病室の開け放たれた窓から、柔らかく白い秋の昼下がりの陽の光が差し込んでいた。
俺は、リクライニングベッドに背を預けた格好の理沙と、他愛も無い会話を楽しんでいた。
「あーあ、結局海にも行けないまんまで九月になっちゃたねー」
「しょうがないだろ、入院してんだからさ。で、身体の方はどうなのよ?」
「うん、今日はそこそこ調子いいみたい。お薬が効いてるのかな」
「俺の顔見たから、だろ?」
「あはは、フツーそういうのって自分で言う? なに自惚れてんのよ」
屈託の無い理沙の笑顔を見ると、胸が締め付けられる思いで一杯になる。
楽しいはずのひと時、だが、俺の頭をよぎるのは、数ヶ月前に理沙の母親から聞かされたあの言葉──。
「て、浩介! 聞いてんの、あたしの話?」
「へ?」
理沙の叱責で我に返った。目の前の理沙は、怒ったような、それでいて少し拗ねたような表情をしていた。
「まったくもう……相変わらずなんだから、そうやって人の話も聞かないでぼーっとするとこ」
むくれながら理沙は視線を俺から外し、窓の外へと向けた。
微風がわずかに色づき始めたイチョウの葉を揺らし、その下では子供達が黄色い声を上げながら駆け回っていた。
少しの間無言で窓の外を眺めていた理沙だったが、再び俺の方へ顔を向けると、先程とは打って変わったしんみりとした口調で訊いてきた。
「あのさ、浩介……岸川前公園の桜、覚えてる?」
「……うん」
忘れるはずも無い、俺が理沙に告白した場所だ。
「今だから言うけど、あの時さぁ、正直あたしビックリしちゃってさぁ。
まさか浩介があたしにそんな感情持ってるなんて思わなかったのね。
でね、ちょっと照れちゃってさ、浩介の顔、まともに見れなくなっちゃったの。
それでね、顔を上げたらさ……桜が満開だったじゃない」
「あぁ、そうだったな」
もうあれから何年も経つのに、その時の理沙の笑顔と桜の花の彩りを容易に思い出すことが出来る。
「また……一緒に見に行きたいね……」
静かに呟いた理沙の目には、憂いの色が混じっていた。
俺が答えられないでいるうちに、無遠慮に部屋に踏み込んできた看護婦によって、面会時間は終了となった
理沙が倒れたのは、桜の花も散り、日に日に暑さの増してきていた五月の事だった。
この時は盲腸だったのだが、念の為にと精密検査を受けた結果子宮ガンであることが判明し、既に肺などに転移しており手の施しようが無い状態だった。
「あのね、浩介君……理沙、もう長くないの」
理沙の母親は、悲痛な表情で俺に理沙の病状を告白した。梅雨開け間際の六月下旬のことだった。
医者の宣告によれば、余命半年弱との事であった。
盲腸の手術後、すぐに判ったことだったのだが、理沙の母親は俺に打ち明けてよいものかどうか逡巡したそうである。
が、黙っていてもいずれ判る事、と思い、「告知」に至ったとのことだ。
信じがたかった。いや、信じたくなかった。だが、眼前の母親の悲痛な表情を見るにつれ、それが現実なんだ、と上手く働かない頭で悟った。
悟った途端、俺は体中の力が抜けていくのを感じ、思わず傍の長椅子にペタンと腰を下ろした。
理沙が、もうじき……死ぬ?
