859 :
599:2005/03/30(水) 00:47:42 ID:KCmFHaTj0
857さん、dクスです
858さん、小栗・北朝鮮での銃殺シーンですね
以前ニュースで見たような気がします
「参謀はまだ若い。戦というものを頭の中でしか解っておらんのだ。
当然理に適っとらん事も平気で言うだろう」
恰幅の良さと剛毅さとを併せ持った兵隊上がりの江藤は、苦労人らしく相手の心情を汲んでやる事が出来た。
言葉数の少ない分、未だどす黒く腫れ上がったままの古屋の横顔が余計に痛々しかった。
「ああいう気性の激しい人だ。貴様の苦労はよく分かっとるつもりだ。
俺に出来る事があったら何でも言ってくれ。協力は惜しまんぞ」
将兵の信任も厚い江藤は、西川参謀の副官としてこの討伐行に同道していた。
西川もその気風の為か、江藤にだけは正面から怒りをぶつける事が少なかった。
しかし目の前にいる古屋に対しては、事ある毎に西川は牙を剥く傾向がある。
傍から見ていて以前から気にしていた江藤が、今夕の件で居ても立ってもいられずに古屋の部屋を訪れたのだった。
「古屋中尉、俺も腹を決めたぞ。
止めなくてはならん時は、俺が体を張ってでも止めてやる。
参謀の好き勝手にはさせんつもりだ。
貴様は安心して戦と兵の事だけを考えれば良い。
後の事は俺に任せとけ。大丈夫だ」
古屋がゆっくりと顔を上げた。
江藤には古屋が泣いている様に映って見えた。
「倉田が夢に出るんだ」
「倉田が?倉田・・・軍曹の事か」
話の矛先が急に変わった事に一瞬怪訝そうな表情を浮かべたものの、その名前に江藤は思い当たる事があった。
自分が返せなかった借りを思い出さされる存在として。
「俺もあの男には、もう一度会ってみたい」
江藤は懐かしむ様にして古屋から外した目を細めてみせた。
「あいつの分隊には、世話になった。
大隊本部が中共軍に幾重にも包囲された時、真っ先に駆けつけてくれたのが倉田だったからな」
その口調は途中からすっかり覇気を失って、しんみりとしたものへと形を変えていった。
「今や我が方の精兵ことごとく倒れ、その一方敵は益々勢いを増しておる。
補充すると言いながらも、埋められに来るのは弱兵、せいぜい年寄りか子供に毛が生えた様な連中だ。
もはや師団とは名ばかりで、我が戦力は年を追う毎に落ちている有様だ。
先に死んでいった奴らが羨ましいと思うのは、そういう心配をせずに済んだという事だな」
「貴様を元気づけに来たつもりが、こうして愚痴を言ってちゃ世話が無いな」
一人で苦笑してみたものの、その場の空気が和む事は無かった。
自分を見つめる古屋の顔つきに気づいた時、江藤の表情はすぐに曇ってしまった。
思い詰めた様なこの顔。
何か重要な事を打ち明ける前の顔つきだろう。
江藤は身を引き締めて姿勢を正し、古屋の言葉を待った。
「江藤中尉、この戦の事だが」
その言葉の響きから切迫したものを感じ取るか取らないかのうちに
外から唐突に激しい銃撃の音が幾度かに渡って鳴り響いてくるのが聞こえた。
堂々たる体躯を瞬時に起こした江藤は、凍りついたままの姿勢でいる古屋に告げた。
「古屋中尉、話の続きはまた今度だ。俺は西川参謀殿の元に戻る。
貴様は清水小隊と一緒に、礼儀知らずのお客さんを蹴散らして来い」
別れ際に目にした古屋の顔は、焦燥感と無力感とに囚われているせいか一段と老けて見えた。
高島の元に到達するまでに予想以上に手間取ってしまった事に吉本は激しく苛立っていた。
背後からおっとり刀で駆けつけた澤崎准尉も姿を現した。
「急がんと危ないです、小隊長殿」
次第に激しさを増す銃声を気にして、苛立ちの声も隠さずに吉本が二人を急かす。
二人の装具はあの場所に置いたままだ。
このどさくさに紛れて、第三小隊の誰かが装具を見つけ員数合わせに利用するとも限らなかった。
闇に覆われた周囲の状況を高島がゆっくりと見渡した。
今その場所に向う為に割ける兵力が、この村には無いのを重々承知していた。
高島の兵は、ここから数キロ先の地点で陣を張っている。
どれだけの敵が攻めてきたのか皆目見当もついていない状況では、自分の兵の元に合流出来るかどうかでさえ定かでは無かった。
出来る事からやるしか無いのは、いつもと同じこと
高島は必死の形相を向ける吉本の肩に手をまわした。
「うむ、分かった。とにかく三人でその場所に向かおう。吉本、案内しろ」
執拗に追いすがる山犬の影に向かって、雲の隙間から射す月光を受けて乱反射する刀身を振りかざす。
山野井の動きに何度も助けられていた。
緒方は大きく肩で息をしながら、慎重に自分の位置を確かめる。
崖の縁に到達したにも関わらず、状況は何ら好転する気配を見せていなかった。
この崖を歩いて降りる?
緒方はそれが到底不可能な事だと悟り、山犬の群れる中心部に視線を戻す。
仮に降りるとしても、目の前の山犬はものともせずに襲い掛かってくるに違いない。
手を使えない状況で、どうやって四方八方からの攻撃に対処すればいいのか。
最早、万事休すか・・・
暗闇の中で、絶望と怒りの感情だけが緒方の体の中に渦巻いていた。
撃てるだけ撃ってやる、どこからでもかかって来い!
