私たち五五師団の三人がマンダレーの師団司令部で落ち合って、一昼夜汽車にゆられて、ラングーンについたのは10月1日。
兵たん宿舎で昼食をすませて外へ出てみると、街はまだ戦勝の慶びで沸き返っていた。
ビルマ人もインド人も支那人もそして日本兵も、男も女も子供もみな一つになっていて何処かで楽しいお祭りが行われている感じ。
でもあのごう慢な白人の姿は全くみられない。
下町を歩き回って疲れた私は、スコット・マーケットの向かいのビルの軒下で休んでいると、近くで休んでいたインド人の老人が
こっちを見て、ビルマ語で「アーロン タクー」と言って大きく空を抱くような仕草をします。
それを聞いて、私も思わずそれを英語にして「All is one?」と聞き返すと、彼はうなづき、顔をくしゃくしゃにして喜びました。
http://ww3.enjoy.ne.jp/~fukiko/j-b-1-7.html
戦争責任、戦後責任、未来責任を自分はどう考えるか
政策科学部 1回生 梅本美貴
戦争責任、戦後責任として日本は何を果たさなければならないか。
http://www.ritsumei.ac.jp/ba/~kinukawa/ume.html 一つは戦争被害の徹底的調査を行い、その責任の所在を明らかにすることである。
二つめは被害者に対する真摯な謝罪をすることである。
三つめは後世のための歴史教育を行うことである。
現在、日本で行われている歴史教育には、いくつかの問題点がある。一つは教科書検定である。
1952年、サンフランシスコ講和条約が発効し、日本が独立したことにより、各界で公職追放されていた人々が
追放を解除された。これ以降、教科書の国家的統制が強まった。1955年の保守党の合同以降、教科書検定審議会の
メンバーが一新され、戦時中、大東亜戦争を正当化する史観を展開していた高山岩男らが中心となったからである。
彼等は、「太平洋戦争については日本の悪口はあまり書かないで、それが真実であってもロマンチックに表現せよ。」
などという意見を述べた。そもそもいろいろな角度から論じられなければならない教科書の記述について、
国家が一定の見解、それも誤った見解を押し付けようとする検定制度にこそ問題がある。
http://www.ops.dti.ne.jp/~heiwa/peace/report/010re-m.html 戦争責任・戦後処理問題を考える
―日独比較の視点から−
http://www.mskj.or.jp/getsurei/yaita9910.html 戦争精算省構想
矢板明夫/松下政経塾第18期生
>私は戦後精算省は五年廃止とする臨時官庁として、財源は民間の寄付を中心とすれば、最小限のコストで最大限の
外交効果が得られ、これからの日本の最大の国益に繋がると考えている。
当時、植民地の住民にとって「共存共栄」等と言う言葉はとても信じられないものでした。なぜなら、
欧米列強にとっての植民地とは、「支配者」と「被支配者」の関係でしかなかったからです。ところが日本軍は開口一番、
「共存共栄」を唱えたのですから、住民が驚いたのも無理はありません。しかし、今村司令官の布告は終戦まで、
決して破られる事はなかったのです。更に、ジャワ軍政府の施政も住民の支持を得ました。例えば、
1. 農業改良指導
2. 小学校の建設と、児童教育の奨励
3. 新聞「インドネシア・ラヤ」の発刊
4. 英・蘭語の廃止と、公用語としてのインドネシア語採用
5. 5人以上の集会の自由
6. 多方面でのインドネシア人登用
7. インドネシア民族運動の容認
8. インドネシア人の政治参与を容認
9. 軍政府の下に「中央参議院」を設置
10. 各州・特別市に「参議会」を設置
11. ジャワ島全域に、住民による青年団・警防団を組織
12. 「インドネシア祖国義勇軍」(PETA)の前身を創設
http://www.seiken-do.com/tigermask/voice/2004/20040720.html
日本軍の東南アジア占領が人びとにあたえた衝撃が大きかったことは否定できない。日本軍が白人の軍隊を打ち破ったことは、
独立への自信につながった。と同時に日本軍の苛酷な統治は、彼らに独立への渇望を生みだし、自分たちのことは自分たちで
守るしかないということを学んだ。日本軍がアジア各 地で行なった残虐行為、強制労働、民族の主体性をうばう皇民化政策、
経済収奪などについてはここではふれない。
いずれにせよ、日本の戦争目的をみても実際に行なったことをみても、日本がアジアの解放者だったというのは、アジアの
なかではけっしてうけいれられない議論だ。だから「親日」的といわれている人びとでも、日本の「軍国主義」の問題には
ひじょうに敏感だ。
ルック・イースト政策をとり日本に学ぼうといっているマレーシア のマハティ−ル首相も、教科書問題について
「(日本が)多くの人を殺し、多くの残虐行為について責任があるということを、日本人は理解しなくなる」ときびしく批判
しているのはそのあらわれだ(『朝 日新聞』一九八二年八月二七日)。
http://www32.ocn.ne.jp/~modernh/paper16.htm
スマトラの司政官についてなにか資料がないかと思い、図書館に行ってみました。
インドネシア国立文書館編の「ふたつの紅白旗 インドネシア人が語る日本軍政時代」という本がありました。
庶民からの聞き取り集といった感じの本であります。自分の國を支配しに入ってきた外国人を、良く言うはずはありません。