吸おうとして懐から出したタバコのケースが、手から滑り落ちた。
「この事を、理沙は……」
酷く自分の声がしゃがれているのが判る。喉の奥はからからに乾いていた。
俺の問いに、理沙の母親は無言で肯いた。
「ええ、病名は明かしたわ。けど……もう手遅れだって事は、伝えてないの。いつか、必ず治るよって、そう励まし……」
肩が微かに震えているのが見て取れた。泣いているようであった。
「浩介君……お願いだから……いつもじゃなくってもいいの。時間がある時でいいから……あの子の側に居て………」
最後は嗚咽交じりで言葉になっていなかった。
見舞いから帰る道すがら、俺は理沙に告白したあの春の日のことを思い出していた。
まだお互い専門学校生で、将来どんな運命が待ち構えているのか、知る由もなかったあの頃を……。
正直言って、俺は理沙と最初に会ったときから、理沙に惚れていた。道行く誰もが振り返るほどのルックスに加え、明朗で社交的な性格。心魅かれないほうがどうかしているというものだろう。
だが、生来の奥手な性格の為に、胸の内を打ち明ける事が出来ないでいた。
もし断られたら、どうしよう。断られたら、俺はどうすればいいんだ。
悩んだ。大いに悩みぬいた。このまま友達でいるべきなのか、それとも……。
そして、その日はやって来た。確か俺と理沙が知り合って三ヶ月ほど経った頃だ。
映画を一緒に見に行き、帰り道に岸川前公園に立ち寄った時、俺は意を決して理沙に告白した。
「俺と……付き合って、くれないかな?」
理沙は俺をきょとんとした表情で見つめたまま、言葉を発しなかった。
沈黙が、怖いほど長く感じられた。駄目だったのか、やっぱり……。
すると理沙は視線を頭上に咲き乱れる満開の桜へと向けた。
「桜、すっごい綺麗だね」
釣られて俺も桜を見上げる。一面に広がる淡いピンク。微かに吹いた風に揺れ、花びらが舞い散った。
「ねぇ」
視線を戻すと、桜吹雪に包まれた理沙が、微笑みながら俺を見つめていた。
「これからもずっとずっと、一緒にこうして桜の木見ようね」
「これからも、ずっと一緒に、か」
独りごちながら見上げると、雲一つ無い、ともすれば涙が出そうになるほど澄んだ秋の青空が広がっていた。
その翌日から、仕事が尋常で無いほど忙しくなり、毎日会社に泊まりこみで仕事をこなす事を余儀なくされた。
朝九時から深夜三時頃まで仕事詰め。日付感覚が完全におかしくなり、今が何曜日なのかも判断できないほどであった。
その甲斐あってか仕事の仕上がりはこれ以上無いものであり、課長を始めとした上の人間から賞賛を得ることが出来た。
「お疲れだったな。今日はもう帰って休んでいいぞ」
そう言われたのは昼前十時頃。帰宅してゆっくり寝ようかとも考えたが、俺はふらふらになりながらも理沙がいる病院へと向かっていた。
一週間ほど会っていなかったので、会いたいという気持ちが休みたいという気持ちを凌駕していたのだ。
病室では理沙の母親がベッドサイドで付き添っていた。理沙は眠っていた。
「さっき眠ったところなの。ごめんね、せっかく忙しい中を来てもらったのに……」
いいんですよ、と返して理沙の母親の隣に腰掛け、理沙の寝顔を眺めた。安らかな寝顔だ。眠っている間は、痛みや苦しみから解放されているのだろう。
「コーヒー、買ってきてあげるわね」
理沙の母親がついと席を立ち、出入り口の向こうへと消えた。病室には俺と眠っている理沙だけが残された。
窓の外から差し込む陽射しは穏やかに俺を包み込み、眠りの世界へといざなった。
眼を覚ますと、病室は暗闇に包まれていた。
どのくらい眠ってしまったのだろう。すっかり夜じゃないか。
耳を澄ますと、理沙の微かな寝息が聞こえてきた。まだ眠っているようである。
見えないと判りつつも、ベッドの理沙の方へ視線を向けたとき、俺は自分の目を疑った。
枕元。何かが、うごめいている。
闇の中、輪郭がぼんやり見えるだけだったが、確かに「何か」が、居る。
次第に暗闇に目が慣れ、その正体不明の存在の姿形が、おぼろげだが見えるようになってきた。
ぼろ切れを身に纏った、丸っこい物体。昆虫の脚のような細い手らしき部分だけが、ぼろ切れの間からにゅっと伸びている。少なくとも、俺にはそう見えた。
輪郭だけしか見えなかったのは、もしかすると幸運だったのかもしれない。あのぼろ切れの下が正視に耐えないおぞましい姿である事は否定できないからだ。
何なんだコイツは。
すると、「そいつ」はゆっくりと室内を睥睨するような動作をした後、やおら理沙にのしかかって来た。
「や、やめろ!」
