【京都】プルプル倶楽部&ハウスPART53【斜陽】

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609名無しさん@ピンキー
此時小早川隆景は二里隔て陣取っていたが、根白の急を聞て三千余にて耳川の端迄きていた。
秀長卿これを見て「今川を渡って島津を攻めようと思うが、諸大将は同思われるか、」と談合が有った。
隆景笑って答えずに。隆景の家老井上伯耆就遠・浦兵部宗勝背破り具足の古物具にて秀長卿の馬の前へ出て
「島津は今日の珍客にであるが、此方のていしゅは如何に出迎えられるか、ご相談に出向きました」と申し上げたが、
秀長卿尾藤をはじめ皆進み出ないので、伯耆も兵部も則馬に打乗て川を乗渡し島津を討取らんと進んだ。
義弘の甥島津三郎次郎忠親踏留まって討死した。
其外七八百余り屈強の者とも討れ、義弘も根白の囲を解て、火をかけて猪の猛る様にして引き上げた。
隆景・如水は、秀長卿へ使を遣して「義弘はたかだか一万六千、味方は八万に鉄砲二三千挺にて左右の峰から打ち掛けて。
大軍を以て追討し義弘を討取って、直に鹿児嶋へ押し入るべきとき」と頻に申越したが、尾藤が固く諌て留めたの出で、義弘はついに逃げ。よって高城・財部も落城しないので、義弘は鹿児嶋目指して逃げ。
島津義久は惣大将なので、肥後の八代に陣取っていたが。日向口の事を聞いて鹿児嶋へ逃げ帰った。隆景はそれより大隅豊後へ打入った。