歴史上のオカルト的事件

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667あなたのうしろに名無しさんが・・・:03/12/23 04:04
a 寧波のケース

 寧波(当時の正式名称は、朶県県政府、人口約26万)は浙江省東部の交通網の中心に位置する
重要な港湾都市であった。とくに日本軍が上海、広州を占領したのち、寧波は中国から海外に
向けての数少ない主要な海上ルートとなり、戦略的にきわめて重要な位置を占めていた。
 1940年に入ると、日本軍は中国に対する海上からの国際的な物資援助ルートを断つため、
艦艇を派遣して寧波沿海を封鎖し、空から寧波爆撃をくり返した。同年4月にも海上から攻撃をかけたが、
中国軍により撃退されていた。中国側は寧波を防衛するため、地方部隊を配送したほか、
陸軍第194師団などの正規軍を駐屯させていた。日本軍は9月13日から攻撃を中止し、空中偵察を強化した。
 1940年10月27日、ペストノミが小麦の粒と共に投下された。日本軍機は当日二回
(午前6時47分と午後2時20分)寧波市に飛来した(『時事公報』(1940年10月28日))。
668あなたのうしろに名無しさんが・・・:03/12/23 04:04
小山和伸 神奈川大学教授

1、南京事件の研究の当たっては、歴史の真実に忠実でなければならない。
アイリス・チャン氏が初めから日本非難の意図をもっていることは明白である。
なぜなら、チャン氏は南京事件についての真相を調査するための真摯な努力
を欠いたまま、著書『ザ・レイプ・オブ・南京』において日本を告発して
いるからだ。チャン氏のやり方は正義に反している。
2、極東国際軍事裁判はいかなる点でも裁判の名に値しない。
極東国際軍事裁判(東京裁判)は最初から、日本に戦争犯罪を押し付け
るための手段として仕組まれたものであった。
それだけに裁判で主張された歴史に関する断罪は、全く説得力をもっていない。
先に述べたように、アイリス・チャン氏は、綿密な調査をほとんどしな
いまま、南京大虐殺が行われたと断言している。
669あなたのうしろに名無しさんが・・・:03/12/23 04:05
http://www.nipponkaigi.org/reidai01/Opinion3(J)/history/Nanking/nanking.htm
670あなたのうしろに名無しさんが・・・:03/12/23 04:05
しかし、この「南京大虐殺」というのは、東京裁判の創作にほかならず、
歴史の真実ではない。
3、教育的見地から見ても、チャン氏のやり方は間違っている。 我が国に
おいては、歴史的な真実を歪めた反日教育がいまや義務教育にまで
浸透しており、日本の将来を背負う青少年たちはこの反日教育とい
う「洗脳」の犠牲者となりつつある。
この不健全な教育情勢の中で、南京大虐殺の話は今さらのように話題
にされている。
左翼知識人たちは、日本は戦争犯罪を償っておらず、処罰を受けるべ
きだと主張している。
半世紀以上も昔の事実でない歴史を論拠として、自国を戦争犯罪国家だ
と非難する教育を義務教育の中で強制されることが、子どもたちにとっ
てどれほど悲劇的なことか、皆さん方も私たち日本人と同じ立場に身
を置いて深く考えていただきたい。
671あなたのうしろに名無しさんが・・・:03/12/23 04:06
4、チャン氏の著書は、日中友好の大きな障害となるだろう。
歴史的な事実を検証することなく、一方的に南京大虐殺が行われたと
中国人が強く主張し続けることは、結局は、中国人が如何に偽りに
満ちているかを世界の国々に対して宣伝することになるだろう。
確かな根拠もなく日本を告発するやり方は、日中間の友好を築き上げ
る上で大きな障害になるということを、中国の人々は十分理解すべき
である。
672あなたのうしろに名無しさんが・・・:03/12/23 04:06
まず、われわれは、力を組織し、広範な史料の収集をおこなった。
第一に、多方面から歴史資料を募り、収集した。様々な方法と、多くのルートを通じて、
全市、全省、全国の大都市の公文書館、図書館、博物館、映画資料館、歴史学研究機関、総合・単科大学に手紙を出し、
ネットワークをつくり、手がかりを見つけるや、専任者を派遣して重点的に個別訪問させ、
南京大虐殺の資料の収集作業を広範囲にわたって行った。この効果は顕著だった。
集まった主な資料には、@二つの戦犯裁判を中心とした保存書類資料、
A当時、国内外で公に出版されていた新聞、図書の資料、
B当時の日本軍による虐殺の現場写真やフィルムの資料、
C日本軍の側が当時編纂し出版していた『支那戦跡』等の、一連の日本側の資料。
第二には、南京大虐殺の幸存者の全面的調査である。
1984年3月から、五ヶ月近い時間をかけて、はじめて南京大虐殺の幸存者の全面的調査をおこない、
幸存者、目撃者、被害者でいまなお健在な1756人を発見した。
同時にまた、集団虐殺に遭い、被害の重大な多くの証人が見つかった。
その中には、中山埠頭での集団虐殺の幸存者の劉永興、草鞋峡の集団虐殺の幸存者の唐広普、
石炭港の集団虐殺の幸存者の陳徳貴と潘開明、一家九人のうち日本軍に七人虐殺された夏淑琴、
日本軍の凶暴に反抗した李秀英などがいる。調査した幸存者については、証人の人名簿を編纂して出版し、
被害の一覧表に書き込んだ。重要な証人についてはすべて個別訪問の記録をつくった。
身体に傷跡のある人については、また、傷跡の写真を写した。
第三には、かつて「極東国際軍事法廷」と「中国南京戦犯裁判軍事法廷」に参加して裁判をおこなった重要な歴史の証人を訪問した。
673あなたのうしろに名無しさんが・・・:03/12/23 04:06
★南京事件の大疑問(資料)

※1937(昭和12)年12月の南京攻略戦で南京「大虐殺」
事件がおこったというが、この事件は以下のような理由で存
在したかどうかも疑問である。
多数の人が死んだだけでは虐殺ではない。当時「支那事変」と
いう名の戦争中だったのである。
「事件」を主張する人は、人が死んで当たり前の状況だったこ
とを忘れている(わざと?)の である。
※個人的な非道や一部部隊による捕虜殺害はあったが、これ
は組織的な「大虐殺」の証 拠とはならない。
※中国で、南京「大虐殺」事件の写真集が売られているが、
なぜか一般の日本人には販売しない。
しかし、南京の全住民が殺されたこの事件で、いったい誰が
「血に飢えた日本軍」の目を盗んで写真を撮ることができた
のだろうか? 
674あなたのうしろに名無しさんが・・・:03/12/23 04:07
ちなみに、南京「大虐殺」の写真証拠と証明されたものは、
一枚も残っていない。
なぜなら、死体が写って いるだけの写真は、証拠にはならな
いからだ。
※推測や伝聞に基づく南京「大虐殺」事件が教科書に載って
いるのに、日本人がソ連軍 や中国軍に虐殺されたり、強姦
されたりした事件が載っていない事に疑問を感じない か?