得体の知れぬ者に対する恐怖を一瞬で引き剥がし、俺は「そいつ」に叫んだ。
動きが止まり、静寂だけが流れた。
ガチガチに体が強張っている。次は一体どんな行動に出る気だ。そもそも、こいつは何者なんだ。
不意に、沈黙が破られた。低く唸るような声によって。
「この娘は……じきに……死に至る………」
死ぬって……お前、一体何者なんだ。怒声を上げたかったが、声が出ない。
硬直する俺の目の前で、「そいつ」は理沙の顔を覗き込み耳を寄せ、やがて上体を引き起こした。
「心残りは………そうか…………この小僧………」
小僧、それは俺のことなのだろうか。
「慈悲……我々にも………その位は…………」
その言葉を残して、「そいつ」は闇に溶けるようにして消えていった。
それが契機であったかのように、薄っすらと見えていた部屋の風景も、ベッドの理沙も同じく闇に沈んでいき、やがて俺は真っ暗な空間に包まれた。
眼が覚めた。
電流に打たれたように顔を上げると、陽が差し込む病室の風景が目に飛び込んできた。
思わず窓の外を振り向く。まだ明るい。時計を見ても、部屋に入ってから十分と経っていない。
夢、か。厭な夢を見たものだ。
「浩介……いたの? 仕事は?」
理沙は目を覚ましていた。
「あぁ、特別に早上がりさせてもらった。ほら、ここのところ仕事が忙しくて会いに来れなかっただろ? だから、会いたいって思って、さ」
「そんな……ゆっくり休めばいいのに……でも、ちょっと嬉しいかな、えへへ」
理沙が屈託の無い笑顔を浮かべた。
言うべきか言うまいべきか。先程の夢に出てきた、あの正体不明の存在の姿が脳裏から離れてくれない。
「あのね浩介、あたし、夢見てたの」
夢、と聞いて思わずぎくりとした。いけない、動揺を悟られないようにしなくては。
「……どんな?」
「うん、岸川前公園の桜を眺めてる夢。夜の公園をぷらぷら歩いてたらね、空から何か降ってきたの。
あれ、何だろって思って、見上げたらさ………満開の桜がね、風に吹かれて一斉に舞い散ってるの。綺麗だったなあ、すごく」
まだ半分夢の中に居るような、うっとりした口調だった。が、直後に理沙の表情が曇った。
「けどね……桜を見てるのはあたしだけなの。いないの、あなたが。真っ暗な公園に、桜とあたしだけ。他に何も無いの」
口調が沈み、理沙は目を伏せた。
「ねぇ……あたし、もう長くないんでしょ? もうじき、死んじゃうんでしょ?」
「な、何バカな事……」
「いいの、判ってるの。だって自分の身体だもん。どんな状態になってるのか、判ってるの」
小さな肩が、微かに震えたかと思うと、理沙が顔を上げた。その眼が涙で濡れていた。
「浩介……やだよぅ、死ぬの、やだよぅ……だって、だって死んじゃったらもう………」
泣きじゃくる理沙を、俺は抱き寄せた。理沙の身体は、倒れる前に較べて明らかに細くなっていて、強く抱きしめると容易く壊れてしまいそうなほど脆く、儚く思えた。
俺の胸で嗚咽する理沙の頭を撫で、耳元で囁いた。
「大丈夫だって。じき良くなるって。そしたらまた、一緒に桜見に行こうな」
その日を境にして、理沙の病状は悪化の一途をたどった。
俺と久しぶりに会った日から五日後の夜、理沙は大量に吐血した。
医師や看護師の懸命かつ献身的な看護の甲斐があって何とか危機は脱したものの、理沙はもう起き上がることも話をすることさえも出来なくなっていた。
体中にチューブを差し込まれ、医療機器に囲まれていつ覚めるとも知れない昏睡状態の理沙を、俺は正視することが出来なかった。
辛い。苦しい。哀しい。切ない。
そんな形容詞で表現できないほどの感情が、俺の胸の中で激しい奔流となって荒れ狂っていた。
理沙の母親は、昼夜を通して病院に詰め、日に日に衰弱していく愛娘の容態を見守っていた。その姿はただただ悲愴であった。
十月も半ばを過ぎたある夜。俺の携帯が鳴った。出ると、理沙の母親だった。
理沙が、死んだ。
思考が止まったかのような錯覚に陥り、理沙の母親の嗚咽交じりの言葉も耳に入らなかったほどだ。
そこから先の記憶はひどく曖昧である。
気が付くと俺は、病院の仄暗い通路で泣き崩れる理沙の母親の傍らに、呆然と立ち尽くしていた。
理沙は、俺に何を求めていたんだろう。
俺に対して、何か伝えておきたい事は無かったのだろうか。
半ば麻痺したような頭で考えてるうち、俺はあの昼下がりに病室で見た夢の中の「あいつ」の言葉を思い出していた。
心残りは……そうか………この小僧………
心残り。
一体、何が心残りだったというのだろう。
俺に対して、何か? それとも、もっと別のこと……?