己を捨てて前に出ようとする緒方に、山野井の言葉が突き刺さる。
「吉本と合流し、小隊長の元に行け。ここには絶対に戻って来るな!」
「否、自分は此処で戦う!これ以上は下がらん!」
正気の沙汰では無いと言わんばかりに緒方が怒鳴り返す。
その言葉が言い終わらないうちに、自分の右腕を狙う一頭に気づいた緒方が腰を深く落とす。
白っぽい山犬が飛び掛ってくるのと連鎖して、モーゼルの銃身をその口内深くに突き入れる。
ガチッという金属音が頭の中いっぱいに響いた。
鋭く尖った牙によって、感覚を失っているはずの手の甲に痛みが奔る。
自分の指が噛み千切られる前に、緒方は引き金を引いた。
吐き出される硝煙と飛び散る脳漿が入り混じり、大地に溶け込むように消えた。
「馬鹿野郎、これは命令だ!」
憤怒の形相で、山野井が緒方を睨む。
菊の紋章の刻印がある小銃を緒方の手からもぎ取ると、崖下に向けて躊躇する事も無く一気に放り投げた。
五拾六円弐十銭もする銃が放物線を描き、あっという間に闇の中に消える。
菊の紋章の刻印がある、日頃から「命より大切にせよ」と誰からも厳命されてきた小銃。
それがいとも簡単に捨てられてしまった事に緒方は激しい衝撃を受けた。
「分隊長!!」
目を見開いて驚愕の声を上げる緒方を黙殺し、その肩を力任せに山野井が突き飛ばす。
避ける暇など、どこにも無かった。
一瞬にして大地が逆転すると、山犬の駆ける姿が次第に遠のいていく。
思わず悲鳴にもならない声が喉を突いて出てしまう。
一切の思考が途切れ、痛みと衝撃を無抵抗のまま受け続ける他なかった。
丸まれ、丸くなれ、丸まるんだ、緒方!
心の中で声が響く。
あれは分隊長の声だ。
もんどりを打って急斜面を転げ落ちながら、自分の手渡した手榴弾が正確な間隔を置いて二度炸裂するのを緒方は耳にした。
866 :
599:2005/03/30(水) 12:25:35 ID:QWZTTTXZ0
スミマセン
訂正させて下さい (;´д⊂) トホホ・・・
>憤怒の形相で、山野井が緒方を睨む。
>三八式歩兵銃を緒方の手からもぎ取るようにして奪うと、躊躇する事も無く崖下に向けて一気に放り投げた。
>五拾六円弐十銭もする銃が放物線を描き、あっという間に闇の中に消える。
>菊の紋章の刻印がある、日頃から「命より大切にせよ」と誰からも厳命されてきた小銃。
>それがいとも簡単に捨てられてしまった事に、緒方は激しい衝撃を受けた。
元々井戸水の件があって以来、厳重な警戒線が張られていた事もあり村内の布陣に左程の乱れは見られなかった。
遠い地点からの断続的に聞こえてくる銃声は、一向に近づく気配を見せていない。
第一線の兵たちが、よくそれぞれの持ち場を持ち堪えている様が想像出来た。
漆黒の闇の中に時折銃剣だけが鋭い光を放っている。
外縁に向けて三々五々と投入されていく兵たちが、慌しく足音を立てて通り過ぎるのが見える。
暗い村内を、先頭に立って走る吉本だけを頼りに駆け抜ける。
日中には近いと感じられた距離が、視界を奪われる事で呆気なく覆る。
所々に設けられた急造陣地の脇では、誤射の用心の為何度も声をかけながら通り抜けなければならなかった。
一定の間隔で配置につく立硝からは、近づく度に厳しく誰何を受けた。
澤崎准尉が応じる度に、顔も見えぬ黒い影が直立の上答礼をする。
吉本の背を追いながら、高島は状況を少しでも掴もうと周囲にいる兵の動きに目を向けた。
高島たちを一瞥もせずに警戒を続けている陣地がある。
敵の侵入経路を即座に予想出来る程実戦慣れした兵ならば、絶対にそこから目を離そうとはしない。
指示を待たずとも最善の行動を取る事の出来る力量を持った下士官の存在が窺えた。
そんな下士官に率いられた兵たちは、銃声だけで大体の兵力、その進行方向までをほぼ正確に掴む事が出来る。
息を弾ませながら懸命に走る将校たちには、誰一人関心を持とうともしなかった。
「この分なら、此処は大丈夫だろう」
高島は白い息と共に澤崎を振り返る。
うっすらと夜が明ける前の紫色が准尉の顔を染めているのが分かる。
直に夜が明ける。
兵力の優る自分たちにとって、この時間帯で敵の攻撃を受ける事は天佑神助かもしれない。
今まで随分とやられてきている相手だが、ついに風向きが変わってきた感があった。
大きく肩を揺らしながら背を丸め、先頭を走っていた吉本が丘を前にして立ち止まった。
走り通した甲斐あって、敵よりも早く地面に横たわる緒方の姿を見つける事が出来たのだ。
吉本の声に反応する。死んではいない。無事だ。
素早く駆け寄った澤崎が緒方の上半身を抱き起こす。
頭部に多少の出血が見られるものの、意識もしっかりとしていた。
緒方は、丘の上を何度も指し示した。
山野井が未だそこに居るらしい。
高島は、朝日を浴びて次第に輪郭を現し始める丘の前に立つ。
東側の第一線と思しき方角からの銃声に、一際ずしりと体に響く重量感のある音が加わった。
この丘の上にも自分たちにとって幸運が待っているように、崖の急斜面に手を伸ばしながら高島はそれだけを願った。
朝日に照らし出された丘の上は文字通り、死屍累々の場と化していた。
丘の上に到達した高島を最初に出迎えたのは、鼻を突く程の強烈な臭いであった。
