141 :
セイント・ヘノ:02/03/31 17:32
140>一応漫画家を目指してますが夢の夢、実の実です、肥やしを得る為にやっています。
神仏は神と仏です、霊とはやはり波動、波長が違います。
人間は死後、幽界に逝きます、そして霊界や地獄・魔界、仏界、神界、天界など全部、波長がまったく違います、波長が違うと認識してみて下さい(^^)
>>141 >人間は死後、幽界に逝きます、そして霊界や地獄・魔界、仏界、神界、天界など全部、
>波長がまったく違います、波長が違うと認識してみて下さい(^^)
その考え方って凄い信じがたいですね。っていうか、日本にしかないですよね。
どこまで信じていい物か疑問。
143 :
セイント・ヘノ:02/04/01 03:13
スエデンボルグも説いています、霊界探訪は特殊な能力ですので容易には出来ません。
まあ、人によって見え方は異なると想います、神の擬人化も霊界の実体化もその観た方々のイメージ、感得するものによって変ると想います。
ですから、絶対こうだとは言いません、ただこの様な波長が違う世界が縦に続くのではなく地層の上にさらに地層が乗るが如くに何十層にも立体的な構造になってるようです(^^)
まあ、人の心の数だけ信仰があり思想があり霊界があるとお考え下されば宜しいのではないでしょうか?
>貴方の仰るとおり私はミゾオチに意識を集中しています、
>私が10代の頃からはまっていた日本神霊学研究会ではミゾオチこそが、
>神との交流の場、精神こそ神に精(くわ)しい世界と教わりました、
>ですから精神世界、魂の社であるミゾオチのチャクラが一番大事であると認識しているのです。
俺にとってそれはアトランティス時代の遺物の宗教と実践に従う
大昔のものということになる。まあ好きにやりたまえ。俺ははおすすめ
しないがな。
それからもうひとつ、お手製の考えは正しいとは限らない。
間違いを間違いと認める勇気も必要なんだな。これがないと
君はオウム的なものに変身する可能性がある。
>>141 世界が立体的であればこそ、いわゆる「悪」とされるモノが
神仏や神霊の名前を騙って現れることが多いのではないでし
ょうか?悪にもレベルがあり、恐らく簡単に見分けがつくもの
ではないはずです。真なるものが、人の成長を願う善意識だ
とすれば、そういうものが簡単に助けに出てくるはずがあり
ません。そんなことをしたら、人は依頼心ばかりが強くなっ
て成長しなくなってしまう。
私たちが物質界に生を受けてきたという事実は、肉体や物質
の世界で学ぶべき何かがあるということであって、いたずら
に神霊とのチャネリングを弄ぶことは必要ないからだと私は
考えるものです。
それに、そういうトレーニングには必ず落とし穴があるから
こそ、古来より聖人たちが日常生活の重要さを説いているは
ずです。
質素、倹約、謙遜、積善等々。
人は欲に溺れやすいものです。日常性から乖離することは、
肉体をもって生まれてきたこの生においては、あまり感心
できかねます。
多くのオカルティストがそうして自分を見失うばかりか、周
囲をも巻き込んで落ちていくのですから。
ちゃんとした生き方をしていれば、必要なものは与えられる
はずです。霊能をつけることを目的として行うそれは、既に
動機自体が歪んでいると思うのですが・・・。
善悪について、疑問。
宗教や思想によってけっこう違いますよね。
悪を無くし善を求めるという思想、
善と悪は対であり、片方だけでは成立しないという思想、
善も悪も存在せず、人間が主観で判断しているに過ぎないという思想、
はたまた、神や教祖の意思が善でそれに反するのが悪というのもある。
結局は主観によるものの様に思えるのですが、さてどうなんでしょう?
