時、第一次世界大戦の少し前の頃。
場所、オーストリアのウィーン。
この古びたたたずまいの一角に、小さな質屋があった。その前を、さっきから二十歳ぐらいの若者がひとり、
行きつ戻りつしていた。
だが、やがて若者は勇気を出し、なかへ入った。ドアにとりつけてある鈴が音をたて、店内の静かさを破る。
店の主人である老人は顔をあげ、眼鏡ごしに若者を眺めて言った。
「いらっしゃいませ」
「あの、ぼく、お金が借りたくて……」
「はい、ここは質屋。それが商売ですよ」
主人はうなずく。若者は言った。
「じつは、ぼく、恋をしているんです。すばらしい女性と知り合った。そばにいるだけで、心がなごやかになる。彼女と結婚できれば、地味かもしれないけど、穏やかで幸福な人生を築けると思うんです……」
「それはそれは、けっこうなことですな」
「ぼく、やっとデイトの約束までこぎつけたんです。今夜、いっしょに食事をするんです。プレゼントもしたい。そのために、いくらかお金がいるんです」
「事情はわかりました。しかし、わたしどもの商売、事情よりも担保のほうが問題なのです。なにかお持ちですか」
「もちろんですよ。ぼくの描いた絵を何枚か持ってきました。ぼくは芸術家志望なのです。まあ、ごらんになってください。すばらしいでしょう」
若者の出した絵を見て、主人は首を振る。
「お気の毒ですが、こんなものでは、お金をお貸しするわけにはいきませんな」
「こんなものとはなんです。ひどい侮辱だ。しかし、いま、そんな議論をやっているひまはない。彼女との待合
わせの時刻が迫っている。お願いです。お金を貸してください。必ずお返しします。ご恩は一生忘れません」
若者は泣かんばかりにたのんだ。しかし、主人はとりあわない。
「だめですな。そんなことで金を貸していたら、お店はやっていけません。われわれユダヤ人というものは、冷
静なんですよ。甘く見ちゃ困りますな」
「こんなにたのんでもだめなのか。ああ、ぼくのささやかな希望の芽も、ふみにじられた。こうなったら、やけ
だ。このうらみは決して忘れないぞ。いつの日か、きさまら冷酷なユダヤ人全部に仕返ししてやる……」
若者は興奮し、腕をふりまわし、激しい口調でしゃべりつづけた。
「そんなふうにすごんでも、だめなものはだめですよ。さあ、お帰りください。ええと、アドルフ・ヒットラー
さん」
店の主人はサインを読み、薄笑いしながら言った。若者は歯ぎしりし、すてぜりふを残した。
「ただ口先だけのおどしじゃないぞ。このくやしさを、いつまでも持ちつづけてやる。その時になって、泣きごとを言うな」
若者の帰ったあと主人はつぶやく。
「かっとなりやすい性格のやつだな。演説をおっぱじめた時の目の光は、気ちがいじみていた。ものごとを思い
つめる、危険さを秘めていた。ほんとにやりかねない。しかし、まあいいさ。おれはユダヤ人なんかじゃない。
この商売をやるにはユダヤ人と自称していた方が、お客を冷酷に追い返せたり、なにかと便利なので、そう言っ
ているだけのことなのだ」