鼻の機能が麻痺してしまい兼ねない程の死臭と、獣独特の臭いとが入り混じって丘全体を漂っている。
高島は、見た事も無い光景に唖然とした。
後ろから続いて上がって来た吉本がすぐに声を失って立ち尽くす様が視界に入る。
丘の上全体が横たわる山犬の鮮血によって染められているのが、夜明けを迎えると同時にくっきりと浮かび上がってきた。
ボロ切れにしか見えない姿に変わり果てた山犬の死骸が、四方八方至る所に転がっているのが嫌でも目に入る。
その体に記された切り口には、例外無く、鮮やかな真っ赤な花が咲いていた。
これらが山野井の振る太刀によって受けて出来たものだという事は、すぐに分かった。
しかし、その姿がどこにも無い。
凄惨な様相を呈している光景を前にして、大きな壁に突き当たってしまった感を受けた。
どういう事だ・・・これは・・・
村内での立場が、他の隊の中に孤立したものであるという事は、直属の指揮官としても重々承知はしている。
しかし、思慮深いはずの山野井ともあろう男がとる行動にしては、少々軽率過ぎはしないかという思いが当初の高島にはあった。
僅かな人数で強行するからには、それ相応の深い訳があるに違いない、とは思ってはいたが
その腑に落ちない部分が、目の前で氷解していく様を高島は静かに見守った。
明るくなるにつれて視野が景色全体にまで広がる事により、初めて判る事ではあったが
この位置に立つと中隊本部はおろか、第三小隊全体の守備状況を一望の下に見渡す事が出来た。
高島はゆっくりとした動作で、銃声のする東の方角に目を向けた。
仮に今攻勢を掛けて来ている敵の手によって、この丘が奪われていたとしたら・・・
地上戦に限れば、この場所は要害に成り得る条件が整っているとも言える。
此処からならば、下から反撃する友軍の動きをいとも簡単に制圧する事が出来るだろう。
そうなれば、我が方にとっての状況は今よりももっと深刻なものになっていたに違いない。
それを瞬時に見抜いた山野井にとって見逃せない気配が、この場所にあった。
それが、敢えて一見無謀だとも思える様な行動をとらせたのであろう。
しかし現実には、敵とは言い難いものの、夥しい数の山犬が此処に存在した。
それはこの光景を目の前にすれば、誰にでも解る事であった。
望んだものでは無いはずの、この不慮の闘いで、何れが帰趨を制したかという問いについては
最後まで此の位置に留まったと思われる山野井自身に聞く以外、知る術は無かった。
ただ、荒れ果てた感の漂う周辺一帯の状況と、この死骸の数から察するに、山野井たちが相当の苦戦を強いられた事だけが想像出来た。
「分隊長、分隊長殿!」
声のする方向にいち早く駆け寄った吉本が、あれ程そこに居ろと言ったのに、という顔で
ようやく這い上がって来る事の出来た緒方に向って手を差し伸べる。
「分隊長は・・・何処だ・・・」
吉本が黙って首を横に振って見せる。
一面に広がる光景の中には、生きた証を微塵も感じる事の出来ない程の厳しさがあった。
丘の上をしばらくの間見渡していた緒方が、急に体を傾けたかと思うと、そのまま崩れ落ちる様にして倒れた。
山野井の姿が見えない事で、それ以上気力を保っていられなかったのだろう。
澤崎准尉も、うな垂れた姿勢のまま動こうとはしない。
その表情には、ありありと苦悩の色が貼り付いている。
自分たちにとって幸運が左程長くは続かなかった事を悟り、高島は嘆息した。
「何処に消えてしまったんだ・・・山野井軍曹・・・」
山間(やまあい)から吹きつける風が、虚しい言葉の響きを運び去って消えた。
無線電信講習所の学生だった松田が、陸軍予備生徒として軍籍に編入されたのは
春から夏にかけて、季節が移り変わろうとする頃の事だった。
配属された師団通信隊では、うっかり方言が口を吐いて出ただけでも軍隊では鉄拳を浴びせられる事を学んだ。
無線機各部の名称や操作上の言葉を言い慣れた「敵性用語」である英語から頭の中で言い換える作業も一苦労だった。
厳しい顔つきの御目付け役である古参兵の前で、常に大声で呼称をしながらの操作を求められた。
制裁の理由は、それだけでは無かった。
眼鏡を掛けていただけで、インテリ臭いと言い掛かりをつけられて殴られる日も多かった。
目を閉じると浮かぶ母親の姿に、目頭を思わず熱くする幾つもの夜を松田は過ごしてきた。
まだ兵隊に成り切れない松田も、通信隊長に率いられて村の中の本部の編成に組み込まれていた。
民家に入り込んで無線通信機を設置すると、第一小隊と共に行動中の通信兵との交信を試みた。
この程度の距離なら、電鍵によるモールス信号に頼らなくても、十分送受信機による音声通信で事足りる事も確認した。
初の野戦任務だという事が、松田に軽い高揚感を与えていた。
一緒に学んだ友人が配属された南方の戦線からは、ひどい状況が伝わって来ていた。
整備状態不良の為に、無線を入れても聞こえるのは敵方の交信ばかりだと言うのだ。
それに比べたら、自分はまだ恵まれている方だ
松田は慰める様に自分にそう言い聞かせながら、長かった一日の任務を終えた。
夜襲の報告と同時に、班長の命令によって松田が無線機の前に座る事になった。
少しの間を置いて、全体の状況を掴むと称して位の高そうな将校が入って来るのが見えた。