主観でしょうね。
ただ、人が生を受けていると思っている実感において、
この生に意味があるとすれば、それを意味のあるように
することが「善」(もしこの言葉に拒否反応がおありな
ら、プラスでも何でもいいのですが)、それを遠回りに
するようなそれを「悪」と便宜的に呼ぶと考えておりま
す。
ただ、個々人においてと集団においてはその価値観や役
割が入れ替わる場合もあるので、そういう意味では、
一般的に善悪は言えないのも事実ですが。
でももっともシンプルに考えれば、井戸に落ちそうにな
っている子供を見て、瞬時にどう動くのかみたいな部分、
つまり、選択肢において、なにか自分以外のもののため
にとかという点で、質の高低が存在すると思います。
自分の枠組みを広げていくこと、つまり、大きな意識と
一致していくこと、そのためには、いま自分がどういう
段階の工夫を行っているのかを認知し、ぎりぎりにチャ
レンジしてレベルアップをしていく方向の選択をしたとき
「善」と呼んだと私は思います。
今の宗教家が自分を偉く思わせるために「善」を押しつ
けているのと混同されやすいのですが、全く異なるもの
です。
148 :
セイント・ヘノ:02/04/01 19:47
まあ、どの考えも一理あるのですよ(^^)
人間は皆善悪の基準を持っている。
ただ、多くの人々は心が弱く、誘惑に弱い。だから、不正を愛する。
本来持っているもの以上を望む。自らの力のみで獲得できるもの以上を望む。
これはある意味不正だよ。
だから、神の下した理(ことわり)、それを判別する良心を皆持っているが、
それを圧殺して欲望に従うのさ。
皆、不正を行っているものと心のどこかで知りながら権力者達を、
あるいは邪悪な望みを持つ神々を支持してきた。
それが、今のこの地の状態をつくっただけの事。
腐ってるのさ。この世界。
150 :
山師さん(摩耶山):02/04/01 20:02
>>147,御意。自喜他喜全幸ということで如何でせう?
>>148,こ、こりヘノ君、そのようなモノ言いは
誤解を招くから慎みなされってば!(〜〜;
(チト横着かと思はれ)
千里の未知も一歩から、一理塚を辿る貴重なレスに
息切れしないで向き合うことをキボーン!
世間一般では人を殺すのは悪と思われているが、
はたしてこれは、不変的なものか、それともただの主観なんだろうか?
集団を形成すると当然、仲間内で人殺しが起こると都合が悪いし、
人を殺していいとなれば、当然自分が殺される場合もあるわけで、これも都合が悪い。
そういう理由で、理性を働かせ、人殺しは悪という都合のいい価値観が創られたと考えれば
あくまで主観によるものとも考えられる。
まあ、豚や牛を無造作に殺す人もいれば、そんなこと怖くて出来ないと泣き叫ぶ
温室育ちな人も多い。これも主観だな。
結局人それぞれモノサシが違うように思える。善悪も然り。
一方、不変的と考えたらどうか。
よくニューエイジ系の人は愛という言葉を使う。
愛というものが不変的なものとして存在しているならば、人殺しは悪かもしれない。
だが、その愛というのも、思想というか、信仰のようなものの様にも思えなくもない。
また、慈悲と言う言葉もあるが、これはどうだろうか。
これも、宗教的思想が基にあるようにも思えるのだが。
はたして、愛とは不変だろうか。
さて、もし仮に私が人殺しをしたと想像してみると、
感じるのは罪悪感であろう。これは、社会的な主観によるものだと思える。
ではもし、法で裁かれず、罪は償わず、周りの人間からも全く悪く見られないとしたならば、
はたして、罪悪感など感じるのだろうか。
もし、何も感じなければ、やはり悪は主観によるものと言う事になる。
だが、もしそれで胸が痛むのであれば、それは主観ではなく何かがあるのかもしれない。
なんだか、書いてて解からなくなってきたが、
要は善や悪とは主観なのか、
それとも、愛といわれるような、人類共通の、あるいは宇宙的に不変な善なんてものが、
存在するのだろうかってこと。
う〜ん、なんともいえないんだが。
誰もが自分の主観によってでしか物事を認知できない以上、
すべては主観であると言ってもいいかもしれません。
しかし、問題は「私」(主観)がここにいることに意味があ
るのかどうかです。
主観で見て、つまり、私からみて、この世界は何かしら法則
があるように見える。つまり、この世界は因果によって成り
立っていると感じるのなら、存在している自分に意味がある
わけです。
では何のためにいるのか?
