(官位)後漢三戦朝と石山幕府統合王朝(いる?)

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・弊スレは官職市場後漢三戦朝と室町幕府スレの統合王朝の為、
 三国志・戦国史に関する面白い事象を書き込んだ者には、
 その内容に応じて官位が贈与されます。
・弊スレの官位任命方式は、後漢と室町で離別されており、後漢の官位は
 相国署大司馬署符璽郎署都督中外諸軍事署録尚書事 親漢文王 蕎序
 ◆g/NeWOnF..が任命し、室町の官位は予め幕府か朝廷のどちらに仕える
 かを指定した上で、幕府なら征夷大将軍署源氏長者署従一位太政大臣
 近衛(源)朝臣蕎序◆g/NeWOnF..が叙任し、朝廷なら官職奉行の
 大和守護 松平恥児 ◆SbfyICekVM殿を通じた上で、征夷大将軍から
 官位が贈与されます。
・弊スレでの仕官には、必ずトリップと名前が必要です。もし何れか一つ
 でも欠けている場合は官位に叙任出来ませんので御了承下さい。
・ネタの質、量に応じて官位は贈与されるので、量が多ければ良いと言う物
 ではありません。
・荒らしは徹底スルーでお願いします。荒らしに話しかけてスレを混乱させた者も
 荒らしと同罪とする。
・スレが荒らし等に襲われた、あるいは襲われる危険性を孕んだ事態が生じた等、
 スレの緊急有事の際は下記の本部の方に避難して下さい。
 官職市場後漢三戦朝と室町幕府スレの統合王朝
 http://jbbs.livedoor.jp/study/6303/
・弊スレは一切他スレに勧誘コピペ等は貼りませんので、そのような事態が生じた場
 合、御スレの住人自ら通報して下さい。
・三戦共有の事象(戦国史・三国志)に関する議論は、下記の議論スレッドにて行います
 こ こ の ス レ ッ ド
 前スレ
 室町幕府【官位を与えるゾ&目指せ全国統一】
 http://hobby8.2ch.net/test/read.cgi/warhis/1121268272/

2本当にあった怖い名無し:2005/08/01(月) 03:37:46 ID:RGPcfWEq0
糞スレ。
103 名前: 親漢文王 蕎序 ◆g/NeWOnF.. 2005/07/17(日) 18:34:27

武田勝頼は武田信玄が代理の当主として後事を託した人間で、
武田信廉に画才に秀でてたり容姿が似てても、取るに足らん人間だと判断したんだね。
それに勝頼が生涯賭けても落とす事の出来なかった高天神城を陥落せしめているし、
美濃での信長軍との衝突でも勝利を収めている。
諸葛孔明と同じく、戦力差が開く前に叩いておきたかったのだろう。
決戦を望んだ。しかし信長の方が一枚上手で、短期決戦を望む武田勢を牽制しつつ、
謙信や北条を組み込みつつ包囲を狭めていこうとしたに違いない。
そうした状勢の不利に焦った勝頼が誘い出され、不利な状況で長篠で
刃を交え敗れたのであろう。
確かに北条勢が反旗を翻したのでは苦しい。
しかし、これも上越に兵を置いていたら間違いなく徳川に敗北するのが必定。
重臣からも家臣から君主に成り上がった勝頼を支持する者は少なく、
一番の人選眼を持っていた信玄が死んだんだから、もう後見してくれる人は居ない
木曽義康・穴山信君・小山田信茂らが小田川に寝返り、武田信豊・武田信廉ら身内も
逃げて行き、こうなればいよいよ収拾がつかず、ひたすら逃げ行くしかあるまい。
但しここは中国ではない。一回大敗すれば死あるのみだ。
かくして勝頼は敗れた。だが決して彼を迷将だとは呼べないだろう。
私自身も信玄の跡継ぎには勝頼が適任だろうと思うし、彼に勝る才覚の持ち主は
武田氏には居なかっただろう。
そう思えば、信繁が川中島で戦死しなければと悔いる思いだけが残る。
110 名前: 近衛蕎序朝臣 ◆g/NeWOnF.. 2005/07/17(日) 19:18:31

