「暴行」「暴落」「暴君」〈1〉
天正八年、十年間にも及ぶ石山本願寺との抗争に終止符をうった織田信長は、その二年後、ついに本格的な毛利攻めに着手した。そして五月、毛利方の防衛拠点である備中高松城は、秀吉軍の水攻めに曝され、陥落までいよいよ秒読みの段階に入ろうとしていた。
かつて信長を窮地に陥れた浅井、朝倉も今はなく、越後の上杉も、謙信亡きあと跡目争いが勃発し、国力は著しく疲弊していた。跡を継いだ景勝は、国内をまとめるのに汲々としており、とても天下に覇をとなえる力など持ち合わせてはいなかったのである。
武田にいたっては、長篠の合戦で歴史的大敗を喫した後、まるで青天井だった株価が大暴落するかのごとく、坂道をころころと転げ落ちていき、つい二ヶ月ほど前、天目山において織田徳川の連合軍に滅ぼされたばかりであった。
残るは関東の北条であるが、氏康の跡を継いだ氏政は、凡庸でとても天下を統一できるような器ではない。しかも、国内での人材不足も影響してか、関東にどっかりと根を下ろしたまま、上洛はおろか版図を拡大しようとする気配すらうかがえなかった。
このような情勢の中、信長の天下布武は目前かに思えたのであったが……。
――天正十年五月、安土城。
「筑前殿の中国攻めの首尾も上々と聞き及んでおりまするが」
森蘭丸が、杯に酒をつぎながら信長の顔色を窺った。
「ふん! 猿め、直々儂に出陣を要請してきおったわ。最後に花を持たせようという魂胆らしいが、いつもながら心憎い奴じゃ。儂は家康殿をここで饗応した後、一旦本能寺に入る。その方も伴をいたせ」
「御意」
と、そのとき、見知らぬ男が音も立てず、信長の前に突然現れた。赤ら顔のまるで海坊主のような男である。袈裟を被っているところからすると、どうやら僧侶のようだ。
「おのれ曲者!」
蘭丸とその弟の坊丸、力丸がいきり立つ。
「あいや待たれぃ! それがしは怪しい者では御座らん」
その男は、大地も裂けようかという大声で一喝すると、影のようにスルスルと信長に躙り寄った。
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寸善尺魔 ◆Rb2BYpTc1w :03/12/30 12:07
「暴行」「暴落」「暴君」〈2〉
――天正十年六月二日、本能寺。
妙に蒸し暑い日であった。風もなく澱んだ空気が京の都を支配していたその夜、桔梗の旗印を掲げた一万三千の兵が、突如本能寺を取り囲んだ。
惟任日向守光秀謀叛!
丹波波多野家侵攻の際、八上城で人質になっていた光秀の母親を信長は見殺しにした。それに加えて、家康接待の際に信長から受けた屈辱的な暴言と暴行は、誇り高い光秀をついに逆上させた。
「許すまいぞ暴君信長!」
各地に激震が走った。しかし、事前に光秀の謀叛の企てを知悉していた信長は、各地の遠征軍へ速やかに伝令を送り、兵を呼び戻していた。
北陸からは、前田又左衛門利家、関東からは滝川左近一益、四国からは丹羽越前守長秀が。信長の嫡男で二条城主の左近衛権中将信忠には京都奉行の村井長門守貞勝と筒井順慶の軍が合流した。中国からも羽柴筑前守秀吉が攻城軍の半分を率いて馳せ参じてきた。
そして、本能寺に信長の影武者を送り込む一方、乱波を放って偽の情報を流し、光秀を罠に誘い込んだのである。
本能寺へ切り込んだ光秀は異変を察知したが、時すでに遅かった。辺り一帯は信長軍に包囲され、一寸の隙もなかった。万事休す……鬨の声が起こると同時に本能寺から火の手が上がった。そしてそれは、光秀の謀反の企てが破れた瞬間でもあった。
(それにしても、あの坊主の助言のおかげで命拾いしたわい)
信長は、このあいだ安土城に現れた、あの海坊主のような怪僧の姿を思い出していた。
(あやつ、四百二十年後の未来からやって来た儂の子孫とか申しておったな……確かムドウと名乗っておったが……)
「人間五十年、下天の内をくらぶれば、夢幻のごとくなり……」
真っ赤に燃えさかる本能寺を目の当たりにして、信長は心の中で敦盛を舞っていた。それはまるで光秀への手向けのごとく……。
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