私という世界が、その周りの世界と接し、それを理解するこ
とで、私という世界は少し広がります。
そして、私を放棄して他に尽くすとき、自分と尽くした対象
との境界が消え、私という世界が相対関係を超えて、さらな
る広がりを見せるのだと思います。
この私を放棄する気持ちのことを「愛」だとか呼ぶ人もいる
のではないでしょうか。
それを通じて自分を成長させていくことがテーマだと私は考
えるものです。ですから自己犠牲を何のためらいもなくでき
るようになれば、他者を殺すことも自分を殺すことも差がな
くなるわけですから、罪悪感を感じることはない。そういう
魂はもはや人として生まれる必要はなくなるのです。
ただし例外がある。
基本的には人の成長を妨げる行為は良くないのですが、状況
によっては、そういう高いレベルの魂が、多くの人の選択の
過ちを清算するために、戦争を起こすそれを担うケースがあ
ると私は考えています。
しかし、本当はそういう極端な状況にせずに穏便に移行でき
るように指導するのが、質の高い魂の役割なのですが、なか
なかうまくいかないので、極端な経験を必要とするのではな
いでしょうか。
153 :
セイント・ヘノ:02/04/02 03:46
149>そうですね貴方の仰るとおり世の中そうゆうモノのようです、まあ、人間界はあらゆる思想、の人間がゴチャゴチャになった混沌の世界ですから人間界だけですからね〜波長の違うもの同士が同居してしまう世界って(^^;)
154 :
セイント・ヘノ:02/04/02 03:48
山師さんオカ版(お釜ではない)への御来訪有難う御座いました、貴方の仰られる通りでした心して取り掛かり励みに致します(合掌)
155 :
セイント・ヘノ:02/04/02 03:54
151の名無しさん、月野さん、凄いですね貴方方の御主張(^^)
哲学的で実にCOOLに物事を捉えておられ叫喚致しました、また共感も致しました(^0^)
そうゆう考え方もあるのだな〜と納得いたしました、素晴らしい御考えだと思います、御二人とも哲学板から来られました?
私も貴方方の文章を何度も読み直しナルホドと思わずにはいられません、自分の素直な観想は、叫喚、共感、峡間というところでしょうか、これが正直な私の見解です(^^)
156 :
セイント・ヘノ廃語れいだん:02/04/02 12:02
驚観(その観方に驚嘆し)
鏡間(自己を照らし出す鏡として活用すると)
享勘(何気なく見過ごしがちな実存の世界にトオル・通じる)
の思いでございます。
157 :
セイント・ヘノ:02/04/02 12:41
156>有難う御座いました、それらのキョウカンも追加させて頂きたいと思います(^^)
「自分」というものの正体は「主観」という「枠」だけかもしれない。
(我思う、故に我あり)
もし、すべてを「客観」だけにしたとすれば、「自分」という「特別」なものは
存在しなくなってしまう。
つまり、人間が一人いるって程度。
十人いたら、人間が十人いるって程度。
この時点では、「自分」という「枠」が存在していない。
だが、その十人がそれぞれ「主観」を持つと、
十の「特別」な「自分」が出来上がる。
そして皆「自分」という「主観」にしがみつく。
「主観」を捨てろと言われても、皆その「自分」という「枠」を捨てることが出来ない。
だが「苦しみ」というものは、「主観」から生まれる。
「主観」が強くなるほど、「苦しみ」も大きくなってしまう。
そこで人間は考えた。都合よく「主観」を抑制して「苦しみ」を無くすことは出来ないかと。
そうして「宗教」や「思想」ができ、「信仰」や「信念」によって「苦しみ」を
抑制する事を覚えた。
書いててヤバくなってきたな・・・。
偏見かもしれないが、要は自分の意志で「主観」をなくすというのは難しいと言う事。
ある意味、「自分」という「枠」を裏切る行為と言えなくも無い。
完全な薬物中毒者が、目の前にあるドラッグを、自分の意志で拒絶し続けるよりも
強い意志が必要かもしれない。
だが、「信仰」や「信念」は時にそれを可能にしてしまう。
だから、「宗教」や「思想」は魅力があるのかも知れない。
ちなみに、現在私は仙道に関心があります。
宗教と言うよりは思想の方に入ると思いますが、
仙道の修行の一つに性功というものがあります。
これは、一言でいえば精神的な修行のことなんですが、
その内容は、識神(主観・有為・エゴ)を消滅させて行き、元神(客観・無為・自然)のみの
状態になるというものです。(たぶん)
この思想に私はとても魅力を感じます。
なお、ヨーガなど他の神秘修行の思想や目的に詳しい方がいましたら、
是非、ここで、紹介して下さい。
159 :
セイント・ヘノ ◆Bt/pII5Y :02/04/02 20:59
私も希望いたします、皆さんあらゆる行法を御紹介お願い致します<(_ _)>
160
161 :
あなたのうしろに名無しさんが・・・:02/04/02 21:27
あるがままにみてみよう。。。