小早川秀秋は、秀吉の正室ねねの実兄木下家定の五男であったため
秀吉の養子として迎えられたが、秀頼を産んだ事で秀吉の寵愛を受けていた
側室の淀殿の謀略によって追放される。
そのような経緯があって小早川家を継いだ秀秋は、秀頼擁する淀側に味方した
くはなかったのだが、優柔不断な小早川は秀吉に恩を感じて処遇を迷っておった。
しかし、子が産まれない事で変わりにねねから寵愛を受けていた加藤清正が
東軍に味方した事によって実質上、ねねが東軍につき豊臣方に反乱するように
働きかけたのではと思われる。
関ヶ原合戦開始後も小早川秀秋は処遇に迷って松尾山に駐留していた所に、
家康側から本陣に向かって銃弾が放たれた。
普通の将なら誰しも西軍側に留まり、東軍には寝返る筈もないのに秀秋は東軍に
寝返った。
それは恐らく、ねねの怒号に聞こえたのであろう。
126 名前: 近衛蕎序朝臣 ◆g/NeWOnF.. 2005/07/17(日) 20:29:24

信玄は芋虫が嫌いだった
僅少数の兵で堅城を奪ったのは戦国史上、竹中半兵衛だけ
前田利家と織田信長、武田信玄と高坂弾正は不純な関係だった
周代の戦車は戦闘用じゃなくて指揮用
実は墨俣一夜城は小さい砦程度の簡単なもの
安国寺恵瓊は本能寺の変を予言していた
日光東照宮には明智光秀の桔梗の紋がある
足利義昭は京都追放後、毛利家に就いた
足利義輝は上杉謙信に鉄砲の制作方法を密かに教えている
細川政元は日本を牛耳り半将軍とまで呼ばれていたが、
寄行癖があった為、本気で空を飛べると信じており、何時も女を近づけず
そこら中を跳ねて回っていた。その為に養子を貰いすぎて細川家衰退の元となる。
東北源氏は戦国〜江戸時代まで長命な家が多かったが、
甲州源氏は早いうちに信長に敗れて滅びている
6本当にあった怖い名無し:2005/08/01(月) 03:43:12 ID:llsrwD/u0
128 名前: о丁児 ◆71izTCnSlI 2005/07/19(火) 01:16:20

今川義元の歯黒について、さらっと語る。

当時は風俗習慣の格が決まっていたから田舎大名が勝手に歯黒をつけて公家を真似ることは許されない。
足利歴代将軍(尊氏は除く)がお歯黒をつけていたのと同様、足利家の血をひく義元がお歯黒をつけることはきわめて政治的色彩のある行為である。
「次の天下は同じ足利家の血をひく、この義元よ」ぐらいの気概をもっていたのだろう
とにかく当時の人間で、歯黒をつける=柔弱、と考える者はほとんどいなかっただろう。
そんなことを知らない現代人が「武士のくせにキモスWWWWWWWだから負けるんだ」と断じることは極めて軽率と言わねばなるまい。

>>1殿、ぜひ官位を賜りたい。よろしくお頼み申す。
7本当にあった怖い名無し:2005/08/01(月) 03:43:48 ID:llsrwD/u0
141 名前: 九條殿@前関白 ◆1Ixlm5F0XU 2005/07/19(火) 16:43:50

о丁児殿はなかなか見識高いとお見受けしたでおじゃる。
羽黒・打掛・腰車ゆうて、お羽黒なんかとセットで殿上人の特権みたいなもんや
室町入っても五位より下のもんは徒歩におじゃるからな、
長尾の景虎は二回上洛してるけど、どっちやったか忘れたが
義輝公から腰車の許可もらってはるな。大内とか朝倉なんかももらってたはずにおじゃる
8本当にあった怖い名無し:2005/08/01(月) 03:47:12 ID:llsrwD/u0
152 名前: 九條殿@前関白 ◆1Ixlm5F0XU 2005/07/19(火) 22:26:12
>>126
>僅少数の兵で堅城を奪ったのは戦国史上、竹中半兵衛だけ
 叔父の安藤守就が主犯で竹中は付いてっただけやという・・・
>実は墨俣一夜城は小さい砦程度の簡単なもの
 「武功夜話」読むとそれはもう えげつないほど立派な城やったようにおじゃるよw
>安国寺恵瓊は本能寺の変を予言していた
 本能寺の変ゆうか信長が早期に没落するいう記述やったと思うぞよ
>足利義昭は京都追放後、毛利家に就いた
 鞆いうところに避離されとったいう話におじゃるな
9本当にあった怖い名無し:2005/08/01(月) 03:48:01 ID:llsrwD/u0
155 名前: 近衛蕎序朝臣 ◆g/NeWOnF.. 2005/07/20(水) 01:58:42