その本に書かれている具体的な内容は、私たちが戦時中日本で経験したこととほぼ同様であります。
つまり、食糧不足、貧困な医療、精神主義を振り回して威張る軍人などが出てきます。
これらの話から私は、日本がインドネシアで、そう特別に悪いことをしていたわけじゃないなと、むしろ安堵の思いをしたのです。
もう一つ「インドネシア 歴史と現在」というオーストラリアの大学教授が書いた本もありました。
こちらは、全体で370ページのうち、日本の軍政時代として、僅か5ぺーじを割いているだけです。
それに拠れば、オランダは1930年頃から行政の中間管理層までオランダ人を配し、強い締め付けを行っていました。
しかし、日本は基本的にインドネシアの行政組織を使い、自分たちはその上に立ってコントロールしようとしたのだそうです。
このような情勢の中で、行政機関の役職に抜擢される人もあって、インドネシア人たちはある種の自信を得たのだそうです。
また、日本はインドネシアを味方に付け、ともに戦わせようとして、武器を与え訓練して郷土防衛義勇軍を編成したのでした。
そのことがいろいろの面で独立に強い影響を与えたのだとしています。
なにせインドネシアは、1945年8月15日に日本が降伏した僅か2日後に独立を宣言したのでした。
http://otsubo.info/s_contents/clinch.html
記者会見で、「日本軍は東南アジア各地から25万人の労務者を泰緬に連行した。そのほとんどがまだ帰っていない。」と
詰問した。当初は職業紹介所を通じて募集したが、労働条件の悪さが伝わって激減、”ロームシャ狩り”になった。
地元の役人に命じて、地区ごとに一定の人数を割り当て、さらには街頭で通行人を呼び止めてつれていく強制連行までした。
ビルマでは18万人、マレーから8万人、インドネシアから4万5千人、それに地元のタイ人労働者を加えると、35万人を
超すものと見られる。この鉄道建設に動員された捕虜の数は6万5千人といわれているから(連合軍側資料)最大の犠牲者は
アジア人ロームシャであることになる。「捕虜に比べれば仕事は楽だったが、いろんな病気のため数多くのロームシャが
死んだ。あまりに多くて数は覚えていない。戦後マレーの兄の許に帰国しようとしたが金がなくて諦めた。
盾�ってタイ女性と結婚して、子供も出来た。インドへ帰ってみたいが、妻子のこともあるので・・。」とインド生まれの
マレー人トサミさんは証言する。
http://homepage.mac.com/hasse_54/showa/kokumin.html
http://www.ne.jp/asahi/pasar/tokek/AA/JB/JavaBali037.html 「戦争中は、コクミンガッコーで日本語を覚えさせられましたよ。でも昔の
ことだから忘れました。」
日本軍による占領時代を体験した彼にとって、日本人に対する悪感情は
残っていないのだろうか。さすがにそれは聞けなかった。
「オランダ時代は、最大4つの言葉を覚える必要がありました。フランス語、
ドイツ語、オランダ語、そして英語です。」
彼はいろいろな時代を体験してきた生き証人であるわけだ。なかなか日本
人がこういう話を聞けるチャンスというのはないだろう。
「私の家族はバンドゥンに住んでいるんです。バンドゥンとボゴールに家
があるんです。」
「じゃあ、リッチマンですね!」
彼は笑う。時計を見ると、もう9時半だ。ギターを片づけ、帰り支度をす
る。今晩は楽しいひとときをすごせた。ジャワ人たちの家族的なつき合いと
は、なかなか良いものだ。
【長老はアーティスト・完】
http://web.soshisha.com/archives/holland/2005_0721.php 街頭から蘭国のすべてが消え去ったからといって、現地民は自由になったわけではなく、彼らには貧困、空腹、
弾圧が待ち構えていた。日本軍政は1943年10月からジャワの農村で何百万人もの労務者徴集をして、
飛行場、道路、鉄道路線の敷設工事や採炭労働に動員した。労働環境は概して非常に悪く低賃金で、
日本人現場監督は容赦なかったから、何十万人もの労務者が栄養失調や病気で死亡した。また、軍用米政策が
現地民に悲惨さをもたらした。1943年からジャワの各地方行政は、軍政へ規定量の米を供出することが義務
づけられたので、規定供出量をこなすために、各地方行政は他地方へ米の出荷を禁止した結果、米取引市場がなくなり、
米を他者に依存する地方は飢饉を来たした。現地人口7000万人のうちの250万人が軍政の犠牲となったと見られている。
4、東ティモール報道の裏側
東ティモール独立前から6年間に渡って現地に暮らしていた日本人に逢った。
彼の話は、ちょっと衝撃的でもある。たとえば2002年末のディリ暴動は、仕掛けら
れたものだったとか、実権を奪われたと言われた大統領シャナナのカリスマ的人
気による事実上の権力奪取(憲法無視?)。国連を始め支援NPOの薄汚い姿。
アフガン戦争を見て嘲う市民……。独立投票後の民兵騒乱で数万人が殺された
と報道されたが、実際はせいぜい千人単位であることも驚かされた。太平洋戦争
中の日本軍占領によって人口が4万人虐殺されたという主張が数字が合わない
ことは拙著でも指摘したが、インドネシアの占領中に殺された20数万人という数
字も極めて怪しいそうだ。