>158
>完全な薬物中毒者が、目の前にあるドラッグを、
>自分の意志で拒絶し続けるよりも強い意志が必要かもしれない。
>だが、「信仰」や「信念」は時にそれを可能にしてしまう。
そういったところが、宗教は阿片だといわれる由縁です。
麻薬中毒を、信仰や信念と言うさらに強い中毒で一時的に忘れさせるだけです。
宗教信者ならそれでもいいのでしょうが、性功の実習者はそれでは駄目です。
もちろん性功にも当然努力といったものが必要ですが、
それは抑制や我慢ではなく、勝手にそうなっていく、麻薬中毒患者で言えば、
自然と麻薬が必要となくなる、という状態です。
そこを履き違えると、抑制や我慢それ自体が性功であり、
そうしている自分が自然な状態であると勘違いしてしまいます。
議論が「主観」に移動してきたことはいいことだと思う。
俺の経験から言って「主観」というものは固定されたものではない。
あくまでもその時点での「主観」であってそれは自身の成長とともに
変わってくるものだ。であるから、変化していく自分のドアを空けて
おくことが進歩の鍵だと言える。
しかしそれができる人は稀だ。なぜなら多くの面で私たちは条件付けられて
いるし、多くのものに執着を持っているからね。だから自身が何にどのレベル
で執着し、どのような環境に条件付けられ、その動機の源泉の記憶を注意深く
自分自身の中に見ていくことは俺にとってもっとも重要なことになっている。
そしてそれができた時、こう言うことができる。「これは俺ではない」と。
消去法で行くのだ。
ラマナ・マハリシは「私は誰か」と問う瞑想を教えた。
クリシュナムルティは「気付き」の重要性を説く。
彼等の教えは読むに値する。
しかし彼等の本を読んで感銘を受ける人はあらゆる種類の
修法探しをやめた人だと思う。修行厨房は悪いことでもなんでもないが、
(無害である限り)俺としては今は興味がないものでも、
将来のために読んでおいて損はないだろうと思う。
>>162 >それは抑制や我慢ではなく、勝手にそうなっていく、麻薬中毒患者で言えば、
>自然と麻薬が必要となくなる、という状態です。
その通りですね。
そしてその自然な流れを実現するのが、もう一つの修行、命功です。
気によって肉体的な変容をもたらし、自分と言う枠を超えた世界を感得する。
性功と命功、どちらが欠けても修行は完成できない。
それが、性命双修たる所以です。(たぶん)
本当の意味での霊的な知覚力というのは、
それを利他的な目的のために使う程進歩した人のものか、
その転生での奉仕として「与えられる」場合がほとんどだ。
あとはなんちゃって霊的知覚(アストラルレベルが関の山)と
なんちゃって「癒し」しかない。
人によってはアストラル的な創造力が働いて、宗教を作るということも
やってしまう。こういうレベルの低さを識別力を持って見抜かないと
いけない。
自分が「癒し」ができると考えている人は多いようだが、これもほとんどの
場合、高位アストラルレベルからのエネルギーの通路になっているにすぎず、
本当は通路として機能するだけだ。ということは、自分が「癒し」を
行っているわけではない。癒しができるからと言っても特別でもなんでない。
愛を持って他人と接することができる人なら誰でも癒しができる。
愛を持ってた人と接するとき、ハート以上のレベルのチャクラが開き、
通路が開くからだ。しかしそのような癒す実践を通してこれらのチャクラの
健全な発達に寄与することも間違いないだろう。しかしそれもまたゴールで
はない。ゴールなんかない。
15年瞑想をやり、精神世界を歩いてきて思うとき、俺にとって修行とは
自分の人生を生きることだなとつくづく思うよ。この世に生まれて生きる
ことは確かに修行だ。だから自分を大切にし、出会いを大切にし、自分が
体験することや経験することに誠実であること、条件付けられた心に気付く
こと。そしてそれらに引っ張られる形で無執着が訪れるときあの平安と美が
やってくる。願わくば多くの人に味わってもらいたい。本当に。
瞑想だけが霊的な進歩に役立つと考える人は多いと思うが、事実は違う。
無私な気持ちでボランティア活動をする人たちもまた非常なスピードで
進歩する。また利他的な動機(それは魂からの衝動なのだが)で、
政治、経済、科学、等々の分野で働く人もそうなのだ。
頂上にいたる道は宗教や瞑想だけではない。それぞれの人間がそれぞれの
形で霊的に進歩していると見るべきである。これはカルマの清算という
要素も含んでいる。
無私な態度で行われる奉仕と瞑想の組み合わせはまさに最強だろう。
俺もボランティア活動をしている。最初は瞑想を通して何かを得よう
とする気持ちが強かったが、それは利他的なものに変化している。
獅子(利己的なものの象徴)は真理の泉を飲んで水瓶を持つ者に変わるという言葉がある。
俺は自分自身の体験を通してこの言葉が真実だと理解する。
>>774さん
寝ている間も、ずっと意識がある状態になったことってありますか?