<僅少数の兵で堅城を奪ったのは戦国史上、竹中半兵衛だけ
>叔父の安藤守就が主犯で竹中は付いてっただけやという・・・
 安藤守就は竹中重治の甥で美濃三人衆の一人で、斎藤竜興に愛想を
 尽かしていたので、それを娘婿の竹中重治が見て稲葉山城奪取持ちかけた
 者で、主犯格はどうであれ、首謀者は竹中重治ですよ。
<実は墨俣一夜城は小さい砦程度の簡単なもの
>「武功夜話」読むとそれはもう えげつないほど立派な城やったようにおじゃるよw
 『武功夜話』ですか?今更そんな偽書持ち出してくる香具師なんて
 居たんですかw、現代では殆ど偽書として扱われており、
 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』では、ほぼ偽書とまで
 言われている代物ですよw
 明らかに前野家やそれに纏わる人々を持ち上げている、三国志で言えば
 三国志演義並みの偽書で、もはや史書とは言えません。
 それに現代で墨俣一夜城が見事な城だと考えている人は香具師以外存在
 しません。月日、人員、材料、敵地と言う点で明らかに砦しか作れないし、
 信長も砦のような物を作れと言っています。ソースは墨俣一夜城の築城おける
 全てのホームページです。下記参照  武功夜話Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A6%E5%8A%9F%E5%A4%9C%E8%A9%B1
<安国寺恵瓊は本能寺の変を予言していた
>本能寺の変ゆうか信長が早期に没落するいう記述やったと思うぞよ
 今時安国寺恵瓊も知らないんですか、安国寺恵瓊については、
 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』に「織田信長の本能寺の
 変による横死と、その家臣の羽柴秀吉による天下統一を予言していたという。」
 という文章が書かれています。下記参照 足利義昭Wikipedia
 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B6%B3%E5%88%A9%E7%BE%A9%E6%98%AD
<足利義昭は京都追放後、毛利家に就いた
>鞆いうところに避離されとったいう話におじゃるな
 そうです、どこも頼る所が無かったから反信長包囲網の毛利輝元の臣下の
 吉川元春を頼って鞆に避難したと言う事です。
 改めてこの勲功を上奏したいと思います。
10本当にあった怖い名無し:2005/08/01(月) 03:48:54 ID:llsrwD/u0
156 名前: 魔獣 ◆fIi1GribwI 2005/07/20(水) 14:41:52

大友宗麟の家紋

杏葉文様は西南アジア地方(シルクロード)から中国に流入したといわれ唐時代に
流行して馬具等の装飾になった物が日本に伝わったと考えられている。
キリシタン大名として海外にも興味を示していた宗麟ですが意外な事に一族は浄土宗が多かったようです。
浄土宗に杏葉を寺紋とする寺が多いのは宗祖の法然が大友一族の出身者が多いからです。
キリシタン大名として有名な宗麟の意外な話です

蒲生氏の家紋

租の秀綱は足利義公に従って敗走するも逃げ道がなくなった時一羽の鶴が
秀綱の旗をくわえて先導し秀綱のピンチを救ったとされる。
それ以降鶴紋を使用するようになったようです。
家紋ひとつにしてもいろんな逸話等があり結構楽しめます。

このようなネタは如何でしょうか?
11本当にあった怖い名無し:2005/08/01(月) 03:49:45 ID:llsrwD/u0
158 名前: 魔獣 ◆fIi1GribwI 2005/07/20(水) 16:28:21

真田信繁(幸村)の名前は父昌幸が主君の武田信玄の実弟の信繁に
あやかって名付けた話はあまり知られてませんよね?

武田信繁とは信虎が信玄に追放された後も信玄と不和にならず臣従し文武において兄を助けて
"武田の真の副将軍"として信玄の信頼厚く家臣領民の信望も非常に高かったようです。

武田信繁とは真田昌幸にとって次男の理想像だったのかも知れないですね。
12本当にあった怖い名無し:2005/08/01(月) 03:54:37 ID:llsrwD/u0
239 名前: 九條殿@前関白 ◆1Ixlm5F0XU 2005/07/21(木) 23:16:34
>>155
僅少数の兵で堅城を奪ったのは戦国史上、竹中半兵衛だけ
 小瀬甫庵いう語り師の書いた「信長記」からの引用におじゃるか
 物語としては面白可笑しゅうかいてはるから、それはそれでええ思うんでおじゃる
が史実として実際あったかどうかは、
世評はあんまし信用してへんようにおじゃるな
 その時代に小瀬は生まれてへんしw
 最も信頼に値する言われる大田牛一の「信長記」の記述を見ると
 「稲葉山御取り候事」いう段に
 「八月十五日、色々降参候テ飛騨川ノツヾキニテ候間、舟ニテ川内長島ヘ龍興退散」
 こんだけしか書いてへんでおじゃるよ
 も一つついでに、尼子経久も少人数で城奪っておじゃる

