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597無礼なことを言うな。たかが名無しが
サッカーと野球の「監督」は別物
【金子達仁】2008年05月01日

 かつてフランス23歳以下代表を率い、現在はJFLのFC琉球で指揮を執るジャン・ポール・ラビエ「監督」は不思議そうだった。

 「いざピッチに立てば、主役はあくまでも選手。監督にできるのは助言でしかないのだが、日本の選手たちは、それを命令と受け取っているフシがあるんだ」

 フシがある、ではなかった。FC琉球の選手たちは、彼の「助言」を間違いなく「命令」として受け取っていた。
わたし自身「上がろうとしたら怒られた」「下がれと言われたので下がった」といった選手たちの言葉を、数多く耳にしてきたからである。

 これを儒教精神に縛られた日本人の特性として片づけるのはたやすい。だが、個人的にはどうもそれだけではない気もしている。

 たとえば王監督が、星野監督が送りバントのサインを出したとする。これは「助言」だろうか。
否、限りなく「命令」に近い指令である。野球の世界では、監督から下されたサインに真っ向からあらがうことなどありえない。
これは、日本に限らず、世界中の野球に共通して言えることだろう。

 つまり、サッカーと野球では、「監督」の発する言葉の持つ意味に、大きな違いがあり、役割もまったく違う。
にもかかわらず、両者は同じ「監督」という日本語で表現されてしまっている。野球の指揮を執るのも監督なら、
サッカーの指揮を執るのも監督。これでは、野球になれた日本人の感覚として、サッカーの監督から発せられる言葉を、
野球における監督の言葉として受け取ってしまうのもやむを得ないことなのではないだろうか。

 特に、若年層においては。

 国際経験を積み、外国人監督になれたJリーガーであれば、言われた指示が限りなく助言に近いものだということはよくわかっている。
しかし、日本のサッカー界全体を見渡すならば、彼らはあくまでも少数派にすぎず、多くのサッカー少年たちは、助言を命令と勘違いして大人になっていく。

 長い目で見れば、これは大きな問題である。

 国民性は、そう簡単に変わるものではない。ならば、そろそろサッカーの指揮を執る立場の人間に、「監督」に変わる名称を与える時期ではないだろうか。

 ラビエ監督は言う。

 「言われた通りにやるだけならば、機械と変わらないではないか」

 融通がきかない、臨機応変の才に欠けると言われるのは、なにもJFLの選手ばかりではない。
創造性に満ちた日本選手を輩出していくために、わたし自身、これからは「監督」に変わる表現を模索していきたいと思う。(スポーツライター)

http://wsp.sponichi.co.jp/column/archives/2008/05/post_1065.html



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