懐疑の対象となる。では、相対主義は「最後の言葉」なのであろうか。
フレンケナが価値相対主義を大きく3つに分けている。
・事実的相対主義・・人々や集団での価値観の多様性という「事実」を記述するもの。
・規範的相対主義・・価値観の相違や多様性を承認しようとするものであり、規範的主張を含んでいる。
・原理的相対主義・・価値観の相違や多様性は原理的に不可避であると主張するもの。
寛容の原理は、規範的相対主義の一つの例であり、リベラルな正義論は基本的にこのような価値の
区別に基づいている。
(続く)
762糖質ですが ◆/dRpTBnZTC3y :2009/07/26(日) 13:12:47 ID:avNeH6nD0
(承前)
原理的相対主義に関しては、たとえば価値をめぐる公共的対話などで、ある言葉を人々が発する場合
に、その発話は同様の感情を他人にも引き起こそうという試みがなされる。しかも、単なる好悪ではなく、
行為の善悪などの社会的評価が問題となる多くの場合には、たんに相手の心に因果的に作用して感情
を惹起するのみではなく、理由を提示することが必要となる。評価の言葉は最終的には普遍的な妥当
すら要求しており、それが理由に基づいて受容されうるということを前提としているのである。
また、原理的相対主義において、人々の信念体系の構成の相違に着目する「視座主義」というのがある。
個人レベルでは、その固有の経験を通じて形成された信念体系によって本人にも自覚しえないほど深く
規定されている。これは、集団レベルでもいえることなのである。言語や歴史・文化などである。
しかし、こうした視座主義も、独我論や分離主義をとらない限り、多元主義に近づかなければならない。
2つの信念体系を学習し、比較することは可能なのである。
このようなことから、価値相対主義は最後の言葉であるとは言えない。
ここで「概念」と「構想」の区別が有用であるとされる。正義という「概念」を論ずる場合は、概念を共有
しながらさまざまな論争をしている。正義の諸構想は様々であろう。概念は絶対的であっても、構想は
絶対的なものではありえないのだ。
人々は真摯に考えて主張する限りは、自己の正義の構想が普遍的に受容可能であることを主張しなけ
ればならない。しかし、他者の構想との対話は開かれていなければならない。これを「開放的絶対主義」
と呼ぶとすれば、対極は「閉鎖的絶対主義」であろう。だが、閉鎖的絶対主義が「最後の言葉」にはならない
であろう。
763糖質ですが ◆/dRpTBnZTC3y :2009/07/26(日) 14:42:44 ID:avNeH6nD0
366 名前: 糖質ですが ◆/dRpTBnZTC3y 投稿日: 2009/07/26(日) 14:40:00 ID:avNeH6nD0
「ロールズの正義論」
ラートブルフは法において追求される価値ないし目的を、法的安定性、正義、目的(社会目的)に
分類したが、これらのうち、同等処遇原理に限定されない正義が法にとって核心をなす理念である。
ロールズは正義における相対主義を退けるとともに、他方で普遍的妥当を主張する他の正義論、
とくに幸福最大化を社会目的として掲げる目的基底的な功利主義のそれを退けて、個々人の権利
を重視する権利基底的な正義論を構築することを試みた。
ロールズの立てた問題は、自分の特殊な関心や事情は知らないという状況を仮定したときに、自分
もそこに属することになるであろう社会の基本構造に関する正義原理(とくに善益と負担の分配に
関する正義原理)として、合理的な各人はどのようなものを選択するであろうか、というものである。
この仮説的な状況(「原初状態」と呼ばれる)は、全員一致の選択を導き出しうる、すなわち普遍的な
合意に値する結果をもたらしうると想定されている。
このような仮説的な選択状況で「無知のヴェール」を仮定したのは、道徳的に偶然な差異が社会的
経済的な分配に格差を生じさせることを避けるべきだと考えたのだ。
ロールズは、その正義論の第1原理において、市民的および政治的自由については、各人が、他人の
同様の自由の体系と両立する限りで、自由の体系を最大限度にまで持つ平等の権利を有することを
要求し、第2原理において、社会的経済的善益については、公正な機会均等の保障と、最も恵まれない
人々の境遇の最大化(「格差原理」)とを要請し、さらに第1の優先順位のルールにおいて、第1原理が
第2原理に(第2原理の中では機会均等原理が格差原理に)優先すべきであるとする。
764糖質ですが ◆/dRpTBnZTC3y :2009/07/26(日) 15:25:20 ID:avNeH6nD0
368 名前: 糖質ですが ◆/dRpTBnZTC3y 投稿日: 2009/07/26(日) 15:22:23 ID:avNeH6nD0
「ロールズへの批判」
サンデルは、ロールズの原初状態の人々が、人生の目的も来歴も、またその実現のための状況も
もたずに、ただ合理的な選択能力だけを持つ「負荷なき自己」であるとし、そのような人間観を前提と
する正義原理は、文化的倫理的な善の観念を共有する共同体の中で現に生きている「位置ある自己」
としての人々にとってほとんど意義を持たないとする。
マッキンタイアは、自由尊重主義を含めたリベラリズムの正義論が、ヨーロッパの倫理の歴史の中でも
近代に特有の文化的倫理、とりわけ「徳」の倫理を見失った文化的倫理を基盤とするものに他ならない
とする。リベラリズムも1つの伝統となっているが、しかし他の伝統と並ぶ「1つの」伝統に過ぎないこと
を強調するのである。
共同体論の観点からは、正義も伝統的な文化的倫理を有する共同体に生きる人々の徳として、あるい
は、共同善の維持・実現と結びついたものとして理解されなければならない。
共同体に生きる人々もその共同体の文化的倫理に埋没するのではなく、その文化を共同に、しかし
また個人的にも反省的に解釈しながら展開させていくことがその共同体の生命の源泉である。
このような文化の意義は、文化的マイノリティーの存在する政治的社会の正義原理を構想する上で重要
である。
キムリッカやラズによれば、人々の自由はそれを実質的に享受しうる基盤を必要とし、それは社会的
経済的なものだけでなく、言語や習俗などの文化的なものも含まれる。それゆえ、社会の基本構造
に関する正義の構想においては文化帰属性も考慮に入れなければならない。
しかし、キムリッカによると、これまでのリベラルな正義論では一国家一文化の想定が暗黙のうちに
存在し、文化的マイノリティーの存在が考慮に入れられていないとする。