「武功夜話」については信用しておじゃらんのは同感におじゃる

恵瓊が本能寺を予見したという俗説はたしかにおじゃるな
恐らく下の書簡がその出所におじゃろうが「本能寺」という言葉は出てこないでおじゃるよ

 一筆申上候。京都之儀形の如くに調ひ、今日十二、備前岡山に至り罷り着き候(中略)
 一信長之代、五年三年者持たるべく候、明年辺者、公家などに成さるべく候かと見及び申し候、
   左候て後、高ころびにあをのけにころばれ候ずると見え申し候、藤吉郎さりとてはの者にて候
   面上之時、万々申し上ぐべく候、明日十三、吉田へ罷り下り候、吉田より万々申し上ぐべく候、
   此の由貴意を得候、恐惶謹言

   十二月十二日(天正元年)        恵瓊

   山県越前守殿
   井上又右衛門尉殿
本能寺を予見とは夢がひろがりんぐにおじゃる

13本当にあった怖い名無し:2005/08/01(月) 03:56:04 ID:llsrwD/u0
241 名前: 九條殿@前関白 ◆1Ixlm5F0XU 2005/07/21(木) 23:24:56

魔獣 ◆fIi1GribwI殿
 なかなかの智者とお見受けするでおじゃる
 >>156
 家紋に至っては麿は不案内におじゃるが、さりとて中々にして興味深い話におじゃる
 例えば蔦紋は、江戸期には葵を憚って蔦と成した家が多かったせいもあると聞いたことがおじゃるよ
 >>158
 それは知らなんだでおじゃる 幸村がもし古典厩の生前に元服しておじゃったら
 「繁」の字を頭に持ってきて烏帽子親にでもなってもらったでおじゃろうかw
 長男信之は信繁供養のために典厩寺を建立しておじゃるが
 真田は家をあげてよほどこの人のことを好いておったんでおじゃるなあ
14本当にあった怖い名無し:2005/08/01(月) 03:56:40 ID:llsrwD/u0
242 名前: 征夷大将軍従六位上大宰大監 近衛蕎序朝臣 ◆g/NeWOnF.. 2005/07/21(木) 23:39:55

>>239
これはこれは九条殿。しかし、予言というもので場所まで予言できる
とは思いません。
斎藤道三の予言も「我が子達は、いずれあのたわけの城門に馬を繋ぐ
ことになるだろう」と息子が滅ぼされる所までは予見していないし、
恵瓊のこれも信長が倒れて、秀吉が立つと予言したので本能寺の変を
予言したのではと考えても相違なく存じます。
15本当にあった怖い名無し:2005/08/01(月) 03:57:23 ID:llsrwD/u0
243 名前: 征夷大将軍従六位上大宰大監 近衛蕎序朝臣 ◆g/NeWOnF.. 2005/07/21(木) 23:45:33

>>141
将軍 足利義輝と言えば種子島時堯に鉄砲の製造技術を教えてもらい、
この製造法は誰にも漏らさぬようにと念を押されているのに、
こっそり上杉政虎(謙信)に製造法を教えていますな〜。
京都が荒れる中、余程武家との支援を取り付けたかったのですな〜。
16本当にあった怖い名無し:2005/08/01(月) 04:02:04 ID:llsrwD/u0
245 名前: 征夷大将軍従六位上大宰大監 近衛蕎序朝臣 ◆g/NeWOnF.. 2005/07/21(木) 23:57:06

ここからは当たり前の話になってきますが、大友宗麟は筑前守護に任じて
貰いたかったが為に鉄砲を義輝将軍に譲ったそうな。
それに足利義輝は剣豪将軍とまで呼ばれるほどの腕前の持ち主で、
当時有名な剣聖 上泉泰綱に新陰流の免許皆伝を貰っている程の腕前、
即位後は自分の代で天下を取り戻してみせるとは言ってみたものの、
領地多く無いは兵はいないはで実質的に不可能だったのですね。
余程自分の代で天下を建て直せないが不満だったみたいですね。
17本当にあった怖い名無し:2005/08/01(月) 04:02:56 ID:llsrwD/u0
246 名前: 九條殿@前関白 ◆1Ixlm5F0XU 2005/07/22(金) 00:00:55

