527 :
Zanoni:
分身の術
左慈(さじ)は盧江(ろこう)の人である。
若いときから神通力があった。
あるとき曹公(そうこう)の家の宴会に招かれていったが、曹公が、
「今日は山海の珍味を取りそろえた。ないのは松江(しょうこう)の鱸(すずき)の
膾(なます)だけだ」
というと、左慈は、
「松江の鱸くらいなら、わけなく手に入ります。」
と言った。
曹公が聞きとがめて、
「それなら、すぐ取り寄せてみよ。」
と言うと、左慈は大きな銅盤に水を満たし、竹竿に糸と鉤(はり)を付けて、
盤の中へ垂らした。
そして間もなく、一匹の鱸を釣り上げた。
曹公も列席の者も、みな驚いて己の眼を疑ったが、それは紛れもなく
三尺余りの大きさの、ピチピチとした鱸であった。
「一匹ではみんなに行き渡らぬ。もう一匹あるとよいのだが・・・・・・」
と曹公が言うと、左慈はまた糸を垂れ、前と同じ大きさの鱸を釣り上げた。
曹公は自分で膾を作りながら、
「これに蜀の生薑(しょうが)があると、よいのだがな」
と言った。
すると左慈は、
「それもすぐ手に入ります。」
という。
曹公は左慈がこの土地の生薑でごまかすのではないかと思って、
「鱸を盤の中から釣り上げたように、そのあたりの地面から掘り出すのか?」
と言った。
左慈は笑って、
「いいえ。蜀へ行って買ってまいります。」
と言う。
「そんなことができるわけがない。蜀へ往復するには、急いでも一年はかかるのに。」
「それは、普通の者ならということでございましょう。」
「ふむ。それで、お前が買いに行くと言うのか?」
「いいえ。使いの者をやります。」
「それなら使いの者にことづてを頼む。私の部下が今、蜀へ錦を買いに行ってるから、
その部下に会って、もう二反買い足すように言いつけてくれとな。」
「承知致しました。」
左慈は、その旨を言い含めて使いの者を出した。
その者は出て行ったかと思うと、すぐに帰ってきて生薑を差し出し、
「蜀で錦を売る店を探しましたところ、閣下の部下の方にお会いすることが
できました。お言葉通りにもう二反買い足すようにと伝えておきました。」
と、言った。
それから一年余りたったとき、錦を買いに行った曹公の部下が蜀から帰って
きたが、果たして、始めに言いつけたよりも二反多く買ってきた。
わけを訊ねると、
「一年余り前の何月何日、錦を売る店で出会った人が、閣下のお言い付けだと
言って、二反多く買うようにと言いましたので。」
と、そのときの様子を話した。
曹公は、左慈の神通力を恐れだした。
その後、曹公が百人余りの部下を連れて郊外へ遊山に出かけたとき、
左慈は、一壺の酒と一切れの肉を持ってついて行き、自分で酒を注いでまわり
肉を勧めて、百人の部下たちみんなを堪能させた。
曹公はそれを見て怪しみ、部下を町の酒屋へやって調べさせたところ、
どこの酒屋でもみな昨夜のうち、店にあった酒と肉がすっかりなくなって
いたという。
曹公は、益々左慈を恐れるようになり、折を見て左慈を殺してしまおうと考えた。
だが、なかなかその機会がない。
あるとき左慈を家に招き、いきなり逮捕しようとしたところ、左慈はパッと壁の中に
逃げ込んで、そのまま姿を消してしまった。
そこで一千の懸賞金をかけて左慈を捜させた。
その後、ある人が町の人混みの中で左慈を見つけ、捕らえようとしたところ、
町中の人が、みな左慈と同じ姿になってしまって、どれが本物か見分けが
つかなくなってしまった。
その後また、湯城山のあたりで、左慈を見かけたという知らせがあったので、
曹公が部下に追いかけさせたところ、左慈は羊の群の中へ逃げ込んでしまった。
そこで曹公は、部下に、羊の群に向かってこう言わせた。
「曹公は、あなたを殺そうと思っておられるのではない。あなたの術を試そうとされただけだ。
あなたの術がいかに優れたものであるかはもうよく分かったから、どうか姿を現されたい。」
すると羊の群の中から、一頭の年取った牡羊が、前足を折り曲げて人間の
ように立ち上がりながら、
「何をあくせくなさる。」
と言った。
曹公の部下たちは、それを見ると、
「あの羊だ!」
と、我がちにその羊をめがけて駆け寄ろうとしたところ、数百頭の羊が、みなその羊と
同じ羊になり、同じ格好をして、
「何をあくせくなさる。」
と、言った。
曹公の部下たちは、どの羊を捕らえたらいいのか分からなくなって、むなしく引き
返したという。
『老子』に、こういう言葉がある。
「吾(われ)に大いなる患(うれい)ある所以(ゆえん)のものは、吾に身あるが為なり。
吾に身なきに及べば、吾に何の患かあらん。」
老子のような人たちは、自分の肉体をなくすることができたのであろう。
左慈も、それに近かったのではなかろうか。