引越しの終わったその日、僕は初めての一人暮らしに浮かれていた。
地方から大学通いのため都会に出てきて、そりゃあ不安はある。でも、それ以上の高揚感が僕を包んでいた。
6畳1間の古ぼけたアパート、とても城だと思えるような間取りではないけど、
それでもここから何かが始まるような予感がしていたんだ。
その日なかなか寝付けなかった僕は、2時ごろ歯を磨いていた。
そのとき、ふとガラスを横切る影。
後ろを振り向いても、何もそこにはない。洗面所から出て、狭い部屋を見回しても、何もない。
きっと、今日は疲れているんだなと思い、洗面所に戻った。
すると後ろから『クスクス……』という女の子の笑い声。
今度は、気のせいじゃない。
背中に走る悪寒。気温が急激に下がったような感覚。
僕は歯磨きも途中のまま洗面所を出ると、布団に包まり、顔だけを出して
きょろきょろとあたりに様子を伺っていた。
『クスクス……』
声は、部屋のどこから聞こえてくるのかわからない。
ぼんやりと薄暗い部屋の隅?さっきいた洗面所からだろうか?
それともすぐ近く……?そう、僕の後ろから……
「バーカ」
左の耳たぶの裏から、吐息まで感じられるような声を聞き、僕は気を失った。
とんでもないところに越してきてしまった。
僕は次の日、焦って引越しを考えたが、ただでさえ格安物件を中心に選択した財政状況では
そうもいかない。故郷の両親にいきなり心配をかけるのもためらわれた。
第一、僕はその姿を見ているわけではない。
血みどろの実像を見てしまったりしていたら冷静ではいられないが、
今の所脅かしてくるくらいじゃないか。
部屋に戻ってきた僕は、恐る恐る部屋の様子を伺った。
真昼間から現れるようならお手上げだけど、それはなかった。
でも、夜、布団に入った途端にそれはまたやってきた。
『なんで戻ってきた』頭に響いてくるあの声。
ふっと壁かけ時計に眼をやると、2時。
僕はまた布団に身をくるむと、うろ覚えの念仏を唱えた。
『そんなもん効くか、アホ』
声は幼く、冷たく、そして絶望的だった。
「たのむよ、僕は邪魔したりしないから。ただちょっと卒業まで住まわせてくれるだけでいいんだ」
家賃を払っているのは僕だなんてことは考えなかった。
僕は、家庭がそんなに裕福じゃないこと、こっちにはまだ友達もいなくて、頼れる人もいないこと、
そんなことを念仏代わりに訴えかけていた。
『……ふん、まあ退屈だったし、オモチャができたと思えばいいか……』
彼女はそんな風につぶやくと、ふっと気配を和らげた。
「いいの!?」
僕はかぶっていた布団を剥ぎ取ると、どこに向かうでもなく話しかけた。
返ってきた答えは
『うるさい』だった
僕は果たしてオモチャだった。期末のレポート提出に四苦八苦していると
『普段からやってないから今苦しむんだな、アホだ』
『今はじめて参考書を見ているのか、もう終わりだな』
『こんな子供に期待している親が不憫だ、荷物まとめろ』
そんなことを言って、僕をどこまでも追い詰める。
でも、最初感じたような圧迫感はない。僕は相変わらず友達は少なかったし、
バイトで遅くなることが多かったから、彼女がでる時間に起きていることも多かった。
僕は、奇妙なことに彼女によって救われている気がしてきていた。
……相変わらず、姿は見えないけれど。
そんな生活が続くうちに、僕にもそれなりに交友関係ができた。
彼女が怒るかな、とも思ったが、自分の部屋に友達を招いて飲み会をした。
その夜は僕一人になっても彼女はでてこなかった。
いまさらながらに薄気味悪いと思いつつも布団をかぶろうとしたら、テレビの上においていた
目覚まし時計が落ちてきて、したたかに頭に命中した。
「な、なにすんだよ」僕はさすがに怒って彼女に呼びかけた
『……あの女は誰だ』
予想外の質問だった、まさか、吉野さんが気に障ったのだろうか?
「サ、サークルの先輩だよ、もしかして彼女が嫌なのか?祓われちゃいそうな霊感があるとか?」
『ふうん、で、お前はあの女のなんだ』
わけがわからない。
「別になんでもない、単なる先輩だよ」
『……どうだか、とりあえず、あの女はもう呼ぶな、次に来たらあの女も巻き添えにする』
「わ、わかったよ」
それきり、その夜彼女は出て来なかった
どうにかなるもんだな、と思っていた。
あれから4年、そんな生活にも終わりが近づいていた。
なんとか卒論を書き終え、後は卒業を待つばかり。
4年間、なんだかんだでいつも近くにいてくれた彼女にもお礼を言おうと思ったのだが、
最近彼女は呼びかけても出てきてくれない。
寝ていると近くに気配を感じることはあったが、呼びかけようとすると気配を消した。
そしてついに引越しの日が来た。地元に戻って家業を継ぐつもりだった僕は就職活動もせず、
都会での生活にゆっくりと別れを告げていった。ただ、気になるのは彼女だ。もう、数ヶ月も現れていない。
厄介払いができてせいせいしているかな、と思うと少しさびしくなった。
空っぽになった部屋に入ると、やっぱり何の気配も感じられなかった。
僕はその部屋にペコリと頭を下げると、ドアを閉めた。
……なんだろう。
後ろから見られているような気配を感じ、後ろを振り返った。
僕の住んでいたアパートが何とか見えるくらいの距離。
僕の住んでいた部屋の窓、そこには確かに誰かがいた。
僕が振り返ると同時に後ろを向き、一瞬、その長い黒髪だけがたなびいた
それきり、窓には何も映らなかった
『何で戻ってきた』
懐かしいフレーズだった。
僕は親に頭を下げ、もう一度ここに戻ってきていた。
あれから数ヶ月、こっちでの就職を決め、またここを下宿先に選んだ。
その間、この部屋は埋まらなかった。まあ、やっぱり何かいわくつきなんだろう。
僕はその声には答えなかった。『お前が寂しくしているような気がして』
なんていったら怒られるのがわかっていたからだ。
『……物好きな奴』
とだけ言うと、彼女はふいっと気配を消した。
その夜、寝付いた頃。
僕は首にかかる圧迫感で、ふと眼を覚ました。眼を開けるでもない、そんなまどろみの中。
「……もう、さびしいのは……」
「……それならいっそ、こっちに……」
彼女の発する言葉に、なぜか恐怖は感じなかった。
僕はもしかしたら、ずっと彼女に取り憑かれていたのかもしれない。
首にかかる力は、もとより強くはなかったが、それがさらに弱まる。
「…………でも、できない…………」
僕の頬に、何か冷たいものが落ちる。
僕は、それでも眼を開けなかった。それが、今までの僕らのルールだったから。
かわりに、僕はそっと手を伸ばす。そこにいるであろう彼女に。
冷たい、でもどこか暖かいような、すべすべとした頬。彼女の手がそこに添えられた。
そして僕は「ただいま」と言った。
彼女の頬は一瞬で温かくなり、途端に手を振り払われた。
そして彼女の答えは
『気安く触るな、ばか』だった