従六位上大宰大監 近衛蕎序朝臣 ◆g/NeWOnF..殿
 >>239
 いずれ破綻することは宣教師の言からも読み取れるようにおじゃるな
 Wikiに具体的な場所を示す語句「織田信長の本能寺の変による横死・・・」が書かれてたもんで
 突っ込んでみたでおじゃるよ
 >>141
 兄貴が体育会系で弟が引きこもり気味の文通オタクと、まれに見るネタ兄弟におじゃるよなw
 あの二人が戦国の世に生を授かったのは歴史の妙と思わずにはいられぬでおじゃるw

18本当にあった怖い名無し:2005/08/01(月) 04:05:46 ID:llsrwD/u0
266 名前: 魔獣 ◆fIi1GribwI 2005/07/22(金) 16:47:32

九條殿官位ありがとうございます。

>>241で蔦紋について述べられていたので書き込みします。

蔦紋は生命力が強く、子孫繁栄・幸運を掴み取るなど縁起のいい家紋と言われています。
形がシンプルで描きやすいこともあり庶民から将軍家にも使われた家紋です。
八代将軍吉宗は徳川家の子孫が繁栄するように替紋としてこの「蔦紋」を使用したと言われてます。
他にも蔦紋で有名な大名としては藤堂家や松平家があります。
松平氏は将軍家のもともとの姓ですが全てが徳川氏を名乗ったわけではなく
分家はそのまま松平氏を名乗っていました。
徳川家・松平家ともに家紋は三つ葉葵だったのですが本家に配慮して多くの松平家は蔦紋に替えたようです。
庶民にも使われていた為、蔦紋には100種類以上あるようです。
今度は家紋以外の事も書き込もうと思います。

九條殿
蕎序殿
黒金兵卒殿
о丁児殿
若輩者ですが今後もよろしくお願いします。
19本当にあった怖い名無し:2005/08/01(月) 04:06:22 ID:llsrwD/u0
310 名前: 信濃介 黒金兵卒 ◆Y/2ry2CHHE 2005/07/23(土) 16:27:48

>>278
長尾景虎は最初の名前だな。
まさに虎のような勇猛ぶり。

上杉政虎は扇谷の上杉憲政の政を継いでいるのだな。

上杉輝虎は将軍足利義輝の輝から取ったそうだ。

上杉謙信は法名だな。もっとも、この名を守るずっと前から出家していたが。

・・・官位求む・・・。
20本当にあった怖い名無し:2005/08/01(月) 04:06:53 ID:llsrwD/u0
311 名前: 征夷大将軍従一位太政大臣 近衛蕎序朝臣 ◆g/NeWOnF.. 2005/07/23(土) 16:47:52

>>310
景虎は謙信元服時に名乗った名前ですね
名前と言えば主君・将軍から名前を賜ったものは数多くいますが、
立花宗茂は高橋紹運の子でありながら、立花道雪の娘を妻にしたので、
立花姓を名乗り、名前も宗虎・統虎・鎮虎・正成・俊正・経正…orzと
十数余の名前を拝しており、主君が変われば賜る名前も変わるという
戦国時代を象徴している人物でありますな〜。

21本当にあった怖い名無し:2005/08/01(月) 04:07:43 ID:llsrwD/u0


318 名前: 信濃介 黒金兵卒 ◆Y/2ry2CHHE 2005/07/23(土) 19:20:31

続けてネタを投下させていただく。

歌舞伎踊りで有名な出雲の阿国は天下に名を広めたという

そして家康の次男結城秀康は、
「私は阿国ほど名を天下に広めていない」と嘆いたそうだ。

家康の後継ぎになれれば教科書にも出れたと思うと哀しくなる。
22本当にあった怖い名無し:2005/08/01(月) 04:09:24 ID:llsrwD/u0
320 名前: 信濃介 黒金兵卒 ◆Y/2ry2CHHE 2005/07/23(土) 20:27:53

怒涛のネタ三連弾

江戸幕府の歴代将軍は「〜〜院」という名が贈られている。

家康は他に東照大権現という名があるし、慶喜は例外である。
23本当にあった怖い名無し:2005/08/01(月) 04:10:15 ID:llsrwD/u0
323 名前: ぷらっと(奇矯屋再建中) ◆QqQquqqauQ 2005/07/23(土) 23:46:27

>江戸幕府の歴代将軍は「〜〜院」という名が贈られている。

これ、藤原摂関家の「〜〜公」のマネなんだってね。

24本当にあった怖い名無し:2005/08/01(月) 04:11:01 ID:llsrwD/u0
326 名前: 征夷大将軍源氏長者相国近衛蕎序朝臣 ◆g/NeWOnF.. 2005/07/24(日) 00:36:51