マスコミのおかしさは言うまでもないが、巧妙争いをして現場を無視する排他的
な市民団体の話には、私も実体験しているだけに盛り上がった。とくに○○女史の
言動には怒り爆発! というところ。これほどの経験と情報を持っているのに(した
からこそ)、「もう東ティモールには関わりたくない」と思って帰国したという。
とはいえ、少しずつ気持ちも静まり、改めてできることを模索しているよう。今後
に期待したい。
http://homepage2.nifty.com/tankenka/column-2.html
社会部 青柳光郎)
映画を作ろうとしているのは、ジャカルタで独立プロを営むケマラ・アトモジョさん(36)。脚本は、一人の元日本兵が
主人公で、インドネシアで村の女性と結婚し、家族と暮らし始めた。子供も生まれたが、村では全員に受け入れられたわけ
ではなく、拒絶する人もいた……。
敗戦後、多くの日本兵が東南アジアに残った。インドネシアの場合は、直後に始まったオランダからの独立戦争に加わったこと
が評価され、インドネシア国籍を取得できた人も多い。
アトモジョさんは「社会の表舞台に加わっただけに、その過程に多くのドラマや歴史があり、製作者としてはぜひ描きたい
テーマです」と話す。
元日本兵で組織している「福祉友の会」の理事の一人で、二世のヘル・サントソ・エトさん(38)は「私の父も80歳で、友の会
ができた19年前、仲間は200人近くいたのに、いまは47人に減っています。父親の世代のことが映画で描かれる
となれば、それはとてもありがたいと思います」と期待している。
http://www.ne.jp/asahi/aoyagi/sky/asiamedia11.htm
63年に英国より独立したアフリカのケニヤ。独立後も英軍は駐屯しているが、昨年、英軍が長年にわたってケニヤの
多くの女性をレイプしていたことがアムネスティにより明らかになった。
その数は過去35年間にわたり600件を超えている。被害を申し立てた女性は、身体的な傷とともに、心に負った傷にも
悩まされている。世間から烙印を押されることを恐れ、誰にも被害について話せなかった女性も数多くいる。これまで
ケニア政府も英国政府も、女性たちの申し立てを無視し、加害者は処罰されていない。
今回、アムネスティ日本は、ケニアで女性に対するレイプの問題に取り組み、被害者女性たちの支援活動を行なう医師、
エミリー・ロゲナさんを日本に招き、講演会を開催する。ロゲナさんには、事件が隠されてきた背景、被害女性を
「不名誉」として受け入れないコミュニティ、被害女性のトラウマ、また駐留外国軍の犯罪ゆえの取り組みの
困難などについて話してもらうそうだ。
11月9日(火)午後6時会場 6時半開演
http://ch.kitaguni.tv/u/5028/%A3%C5%A3%D5%B4%D8%CF%A2/0000140645.html
『戦争が遺したもの――鶴見俊輔に戦後世代が聞く』(新曜社)が話題だ。
ことし3月10日の発売以降、現在、書店の店頭では三刷の本が置かれている。
これは文字通り、哲学者の鶴見俊輔氏に、上野千鶴子氏と小熊英二氏がその
戦争体験、戦後体験を詳細に訊ねたインタビュー集である。80歳を超える鶴
見氏が語る自身の体験と思想は、インタビュー形式なのでずいぶんと読みや
すい。鶴見氏への二人のツッコミや、それに対する鶴見氏の抵抗ぶりなど、
三者のやりとりの息づかいも感じられて、語られる内容とともに、非常に刺
激的でおもしろく一気に読み通してしまった。
内容については、例によってみなさんに読んでいただくとして、初版本で
いくつかの誤植(らしきもの)を見つけたので、謹んでご紹介させていただく。
まず、本書61ページ。鶴見氏が海軍の軍属として赴任したジャカルタ(ジャ
ワ)で、どんなことがあったのか訊ねるくだりで、鶴見氏はそこでの慰安所
の様子を語る。上野氏と鶴見氏の対話のなかで、上野氏のこんな発言がある。
「上野 日本軍の将校が、白人女性を要求したというのも、やはりレイシズ
ム(人権主義)ですね。」
きわめて明快な誤植である。レイシズムとは人権主義ではなく「人種主義」
だろう。
http://back.honmaga.net/?day=20040505
「潮」一九七一年七月号、百人の証言と告白より以下。
妊娠している婦人を全裸にして刀で刃傷、木の間に女の両手両足をゆわえて子宮に手オ留弾をさして爆発。
興味本位で、得意気に。(元軍曹T)
部落の女達が地下に隠れていた、兵達は我先に。終えると小屋に閉じ込めて放火、焼殺。(元軍曹A)
蘇州では男女とも裸にして行列、男は水没させて射殺。(班長K夫人)
女ひとりに兵十五から二十人、憲兵にばれると軍法会議にかけられるので、強姦したあと必ず殺す。ただし、
憲兵は不在。(従軍記者、小俣行男「侵掠」)
強盗強姦は常識、五、六人はやった。(小平義雄、1971.8「新評」)
1937.11/30、東京日々新聞朝刊「百人斬り競争! 両少尉、早くも八十人」無錫、常州間にて、向井、野田。
12/ 4で二報、12/ 6で三報。「百人斬り、大接戦、勇壮、向井、野田両少尉」 野田氏、故郷の小学校で内幕を披露。
1937.12/13、日々朝刊「百人斬り、超記録、向井106-105野田、両少尉さらに延長戦」
シ栗水、魔王小川による据え物十四人斬り。
鵜野晋太郎元中尉、九人斬首、日本刀怨恨譜、本多勝一「ペンの陰謀」中。
12/13 南京陥落、朝日、読売、「大殲滅戦展開さる」
