福岡県北九州市小倉北区
昭和56年2月4日「暴○団組長射殺事件」
昭和56年2月4日夜、酔客で賑わう福岡県北九州市小倉北区堺町の路上に
数発の銃声が響き渡りました。
その結果、敵対する暴○団同士が乱射した銃弾により、お互いの組長が死亡。
いわゆる「暴○団組長射殺事件」の発生でしたが、この銃弾は組長達だけでなく
北九州市最大の歓楽街である、鍛冶町・堺町の息の根も止めようとするものでした。
このニュースは、あっという間に全国に広がり「小倉は恐い街」という印象を与え
出張者達にも「小倉では飲むな」と会社からお達しが出るほどになってしまいましたし
地元のお客さん達さえもが、この街を敬遠するようになってしまったのです。
ここで話を戻しますが、北九州市小倉北区堺町界隈は昭和40年頃までは
「お寺、病院、学校、幼稚園」といった夜の歓楽街とはとても縁の無い、
静かな上流階級の街だったのです。
かの「森鴎外」が小倉の陸軍第十二師団に着任していた折には、この街に
居を構えていた事はすでにご存知のことでしょう。
そんな街が変貌を始めたのは、飲み屋ばかりがテナントとして入居する、
いわゆる雑居ビル第一号が落成した昭和41年からでした。その後
「高度成長時代」と共に次々とビルが建ち始め、瞬く間に飲食店数800〜900と
いう歓楽街へと姿を変えてしまったのです。
http://www1.bbiq.jp/yakitori/akaruku.html