監視される様な重い空気と、実戦を初めて経験するという二つの重圧が松田の肩に重く圧し掛かってくる。
「第一小隊の状況を聞いてみろ」
顎で無線機を指した将校の胸に、金色の参謀飾緒が付いていた。
気の小さな松田が、兵たちの間で散々噂に上っている参謀当人だと知るや、益々その心臓の鼓動は速まるばかりだった。
就寝中だった所を阻害された事もあり、参謀の機嫌は最悪だというのが傍から見ていても判った。
松田はともすれば上擦りそうになる声を、必死の思いで制御した。
「感どうか、明どうか、どうぞ」
向こうの通信兵は、落ち着いていた。
まるで戦闘など他人事の様な話し方だった。
拍子抜けする思いで松田が気を抜きかけた時、戸口から背の高い将校がひょっこり顔を出した。
「江藤!遅いっ!貴様、今頃まで一体、何をしておったのか!」
参謀に怒鳴られる将校の胸に、銀色の飾緒が付いているのが見える。
隊内の事情に疎い松田でも、江藤副官の顔ははっきりと覚えていた。
行軍中二三度会話を交わした感じでは、温厚でスケールの大きい人だという印象を持っている。
自分の様な最下層の階級の者にも、気軽に声を掛けてくれる事を心から感謝していた。
この場でも、参謀の怒りを軽くあしらう感じで、瞬く間にその火種をかき消してしまった。
これは見事としか言い様が無い、鮮やかな操縦法だった。
浮つきかけて苦しかったはずの精神状態が、少しずつ落ち着きを取り戻していくのが松田には嬉しかった。
戸口の外で、甲高い叫び声が上がった。
一瞬の間を置いて、それがくぐもる様な声に変わると激しい物音がすぐに重なって聞こえた。
しばらくして、再び静けさだけが舞い戻る。
まるで、何事も無かったように。
そこには、二名からなる護衛の為の兵卒が立っているはずだった。
異変に気づいた通信班長が立ち上がる。
予定外の状況に、苛立った参謀の声が部屋中に響き渡った。
「何があった?説明をしろ、江藤中尉!」
副官が歩硝に何度か声をかけてみたものの、外からは何の返事も返って来なかった。
隣で発電機の転把回しをしていた通信兵が不安そうに手の動きを止めた。
松田も思わず受信機から顔を上げて振り返る。
その時、戸口が破壊される大きな衝撃音と共に、真っ黒い塊りが次々と連なって飛び込んで来るのが見えた。
hosyu
警告を発する間も無かった。
侵入者は黒い津波となって、戸口に近い者から順に飲み込んでいった。
渦中に居ながら、素早い動きに対して誰も目が追いつかない。
残影が瞼の裏に焼き付けられるだけで、まともに正体を掴む事さえ出来ないでいた。
侵入者は、動く度に全身から発する悪臭を振りまいた。
その中に、微かではあるが血の臭いを嗅ぎ取った者が居た。
最初の犠牲者となった、発電機を回していた村上という若い通信兵だった。
激しい衝撃と共に何かが通り過ぎ、気がついた時には冷たい土間の上に転がっていた。
一瞬の間を置いて、神経を切り刻む様な耐え難い苦痛に襲われた。
村上は両手で顔を挟むと、身を震わして叫び始める。
指の間からは、夥しい血が滴り落ちて土間を赤く染めていった。
顔面が蒼白となり、血の気を失っていくのが判る。
それが実際に目の前で繰り広げられているという事が、松田には信じられなかった。
全くと言っていい程に、現実味に欠けていた。
それは松田独りだけに、限った話では無い様にも思えた。
この期に及んでも誰一人として動きを見せる者がいない。
想像の及ばぬ突然の事態に、完全に思考そのものが停止してしまっている様だった。
無言を守ったまま、部屋の片隅で二人目が倒れた。
破壊と殺戮の中で、この部屋に居合わせる全員が等しく放心状態に陥っていた。
声が出ない
何とかしなければ・・・
気だけが焦った。
そんな中、松田は恐ろしい事に気づく。
侵入者が口に咥えているのは・・・
若い通信兵の耳。
張り詰めた緊張の糸が、ついに限界に達した。
「狼だ!」
沈黙を破ったのは、通信班長の恐怖に満ちた声だった。
それを機に、見えない呪縛から解き放たれた様に周囲が一斉に動きを見せる。
壁に立て掛けてあった曹長刀を抜き放った通信班長の背後で、松田は咄嗟に首をすくめた。
右頬に、一筋の熱を帯びた直線が走った。
ほんの少し、行動が遅れてしまった事を知った。
裂けた頬から、血が溢れ出た。
「こんな狭い場所で、そんなものを振り回して、どうなるか、解らんのかっ!」
鋭い頬の痛みを松田が忘れてしまう程の烈しい剣幕で、江藤中尉が通信班長に詰め寄った。
江藤が拳銃を取り出すと、班長は撃たれるとでも思ったのか慌てて机の下に潜り込んでしまった。
その机の上を書類を蹴散らしながら、一頭の山犬が疾走していく。
その先には、西川参謀の姿があった。
棒立ちになったまま、大きく目を見開いていた。
この部屋には、逃げる場所など何処にも無い。
後続の一頭も、同じコースを辿ろうとしている。
松田は、確信した。
山犬の狙いは、部屋の最も奥に位置する西川参謀独りに向けられているのだ。
さげ
鶏テス
881 :
本当にあった怖い名無し:2005/05/01(日) 19:36:05 ID:4TIC6yDk0
セーフ
なにこのご都合主義小説モドキ
↑かまってクレクレちゃん。
素直になれないだけなんです。
やさしくしてあげてね?