長勇チョウイサム中佐、逃げる民間人に機関銃を発射。
中島師団長日記、上層からの指示による虐殺。
http://www.oct.zaq.ne.jp/poppo456/in/b_honda.htm
http://jinsan.atnifty.com/myhome/ibuki-papua.htm 日が暮れてホテル の裏庭でシンシンフアィアーダンスを見物する、ペニスキャップを装着し精霊の面を冠り椰子の
葉を身にまとった数人の屈強な男たちが直経3メートルぐらいの焚火の周囲を踊りまわり時々火の中 に入り焚火を足で
踏み消していく荒々しい踊りだった、多くの部族が点在しているパブアニューギニアでは古来より民族間の争い事が
常にあり他民族からの侵入を守る威嚇の表現が踊りにも取り 入れられていた。
8月16日朝、ホテル前で咋日の老人が我々を迎えてくれた、
彼が子供の頃支配していた日本 軍の兵士たちに教えてもらったのだろう懐かしい日本の歌を唄い出したのである、
「さらばラバウルよ」「もしもしカメよ」「となりぐみ」等々、一行のみんなも一緒に唄う和やかなひと時を過ごす。
野山にはマンゴウ、パパイヤ、バナナ等の果実が豊富にあり、海や川では魚が捕れ、旧日本軍が残した豚や
ヤギの子孫が野性化しており自由に捕獲することができ、又家の中より外の方が過ごし易いという食住環境で
彼らには彼らの生活様式があり、生活のリズムがあります。彼らに言わせれば「お前達の文化とはお前達が
生活する為のもの、俺達には、俺達の文化がある、押し付けられるのは甚だ迷惑だ。」と言う事になる。
PNGでは都市と都市を結ぶ幹線道路が無く、移動手段は飛行機か船になります。その為、何をするにも、
何処に行くにも不便で効率が悪い、反面素晴らしい自然環境が残っており、大変羨ましい限りであります。
http://www.rid2550.com/cdrom/3gatugou/gse/ 現在の在モンゴル特命全権大使・久保田真司氏は誠実なお人柄とその物腰の低さ、識見のたしかさで
政府間だけではなく、現地住民からも大きな信頼がある。開発援助についても過去のソ連のような強圧的な
ものではないし、英米や中国のそれのように利権中心でもなく、モンゴルの均衡的発展と民衆生活の向上に
配慮したものである。くわえて日本の若者のあいだでもモンゴルは〈チンギス・ハーンが草原を馬で駆けた〉
〈ロマンあふれるの国〉として人気があり、昨(一九九七)年度、日本からの観光客も一万人を超えている。
今や通常のパック旅行が低迷するなかでその人気が急上昇中とはいえ、歴史の授業で「元寇」(蒙古来襲)について
習っただけの彼らの多くには〈放牧民と大平原の国〉のイメージはあっても、日本軍がノモンハン・ハルハ河戦争で
モンゴルを侵略したことは知らず、ゲル(天幕式可動住居)の老人から日本軍と戦争したときいてびっくりする。
http://www1.doshisha.ac.jp/~twatanab/watanabe/masukomi/9810.html
カレルおばさんの旦那は香港に水牛を輸出している。仕事でジャワ島のス
ラバヤに行っており留守だった。一番上の息子は20代の後半でアドリアヌ
スという。彼は学校で英語を習ったので、辞書を持っている。それを頼りに、
アドリアヌスにインドネシア語を教えてもらった。
カレルおばさんとカタコトのインドネシア語で話していると、太平洋戦争
当時の話になることが多かった。戦争中は大勢の日本兵がこの島に来たとい
う。まだ小さかった彼女は日本兵にかわいがられ、「コーラン」という名前
をつけられたという。「コーラン」は日本名だという。カレルおばさんに、
「コーラン」はどんな意味なのかと聞かれて困ってしまった。
スマトラ島からフローレス島に来るまでの間、何度となく太平洋戦争中の
話を聞いた。よく聞いたのは「日本兵はすぐに、オイ、コラといって怒る」
という話だった。カレルおばさんの「コーラン」が、日本兵たちが面白半分
でつけた「オイ、コラ」のたぐいでなければいいのだけどと、おばさんのた
めにも、祈るような気分でそう思った。
。°//// カレルおばさんはインドネシア人と中国人の混血。その
/)DD\/| せいで、ほんのわずかだが、漢字も知っている。そこでぼ
)・)DD/\| くは、「コーランって、日本語だとこう書くのですよ」と、
 ̄ ̄ν 紙きれに「香蘭」と書いた。「その意味はね、とってもい
い匂いのする花なんですよ」というと、おばさんは顔を崩
して喜んだ。
http://blog.mag2.com/m/log/0000037317/75396142
来年はインドネシア特集を検討
さる10月4日、「心に刻む会」の全国実行委員会を開き、会計報告などを了承いただいたほか、来年の取り組みは
インドネシア特集とすることを検討することになりました。理由は、スハルト体制が崩壊し、多少発言がしやすく
なっていることと、来年の夏は戦後のアジアの独立がなぜ行われたのかーー「日本の侵略のおかげ」か
「アジアの独立運動の成果」かーーをめぐって大激論が予想されるため、後者の立場から来年の「心に刻む会」を
全国で開催し、その中心にインドネシアを置き、日本軍の支配の実態をあらわす「ロームシャ」(強制労働被害者)、
バハル島などの「虐殺」事件、「慰安婦」問題ほかを取りあげることを計画したいと思います。
年内は具体的にどのような企画が可能か、識者と相談しつつ学習会を開き、来年初めには全国実行委員会を開き、