◎「大虐殺」を主張する人は、下記のような疑問に答えられない。

1.日本軍は30万人殺したと言うが、当時の南京の人口は
16〜25万人である。
しかも戦 闘が迫って避難する人々も多かった。さらに日本軍
の南京入城から1か月後には人口5万人になっている。その後の日
本の8年にわたる軍政下で、人口は増えつづけている。虐殺があ
ったとしたら、一般市民は南京に戻らないのではないか。

2.何十万人もの人間を短期間で殺すためには組織的な準備が
必要である。
ナチスの収容所のような所でも、一度に殺すには限界がある。
ちなみに広島の原爆で人口30万6500人のうち24万7000人
が死んだ。それに匹敵する人数を、数日間で行うことは不可能である。
仮に東京を絨毯爆撃しても7〜8万人が限界であると考えられている。
しかし、もちろん日本軍はそのような準備はしていなかった。
675あなたのうしろに名無しさんが・・・:03/12/23 04:08
当時朶県衛生院内科主任であった孫金鉐は、「1940年10月27日の早朝6時か7時、
日本の飛行機が一機、寧波市の上空に侵入して一回旋回して去った。昼12時ごろ、また日本機一機が
市街地区上空を低空飛行した。当時、市の中心の東大路、開明街が交差する一帯の商店や住居では
屋根や中庭に麦や栗の類が散らばっているのが見つかった。角ではいっそう多かった。
ある人は飛行機が飛び去るとき屋根でバラバラと音がするのを聞いた」(87)と回想している。
 穀物などに隠されて、大量のペストノミが地上に落とされた。
当時寧波臨時防疫処の消毒隊副隊長であった鍾輝はこう証言している。
「ペスト発生後、隔離病室の病人が語ったところでは、日本軍機が飛来したとき多くの麦と栗が
いっしょに落下し、飛び跳ねる小さな物もたくさんあった、という。その後、白色の防ノミ服を着て
リノリウムの長靴をはき、汚染区で仕事をして出てくると、下半身にふつうより小さい真っ赤なノミが
大量にはっていた。死者がいちばん多かったのは、麦がもっとも多く落下した家である。
宝昌祥号では14人、元泰紹酒店では6人死亡したが、この二軒は麦の落下がもっとも多かった」(88)。
 10月29日に最初の患者が発生し、2日後には死者がではじめた。
676あなたのうしろに名無しさんが・・・:03/12/23 04:08
3.大量に死体を放置しておけば当然伝染病が発生するので、
直ぐに殺した側の軍隊はそこから離れなければならないはずだ。
しかし、日本軍は南京を統治する意思があったので組織的に大
量虐殺を行い、病気をはやらせるわけがない。

4.日本軍は南京が平静を取り戻したのち、軍人と民間人を識
別するために「良民票」  を発行したが、その発行数は約20万
で、これは外国の機関にも確認されている数である。
つまり、南京攻略戦で一般市民はほとんど死んでいないということ
である。

5.軍隊が貴重な「鉄砲の玉」を抵抗能力のないものに対して無駄
遣いさせるはずがない。
また石油をかけて殺したという話もあるが、当時は「石油の一滴
は血の一滴」と言われており、これもまた考えられない話である。
677あなたのうしろに名無しさんが・・・:03/12/23 04:08
6.欧米の外交団や反日的なキリスト教牧師や大学教授,ジャ
ーナリストが南京城内に残っていたので、司令官の松井石根大
将は細心の注意を払っていた。
近くにある中国国革命の父・孫文の墓を荒らさぬことまで気に
掛けていた。 

7.軍需品や必要な食料を占領地域から徴収することは国際法
上合法である。これは日 本軍人の悪事ではない。

8.東京裁判で初めてこの事件が公にされたが、証人のマギー
牧師が実際に見た殺人事件はたった1件で、しかもそれは警備
兵に誰何(すいか)されて逃げたからであった。
誰何して逃げれば味方でも殺すのが戦時国際法の措置である。
それ以外の彼の証言は伝聞,噂話,憶測ばかりであった。
678あなたのうしろに名無しさんが・・・:03/12/23 04:09
9.マギー牧師は当時の南京城内の実写フイルムを所持し、
これは現存しているが、死体の映像が写っているだけで、日
本軍の仕業かどうかはわからない。
東京裁判にも証拠として提出されなかった(つまり、採用され
る見込みがなかったということ)。

10.中国軍は国際法で禁止されている便衣隊(非戦闘員を装
った兵士、ゲリラ。
便衣隊 を銃殺してもジュネーブ条約第4条により合法である)
の取締りをしなかったために、便衣隊に混じって、不幸にも
民間人が殺されたケースは考えられる。
これを含め、日本軍人による若干の事件はあったが、松井大将
は犯人を軍法会議にかけ、厳しく処断している。
ちなみに軍法では強姦者は銃殺であった。
679あなたのうしろに名無しさんが・・・:03/12/23 04:09
(1)1964年、中国側から極東国際軍事法廷の仕事に参加した人たちを訪ねた。
それは、担当司法官で、検察官の向哲俊、元中国検察官主席顧問の兒征安、首席書記の裘劭恒、
書記兼通訳の周錫卿と高文彬、張培基、中国司法官の梅汝綾(故人)の秘書の楊寿林などである。
楊寿林は当時の極東国際軍事法廷裁判の実況を写した写真帳一冊を快く提供し、全部で141枚の写真を、
東京裁判研究のために重要な証拠資料として提供してくれた。 

(2)1984年9月、わが国の駐パキスタン大使館職員の葉於康を紹介する過程で、はじめて彼の父親の葉在増が
かつて当時南京戦犯裁判軍法廷で審理にあたり、現在は九江に住んでいることがわかった。
われわれは、すぐに専任者を派遣し訪問し、その結果意外にも彼こそが南京大虐殺の主犯の谷寿夫を審理した担当の司法官であり、
重要な歴史の証人であることがわかった。
その次に幅広い資料の収集の基礎の上に、われわれは南京地区の専門家、学者を結集して、収集した資料の整理研究をおこない、
史料集と学術専門書を編集し出版した。その主なものは、『侵華日軍南京大虐殺史料』[8]、『侵華日軍南京大虐殺残虐行為写真集』[9]、
『侵華日軍南京大虐殺史稿』[10]、『侵華日軍南京大虐殺档案』[11]である。そのほかに、『侵華日軍南京大虐殺』を撮影し、
歴史的文献を記録映像とした。これらの成果は、すべて研究の系統化と全面化としてはっきりとしてあらわれていった特徴をもっている。
この他に80年代では、その他の地区と国外の専門的学者もまた南京大虐殺の系統的研究論文や専門書を出版した。