>>323
恐らく院号を徳川家だけの特権とする事で、世襲体制の強化を図り
武士・庶民・公家の頂点に立つことを象徴したかったものでしょう。
これは恐らく中国の廟号の太祖・高祖等、諸侯の候号ではなく、
独自の族家の主だけが世襲できる超越した地位として院号を作ったのだと思います。
25本当にあった怖い名無し:2005/08/01(月) 04:15:18 ID:llsrwD/u0
618 名前: 九條殿@前関白 ◆1Ixlm5F0XU 2005/07/26(火) 11:25:08

昨夜参内する予定におじゃったが
戦乱終息の祈祷が長引いてな 春日社から今戻ったでおじゃるよ
方々には足労かけてしもたなあ

どこからレスすればええか分からへんけど先ず蕎序殿が武家のまつりごとを取り仕切りたい言うなら
麿は特に反対せえへんでおじゃる ただ2点ほど含みたき儀あるのみにおじゃる

 一、武家の棟梁として他の人に負けへんくらいの戦国知識やネタを披露してたもう
 一、他者を排斥したり権力ゲームに堕するは荒れるゆえ止めて欲しいでおじゃる

それから武家の職制については公卿は不可侵ゆえ宜しく取り計らっておじゃれ


前の方に「源氏長者」の話があったけど 室町の鹿苑院殿の治世までは
代々清華家の久我氏から出ておじゃる 何で久我やという話やけど
鎌倉初期の源氏で村上源氏の源(久我)俊房いう長老があらはって
その人が各源氏の棟梁を決めることになったんがそもそもの始めやったかと思う
鹿苑院殿はご自分の権力を集中するためたしかこの時
久我から源氏長者と淳和奨学両別当の職も纂奪したはずや
これ以降「征夷大将軍」「源氏長者」「淳和奨学両別当」の地位がセットになった訳におじゃるな
義昭公死去から一時源氏長者は久我に帰したけど
徳川の治世になったら徳川が代々世襲して 明治維新とともに260年ぶりにまた久我に戻ったわけで
源氏以外の人が源氏長者になる例はない言うことにおじゃるな
26本当にあった怖い名無し:2005/08/01(月) 04:16:20 ID:llsrwD/u0
631 名前: 九條殿@前関白 ◆1Ixlm5F0XU 2005/07/26(火) 12:23:21

方々にレス返したいがあまり時間もないゆえのち程にするでおじゃる
さて日本の場合男系の相続が基本におじゃって その相続は血縁を基としてへんことは
方々はよう知ってはることやと思う
例えば米沢上杉なんかは 元は勧修寺流藤原姓やけど自称平姓長尾政虎が入って
その後清和源氏吉良流などが入嗣して家督を継いではるわけや
せやけど「寛政系図」など見ると上杉は「勧修寺藤原」と書いておじゃる
こういうとこ見てると 日本言う国は家を母体とした考えが根底にあって
血縁の全くない人に変わろうとあんまし重要視されへんことが分かる
日本の企業で不祥事起こしたら トップだけ変わって中身の体質が変わってないのは
脈々と流れる家の体質が受け継がれてんのやないかと思うでおじゃるな
27本当にあった怖い名無し:2005/08/01(月) 04:18:08 ID:llsrwD/u0
799 名前: 結城晴朝 2005/07/26(火) 18:39:57

日本3大埋蔵金といえば、徳川、豊臣、そしてもうひとつは結城・・・

言い伝えによると、わが祖先・結城家初代朝光公が源頼朝に奉公していた時、
奥州藤原家討伐に際し、功多くあり、それに報いる形で奥州の黄金を拝領し
もしもの時にはと代々受け継がれたものだという。
一部は、結城合戦のときに使用され、城郭拡張や弓矢、兵糧などに変えられたというが、
戦後も伝わり、今に至る。
これが、公には10万石にもかかわらず、結城100万石といわれるゆえんである。
なお秀康の時、越前に転封されるが、その後は結城は幕府直轄となり、
家光のときに実際発掘が行われたという。
最も発見はされていないのだが・・・

結城初代朝光は、源頼朝の落胤と言われている。
これは朝光の母(小山政光の妻)が、頼朝の乳母だったため。

ってどっちも眉唾・・・ってかトリビアじゃないな
28本当にあった怖い名無し:2005/08/01(月) 04:19:13 ID:llsrwD/u0
893 名前: 九條殿@前関白 ◆1Ixlm5F0XU 2005/07/26(火) 23:42:53