そこで最終確認を行なって正式な企画として発足させることになります。例年より時間をかけてじっくりといい
集会を準備したいと思います。多くの皆さんのご協力をお願いしたいと思います。
http://www2.osk.3web.ne.jp/~kizamu/archives/013/
アメリカ政府は1996年から1998年にかけて、遺骨の引き上げをフリーポート社の手を借りてインドネシア政府と
交渉した。しかし1997年末から1998年始めにかけてイリアンジャヤを長期の干ばつが襲い、その結果発生した
森林火災による煙霧が、その遺骨引き上げ作業を阻んだ。98年12月4日ハワイのアメリカ軍識別調査隊と
空軍が例のB25機の場所を訪れた。そして99年1月12日、遺骨と遺品などの引き上げが開始され、1月21日にジャヤプラへ
と運ばれた。戦後の出来事とはいえ、その存在が確認されるや、速やかに遺骨・遺品収集に乗り出すアメリカ。一方、
その存在は誰もが知っている事実なのに、遅々として進まない旧日本兵たちの膨大な数の遺骨そして遺品。国家・国民の
ためと信じて遠く、太平洋を下り、ニューギニアまでやってきた日本軍。しかし、今その国家と国民は何事もなかったかのように、
ここイリアンジャヤに眠る日本兵のことなど忘れ去っている。
マチヌスさんが尋ねた。『日本では人が死ぬと、そのまま草むらや空き地に放置しておくのですか?』。私は答えに窮した。
http://www.harapan.co.jp/indonesia/gbi/laila15.htm
GBIが5日入手した同書簡は、1942〜1945年の日本軍占領時代に、東ティモールの社会と住民が被った損害に
ついて詳述している。例えば、人的被害としては、およそ6万名の命が失われたこと、物的損害としては、ディリ市内に
あったカテドラルが艦砲射撃で全壊したこと、マナトゥトゥにあったカトリック修道女の宿舎が破壊されたこと、
ブコリ、バウカウ、レオトリにあったカトリック学校が爆撃を受けて全壊したこと、スイバダ、サメのカトリック教会が
破壊されたことなど。同書簡は、従軍慰安婦についても触れており、日本軍によって数百人の東ティモールの女性が
「強制的に慰安婦とされた」としている。また、東ティモール出身の元兵補数千名が「元兵補」としての権利を
日本政府が認めることを要求している。賠償額については、全東ティモール住民の名において、総額132,495,050,000
ルピアを日本政府が戦争賠償として支払うことを求めている。内訳としては、69,495,050,000ルピアは、公的物的
損害の修復費用として請求しており、残りは人的被害、住居被害、性的犠牲者、元兵補などの補償にあてるとしている。
また一つの町当たりの被害額をおよそ10億ルピアと概算し、それは町の集会所、保健所の建設、さらにカトリック教会が
未だない地域における教会建設費に向けるとしている。
http://www.harapan.co.jp/indonesia/gbi/gbinews981005.htm
この点については、岩手県の地元紙『河北新報』が平成11年9月27日付で掲載した「厚生省派遣遺骨収集団:
71体とともに帰国。西部ニューギニアいまだ2万柱眠る。県人も多数戦死」と題するリポートの中でも触れられている。
それによれば「イリアンジャヤ州の州都ジャヤプラの西60キロにある村ゲニムでは、現地人が遺骨の引き渡し
を拒否。収集団は二十柱の遺骨をめにしながらむなしく引き揚げた」ということだ。同紙は、拒否の理由として
「インドネシアからの独立を目指す現地人が遺骨を政治的交渉カードに使おうとしている筋もあり、収集は
進んでいない」と解説している。
で、拒否の当人であるマルティヌス氏の説明を手紙文から見てみると、大分話が違う。「なぜゲニェム村の村人たちが
遺骨の引き渡しを拒否したか説明しましょう。村人たちは(遺骨を引き渡す前に)まず私(マルティヌス)が
日本へ行き、日本の人々並びに日本政府との間で、(村人の)功績に対する報酬の支払いと、第二次大戦の
賠償の支払いについて話し合うべきだと望んでいるのです。なぜならば、戦中、日本政府並びに日本軍は住民
のものを破壊し、ここゲニェム村でも多くの村人を殺したからです。そこで、1999年8月29日、Mr.K.Y率いる
グループが私の家にやって来た際、私並びに住民らは彼らと遺骨の日本へ帰国について対話しました。
そして住民は拒否したのです。1999年3月9日、私はジャカルタの日本大使館の公使に対して、ゲニェム村に
あるすべての旧日本兵の遺骨を祖国へ帰すための話し合いを行うため、私が日本へと行けるように支援を要請しました」。
どちらの説明が正しいのかの判断は別として、マルティヌス氏の説明を聞く限り、「独立を目指すための
政治的交渉カード」というよりも、これまで戦後何十年もの間、旧日本兵の遺骨を収集し大事に祀ってきた
功に何らかの支払いで応えて欲しい、というのが本音のようだ。というのも『ライラのイリアンアジャだより』に
あるように、マルティヌス氏としては、ゲニェム村に旧日本軍兵士の慰霊碑を建設して、そこを公園化し、
やがては慰霊巡拝者のための"観光スポット"としたい希望があるようだ。
http://www.harapan.co.jp/indonesia/gbi/gbinews/gbinews991126.htm
日本に対する期待は?
