1937年7月のある午後、ジャック・ベルジェは師ヘルブロンナーの使いでパリのガス会社の実験室に
出かけ、そこで一人の不思議な人物と出会った。ベルジェは、その男の顔がどこか普通ではないことに
気づいた。男の顔はまるで大理石のように無表情で、そして奇妙にも、見る角度によって老人の
ようにも若い娘のようにも見えるのだ。最初に口を切ったのは、その男だった。
「あなたは、アンドレ・ヘルブロンナー博士の助手だそうですね」ベルジェがうなずくと
「あなたがたは核エネルギーを研究していられますね。しかも成功を目前にしていられるようだ。
しかし、あなた方が進められている研究は、大きな危険をはらんでます。それもあなた方とってだけ
でなく、全人類にとっての危険なのです。核エネルギーの開放は、実はあなた方が想像するより
ずっと容易な事です。ただ、そうやって作り出された人工放射能は、数年後には地球を完全に
汚染してしまいます。さらにごく数グラムの金属から作られる原子爆弾は、数個の都市を同時に
破壊してしまうほどのエネルギーを持っているのです。これは練金術師なら、誰でも昔から
持っている知識です」男はそう言って、机上にあったフレデリック・ソディの『ラジウムの解釈』
という本を手にとると、アトランティス文明が原子放射能によって破壊された事をほのめかす下りを
声にして読み上げた。
…続き
「私は太古の昔、すでに原子エネルギーを駆使していた文明が、エネルギーを誤った目的に
用いられた為、滅びてしまった事を知っている。そもそも近代物理学は18世紀、一部の王侯貴族や
自由思想化達の遊びのなかから生まれたものです。だからそれは、きわめて危険な学問なのです」
若いベルジェは興味をそそられて、こう問い返した。
「あなたは、錬金術の事を言っていられるのですね。あなたご自身は、その古代の知恵を用いて
黄金を作り出した事がおありなのですか?」男はベルジェを見てニヤリと笑った。
「どうやらあなたは、私が生涯を賭けて追求してきた学問に興味がおありのようだ。
しかし、それをほんの数分間で、誰にも分かる言葉で話すなど、とても不可能です。
もし知りたいなら、あなた自身が時をかけて研究するほかないでしょう」
「しかし、賢者の石はどうなんですか。それによる黄金の製造は?」
「それは応用の一つに過ぎません。重要なのは金属の変成ではなく、練金術師その人の変容なのです。
これは古代から受け継がれた神秘で、1世紀に、ほんの2,3人しか成功できないものです」
そう言うと男は突然夕闇のなかにスーッと吸い込まれるように姿をけしてしまった。
…続き
たった今起こった事がすべて夢だったかのような思いにかられて、ベルジェはそのあとに呆然と
立ち尽くした。ベルジェ自身は、名前も言わずに消えてしまったこの男の事を、いつかすっかり
忘れてしまった。第2次大戦が始まり、ドイツ占領下にあるフランスでベルジェはナチス・ドイツへの
抵抗運動に参加していた。そんなある日、原子物理学者として有名になっていた彼のもとに、ドイツが
計画中の原爆開発計画をさぐる連合諜報部から、こんな依頼がとどいた。
練金術師フルカネッリなる人物と接触して“金属変成のある方法”をつきとめてくれというのだ。
渡されたフルカネッリの肖像画を見たベルジェはビックリした。それこそ8年前にガス会社の
研究室で会ったあの不思議な男だったのだ。フルカネッリとの再会はベルジェの人生観を大きく変えた。
彼は原子物理学に疑問を抱くようになり、第2次大戦後は、練金術の研究に熱心に取り組むようになった。
現代では、この分野に世界に名をとどろかせる研究家である。
フランスでは、フルカネッリの名は、すでに16世紀から文献に現われている。
べりジェの話が本当ならフルカネッリは何百年も生きていた事になる。