京洛の戦火には大抵慣れておじゃるが 今日のこのスレの騒乱はひどいもんにおじゃった・・・
住む家焼けてしもて 粥を求めて行列を作る罹災民の重みで 三条大橋が崩れてしまわへんか心配やの

さて 戦国時代になると武家どもの合戦で家や田畑が戦場と化してまうことが
頻繁になり 下々の生活はそりゃえげつないことになったでおじゃる
庶民は一揆や惣などで対抗しはるけど この時代の「一揆」いう言葉、江戸時代の百姓一揆とはちと違って
「揆(方法)を一(つに)する」つまり横の連帯を蜜にして事に当たるいう意味におじゃる
29本当にあった怖い名無し:2005/08/01(月) 04:19:53 ID:llsrwD/u0
895 名前: 征夷大将軍源氏長者相国近衛蕎序朝臣 ◆g/NeWOnF.. 2005/07/27(水) 00:16:23

>>893
江戸時代の一揆と言えば傘連判状。
当たり前ですが傘状(円形)に一揆の参加者の名前を羅列する事で、
首謀者の存在を隠し、皆の結束を団結するという試みがあるものです。
江戸時代の一揆で有名なのは郡上一揆です。
郡上一揆での傘連判状は、郡上郡村々傘連判状、二日町村傘連判状
の二つしか残っていないのですが、後の傘連判状は郡民が意図的に廃棄したのでは?

30本当にあった怖い名無し:2005/08/01(月) 04:20:46 ID:llsrwD/u0
896 名前: 九條殿@前関白 ◆1Ixlm5F0XU 2005/07/27(水) 00:37:52

>>266魔獣 ◆fIi1GribwI殿
 蔦は多いと思てたがそれほどとは知らなんだでおじゃる かく言う麿の中の人も蔦紋におじゃるよw
 おもろい話題かたじけのうおじゃった

>>323ぷらっと(奇矯屋再建中) ◆QqQquqqauQ殿
 足利将軍家も院号をつけておじゃるな 死してなお権威を求めるんは
 いかに人が業の深き生きもんか言うことに尽きるでおじゃる
 中には神号なんぞ付けはる人もおるしw
31本当にあった怖い名無し:2005/08/01(月) 04:21:25 ID:llsrwD/u0
898 名前: 九條殿@前関白 ◆1Ixlm5F0XU 2005/07/27(水) 00:57:12

>>895
せやなあ 江戸期に入ると平和になって支配体制が確立しはるから
一揆言うともう死を持って訴えるいう凄惨さがあるでおじゃる
連判血判のたぐいを残すことは 芋蔓式に主催者がしばかれる恐れあるから
普通は隠すか一揆後に破却するかのどっちかやろな
せやけど戦国期やと一揆は政治色が強くて 時の権力と結び付いて権力闘争の道具になり
自分らの権益を守ったり 大名の軍兵を連名で申し入れたりと
(山城国一揆なんかはその時の36名の名前が伝わってる)
江戸期の一揆に比べると悲愴感のかけらも感じられへんでおじゃるの

堺の会合衆や博多の連中はある意味一揆やも知れへんけど 庶民の自治が闊達やった最たる例やの
32本当にあった怖い名無し:2005/08/01(月) 04:23:10 ID:llsrwD/u0
897 名前: 征夷大将軍源氏長者相国近衛蕎序朝臣 ◆g/NeWOnF.. 2005/07/27(水) 00:42:50

>>896
>神号なんぞ付けはる人もおるしw

それは徳川家康でしょうか?
是非九条殿にも本部スレに参内して頂きたくおじゃる。
33本当にあった怖い名無し:2005/08/01(月) 04:25:05 ID:llsrwD/u0
899 名前: 九條殿@前関白 ◆1Ixlm5F0XU 2005/07/27(水) 01:01:13

>>897
秀吉もそうにおじゃるな 幕府を開いたんなら麿が直接官位の件を取り計らう必要もなくなるでおじゃろう
近衛殿か幕府の官職奉行を通じて上奏されよ よきに計らってくだされ
34本当にあった怖い名無し:2005/08/01(月) 04:25:44 ID:llsrwD/u0
900 名前: 三河縁 松平恥児 ◆SbfyICekVM 2005/07/27(水) 01:37:21

