170 :
160とか:
ここ数日、スレ主さん等などと問答を繰り返して明確になったことは、
この
>>1の考え方には、やはり致命的欠陥があるということ。
「行動の評価」をするならば、そこには絶対的に正しい公正な評価が存在しなければならない。
でも、例えば、生前に全く評価をされなかった芸術家が、死後高く評価され、
その作品によって多くの人々に癒しを与え、心を救ったとする。
実際、そういう芸術家は多い。
この場合、その芸術家の偉業は、死後数日間のその
>>1でいうところの評価の期間には、
評価しようがない。これは不公正と言わざるを得ない。
他にも
>>1の考え方には多くの盲点があるが、上記の点が一番わかりやすい点だと思う。
さらに言うと
>>161で
>災害にあう人は前世で災害にあう人々に対してなんの哀れみの感情も
>持たず 知るかよ あんなやつら みたいな心を持っていたので
>今度はつまり今世は 逆に馬鹿にした側に立たされたのです。
もしこれが真実だとしたら、
他人に害を加える行為の結果、つまり被害者は所謂因果応報の結果を受けているわけであって、
そうするならば、加害者の行為は正しい行為、ということになる。
もし、その加害行為が、因果の結果の必然であるならば、
行動する人間は、操り人形のごとく、必然的に加害行為をしている、と考えられるが、
ならば、ますます、その加害行為にネガティブな評価を与える事は不合理。
あやつり人形を罰するコトはナンセンス。
そして、この考え方を徹底していくならば、
そもそも、人間のあらゆる悪行をネガティブに評価することができなくなる。
他方、
>>161の
>すべてに原因がある 実はサリン事件にあった人などは
>前世で 宗教の教祖に騙され自殺した人がいたとしてその自殺した人に対して
>馬鹿じゃん 自業自得だよ といって馬鹿にしてなんの哀れみを持たない心の
>持ち主だったので 今世 自分が被害を受けるという立場に立たされたのです。
これは、もし
>>161が心からそれを信じていたとしても、
決してこのような場所で口にしてはいけない言葉だと思う。理由は言うまでも無い。
遺族や被害者がここを見ていたら、どのような気持ちになるか想像してみればわかる。
このような言葉を発するという時点で、その人間性に対して、
病巣を抱えているのでは?という非難を加えられても仕方が無いと思う。
実際、私も個人的に、大変申し訳ないのだが、
そのような言葉をここで記する人は、健康な心の持ち主であるとは思えない。
そして、そのような人と問答を繰り返す事に意義を感じなくなりました。
お時間を割いて丁寧に答えてくださった事には感謝します。