680あなたのうしろに名無しさんが・・・:03/12/23 04:09
 cf. ハーグ条約(1907年)では、敵から見えるように武器
を持ち、正規兵の服装をしない者(つまりゲリラ)は、条約の与
える保護を受けることはできないと定められている。
これは、現在も生きている戦時国際法である。

11.南京は国際都市であり、非戦闘員を集めた「安全区」
があり、欧米人が管理していた。当時日本に反感を持って
いた米,英,仏も外交的な抗議を行ってはいないし、
「安全区」を砲撃せず、病院に肉などの食料を贈った日本軍
の行為に対して感謝状まで贈っている。
12.蒋介石は小さなことでも国際連盟に訴えていたが、南京
での出来事を国際連盟(日本は脱退していたが)に提訴してい
ないし、他の問題で日本を非難した国際連盟が、南京「大虐殺」
を非難していない。
681あなたのうしろに名無しさんが・・・:03/12/23 04:10
13.当時、支那事変のニュースを送っていた欧米の通信社
(マスコミ)が、本国に「大虐殺」事件を打電していない。

14.日本の新聞記者や著名な評論家・作家など 120人も南京
陥落と同時に南京入りしたが、戦時中は軍が怖くて批判が無理
だったとしても、戦後に至っても「大虐殺」に関して何の記事も
書いてはいないし発言もしていない。
ちなみに、支那事変の初期には、報道は自由であった。
「大虐殺」を非難する「ジャーナリスト」本多勝一や「歴史学者
」洞富雄,藤原彰一らによる著作は、当時少年だった数人の「証
言」を一方的に伝えたもので、検証を行っていない。
ゆえに信憑性が薄く、また関係者の「回想」なるものも、矛盾
に満ちており、時流便乗的なものばかりで史料とはなりえない。
682あなたのうしろに名無しさんが・・・:03/12/23 04:10
衛生院は11月4日検査の結果ペスト患者であると確認した。11月2日から、朶県政府は、防疫措置をとり、
流行地区が封鎖され、6日、臨時防疫処が設置され、地区内に隔離病院が設置された。
11月6日までに死者は47人を数えていた。40数人の患者を隔離観察とし、死体を消毒するものとし、
西南郊外の老龍湾で地下深く埋葬した。流行地区内の全家屋115戸が11月30日夜全て焼き払われた。
流行は12月2日に最終の患者が死亡するまで35日間つづき、死者は109人であった。1ヶ月にわたる
防疫活動の結果、11月末に流行は抑えられた(89)。
 1940年寧波ペストの流行は、明らかに人的な伝染の特徴があった(90)。
その理由は、第1に、甲部隔離病院に運び込まれた61例の症例の記録によると、
ほとんど全て腺ペストであり、疫病に感染したノミに噛まれて感染したものである。
 第2に、10月27日午後投下され、29日には発病者が出た。潜伏期は48時間にも満たず、短い。
特別な毒性のペスト菌であった。
683あなたのうしろに名無しさんが・・・:03/12/23 04:11
15.日本軍は首都南京の被害が大きくなることを考慮し、蒋介
石に対して南京をオープ ン=シティ(無防備都市=国際法によ
り、降伏する代わりに敵に攻撃されない)とすることを勧めたが
、彼はこれを拒否した。
責任者である将軍達は市民や敗残兵 (中国人敗残兵はタチが悪いこ
とで国際的に古来有名である。
また、虐殺したり、死体を辱めることも常であった)を残して
逃げてしまっていた。
彼らによる略奪や強姦,殺人といった事件もあった(米国の外
交官や新聞記者が、中国人敗残兵が市民から衣服を奪い、抵抗す
る者を殺しているという報告している)。
オープン・シティにしないのであれば、降伏するか、徹底的に
戦うかの意思を内外に表明すべきであった。
首都南京で戦闘が行われた混乱の責任は国民政府にある。
684あなたのうしろに名無しさんが・・・:03/12/23 04:11
16.南京陥落前に南京を脱出したドイツ人の日記なるものが
南京「大虐殺」事件の新資料として宣伝されたことがあったが、
そこには、「南京の揚子江岸は、死骸が山のようにあった」と
書いてある。
この時日本軍はまだ南京に入っていないのであるから、これが
事実なら「大虐殺」は日本軍以外の何者かが行ったことになる
のではないか?

※余談であるが、(昭和2年の)「南京事件」や「済南事件」
以外にも、日本の敗戦後中国に在留していた日本人が、無実
の罪で各地で中国人に虐殺されるという事件が起きており、
行方不明者も含めてその数は5000人にのぼるという。
鞍山(1500),本溪湖(290),安東(300),黒河(200)
,哈爾浜(1300), 通化(700)など(地名のあとの括弧内
の数字は殺された日本人の数)。               
685あなたのうしろに名無しさんが・・・:03/12/23 04:11
第四段階:80年代の末以降、国内外の一連の新しい史料の発見と公表に従って、南京大虐殺の歴史的研究は次第に深化し、新しい段階に入った。

80年代末以来、中国だけでなくアメリカやドイツなどにおいても、相次いで「南京大虐殺」に関する史料が発見された。
その中で主要なものをあげれば、1990年ドイツの公文書館ポツダム支所で見つかった『ローゼン報告』、
1991年アメリカであらためて発見されたマギー牧師の映した日本軍の残虐行為の記録フィルム、
かつて南京に留まり、金陵女子文理学院の代理校長のヴォートリン日記、鼓楼病院の医師のウイルソン日記、
南京国際安全区副総幹事のフィッチの日記と手紙がさらに発見され、
彼らはみな日本軍の南京での放火、殺人、強姦、掠奪を自分の眼で目撃したのである。
1994年、アメリカワシントンの国立公文書館で公開された電報の中で、南京大虐殺に関する内容が発見された。
それは、1938年1月17日、日本外務省の外務大臣広田弘毅が、日本の駐ワシントン大使館に宛てた電文の中で、
日本軍が南京で三十万人を虐殺した事実にふれている。
また、遼寧省の公文書館の日本の満鉄に関する保存書類の中でも南京大虐殺に関する資料が発見され、
その中に記載されている死体埋葬の数が、中国南京紅卍字会が埋葬した死体の数と完全に一致した。
さらに、東史郎氏などの元日本軍兵士が当時南京大虐殺について書いた手記や日記が公開されている。
1996年12月、新たに発見された国際安全区委員長のラーベの日記は、南京大虐殺事件の中でも数量が最も多く、
ほぼ完璧に保存されている史料である。それは、当時南京に滞在した一人のドイツ人が自分自身で目撃した南京大虐殺の真実の記録である。
日記を書くと同時にラーベは入念に80数枚の現場で写した写真を保存しており、詳細に説明を加えている。
ラーベの日記とその写真は、南京大虐殺事件を証明するもう一つの動かぬ証拠である。