先の住民会議を受けて、日本政府はインドネシアの姿勢を支持しましたね。我々パプア人は日本軍の支配時代に悲惨な経験
をしました。ひどい仕打ちを受けた住民も少なくありません。でもね、私たちには復讐という言葉はありません。
そればかりか、日本軍が残していった素晴らしいシステムさえあります。でもね、パプアのことはパプア人自身が決めます。
日本政府がどうのこうの口をはさまないでもらいたい。
http://www.harapan.co.jp/indonesia/gbi/gbinews/gbinews00830.htm アチェ人はインドネシア国内において、一般的には「最も敬虔なイスラム教徒」、そして「反植民地闘争の先駆者」として
知られている。特にオランダ支配に抵抗したアチェ戦争(1873〜1912)では、多大な犠牲を余儀なくされたが、
住民によるゲリラ戦は40年間にもわたり、その「独立心」は、その後の日本軍進攻に際しても十分発揮された。
また、その精神はインドネシア共和国の独立後も、今日まで「独立アチェ(Ache Merdeka)」運動として続いている。
アルン天然ガス田を筆頭に、豊かな資源に恵まれていることも、共和国から“分離独立”しても経済的に
十分自立していけるとの自信の背景となっている。
http://www.harapan.co.jp/indonesia/gbi/gbinews990512.htm
http://members.jcom.home.ne.jp/shira-kiyo/indonesia/manado/manado.htm カスアンのサテイ・ハウス・レストランで昼食、食事をしながらマナド美人の「ミナハサの伝統的民族舞踊」観劇であったが、
フォークダンス調の何処にでもある踊り、それも練習不足のせいもあり幹事さんも立腹、ガイドを交え値引き交渉に奔走、
相手も値引き納得させられたようです。
トンダノ(Tondano)は ミナハサの7民族144の村の中心だった所で緑のじゅうたんを敷きつめたような平野をバスの車窓
から眺めながら進むと巨大な湖に到着、カルデラのトンダノ湖はシンガポールと同じくらいの面積を持つ北スラウエシ州最大の湖です。
記念撮影後、第2次世界大戦時、日本軍落下傘部隊の降下地点に行ってみたが、今は一面水田と化していた。近所の
家族から歓迎を受け、年配のおばあさんからは当時の思い出話を聞くことが出来、軍歌まで歌ってくれた。我々グループ
からお礼にとお菓子、日本酒のお返し。ひと時ではあったが、昔を惜しみながらの日・イ友好交換会であった。
観光途中でも幾つか日本軍が掘った防空壕を見ることができた。[マナド」は落下傘部隊の降下とともに陸・海軍が上陸し、
連合軍の北上を喰い止め、海峡をにらむ重要な激戦地だったそうです。
太平洋戦争でダバオを飛び立った日本軍は、マナド・トンダノ飛行場に落下傘降下し激戦の後制圧し、空の神兵と
ゆう歌まで唄われた時代、兵士との混血児もスマトラアチェより多いのは、この地方の寛容さを物語るのではないでしょうか。
マナドぼけの日本人は多く、マナドはミナト、ミナハサは皆様、トンダノトンシェ トモホンの村名のトンは村人、東の
ゴロンタロは五郎太郎入植の地と日本との関連をなんとか結び付けたい気風がある程、大和撫子に見まがう
美女も希ではありません。
マナド人がオランダの犬でなかった証拠に、植民地時代の民族主義の知的指導者サムラトランギを生み、
統一国家実現に貢献しました。{2}
共和国の腫れ物の華僑同化問題でもこの地は昔から融和していて、マナドチナと呼ばれて
違和感がないのも土地柄でしょう。
http://homepage1.nifty.com/akatsu/lagu2/furu-kitasura.htm 北スラウェシ州にとっての日本
州都マナドは太平洋戦争時、オランダ領東インド(現在のインドネシアに相当する地域)に日本軍が上陸した最初の地である。
1941年12月8日、日本軍がハワイの真珠湾に奇襲攻撃を加えた約4時間後に、オランダはオランダ領東インドのラジオ放送
を通じて日本に宣戦布告を行った。翌42年の1月11日、日本軍は蘭印作戦に踏み出し、セレベス(現スラウェシ)島の
マナドに上陸し占領したという。しかし、マナドでの占領政策が当時としてはかなり細心に行われたため、
地元民との関係は比較的良好であり、その後も親日的なイメージが保たれている。また、兵隊との混血児も多かったようで、
現在でも一定数の日系人が存在している。その日系人を中心に近年日本への出稼ぎ労働者が増加しており、
日本での労働に対する憧れ(両国の物価格差により、2,3年日本で単純労働に従事すれば、家や車が入手可能で
あるという事情がある)も日本語学習に対する強い動機付けになっているようである。
http://wwwsoc.nii.ac.jp/gender/journal/no5/8_fukihara.htm
『いつまでたっても出発しないペテペテに少々腹立たしくなりながら、何気に外を覗くと、その老人がいた。
彼は、しゃんと背筋を伸ばし、最敬礼をしながら、遠巻きに私を見ていた。いきなりの敬礼におどろき茫然としている
私に向かって、彼は『ありがと』と、やたら『あ』を強く発音する
日本語を発した。インドネシアでは、日本軍の占領時代があったために、お年寄りで日本語を片言ながら話す人は、
そう珍しくない(略)『久しぶりに日本人をみた。おまえさんの階級はなんだい?』と老人。どうやら老人は、私を
日本軍人と間違えているようだった。おじいさん、僕は軍人ではないよ、この国に技術協力に来ているんだ、と説明する。
すると老人は、私の話が終らないうちに、『タケダ隊長は元気にしてるかね?』と尋ねてきた。タケダ隊長?誰だそれ?
