【京都】プルプル倶楽部&ハウスPART53【斜陽】

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610名無しさん@ピンキー
秀長は豊臣家での地位の割りに、当時の資料が少なくて実態がわからないんだよね。その存在を評価されるようになったのは
戦後になって研究が進んでからで、逆に言えば生存している間は、さほどの存在感を発揮していなかったと思われる。
良くも悪くも補佐役だったんだろうね。

あと、その領地の奈良では、興福寺の僧が死んだのを聞いて大喜びしている日記を残していて、司馬遼太郎はそれを
あたかも利権を奪われた旧守派の醜さのように書いていたが、実際当時の豊臣圏は相当の重税を課せられてて、領民は
大変だったから、住民の立場としては、死んだと聞いたらみんなが喜ぶくらいのかなりの悪領主と言う感覚だったと思う。

まあ、そういう秀吉政権の「負の側面」を背負っていた、と言う評価も出来るんだけどね。ただ、あくまで秀吉あっての人物で、
ひとり立ちして表舞台で活躍する、と言うタイプでもないように感じるよ。