686あなたのうしろに名無しさんが・・・:03/12/23 04:12
平成10年6月12日、東京・有楽町の外国人記者クラブにおい
て、中国系アメリカ人ジャーナリストであるアイリス・チャン
著『ザ・レイプ・オブ・南京』(ベーシック・ブックス社刊、
邦訳は柏書房)への反論の記者会見が行われた。
 チャン氏は、いわゆる「南京大虐殺」を扱った著書の中で
「昭和12年12月から翌年1月、日本軍が南京を攻略・占領した
際に30万人もの人々を殺害した」と記述している。そこで、南京
問題についての我が国の専門家数名が、チャン氏は疑わしい史料に
基づいて南京事件を描いており、その著書は信用できないと批判
したのである。 
これは、その記者会見の席で配布されたレジュメを、著者の了解
を得て掲載したものである。
687あなたのうしろに名無しさんが・・・:03/12/23 04:13
◆「南京大虐殺」の真相
http://www.geocities.com/Tokyo/Flats/2847/Yamato12.htm
1998年11月2日、「南京を考える」シンポジウムが開催され、南京大虐殺
の虚構が明らかにされた。
 当日に放映すべく収められたビデオの中から、丸山進氏(84歳)の証言をこ
こに紹介したい。
引用元は、「明日への選択」 (1998年12月号)である。
 丸山氏は、満州鉄道の上海事務所に所属、後に日本軍の南京特務機関員として
南京自治政府との交渉役となった。南京での死体埋葬の指揮にもあたられた方
である。

688あなたのうしろに名無しさんが・・・:03/12/23 04:13
第3に、前出の鍾輝の証言にもあるように、投下された麦粒が多かった地域で、最も多くの死者が出ている。
第4に、流行の前にも、流行期間にもネズミの死体が発見されていないので、
通常ペストがネズミなど齧歯類の間で流行し、大量のネズミの死体がでたのちに、
人間の間で流行するのとは全く異なっている。
第5に、疫病地区の範囲が限られている。疫病の発生は開明街と中山東路口5000平方メートルの
範囲に限られており、日本軍が疫病に感染したノミを投下した範囲と一致している。
第6に、腺ペストの流行が容易に発生しない季節に爆発的に流行した。第7に、病例は時間的に集中している。
主として投毒後一週間内に集中しており、全ての死者の半数近くを占めている。
最後に、当時、治療活動に参加した丁立成が、「自身の保存する寧波の伝染病流行状況の統計資料からみて、
1940年以前に寧波にはペスト患者の発生はなかった」と証言したように、1940年10月以前には寧波で
ペストが流行した形跡はない。以上の理由により、1940年10月以降寧波に発生したペストは、
自然的流行とみることには困難があり、日本軍によるペストノミ投下によると判断する以外にないと考えられる。
689あなたのうしろに名無しさんが・・・:03/12/23 04:13
=========以下引用です===========

 (中国側は陥落後六週間に亙って大虐殺が行われたと主張するが)陥落後
二週間後に南京に着いたが、市内はかなり落ち着いていた。
一月の元日には胡楼広場で南京市自治委員会の結成祝賀会があり、その後に車
で市内を見て回った。城内はほとんど回ったが、死体はほとんど見ていない。
隈無く見たが、私が実際に見たのは邑江門のあたりで少し見たくらいで、死体
がごろごろしているという状態ではなかった。
 中国人とは、仕事柄しょっちゅう会って話をしていたが、日本軍 が中国人
を虐殺したとか暴行を働いたとかいう話しはなかった。
「かなりの人が戦災を受けている」と私に教えた南京市自治委員会の幹部もい
たが、それは虐殺されたということでなく、陥落前に日本軍が軍事施設を爆撃し、
その巻き添えになつた人が相当いるという意味だったようだ。
690あなたのうしろに名無しさんが・・・:03/12/23 04:14
691あなたのうしろに名無しさんが・・・:03/12/23 04:14
 城内には、外国人によって作られた国際安全区があり、私が南京に行った当時、
市民は皆安全区の中におり、外にはほとんどいなかった。
だから、区外で虐殺や暴行があったとすれば理屈に合わない。
安全区の中といえば、私自身、安全区に住んでいたが、死体について言えばほ
とんど見ていない。
 最初のうちは、安全区のなかに敗残兵が沢山入っており、衛兵が要所要所に
立っており、憲兵隊も巡回していた。
だから、一般の兵隊は無断で安全区には入れない(我々は特務機関の腕章を
付けているため安全区に入れたが)。
 住民は、安全区の中の大官の家とか外国人の家などに集まっているが、とても
二十万という人を収容できない。
692あなたのうしろに名無しさんが・・・:03/12/23 04:15
それで国際委員会が金陵女子大とかその他の空き地にテントを立ててやり、そこ
で彼らはキャンプ生活をしていた。しかし、ずいふん落ち着いていたと思う。
一月はじめには道端に屋台や露店が出、そこで物を買ったりした。
住民が特に日本兵を恐れるような風もなかった。

(中国側の三十万虐殺説の根拠には、紅卍字会の埋葬した四万余と崇善堂
の十一万余を足した十五万五千三百余の死体埋葬数が証拠としてあげられている。
しかし、その数の虚構についても丸山氏は証言している。
激戦の南京攻防戦では日中双方に多数の戦死者が出たが、日本軍は自軍の遺体
は残さず回収し、荼毘に付した。
中国人の遺体が残されていたが、これは大半は戦闘による戦死者である。)