だから、おじいさん、僕は軍人ではなくて…。『タケダ隊長はいい隊長だった』人の話を聞かず、遠くを見る老人。
早くペテペテ出発しないだろうかと、誰もいない運転席を恨めしく見ている私に、老人は話し続けた。『わしは、
戦争の時日本軍の手伝いをしていた。その時わしの上司だったのが、タケダ隊長だった。日本軍人は、
なにかあるとすぐにわしらを殴り倒したが、タケダ隊長は、そうではなかった』。少々興味深い話しだ。するとタケダ隊長は
現地人には手を出さなかったのかい?老人はまだ遠くを見ている。『いや、飯をくれなかった』ぼそりと言った。
何が言いたいのか解らず、老人を見つめる私。老人は話を続けた。『でも、タケダ隊長にもいいところがあった。
日本軍はならず者が多くて、多くの若い女性が日本軍にひどい事をされたと聞く。しかしタケダ隊長の隊はそんな事は
無かった』。従軍慰安婦の話だ。日本では、韓国や中国のケースが注目を浴びているが、インドネシアの片田舎でも、
その様な事があったのだった。飯はくれなかったみたいだが、タケダ隊長を少し見直した。タケダさんは
いい人だったんですね、と私。老人は、『いや、タケダ隊長は隊員には厳しく、女性にひどい事をさせなかったが、
タケダ隊長は毎晩のように女性を抱いていたよ。なんせわしがその女性を準備していたのだから』と、やはり
遠くを見ながらつぶやいた。
http://homepage2.nifty.com/tayat/allejjang/allejjang/13/
「私は1942年の一年間、軍属*1として日本人と働いていました」
"グンゾク"と日本語で徐さんは言う。このセリフにぼくはチョット緊張する。 「日本人はヒドイことをした」と
言われそうだったからだ。しかし徐さんは続けて、
「彼らはとても親切で礼儀正しかった。 アリマさんというひとにはたいへんお世話になった」 といわれ、ぼくはちょっとホッとしつつも、
「しかし香港の人は、当時の日本軍をずいぶん恨んでいるのではないですか?」、とぼくはあえて"火中の栗を拾って"みる。
「いいですか?当時の日本人は3種類いたんです」
「本土系日本人、朝鮮(韓国)系日本人、台湾系日本人の3種です」
"皇民化政策"だ。当時の日本は植民地としていた朝鮮半島や台湾に住む民衆を、日本人へと同化しようとした。
日本語を公用語とし、(強制ではないにせよ)創氏改名を進めた。台湾は1895年、朝鮮半島は1910年、以来彼らは
"日本人"として生まれ、育っていったのだ。好むと好まざるに関わらず。それは1945年の日本の敗戦まで続いた。
「本土系日本人はとても正義感が強く、りっぱでした。その点、朝鮮系日本人はとても恐ろしかった。 市民に
危害を加えていたのはほとんどが朝鮮系日本兵、または台湾系日本兵でした」
初めて耳にしたことなので、ぼくは何度か確かめる。
「その、本土系日本兵は、現地の人々に危害は加えなかったんですか?」
「私は日本海軍のドックで駆逐艦や巡洋艦の整備士として働いていました。私の上司は本土系だったので
幸運でしたが、仲間の上司は朝鮮系だったので、とても可愛そうでした」
http://d.hatena.ne.jp/naokin_hk/20050511
現在55才で妻と子供二人の四人家族です。10年前に家族でバリ島に行って以来、40年前の昔の日本にタイムスリップ
したようなバリ島の生活にはまり、6月と11月の年に2回ほど3週間の予定で毎年行っています。バリ島は少し田舎に行けば、
すぐに田園風景が広がり、ヤシの木を除けばすぐに40年前の日本の田園風景に変わります。それもそのはずで、
太平洋戦争時代に日本軍はバリ島に駐屯し本部をシガラジャの町に置いそうです。しかし、戦闘も無くひまを
もてあましていた日本兵はバリ島の農民に田んぼや畑の作り方を教え、特に山が多い為に日本式の段々畑の
作り方を教えたのです。ですから、バリ島には日本で作られる作物が多くあります。米、とうもろこし、ピーナツ、
みかん、ブドウ、豆、カボチャ、白菜、キャベツ、ネギ、たまねぎ等、日本の農家で作られている物が数多くあります。
もちろん、南国特有のバナナ、ココナツ、マンゴウ、パイナップル等はあたりまえのことではありますが。海外移住計画で
最も大事な事は現地の食事が自分にあっているかです。高級なレストランは世界各地のあり、そのレストランでは
確かに自分の味に合った料理を食べる事が出来るでしょう。しかし、移住しようとしている人が毎食レストランで
食事では金銭的にも苦しいものがあります。朝食のパン食位は我慢出来ますが、三度の食事が全てパン食では
身が持ちません。だからといってレストランで高いライス付きの料理を食べたのでは今度はお金が持ちません。
その点バリ島は米が主食で値段も安く、10Kgが日本円で250円位で買うことが出来ます。米はインデカ米ですが、
数年前の米不足の時に政府が輸入したインデカ米とは違いとても美味しく食べる事ができます。他の食材も
とても安く、鳥肉、豚肉が日本円で1Kgで150円位、牛肉は日本のスーパーで売っているのと同じ
オーストラリア産でサーロイン1Kg300円、ヒレ肉でも1Kg400円位です。鶏卵は4個で3円位と日本では