仙道の修行が進むとそういう状態がおこるみたいなんですが。
これって、いったいどういう意識の状態だと思われますか?
>>166 仙道については何もしらないのでどういう意識状態かは知らない。
仏教なんかでは悟りを開いたひとは寝てても眠らないという話を
聞いたことがある。でもそんなこと知っても知識にしかならないよ。
それとも自分に思い当たることでもあるのかな。
168 :
セイント・ヘノ ◆Bt/pII5Y :02/04/03 03:28
166>それは金縛り状態の時とは違うのでしょうか?
774さん、とても素晴らしい御話有難う御座いました、私はまだ始めたばかりで貴方の仰るすべての事を理解するには到りませんが、
単なる知識だけだった去年よりも実践している今年の方が確実の上の段階に来ていると考えています、そしてその後貴方の言われる境地に到達できるか否かはまだ解かりません(^^)
>>774さん
知っても知識にしかならないってのは確かにそうなんですよね。
まぁ、自分はまだ初心者レベルなんでまだまだ先の話ではあるんですが。
ただ、774さんは15年も瞑想を続けてるということで、
結構深いレベルの意識状態を体験されているように思えたので、
そういう経験もあるんじゃないかなと思って、聞いてみました。
瞑想主体な方法と仙道とでは、意識の方向性みたいなものが違うのかもしれませんね。
未経験者の私の解釈としては、自我意識(識神)が弱まって元神と呼ばれる不変的な
意識が知覚されてくると起こるんだろうと勝手に思っています。
まぁ、脳みそがずっと起きているとは考えにくいので、脳が創り出す意識とは
別物の意識だろうと考えています。
そう考えるとやはり、科学では説明できない領域なんだろうなぁと思います。
>168 ヘノ君へ
一歩一歩。ということだと思います。あと10年経って私と同じような
ことをあなたが誰かに言ってるかもしれません。その時はヨロシクね。
>169
あなたの説明は私が経験したり、聞いたものと比較してもそう遠く
ないと思う。俺なりには低位我と高位我の関係ですね。瞑想は一般的に言って
低位我側の努力とそれに呼応する高位我(魂)からの働きかけが連結し、
エネルギーの導管が強くなっていく過程と理解している。ただ、これが
起こっていく様は複数の転生の単位を考えなければならないね。
そして最終的には魂の必要がなくなり、それと同時に転生の必要もなくなる。
瞑想に興味を持つ人の多くは、以前の転生でそれをしていた可能性も高い。
ただこれらのことは転生しているパーソナリティ(低位我)には
コントロールできない。自分がどの時点にいるかも分からないだろう。
高位我に導かれるままに注意しながら進んでいった方がいいだろうね。
それから俺は自分の意識が高いとは思っていない。上には上がいるのでね。
どういう山道をたどろうと、上っていれば、視界は高くなる。
そして頂上で出会えば、どのような途を辿ってきたかは大きな問題じゃない。
と、思うよ。
転生って言うのはあまりよく解からないんですよね。
まあ、頭で考えて解かることじゃないんだろうけど。
ただ、仙道では転生の考えはなかったので。
まぁ、現世的利益が大好き?な中国の文化が基盤になってるからだと思いますが。
そのかわり、仙道には、肉体を気化させるという、突拍子も無い思想があります。
いわゆる不老不死の思想なんですが、それが可能かどうかは判りません
ただ、仮に出来るとしたなら、肉体と言う束縛からも解放されるわけですから
「自由」な境地と言えなくもないです。とはいっても、まだその先も修行が
あって、更にその気の体をタオ(根源的なもの)に還すというのがある
みたいですが(たぶん)、その辺は謎です。
それと、もう一つ別な仙道の思想もあるようです。
それは仏教の思想と合わさったようなもので、
気の修行を用いて悟りというか神性というかそういう方向を目指すものです。
こちらの方がある意味現実的な思想ではあります。
まぁ、自分はどちらかと言うと前者の方を目指そうという、ぶっ飛んだ人間なんですが。
やってみないことには、なんとも言えないですね。
ちなみに、アトランティスって本当に存在していたんですか?