 昭和十三年一月中旬頃、佐方特務機関長が、死体が腐って環境衛生上よくない
ため、片付けるよう発案された。
この何万という死体を処理する能力は日本軍にしかなかったが、その時は警備部隊
の一個師団しかなく、余力がない。
693あなたのうしろに名無しさんが・・・:03/12/23 04:15
そこで、中国人を使うことになり、自治委員会に相談し、紅卍字会という一種の慈
善団体に頼んだ。
 作業の進み具合は紅卍字会が毎日日報を作成して、自治委員会に 報告した。
二月一日頃から作業を始め、二月末までに約五千体を埋葬した(一日の処理数は
多くて二百体、平均して百八十体位が紅卍字会の能力だった)。
この調子では捗らないので、作業は昼夜なしでやらせ、成績が上がれば、一体当
たり三十銭の割り増しを出すことにした。
その後、三月十五日までに三万一千七百九十一体を埋葬したという報告がきたが、
この数字には明らかに水増しがある。
二月末で五千体で、三月十五日でその数字であれば、十五日間で二万六千余を埋葬
したことになり、一日あたり千七百位処理したことに なる。
694あなたのうしろに名無しさんが・・・:03/12/23 04:16
獲得した新しい資料の基礎の上に、わが国の南京大虐殺に関する研究と資料整理の作業は、この十年間で顕著に進み、一連の新しい史料集と専門書を編集し発行した。
それは、『侵華日軍南京大虐殺幸存者証言集』[12]、『日本帝国主義侵華档案資料選編…南京大虐殺』[13]、『南京大虐殺写真集』[14]、『南京大虐殺の歴史的証人』[15]、
『血腥い嵐…侵華日軍の江蘇省での残虐行為記録』[16]、『血の証拠』[17]、『血祭…侵華日軍南京大虐殺実録』[18]等である。
『侵華日軍南京大虐殺の外国人の証言集』[19]は年内に出版される予定である。
ここ数年来、南京大虐殺の研究は、全体から局部に、マクロからミクロに深められて発展しているという特徴があらわれてきた。
南京大学歴史学部教授の高興祖先生は、南京大虐殺について長い間研究にたずさわり、際だった功績をあげられている。
彼の著述した『日軍第16師団の南京下関での虐殺』の文章では、大虐殺の全体像から具体的な事件について詳細に研究している。
江蘇省社会科学院歴史研究所の研究員の孫宅巍氏は、それぞれの慈善団体の死体埋葬の元々の記録を入手して真剣に考証し、
南京大虐殺の被害人数について研究を深め、多くの正確な根拠をもって日本軍によるわが三十万人同胞虐殺の歴史的事実を論証したのである。

695あなたのうしろに名無しさんが・・・:03/12/23 04:16
b 衢県のケース

 衢県は浙江省西部の衢州地区に位置し、浙江から江西につながる戦略上重要な地点であり、
水路の交通が発達していた。1941年当時衢県県城の人口は3万5千人であり、衢県は終始日本軍の
細菌戦の主要目標の一つであった。
 日本軍が最初の攻撃をしたのは、1940年10月4日である。同日朝午前9時頃、
「敵機一掃が偵察を旋回し、尾根をかすめて飛び去った。敵機が去ったのち、紫家巷一帯で麦、
黒麦、アワ、ノミが大量に発見された。」細菌散布の「17日後、衢県県城では大量の死んだ鼠が
発見された。」(91)
 同年11月上旬になると、日本軍がペストノミを散布した地点で、突然ヒトペストが爆発的流行をみせた。
11月12日、紫家巷三号の呉士英が最初に発病し15日に死亡した。11月18日に患者のリンパ液を検査した結果、
グラム陰性杆菌が発見され、ペストと診断された。12月7日までの26日間に患者は25人になり、
そのうち24人が死亡した(死亡率は96%)(92)。
696あなたのうしろに名無しさんが・・・:03/12/23 04:16
しかし、私の知る限り、一日当たり最大で六百から八百が限度なので、かなりの水
増しがある。
当時からこのことは気付いていたが、それを指摘すると埋葬作業そのものが駄目に
なるのでそのまま認めようということになった。
金もその数字に基づいて、一万一千円が自治委員会を通じて紅卍字会に支払われた。
 紅卍字会が東京裁判に証拠として提出した記録も明らかに作り替えられている。
例えば、十二月二十二日に七百七十体余、十二月二 十八日には、六千四百六十八
体を埋葬とあるが、そんな事はあり得ない。
この時期は人夫五十人雇うのすら難しく、 とてもそんな作業はできない。
しかも十二月二 十八日の分は埋葬場所も空欄になって おり完全に嘘である。
 私自身三月十五日の段階で現場を見て回ったがアンペラを被せたままで埋葬
していない死体がかなり残っていた。
697あなたのうしろに名無しさんが・・・:03/12/23 04:17
ところが日報ではそれが既に埋葬されたことになっていた。
こちらが急がせていたので、それすらも日報にいれていた上、東京裁判の時に
更に改竄されたということだろう。

(当時、ほとんどの人が知らなかつた崇善堂の埋葬数十一万 について)
崇善堂というのは小さな慈善団体で我々が埋葬作業をしてい た当 時はほとん
ど活動していない。
活動を始めたのはずっと後で六月頃と思うが、それも施粥などで独自に
埋葬する力はなかった。
本多勝一が「南京への道」で崇善堂が三人一組で埋葬作業をしたと言って いる
が、十一万体の埋葬には延べ九万人、三人一組だと三万組が必要。
崇善堂にはそんな力があるとは思えない。
経費から言っても十 一万体の埋葬には諸経費含めて四万五千円ほどかかる。
これは自治委員会の一ヶ月の全行政費用に相当し、小さな一慈善団体の払える
経費ではない。
698あなたのうしろに名無しさんが・・・:03/12/23 04:17
南京大虐殺史の研究の深まりの基礎の上に、もうひとつの新しい特徴があらわれている。それは、直接の知覚に訴えて教育する効果のある文学や映画、テレビが現れてきていることである。
とりわけ、テレビドキュメントの三つの作品をあげなければならない。それは、江蘇省テレビ局が撮影した記録映画『南京大虐殺……幸存者の証言』(上、下)、
南京テレビ局がつくった記録映画『南京大虐殺…歴史の証言』(第8回)、吉林省テレビ局の撮影した記録映画『南京大虐殺秘密文書』である。
文学の方面では、徐志耕の報告文学『南京大虐殺』、周而復の『南京の陥落』等であり、映画では、前からあった南京映画制作所が撮影した『屠城血証(みな殺しの証拠)』の他に、
劇映画『南京大虐殺』(監督呉子牛)、『黒い太陽・南京大虐殺』(監督牟敦蒂)を発表した。
テレビ劇の方面では、南京テレビ局が撮影したテレビ音楽映画『心祭』、テレビ劇『弾痕のあいた一元銀貨』などがある。
新しい史料の発見で、南京大虐殺史の研究は深められ発展し、促進されていった。そして日本の右翼分子の絶えまない侵略否認や、
南京大虐殺を否定するデタラメな言論も、かえってますます多くの人たちの関心と南京大虐殺史の研究への参加を促した。80年代以来、国内外の南京大虐殺史の研究は不断に深められていることは、現在次のことに現れている。
699あなたのうしろに名無しさんが・・・:03/12/23 04:18
11月20日には県衛生院が患者診断から腺ペストと断定し、22日にはペスト防疫委員会が設置され、
同日、警官が派遣されて、流行地区を封鎖した。12月7日を最後にペスト流行はいったんおさまったか
にみえたが、12月16日、防疫委員会は感染家屋の焼却を決定し、12月22日ー24日の間に10戸37間を焼却した(93)。
しかしネズミ類の間でペストがすでに感染していた。「衢州ペスト流行状況と予防治療工作」
によると、1940年の防疫期間に「家ネズミ1588匹を解剖したところ、133匹がペスト菌を帯びていて」(94)、
2次感染の危険が迫っていた。
41年3月上旬、ペストが衢県県城地区の坊門街で再発し、まもなく城内十数本の街巷で同時に発生した。
同年6月衛生署は防疫のためポリッツァーを派遣して、流行は同年12月になってようやく終息したが、
その間県城の37の街巷で流行した。中国側の発表によると、41年に衢県県城地区で発生したペスト患者は
281人、うち死亡者は274人であった(95)。
700あなたのうしろに名無しさんが・・・:03/12/23 04:19
(1)国内外で、一連の地域的な、ゆるやかな研究機構が相次いで発足し、それぞれの人の分散的な研究が組織的集団的な研究に変わり、一般的で表層的な研究から、具体的でより深められた研究へと転換していった。

