【京都】プルプル倶楽部&ハウスPART53【斜陽】

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599名無しさん@ピンキー
三河物語の執筆時は、著者の大久保ナントカは生まれてなかったので(多分)、
桶狭間の合戦の描写は聞き書き。
一方の、信長公記のの著者太田牛一だが、30才ごろで弓の名手で
この後の美濃攻めでは大活躍するが、

桶狭間の合戦には参加しておらず、聞き書きである、という意見がある。

どちらも聞き書きなら、桶狭間で織田が攻撃したのは、晴れていたとはいえないぞ。
片方の文献は否定しているのだから。
雨上がりの攻撃でも雨中の攻撃でも、どちらにしろ今川軍は隊列の崩れた状態で
攻撃を受けたのだろう?
敗因はそこに尽きるのではないか。