172 :
セイント・ヘノ ◆Bt/pII5Y :02/04/03 19:51
171>どうも内的意識が感じられません、知識は凄いと思いますが(^^;)
774さん、それは言えてますね現に去年の自分に似た人に対して苦言を吐く事が多いですから、まあ勿論、自戒の念を込めて言ってる訳ですが(^^)
171>俺の説明は神智学よりになってしまうので、その点を理解して欲しい。
アトランティスについては文献に書いてあることしか言えない。
これからの歴史がその存在を証明するかもしれない。
道教と仏教は中国においてお互いに影響しあったのではないかと推察する。
日本でも密教と山岳信仰は結びついたよね。
174 :
セイント・ヘノ ◆Bt/pII5Y :02/04/05 19:52
まあ、トンでも本かもしれませんがグラハムハンコックの神々の指紋は面白いですよ(^^)
175 :
セイント・ヘノ ◆Bt/pII5Y :02/04/06 06:59
キリスト教代表=イエス
仏教代表=仏陀
イスラム教代表=マホメット
ヒンズー教代表=クリシュナ
ジャイナ教代表=マハビーラ
ゾロアスター教代表=ゾロアスター
道教代表=老子
儒教代表=孔子
アポロン神信仰・ピタゴラス派代表=ピタゴラス
哲学者代表=ソクラテス
マニ教代表=マニ
神道代表=大国主命
密教代表=空海
ユダヤ教代表=モーゼ
この14人が会議椅子に座り議論するマンガも面白そうですね(笑)
>>175 どれも、異なった思想・哲学をもっている。
議論したってロクなもんじゃない。
というか、そこで議論に参加しない人物を俺は支持するね。
177 :
セイント・ヘノ ◆Bt/pII5Y :02/04/06 19:24
皆、不立文字と言うかも知れませんよ。
178 :
ダヌル・ウェブスター:02/04/06 19:33
>175
司会は田原総一郎がいいな。
179 :
ハイテリア ◆fqwrNGYk :02/04/06 23:36
なかなか良スレだと思います。とくにヘノさんが(w
180 :
セイント・ヘノ ◆Bt/pII5Y :02/04/07 03:21
178>朝まで生テレビみたいな海苔でやって欲しいですね(笑)
179>有難う御座います(笑)
181 :
セイント・ヘノ ◆Bt/pII5Y :02/04/07 03:22
[主役のドラゴンを演じる石天龍。
これがタダモノではない。幼いころから武術を学び、北京警察の特殊部隊出身という経歴を持つ。
故ブルース・リーが創設したジークンドーを独学でマスターし(おもにブルース・リーの映画から)、
「中国国際ジークンドー連盟」を設立。さらにブルース・リーからも指導を受けたという(ただし夢の中で)。]
なんか納得いかないですね(笑)
ヘノ、なんで改行しないのさ?お前の文章だけ読みにくくってしょうがないけど、
読む人のことをぜんぜん考えてないね。
それで覚醒とはオオワラ
183 :
セイント・ヘノ ◆Bt/pII5Y :02/04/07 13:25
申し訳アリマセン、未熟だからこそ覚醒や悟りを求める、しかし、それは間違ってるのかもしれません・・・・・
>183
間違いを認識するのも、言ってみれば小さな悟りです。
その前と後では自分が変化してるから。たぶん人生はこれの連続です。
そしてそれは謙虚さや静けさをもたらすと思います。
774さん、有難う御座いました(^^)
宗教板でもお見かけしますね、そうですね力への渇望は間違っていると想います。
また、これこそが悟りなのかも知れませんね、案外単純なモノかも知れませんね。
昔から
「言う者は知らず、知る者は言わず」
ってな。
187 :
あなたのうしろの名無しさんが・・・:02/04/12 01:10
age
186>その言葉も言葉だけで理解しては意味が無いでしょう、不立文字にしても本当に知らずに言えない場合もありますしね(^^)
知識よりも内的意識ですよね。
↑あなたからも内的意識は感じられませんが。
その時によります。