>>882 ってことは、ちゃんと読んでるってことじゃん!
ホント、素直になれないんだなあ。
保守
886 :
597:2005/05/08(日) 20:06:57 ID:owpaE6/e0
597です。
このスレをご覧になっている皆様、599さんにお詫びしなければ
なりません。
全く、頭が回らず、結果文章になっておりません。
もう少しお時間ください。
まこと、申し訳ありません・・・・・。
887 :
599:2005/05/09(月) 00:15:56 ID:OZltvgDr0
882さん、御期待に添えなくて申し訳ないです
884-885さん ∠(・∀・)敬礼!感謝デアリマス
597さん、自分に責める権利はどこを探しても無いですよ
愚図愚図してるのは自分の方だと重々承知ですから
タイミングを狂わせて、逆に迷惑をお掛けしております(;´д⊂)
遅きに失する感は否めないですが、今日はちょっと頑張って
不入山に進発する一歩手前まで、ようやく漕ぎつく事が出来たと思います
その前に、勝手に村人を虐めさせてもらうかもしれませんが・・・
先頭に立つ一頭が、机の端から跳躍するのが見えた。
黒々とした山犬の影が視野一杯に広がる。
西川には両腕で顔を庇う事ぐらいしか成す術も無い。
激しい衝撃によろめくのと同時に、突き刺す様な激痛が光の様な速さで腕を伝ってきた。
左腕に山犬の重量がかかる。
苦しさに堪えかねて、西川は呻き声を上げながら身をよじった。
「参謀殿を御守りしろ!」
甲高い声が西川の耳にまで届いてきた。
山犬ともつれ合う西川の元に駆け寄ると、江藤はありったけの力を込めて山犬の脇腹を蹴り上げた。
食い込んでいた山犬の牙が、千切れた肉片と一緒に西川から切り離されていった。
部屋の隅にまで転がった山犬に向けて、副官が大股で近づいていく。
江藤中尉の94式拳銃が、三度火を噴いた。
西川には、山犬の最期を見届けるだけの余裕は無かった。
脳裏にあるのは、とにかく一歩でも山犬の姿から遠ざかる事だけだった。
背にした土壁が軍服をヤスリの様に容赦無く削る。
状況は一瞬の猶予も与えられないまま、目まぐるしい展開を続けていく。
騒音に包まれる屋内で、一段と激しい物音を立てながら中央にあった机が横倒しになった。
盾となった長身の副官の体が、山犬の攻撃に押される様にして西川を圧迫し始める。
西川は押され込む形で、床に這いつくばらざるを得なかった。
体勢を整えた西川が再び顔を上げた時、江藤の苦痛に歪む表情が目に入った。
倒れた江藤の上半身には、二頭の山犬が覆い被さっていた。
気丈な副官は拳銃を失いながらも立ち向かうが、素手では山犬の凄まじい攻撃を防ぐ手立ては無かった。
このままではこの部屋全員の全滅も時間の問題だろう。
西川は恐怖の張り付いた表情を周囲に向けた。
すぐに無線機の前で怯える少年兵に気づいた。
「貴様、何をしておるかっ!江藤副官を助けんかっ!」
雷に打たれた様に我に返った少年兵は、帯剣を手に江藤の元に駆け寄っていった。
山犬の下で、懸命に抵抗する江藤の姿が見える。
その顔は既に自らの血に染まって、動く度に赤い飛沫を飛ばし続けていた。
泣きそうな顔で上官の体に群がる山犬に手元の剣先を向けるが、山犬の迫力の前には左程の効果も得られそうになかった。
歯噛みをする思いを隠さずに、西川は少年の強張った顔を睨みつけた。
「貴様、何をしておる!命が惜しいのかっ!」
その時、倒れて半壊していた机の背後から猛烈な勢いで飛び出してくる影があった。
通信班長だった。
上着を刀身に巻き、短く持っていた。
松田を突き飛ばす様にして、非情な格闘を続ける江藤の脇に立った。
気合と共に、手にした曹長刀を山犬の背に突き立てた。
絶叫を残して班長の一撃を受けた山犬が死を迎える。
「中尉殿!」
残る一頭を前に、班長は躊躇した。
その山犬は江藤の首筋に取り付いたまま離れようとしない。
なんとか腕で防いでいる為に、江藤の首そのものに致命的な外傷は無さそうに見える。
しかしこれでは斬る事が出来ない。
苦悩する通信班長に向って、下から江藤の声が飛んだ。
「班長、俺ごと刺せ!俺の事はいい、こいつと一緒にやってくれ」
班長は激しく首を振った。
「松田、銃を探せ!どこかに指揮班の銃があるはずだ」
「馬鹿者!早くしろ!参謀殿をお守りするんだ!」
叫び続ける江藤の声を黙殺した。
通信班長は軍刀を捨てて江藤に食らいつく山犬の体に手をかけた。
状況は、何ら好転する気配をも見せようとはしなかった。
戸口から新たに山犬が加わってくるのを西川は数度に渡り目にしていた。
副官と班長は未だあの一頭と揉み合っている。
少年兵は机の影に隠れて姿が見えなくなっていた。
おそらく言われた通り、銃を探しているのだろう。