アメリカで、抗日戦争史実擁護会、祈念南京大虐殺受難同胞連合会等の組織が成立し、多くのアメリカ籍の中国系学者が団結した。彼らはまた学術シンポジウムを開き、テレビフィルムを撮影し、書籍を出版するなど、
際だった成果をあげている。彼らはまた日常の組織活動を展開し、広範に南京大虐殺の史実を宣伝している。
例えば中国系作家の張純如女史は、南京大虐殺に関する作品を書くために、一年余りの時間を費やし、幅広く資料を収集し、
ついに『ラーベの日記』を捜しあてた。1996年12月12日、ニューヨークの祈念南京大虐殺受難同胞連合会が記者会見を行った席上で、
ラーベの孫娘のラインハルト夫人によって『ラーベの日記』は世間に公開された。尹集鈞と史泳が編集して著した『南京大虐殺』写真集は、
英文で南京大虐殺を全面的に紹介した写真集で、ヨーロッパ方面の読者に南京大虐殺についての理解を深めた。
日本では、「南京事件調査研究会」等の組織が結成され、南京大虐殺についての研究が深められてきた。
この会の会員の洞富雄、藤原彰、本多勝一、笠原十九司、井上久士、吉田裕等の二十数人が、二ヶ月に一回例会を開いており、
その成果は非常に大きい。各種の文章以外に、この会員が編集し著した南京大虐殺関係の著作はすでに数十冊になっている。
その中には、『南京大虐殺』(藤原彰)、『南京大虐殺の証明』(洞富雄)、『南京への道』(本多勝一)等が含まれている。
日本の学者小野賢二氏は、多くの元日本兵の日記を収集・整理し、彼の書いた『山田支隊の幕府山下での虐殺』の文章は、
十分な事実の根拠に基づき、日本軍の一部隊の具体的な虐殺地点で犯した暴虐行為を明らかにし、南京大虐殺研究をさらに一歩前進させた。

701あなたのうしろに名無しさんが・・・:03/12/23 04:19
702あなたのうしろに名無しさんが・・・:03/12/23 04:19
いまだ! 700ずさーーー
703あなたのうしろに名無しさんが・・・:03/12/23 04:20
衢県でペストが流行している間、日本軍の飛行機が県城を空襲したため、住民が周辺の農村に疎開し、
ペストの患者も封鎖地域から逃げ出したため、ペストは農村に拡大した。衢県の臨時防疫処副主任邸如崑医師は、
ペストの死者は県城、農村を合わせると少なくとも1200人を数えたと推測し、衢州市衛生局の邱明軒医師は、
その後の調査をふまえ、死者約1、500人以上と推定している(96)。
11月27日、28日金華に対して日本軍機は上空からペスト菌を直接散布した。白い霧状に見える顆粒が散布
されたが、それを福音病院に持ち込み検査したところ顆粒内にグラム染色法の陰性桿菌が含まれているのが
発見され、ペスト菌の疑いがもたれた。すぐに県政府と省衛生処に通報され、同月29日浙江省衛生試験所の
呉昌豊が金華に到着した。翌30日衢県で視察と防疫に協力していた浙江省衛生処処長の陳万里も金華に到着し、
病院で再度この顆粒を検査した。呉が顆粒を麗水の省衛生試験所に持ち帰って培養したところ、
繁殖能力は失っていたものの、金華上空から投下されたのはペスト菌であることが確認された(97)。
しかし直接ペスト生菌を散布したためペスト菌が死んでしまい、金華ではペストは流行しなかった。
日本軍は寧波、衢県にはペスト感染ノミを、金華にはペスト生菌を直接散布し、
その効果を比較検討したものと推測される。731部隊はペストノミの方法が効果的であることに確信を持ったのである。
704あなたのうしろに名無しさんが・・・:03/12/23 04:21
この他に、「南京大虐殺の真相を明らかにする全国連絡会」および「南京大虐殺60カ年全国連絡会」等の組織が相次いで結成された。彼らは南京大虐殺暴行展や絵画展をおこない、
南京大虐殺の幸存者を招請し日本で講演し、日本の右翼分子たちの歴史を否定するデタラメな言論を批判している。
また在日中国人の有志によって、日本で南京大虐殺記念碑が建立され、南京大虐殺史料陳列館がつくられた。
香港と台湾では、「祈念抗日受難同胞連合会」等の組織が結成され、毎年の12月に、南京大虐殺で犠牲になった同胞を追悼する取り組みがおこなわれている。
台湾の学術界の南京大虐殺についての研究は非常に特色をもっており、李恩涵氏の書いた『日本軍による南京大虐殺の虐殺指令について』、
『日本軍の南京大虐殺の戦時国際法にかかわる問題』等、ともに比類なきすぐれた見解である。
1985年、南京に侵華日軍南京大屠殺遇難同胞記念館が建設された後、南京大虐殺史の研究に積極的な役割を果たし始めた。
この館では多くの専門的学者が団結し、『短信』を編集して発行し、不定期に研究のニュースや学術的な動きを掲載し、
国に、「永久的な保存資料」として定められた。1995年、南京でまた、「侵華日軍南京大虐殺史研究会」が発足し、現在の会員はすでに百余人に達している。
学会の成立後、日本の戦犯に対する東京軍事法廷および南京軍事法廷裁判五十周年の座談会と南京大虐殺史学術シンポジウムを開いた。
この会員の高興祖氏は大虐殺の全体的な研究をおこない、孫宅巍氏は中国守備軍の人数、埋葬死体の数字的な研究をおこない、ともに非常に高い水準のものである
705あなたのうしろに名無しさんが・・・:03/12/23 04:22
c 2次3次感染のケース