全ての答えは、理沙が永遠の深淵へと押し込んでしまった。もう誰も手が出せない深い深い闇の奥へ。
理沙の葬儀はしめやかに執り行われ、昼過ぎには理沙の身体は白い骨になっていた。
その間、俺は涙を流さなかった。
いや、泣きたかったが、出るべき涙が一滴たりとも湧いて来なかったのだ。
自室に帰り礼服を脱ぎながら、俺は理沙について思いを巡らせていた。
あの日理沙は、一人で桜を見る夢を見ていた。
あの日俺は、理沙の枕元にうずくまる正体不明の影の夢を見ていた。
夢。影。桜。心残り。
与えられたキーワードは宙を浮遊して回り、明確な形を成してはくれない。
と、ここで俺は宙ぶらりんになったままの疑問に気付いた。
あの夢に出てきた「あいつ」は、一体何だったのか。
あいつは、理沙の枕元に現れて彼女の様子を窺っている様に見えた。だが、それは何の為に?
死期が近かった理沙。死。それを窺うものといえば……。
「死神?」
馬鹿馬鹿しい。余りにも童話じみている。それに、死ぬ間際じゃなく何故死ぬ一月ほど前に現れるというのだ。
だが、とも思う。
仮に死神だとしても、あれはまるで何かを確認しに来ていたような感じだった。
だが、何の為に?
理沙の初七日も過ぎ、俺は以前と変わらず日々に忙殺されていた。
ただ一つ、これまでと違う点は、理沙がもうこの世にいないという事だ。
サイドボードの上に飾られた写真立てには、満面の笑みを浮かべて並ぶ俺と理沙の姿が映っている。
無情な運命が待ち構えている事など予想だにしない、幸せそうな笑顔だ。
写真立てを伏せると、俺はスーツのジャケットを羽織って部屋を出た。
「ほら、あたしの言った通りでしょう?」
「ホントだぁ……綺麗ねぇ」
岸川前公園を通りかかったとき、近所の主婦達の井戸端会議の声が聞こえてきた。
「異常気象なのかしら?」
「それにしては、おかしくない? 他の場所では咲いてないんでしょ?」
「そうよねぇ……何でこの公園だけなのかしら」
「まぁ、細かい事はどうでもいいじゃない。それにしても、ホント綺麗ねぇ」
言葉につられて、俺は公園の中へ眼を向けた。
遊歩道沿いに、桜雲が見えた。
引き込まれるようにして、俺は桜並木へと足を向けた。
満開の桜並木を、俺は歩いていた。
道行く人々は足を止め、不思議そうな面持ちで季節外れのピンク色を眺めながら、口々に「綺麗だなぁ」「いやあ、不思議な事もあるもんだ」と感嘆交じりに呟いている。
俺も時折歩く速度を緩め、あの日理沙に告白した時と同じように咲き乱れる桜を見上げた。
風が渡り、桜の花びらが舞い散った。
その時、俺の足は動きを止めた。
前方で、桜の木を恍惚の表情で見上げている、若く美しい女の姿があった。
見紛う事の無い、それは理沙だった。
「理……沙?」
理沙は俺の方を向くと、溶けるような笑顔で俺に何か言った。
一際強く風が吹いた。
桜吹雪が収まると、もうそこには理沙の姿は無かった。
理沙が何を言ったのか。声は聞こえなかったが、唇の動きで判った。
『また一緒に見れたね浩介。桜、綺麗だね』
心残りの正体が、ようやく判った。理沙はもう一度だけ、俺と一緒にこの桜を見ておきたかったのだ。
涙が出た。止めども無く、涙が溢れて俺の頬を濡らした。
満開の桜の下、俺は時間が経つのもお構いなく、一人泣いたのだ。
秋に狂い咲いた桜。
異常気象の所為だったのか、死神の慈悲だったのか、それとも理沙の想いが為した業だったのか。
それは、今もって判らない。