百物語2002  奥信州 旧佐々木邸より

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◆◆◆【 010/100 】◆◆◆

とある夫婦で経営している和風料理屋。その一人娘が海外旅行からの帰途
乗っていた飛行機が墜落して死にその頭部だけがなぜか風呂敷きに包まれ
て両親のもとに届く。娘の首を前にして悲嘆にくれる夫婦。娘の首はまる
で蝋でコーティングされたような無機的で硬質な光とその眠っているよう
な全き無表情とによって自身がかつて生きたものであったことを否定して
いるかのようだ。
そろそろ開店の時間。妻は泣きじゃくりながら娘の首の髪の毛をつかみこ
れを店の入口に飾ってよいかと夫に訊ねる。夫は気味悪そうに首をすくめ
ていやあそれでは客が気色悪かろうと答える。しかし妻は夫の言うことに
耳を貸さず娘の首をそのまま店内に持って行き入口のよこ店内の殆ど全て
の場所から見える所に置く。「準備中」のプレートにも関わらず既に店に
入っていた幾人かのなじみの客がそれを見てあからさまに顔をしかめ無言
のうちに何事かと問う。夫は何も言わずただ諦めたように肩をすくめて溜
息をつくのみ。
男は丁度その時店に入り脇にある首を見て驚く。自分でもうわずっている
ことがわかる声でおばさんここれはなんですかと叫ぶ。妻は男の方を振り
向く。その目は逆上故の狂気に輝き顔は涙鼻汁で溶解したような総体とし
てとても正視し得ぬ醜怪にして凶悪なものを形成している。男はひるみい
やそのうなどと弁解を試みるが妻は人の言葉を解する状態ではなく再び娘
の首の髪を毛をひっつかみこれかい、これのことかいと喚き声で男に詰め
寄る。暫く間を置いてやや落ち着いたかに見える妻は娘の首の頬を愛おし
そうに両手で挟んでおもむろにこれはねえと言いにいやりと笑いもう一度
これはねえと言い。娘の首を被った。いかようにしてか、とにかく娘の首
を被ったのだ。それまで閉じられていた娘の首の目はかっと見開かれその
瞳には妻のものである狂気が宿った。娘だよ。そう妻は言ったが男はもは
や声すら出し得ず二三歩後じさりし振り向きざま逃げ出した。男の足が思
うように動かぬのか娘の首を被った妻の足が異常に速いのかとにかくあっ
というまに娘の首を被った妻に追い付かれたことを振り返って確認した男
はしゅうと喉を鳴らして尻餅をついた。
自分の顔を覗き込む娘の首を被った妻に対して助けてくれと声にならぬ声
で男は言うが娘の首を被った妻はううんと首を横に振る。その見開かれた
ままの目にはすでに表情を超越した強いて言えば無表情のようなものが浮
かんでい男はそこからかつて経験したことの無いような純粋な恐怖を感じ
取りその恐怖の中でこれは夢ではなかろうかと疑う。じわじわと増してく
る恐怖によりとても正気を保ち得ぬと判断した男は半ば恣意的にこれは夢
だと確信する。男は目覚めようとして全身に力を込めるが効果が無く次に
叫ぼうとするが声が出ない。しかしそのことにより却ってこれは夢である
という確信を強めた男はもう一度全力を込めて叫ぼうとしそれはうめき声
というかたちで報われる。おそらくはそれを聞きつけた家族のものに名を
呼ばれた男は助かったと重いつつ覚醒し景色は男の部屋のそれに変わるが
体は動かぬまま。のみならず男の名を呼んだと思われる目の前に佇んでい
る人物は家族の者ではなく娘の首を被った妻であることがわかり男は夢即
ち現実であったのだと悟る。