>>898
畠山政長の子の畠山尚順は、当時東西分裂していた畠山氏の畠山義登の統治する
堺にを滅ぼした際に、堺に一万貫の軍資金を賦課したが、このような大金の賦課を
堺が受け入れた事は「大乗院寺社雑事記」に書かれています。
ここからが薀蓄となるのですが、畠山尚順の家臣木沢は臙脂屋の娘が薬問屋に嫁いで
おり、薬問屋の夫が明に渡っているうちに若い公家を招きいれ、不順な関係を結んでいた
事を掴み、その公家を装って彼女の家を訪ねたところ、娘は下女に門を開けさせたので
この一部始終を臙脂屋に言いつけ、それをネタに金をゆすって主君の畠山尚順に
金を提供させたと言う。
やはり武力や弱みは大きいもので、この他に本願寺から冥加金を徴収した織田信長等
弱い立場の僧侶や商人から金をゆすり取る事が、戦国大名として生きていく術として
仕方なかったものだと思います。兵は詭道なりと言う通り当時の日本ではこういう非道
な事をしなければ生きてはいけないほど過酷な競争率だったのでしょう。
35本当にあった怖い名無し:2005/08/01(月) 04:27:55 ID:llsrwD/u0
901 名前: 九條殿@前関白 ◆1Ixlm5F0XU 2005/07/27(水) 01:58:33

>>900
ゆすり言うと何かの弱みに付け込んで ということにおじゃるが
鎌倉以来守護が獲得していった権益いうのは「ゆすり」以上にえげつない
すなはち半済や兵糧米の徴収という守護の権益は 相手に何の弱みがなくても
ガンガン行使できるわけにおじゃりから ほんまに下々は溜まったもんやないわなあ
しかし・・・痴情のもつれを利用して大名から金品をせしめるとは
 元禄の戯作家が喜んで飛び付きそうな逸話におじゃるのw
36本当にあった怖い名無し:2005/08/01(月) 04:29:29 ID:llsrwD/u0
16 :まあし  ◆rsqKOQYKG6 :2005/07/27(水) 20:10:28
>>8
王子譜に孟達が安定の太守で、王雄を推薦したと載っていますが、これは誤りでしょうか。それとも別人でしょうか。
37本当にあった怖い名無し:2005/08/01(月) 04:30:19 ID:llsrwD/u0
21 :蕎序 ◆g/NeWOnF.. :2005/07/27(水) 20:26:37
>>16
安定は雍州北部ですね。
まず蜀領ではありませんし、孟達は劉備の蜀征伐が成功した後
宜都太守に任じられており、安定と孟達は無縁です。
しかし唯一孟達と雍州の関係点は、孟達が扶風の出身と言う事だけです。
それに上庸に侵攻した際、宜都太守から魏に寝返り新城太守に任ぜられ、
その後司馬懿に誅されるわけですから。
第一、王雄・王子譜と言う名前は演義にすらありません。
38本当にあった怖い名無し:2005/08/01(月) 04:32:20 ID:llsrwD/u0
28 :征夷大将軍源氏長者相国近衛朝臣蕎序 ◆g/NeWOnF.. :2005/07/27(水) 21:06:01
>>25
確かに孟達は曹丕に異常というまでの礼遇をされていますね。
魏興(西城)・上庸の二郡を房陵に合併して新城郡を与え、
自分の輦に同乗させたりしていますね。
これはひとえに孟達の優雅な風貌と人並み以上の能力のお陰だと思いますね。
それに曹丕は曹洪・曹彰・戴陵・曹植・甄姫等、主に一門や縁戚等を遠ざけ
それとは対照的に一方的に名士の司馬懿や陳羣を用いた為、遂に曹叡の時代に
媚を売り続けていた司馬懿が対蜀の司令官となり、その後曹爽ら曹氏と同等の
権力を持つようになり、魏の崩壊に繋がっていく訳です。
しかし民衆に対しては善政を行い、名君と崇められていたそうです。
39本当にあった怖い名無し
228 :近衛蕎序 ◆g/NeWOnF.. :2005/07/29(金) 16:36:38
>>219
いや我らは皆、忠君愛国の元に議論を呈し、民主的な国家を構築する為に
全力を尽くしてそれを対処すべき、日本史官位スレという概念に囚われてはならないのです
だから恭順するよりも議論に徹しましょう。

>>48
「王氏譜」でしたか、「王氏譜」は『世説新語』に編纂された書物で
後漢から東晋までの名士の逸話集を編纂したものなので、信憑性は低いと思います。
特に王雄なる者は正史三国志にも三国志演義にも出て来ない架空の人物なので
逸話なのでしょう。