西川は四つん這いになったまま、部屋の隅から隅へと移動を始めた。
このまま戸口に到達する事が出来れば、隙を窺いながらの脱出も可能だろう。
そんな西川の思いをぶち壊すかの様に、目聡くその姿を見つけた一頭が恐ろしい勢いで向ってくるのが見えた。
思わず悲鳴に近い声が喉から漏れた。
何も出来ない。
ただ足がもつれただけだった。
それとは対照的に山犬は、鮮やかな動きを見せて数秒とかけずに西川の前に立ち塞がってみせた。
真っ赤な口の中に鋭い光を放つ牙を認めた時、西川は思わず顔を背けた。
銃声が立て続けに起った。
恐る恐る目を開けた西川の前に、あのあどけない少年兵の引き攣った顔があった。
硝煙の先には、探し出したと思われる一丁の拳銃が握られていた。
西川の強張った顔に、うわべだけの笑顔が浮かび上がった。
「よ、よし、よくやった。誉めてやる。貴様はそこにいろ、そこで防いでおれば良い」
西川の受けた衝撃は、強かった。
少年が、自分の言葉に従わなかったのだ。
自分に背を向けた少年は、江藤と通信班長の元に戻って拳銃を渡そうとしている。
西川は再び蘇ろうとしている恐怖と怒りとで、目の前が真っ暗になっていくのを感じた。
あの小僧、この俺を何だと思っておるのだ・・・
その時、西川の目にあるものが飛び込んできた。
たった今、露にした部下への感情をも急激に収束させる程の物。
先程の山犬とのやり取りの際、ぶつかった拍子に崩れ落ちた一部の木箱だった。
蓋が取れかけて、僅かな隙間から中身が顔を見せている。
今度はうわべでは無く、西川が本当の笑みを浮かべる番だった。
立て直せたと思えた人間の反撃も、そこまが限界だった。
四度目の発砲音を最後に、攻撃の手が途絶えた。
江藤の苦しみが伝わってくる声が、松田の耳にも届く。
上半身には未だ一頭の山犬が覆い被さったままで、動きの取れなくなった班長の切羽詰った声が上がる。
「松田、弾だ。弾を持って来い!」
松田が返答するよりも先に、班長の声を目がける様にして戸口から黒い影が飛び込んでくるのが見えた。
驚愕の表情を残して、副官の体から切り離されて倒れた班長が叫ぶ。
「松田、逃げろ!」
班長は最期を悟ったのだろう。
松田は踏み止まった。
新たに加わった四頭の山犬によって出来上がった黒い壁の中に、倒れた副官の血に染まった顔が飲み込まれる様にして消えた。
帯剣を握る手が震えるのが判った。
数メートル先にある真っ赤な血の塊りが、あの江藤中尉だと信じたくはなかった。
信じようが信じまいが、自分もああなるのは間違いない。
もう誰も止める事の出来る者はいなくなってしまった。
片隅にうずくまったままの村上の背中にも、数頭の山犬が群がっているのが見える。
絶望的な順番待ちだけに残された時間。
目を閉じてみても、殺戮の臭いと音を遠ざける事は出来なかった。
お母さん・・・
涙が頬をそっと伝って落ちた。
母さん、こんな死に方だけは嫌だった・・・
あと何秒間生きていられるだろう。
そう考えながら目を閉じたまま、その時が来るのを待った。
松田の背後で微かな金属音がした。
振り返った松田は、息を飲む。
そこに見たのは、百式短機関銃を手にした西川の姿だった。
無限とも感じられる程の長い時を経て、初めて本当の静寂を手に入れる事が出来た。
松田はじっと目を瞑ったまま、静かに記憶を呼び戻していた。
参謀は警告を発する事も無く、いきなり短機関銃を撃ち始めた。
その8ミリの弾は、どこを狙って放たれているのかも定かでは無かった。
松田のすぐ横で無線機の電鍵のつまみが吹っ飛ぶと、後ろにあった発電機もはじけ飛ぶ様にして床の上に落ちるのが見えた。
苦労して運んで来た九四式五号無線機が、目の前で見る見るうちに破壊されていく。
松田はぼんやりとする頭で、悲しそうな表情を浮かべた。
母さん、もう何もする事がないよ・・・僕には何も無い
送信用紙と受信用紙が乱舞する中、目の前にいる山犬が二つに体を折り曲げながら倒れる様をじっと見つめる。
銃声と肉の弾ける音が重なり合って山犬と人間の双方を問わず、死者だけを数え上げていった。
部屋の中にいる全ての山犬が折り重なる様に参謀の前に倒れた頃、ようやく銃声の音が止んだ。
終わった・・・
重い体を起こしかけた時、再び金属の擦れ合う音が聞こえた。
参謀は、弾を撃ち尽くしただけだった。
松田は、再び破壊の嵐がこの部屋全体に吹き荒れるのを悟った。
恐怖に取付かれた様な表情で、今参謀は短機関銃の装填に取り掛かっている。
ただ弾倉を交換するのに慣れていないせいか、構造上に問題がある為なのか異常に時間がかかっているだけだった。
松田は自分の考えの甘さというものを認めざるを得なかった。
戦場では、参謀の取った行動の方が正しいのかもしれない。
非情な行動を持ってしても、生き残る事の難しさというものを今回改めて松田は身を持って知った。
