【皇太子夫妻にまつわる怖い話】 第六十ニ話

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843本当にあった怖い名無し
・「徳」がつく天皇
 懿徳・仁徳・孝徳・称徳・文徳・崇徳・安徳・順徳の8人。
「徳」は儒学で最高の字であり、深く考えて威を張らない、民を安んじる、などの意味があるらしい。
懿徳天皇・仁徳天皇については文字通り「徳」という字で称えたのだと思われる。
称徳天皇は孝謙天皇が二回目に天皇になったときの諡号で、生前の称号に由来する。
この三人を除いては、本来ならば最高の称号かもしれない「徳」諡号であるのにもかかわらず、不幸の影が付きまとう。
孝徳天皇は中大兄皇子のクーデタで実権を失い憤死、息子の有間皇子を殺された。
文徳天皇は若くして死んだ上に暗殺説まである。これらの不幸を慰めるために付けられたのが「徳」諡号だったかもしれない(そういえば聖徳太子の子孫も皆殺しの目にあっている)。
さらにはっきりしているのが崇徳天皇以降だ。崇徳天皇は応仁の乱で敗れ、讃岐の地で悲惨な死に方をした。
安徳天皇は平清盛の外孫で、8歳にして壇の浦に沈んだ。順徳天皇は承久の乱に敗れ、佐渡に流されたまま亡くなった。
この3人は平安後期から江戸中期までの諡号が絶えた時代にあって、わざわざ例外的に諡号を贈られた天皇である。
彼らに贈られた「徳」諡号は、霊を慰め、怨霊化を防ぐために贈られた諡号であると考えられる。
「徳」をもって威を張るな、民を安んじてくれ、という願いがこめられていたのではないだろうか。
 面白いのが後鳥羽天皇。承久の乱の首謀者で、隠岐に流されて死んだ彼には、一旦「隠岐院」と追号がなされ、その後「顕徳院」と諡号が贈られた。
ここまでは崇徳天皇などと同じだが、その後さらに「怨霊を恐れて」という理由で「後鳥羽院」と追号を贈られている。奇妙な話だが、これは、これまで「徳」の字をつけた天皇が怨霊化している例が多い(と信じられていた)からだと思われる。
怨霊を鎮めるための「徳」が、いつの間にか怨霊を表す字になってしまったのだ。ここまで来るとなんだかわからない。そして、これ以降は「徳」が贈られた例はない。