生物兵器散布の「威力」は第2次、第3次感染を引き起こす点にある。
金華地区に属する義烏の流行は、この一例である。義烏で最初にペストが流行したのは1941年9月である。
41年9月2日、浙〓線の36歳の鉄道員〓冠明が衢県に出張中感染し、発病後の9月5日に列車で120キロ程
離れた義烏県城北門街5号の自宅に戻り、翌日6日に死亡した。1か月後の10月6日、北門街一体で続々と
ペスト患者が発生し始め、住民は流行地区外に逃れたため、ペストが急速に県城内で拡大した(98)。
10月9日に防疫委員会が設置され、流行地区の封鎖、隔離病院の設立、ペストワクチン注射などの措置を決定した。
義烏県城付近には陸軍第49軍第86軍等が駐屯していたため、国民政府は防疫を重視せざるをえなかった。
衛生処医務隊第16隊、医務隊工程隊第9分隊、軍政部第4防疫分隊等が次々と派遣された。
さらに、11月下旬にはポリッツァーが衢県から義烏にかけつけ、防疫の指揮をとった。
しかし経費不足や住民が日本軍の空襲から逃れて、周辺農村地域に広がったため、
12月の末にはペストの流行が県城全域に及んだ(99)。42年2月になってようやく義烏県城地区のペストは
抑制された。義烏のペスト流行は、41年末までに患者255人、死者23人を生み出した。
しかし、周辺農村地域では蔓延を続け、蘇渓、義東、東河などの郷に次々と拡大していき、
ついには県境を越えて、東隣りの東陽県にまでペストは拡大し、少なくとも死者113人を出した。
706あなたのうしろに名無しさんが・・・:03/12/23 04:23
(2)日本国内では、激烈な論争のなかで、南京大虐殺の研究が発展を遂げている。

70年代以降、日本国内では、南京大虐殺の史実の真実性をめぐって、長い時間をかけた激しい論争がおこなわれている。
この論争をめぐって日本国内では三つの学派ができている。
その一つは、「虚構派」である。南京大虐殺の真実性を否定する日本の右翼分子を「虚構派」あるいは「まぼろし派」といい、
その代表的な人物は、鈴木明、山本七平、田中正明である。彼らの代表的著作はそれぞれ、『南京大虐殺のまぼろし』、『日本人とユダヤ』、
『南京虐殺≠フ虚構』である。1985年、侵華日軍南京大虐殺遇難同胞記念館が落成しオープンした後、田中正明はすばやく雑誌『正論』誌上に
『南京大屠殺記念館に物申す』という挑発的な文書を臆面もなく公表している。

707あなたのうしろに名無しさんが・・・:03/12/23 04:23
ねえねえ、

誰も読まないよ

コピペなら URLでいいじゃん

ねえ、他人の言ってることがわからない人物の知性を、他人が認めると思うの?

乱立する情報を統合する能力が失調している人?

708あなたのうしろに名無しさんが・・・:03/12/23 04:23
(東京裁判で架空の数字が提出されたことについて)
 戦後、戦争犯罪を追及する段になり、中国側はおおよそ上海付近での戦死者
を二十万、南京付近を十万とみて、併せて「三十万」という数字をまず考え
たのではないか。
しかし、戦時国際法上、戦闘で死んだものは不法虐殺ではないから、東京裁判
に持ち出せる数はほんのわずかになる。
ところが、既に三十万という数を出してしまっているため、国民政府から南京
特別市政府に対してどうしても 「三十 万人」の証拠を作れという要請がいった
のではないか。
いずれにしても紅卍字会の埋葬は戦闘による戦死者のものである上、水増しさ
れており、崇善堂の方はまるまる否定してよい。
国際委員のベーツが紅卍字会の記録を元に、四万埋葬の内、約三 割、一万二千
は市民だったとしているが、埋葬記録をもとに城内にあった遺体を数えてみても
二千八百体くらいにしかならない。
しかもその内訳では女性七三体、子供二九体。
城内から持ち出した分とされているもの(七月から十月の埋葬とされており、
嘘か南京問題とは無関係のもの)を加えても女性百三体、子供四六体。
とても一万二千人の市民が虐殺されたというようなことからくる数字ではない。
中国人からの伝聞をそのまま報告書に書いたのだろう。
 南京大虐殺は完全な嘘である。
709あなたのうしろに名無しさんが・・・:03/12/23 04:23
 よくテレビや新聞でみかける「南京大虐殺」。
 そんな事実は全くない。が、ここまで嘘を繰り返すと本当にあったと
勘違いする人が増えて、いつしか”事実”にされかねない。
 では、当時の南京で何があったのか?

 (日本は早く日中戦争を終わらせたがっており、首都を陥落させれば蒋介石
も和平に応じるだろうという考えで南京を攻めた。
世界中がこの戦争に注目していたため、日本軍は国際社会での評判が悪くならぬ
ように軍規を厳しくし、一般市民への略奪や暴行を固く禁止していた。)

 昭和12年(1937年)、日中戦争のさなか日本軍は国民政府の首都である
南京の攻略を開始した。
南京城を包囲し、国民政府軍に対して投稿勧告を出したが拒否された為、攻撃を
開始し占領した。
710あなたのうしろに名無しさんが・・・:03/12/23 04:24
c 2次3次感染のケース