自分は、あまりにも何も知らなさ過ぎたと言える。
その一方、今となっても本心から知りたいと思った事は唯の一度も無かったとも思う。
それは知る知らないの関係なく、結局は自分を取り囲んでしまっているだろう。
そういう時代に生まれたのだ。
本当に優れた者だけが生き残る事が重要なのだと自分に言い聞かせてみた。
もう何かもが無駄の様にも思える。
個人の思惑など木っ端微塵に打ち砕いてみせる程の幕が既に用意されているのだろう。
その考えは的中した。
戸口から物音がして目を向けると、数頭の山犬が姿を現していた。
参謀が装填を終えるのと山犬が一列となって飛び込んでくるのが、ほぼ同時だった。
血飛沫と連なる銃声、尾を引く絶叫と欠けて飛ばされていく金属音とが入り乱れて部屋中を埋め尽くした。
弾は敵味方を区別する事も無く、平等に容赦無く飛んで来た。
右半身に電流が走る様な激痛を感じて、松田は気を失った。
再び意識を取り戻した時には、部屋は静寂に包まれていた。
物音一つしない。
待ちに待った一時だった。
しかし、最早それも無意味な事になろうとしている。
体のあちこちから流れ出していく血の量を、松田は意識しない訳にはいかなかった。
体が痺れているうちに楽になりたい・・・
松田がそう願いを込めて祈っている間に、部屋の隅では山犬の体内から何かが姿を現し始めていた。
897 :
599:2005/05/09(月) 00:57:48 ID:OZltvgDr0
書き損じです
∠(・∀・)敬礼!は、883-885さん向けでした
怖いです(><)
899 :
本当にあった怖い名無し:2005/05/23(月) 21:04:59 ID:Gd12SlfD0
age
タノシミタノシミ^^
901 :
599:2005/05/25(水) 00:23:17 ID:v1Gx6+l+0
898-900さん
。゚+.(・∀・)゚+.゚。
いつの間にか、もう900に到達してしまったんですね(・∀・;)
輝くばかりの星が空を埋めていた。
上空を覆っていた厚い雲が、いつの間にか強風に煽られて脇に追いやられていた。
一本道の両側に広がる田畑に目を留める。
遠く離れた場所では、途切れ途切れに交錯し合う銃声が鳴り響いていた。
腹ばいになって視界を遮る雑草を掻き分ける。
脚絆に包まれた足首が月明かりにくっきりと浮かんでいた。
この明るさでは、誰かとまでは判別出来なかったが中隊の兵に間違い無かった。
「おい、しっかりしろ」
声をかけるが返事は無い。
手首を取って脈を確かめる。まだ生きている。
「宮嶋、水筒を寄こせ」
当番兵は躊躇した。
自分が今まで大事に水を保管していたのは、全て中隊長である古屋に飲ませる為だった。
それも、この水筒に残っている分で最後だ。
中隊長の身辺を預かる者としての責務が過ぎり、中隊長直々の命令にも一瞬反応が遅れた。
「早くしろ」
中隊長に抱え込まれた兵の脇に駆け寄ると、宮嶋は水筒のコルク栓を抜いた。
傾けた水筒からは、宮嶋自身がこの一昼夜一滴も口にした事の無い水の音がする。
心なしか喉が痛む。
反応を見せない負傷兵に水を飲ませようとして、宮嶋が動きを止める。
隣で周囲に神経を張り巡らせていたはずの中隊長の異変に気づいた。
程無くして、後方から近づく複数の人影が姿を現した。
重機関銃隊は歩兵部隊の中でも花形的存在で、近接した戦闘では最も頼りとされた。
日本陸軍の誇る九二式重機関銃は、銃身だけで三十キロ、銃床も三十キロ、合わせると六十キロもの重量がある。
その重機をたったの四人で手搬送するのは、屈強な身体を猛訓練で鍛え上げ
気の荒い事を誇りにしていた重機分隊の兵ならではの荒業だった。
もともと重機分隊には馬が配属されていたのだが、折からの軍馬不足の為
已む無く分隊兵が馬の代わりをせざるを得ないという事情もあった。
戦場では分解搬走はせず、専ら銃と三脚を組立てた状態のまま四つの足を四人で担いで歩く。
その一団が、闇夜を掻き分けて重い足取りで古屋の横を通り過ぎようとしていた。
古屋が声をかけたのは、その足取りにひどく乱れかけている何かを感じ取ったからでもあった。
見慣れていた整然とした足の運びでは無い。
「御苦労、古屋だ。どうした?」
地面の上に、重量感のある短い響きと共に重機が下ろされた。
担いでいた兵の中から、一際大柄な兵士が一歩前に出る。
「横山であります。自分たちは清水小隊長殿の命令によって、重機の配置転換に向っている所であります」
「そうか。伍長、誰か怪我をしとるんじゃないか?」
横山伍長は一瞬言葉に詰まったが、すぐに肩の力を抜いて説明を始めた。
分隊の中で一番若い石村一等兵が、腰と左腕をやられて思うように重機を担げないでいる。
分隊が初めに就いていた警戒線で、木の上に潜んでいた複数の狙撃手に撃ち抜かれたという。
応戦している最中、清水からの伝令が届き、指示を受けた地点に急遽向う事になったが
その直後に伝令兵がまたもや狙撃を受けて後送される羽目となった為に、代わりの者もおらず
石村本人も頑なに後送を拒む事もあって、ここまでどうにか四人で漕ぎ着けたという事だった。
「分かった。石村一等兵、よくやった。さすがは重機分隊の兵だ」
古屋は肩で息をする石村の手を取って、自分の横に立たせた。
「宮嶋、その兵と一緒に石村一等兵を連れて村に戻れ。岡軍医か嶋衛生曹長を探すんだ、分かったか」
重機分隊の兵の肩の皮膚が剥げてしまう理由が飲み込めた。
これは、まるで苦行そのものだ・・・
石村があれだけの負傷をおして、この重量を支えていたのがとても信じられなかった。
人の意志の強さというものの偉大さを思い知らされた感覚を受けた。
苦痛に歪む顔を気づかれたのか、時折横山が大丈夫かと何度も心配そうに古屋に声をかけてきた。
初めて経験する、無限に感じられる時が静かにそして緩やかに流れた。
夜がその終わりをようやく見せようとする頃になって、やっと目的地に到達した事を知った。
薄明かりを通した数メートル先の窪地の中に、見知った顔を幾つか見つけた。
完全装備に身を包む清水小隊長以下四名がそこに身を潜めていた。
向こうから声をかけられるまで、誰一人その窪地に気づく者はいなかった。
それは経験を深く積んだ兵士によって巧妙に造られた掩体だった。
「中隊長殿」
清水が抑えた声で古屋を招きいれる。
「どうだ?」
「いかんです。水源確保に向った大半の者が見当たらんのです」
この暗闇の中では表情を読み取る事は出来ないものの、悄然とした口ぶりにその苦悩が伝わってきた。
甚大な兵力の損失を内地で、という事実が清水の受けた衝撃の深さを一層強くしている。
まだ何の行動も取れていないにも関わらず、一体どれだけの犠牲が出ているというのか。
暗然とした思いで、目を凝らす古屋の耳に微かな物音が聞こえた。
藪の小枝が折られた時の乾いた音。
何かが移動中だ。
掩体の前方五、六十メートルの位置から突如銃声が沸き起こり、後方の家屋に土煙が上がるのがはっきりと見えた。
撃たれた家屋側からも激しく応戦する様が見える。
驚いた事に、相手側の放った弾薬は古屋の知るどの小銃弾よりも強く炸裂した。
狙いも悪くない。腕は一流だ。
これは、苦戦を免れそうにもないな・・・
古屋は兵力の分散した今の状態を、寒々とした気持ちで迎えた。
散発的だった戦闘が至近距離の位置に移るに従って、一段とその激しさを増していった。
「村の外周の一角に取り付いていた敵が、こっちに回り込もうとしとるんです」
清水は自分の説明に身を硬くした中隊長を安心させる為に言葉を続ける。
「やられた兵隊の仇をとる絶好の機会です。自分らに任せといてください」
掩体を囲む様にして積み上げられた土嚢の前には、横山たちによってどっしりと重機が据え付けられていた。
制圧射撃や阻止射撃を良しとせず、精密な狙撃をモットーとする日本軍の射撃手の中でも
抜きん出て優秀とされる小出上等兵が九二式重機関銃の銃杷を握っている。
「分かった。ここは貴様に任せる。俺は後方に戻って兵の掌握に努めよう」
頷いた清水が射手の小出上等兵に身を寄せる。
「小出、充分に引き付けて撃て。一人二人じゃ、元は取れん。まとめて片付けるつもりでな」
振り返り様に軍刀を抜き放ち、清水が他の三名にも声をかける。
「一連射の後、一気に突っ込む。刺したら、そのまま撃て」
闇を通して仄かに燃える清水の目を見た時、古屋は返す言葉を失った。
戦場では誰もがおかしくなる。
例外は、無い。
清水は、西川参謀の命令を忠実に実行しようとしているに過ぎない。
土居参謀長の意志も深く追求していけば、そこに重点が置かれているようにも思えた。
語らない部分にこそ、重大な核心が姿を潜めているのだろう。
これは我が軍の行う戦闘の中でも、特別な戦闘なのだ。
本来は、自分の様な意志薄弱の者が指揮を執る任では無かったのだ。
情や倫理観を持ち込む事は、軍人なら当然の事、如何なる理由があろうと許されない。
自分の考える理想的な軍人像の一つでもあった倉田でさえ、此処で命を絶ったのだ。
自分には率いてきた部下達を一人でも多く連れ帰るという使命が残されている。
全ての力をそこに注ぎ込もう。
誰が正しくて誰が間違っているのか、解るとしてもそれは自分が死んだ後に違いない。
個々になれば、軍人と言えどもやはり人間だ。
絶対的な力に縋ろうとする心の動きを、一体誰が責められると言うのだ。
現に、自分こそ江藤中尉に救いを見出そうとしているではないか。
古屋が掩体を出ようとした時、三十発保弾板を使用する重機独特の射撃音が夜の静寂を切り裂いた。