生物兵器散布の「威力」は第2次、第3次感染を引き起こす点にある。
金華地区に属する義烏の流行は、この一例である。義烏で最初にペストが流行したのは1941年9月である。
41年9月2日、浙〓線の36歳の鉄道員〓冠明が衢県に出張中感染し、発病後の9月5日に列車で120キロ程
離れた義烏県城北門街5号の自宅に戻り、翌日6日に死亡した。1か月後の10月6日、北門街一体で続々と
ペスト患者が発生し始め、住民は流行地区外に逃れたため、ペストが急速に県城内で拡大した(98)。
10月9日に防疫委員会が設置され、流行地区の封鎖、隔離病院の設立、ペストワクチン注射などの措置を決定した。
義烏県城付近には陸軍第49軍第86軍等が駐屯していたため、国民政府は防疫を重視せざるをえなかった。
衛生処医務隊第16隊、医務隊工程隊第9分隊、軍政部第4防疫分隊等が次々と派遣された。
さらに、11月下旬にはポリッツァーが衢県から義烏にかけつけ、防疫の指揮をとった。
しかし経費不足や住民が日本軍の空襲から逃れて、周辺農村地域に広がったため、
12月の末にはペストの流行が県城全域に及んだ(99)。42年2月になってようやく義烏県城地区のペストは
抑制された。義烏のペスト流行は、41年末までに患者255人、死者23人を生み出した。
しかし、周辺農村地域では蔓延を続け、蘇渓、義東、東河などの郷に次々と拡大していき、
ついには県境を越えて、東隣りの東陽県にまでペストは拡大し、少なくとも死者113人を出した。
711あなたのうしろに名無しさんが・・・:03/12/23 04:24
 その南京攻撃時および占領時に、南京の一般市民が略奪・強姦され、30〜40
万人が虐殺された、というのが「南京大虐殺」である。

 しかし、前にも述べた通り、そのような事実はない。

 当時の南京の人口は、国際委員会の公文書では20万人、アメリカの「ライフ」
では15万人、国民政府軍の将校の記録では約20万人(うち非戦闘員10万人)
で、南京防衛軍の5万人を加えても25万人程度といわれる。
 もうここで矛盾が出てきましたねー。多く見積もっても25万人しかいないのに、
どうやって30〜40万人殺せるのでしょうか?

 では、仮に全人口の25万人を殺したとしましょう。どうやって?
 機関銃の一斉掃射で?日本は資源のない国なのは知っての通りで、特に鉄砲の
弾も貴重品。拳銃に弾を込めずに演習をしていたぐらいですから、そんなもった
いないことはできません。
 日本刀や銃剣で?(笑)
712あなたのうしろに名無しさんが・・・:03/12/23 04:24
二つ目は、「虐殺派」である。南京事件調査研究会の洞富雄氏、藤原彰氏、本多勝一氏などを代表としている。歴史を尊重し、虐殺の真相を明らかにし、中日友好の態度を擁護する態度をとっている彼らは、
日本軍は確かに大虐殺をおこなったと認識し、「虐殺派」といわれている。彼らは日本の右翼と不撓不屈の闘いをおこなってきた。
洞富雄氏は日本における南京大虐殺史研究の大家と言うことができる。
『近代戦史の謎』に続いて、『南京大虐殺(決定版)』を出した後、彼はまた『南京大虐殺の証明』など一連の大きな影響を与えた著作を発表した。
藤原彰氏は彼の『南京大虐殺』の中で、武器を捨てた中国兵を虐殺したのは国際法と人道主義の原則に違反すると特に強調して指摘し、
遭難して死んだ兵士たちを被虐殺者の人数に入れないやり方を痛烈に批判した。
本多勝一氏は『ペンの陰謀』を書き、鈴木などの誤った議論に対して一つひとつ反駁した。
「南京大虐殺の真相を明らかにする全国連絡会」が編集した『南京大虐殺』、笠原十九司氏が書いた『南京安全区の百日』、
津田道夫氏が書いた『南京大虐殺と日本人の精神構造』等、「虐殺派」の研究は、従来にない高い水準に達し、極めて大きな影響力をもつ学派になっている。
713あなたのうしろに名無しさんが・・・:03/12/23 04:24
714あなたのうしろに名無しさんが・・・:03/12/23 04:25
 広島の原爆での死傷者が25万人ですから、南京市民25万人を殺すことがいか
に無理なことか、常識で考えれば誰でもわかるはず。
 (追記:原爆による直接の死者は8万人ぐらいであった)

 それでも、日本軍は機関銃の弾も惜しまず、時代劇のように日本刀でバッサ
バッサと(超人的な体力で)殺しまくったとしましょう。
ではその死体はどうしたのでしょう?

 南京の規模は約40平方キロで、鎌倉市と同じくらい、わかりにくければ
世田谷区より小さいぐらい。
そこに25万もの死体。
しかし南京占領後、報道関係者のだれも死体の山を見ませんでした。
死体は何処へ行ったんでしょうね。
 大きな穴でも掘って埋めたんでしょうか?
しかし死臭が漂う事もなく、伝染病などの発生はなし。
715あなたのうしろに名無しさんが・・・:03/12/23 04:25
 南京の規模は約40平方キロで、鎌倉市と同じくらい、わかりにくければ世田谷区より小さいぐらい。そこに25万もの死体。しかし南京占領後、報道関係者のだれも死体の山を見ませんでした。死体は何処へ行ったんでしょうね。
 大きな穴でも掘って埋めたんでしょうか?しかし死臭が漂う事もなく、伝染病などの発生はなし。処かへ運んだのでしょうか?それも考えられません。「石油の一滴は血の一滴」と言われた当時、そんなムダな燃料は使えません。

 そして南京陥落1ヶ月後、廃虚となった市街は・・・、しかし廃虚にはならなかったのである。電気や水道も復旧し、国際安全委員会の発表では人口25万人。つまり、陥落後に5万人も人口が増えているのである。
 戦闘員を含めて25万人(シナの主張では30〜40万人)が殺されたところに、1ヶ月後、一般市民だけで25万人が集まるんでしょうか?シナ人は死体に群がる習性でもあると言うんでしょうかね?

 ここまで読めば、いかにバカげた作り話であるかがわかるだろう。「南京大虐殺」は、東京裁判でドイツと同じように裁くために作られた嘘である。

 法的根拠のない東京裁判で、それも作り話を信じて、謝り続け、金をばらまき続けた村山元首相はバカとしか言いようがない。
716あなたのうしろに名無しさんが・・・
処かへ運んだのでしょうか?それも考えられません。
「石油の一滴は血の一滴」と言われた当時、そんなムダな燃料は使えません。

 そして南京陥落1ヶ月後、廃虚となった市街は・・・、しかし廃虚には
ならなかったのである。
電気や水道も復旧し、国際安全委員会の発表では人口25万人。
つまり、陥落後に5万人も人口が増えているのである。
 戦闘員を含めて25万人(シナの主張では30〜40万人)が殺されたと
ころに、1ヶ月後、一般市民だけで25万人が集まるんでしょうか?
シナ人は死体に群がる習性でもあると言うんでしょうかね?

 ここまで読めば、いかにバカげた作り話であるかがわかるだろう。
「南京大虐殺」は、東京裁判でドイツと同じように裁くために作られた嘘である。