考えられない値段で売っているのです
http://www.rag-c.com/Bali.html
宣撫工作とは、占領地の住民が御目なことをしないためにする仕事だが、ビルマでは多少、重要な
意味があった。すなわち、中国の蒋介石軍が米英から援助物資を受け取る輸送路を封鎖しなくてはならなかったのである。
これらのルートは援蒋ルートと呼ばれていたが、当初は仏領印度支那経由であった。ところが、昭和15年から
翌年にかけて日本軍が仏印に進駐したため、これは使用不可能となった。また、タイを経由するルートも外交的に
解消されたため、次の補給路としてビルマ経由のルートに白羽の矢が立ったのであった。
この時期のビルマ・ルートは、「ふりだし」のマンダレーからラシオを通り、龍陵から大理、そして昆明で「あがり」と
なる。昭和12年頃から始まった工事は、それはそれは御目なもので、中国側から苦力50万人、ビルマ側から
現地人労働者30万人が参加し、10万人が犠牲になったという。ともかくこの上を2トントラックが1400台ほどいったり
来たりしていたのだが、マンダレー攻略によって一応物流をストップすることができたのであった。
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日ノ出村は、この重要な道の上にあったので、敵軍が忍び込んで現地住民にろくでもないことを吹き込んでいったり
するかもしれない。住民が敵に回ることは、56師の補給路が遮断されることを意味する(どのみち輸送するものがない
から関係ないという話も自嘲的にささやかれていたが)。
そこで、住民を味方につけておくための宣撫は、特に重要だったのである。
イラワジ大三角州付近では敵のスパイの暗躍が噂されていたが、日ノ出村の住民、とりわけソンナムという老人は
日本軍に対して友好的であった。すなわち、瀬方隊長の宣撫工作は少なくとも彼については成功していることになる。
http://homepage2.nifty.com/d100/getuan/CofC/elephant.htm
貴殿にはインドネシア関係で同じ「帰らなかった日本兵」であれば「インドネシア独立戦争に参加した『帰らなかった日本兵』、一千名の声」
(福祉友の会・200号「月報」抜粋集」)および鈴木政平氏の著書「日本占領下 バリ島からの報告」などを読まれる事を
お勧めする。「日本占領下 バリ島からの報告」というこの本は、この手の本が後年になって書かれたものが多い中、
これは当時の日本が大東亜戦争時に統治していたインドネシアに昭和17年7月より昭和19年12月に至る二年半、
民政部文教課長の職にあった時の状況を、鈴木氏が内地の学兄宛の報告として書き綴ったものを、後年、そのままの形
で本にしたものです。鈴木氏がいかに小さなことまで気を配り、教育者としてインドネシアの人々と接したかが書かれている
と同時に、卒業証書、教員の昇給辞令にまで税金をかけてたり、歴史という授業がなく、運動場もなく、消しゴムから
白墨にいたるまで学用品使用量を異常に低く押さえていたり、女子の就学率が異常に低く、学校の新設も少ない
という文盲政策をとったオランダによる愚民政策統治のひどさを学校数など具体的な数字で表しています。それに比べて、
我が国はどこの統治下でもやった事ですが、官民あげて就学を奨励し、初等教育の授業料は無料とし、多言語.多民族の
インドネシアにおいて当時の共通語になりつつあったムラユ語(マレー語)今はインドネシア語とよばれる言葉を教育用語と
して教えて、そのうえで日本語教育をしたという事が、オランダの統治時代とよく比較できます。
ドイツはナチのおかした罪を、戦後「罪と責任に分けて償う」という政策で世界の信頼の回復に勤めました。
今でもドイツの学校では戦時中ナチのおかしたことを博物館や戦争資料館などに連れて行ってしっかり説明するそうです。
その資料を見て目を真っ赤にして涙を浮かべているドイツの子どもたちの写真を見たことがあります。2度とこういうことに
なってはいけないということが深く心に刻まれるでしょう。ところが日本は「大東亜共栄圏」といって侵略してきた地域での
数々の戦争犯罪、慰安婦問題、ネズミ狩り作戦による朝鮮人の「拉致」「強制労働」、インドネシアの島々では村ごと
焼いて虐殺したり、こういったことをひた隠しにしたり、うやむやにして世界から誠意のなさを指摘され続けてきたのです。
このような稚拙な政治でこれからの世界にどう対処するつもりでしょう。国内にいると気づかないことも、被害を受けた地域に
行くと多くの痕跡が残されており、彼らにとっては日の丸や君が代は今も恐怖のシンボルであり、憎しみの対象なのです。
一方日本国内では現場に立ったこともないアンポンタンが決めた学習指導要領で、式典では日の丸を中央に掲げて
君が代を斉唱すべしと改訂され、いつのまにかこれが法的根拠を持ち、守らない教職員は罰する、ということになって
きているのです。子どもたちの中には、かつて強制労働のために「日本に拉致」されて来た朝鮮の人たちの血筋の子もいるのですよ。
私は単純に国の代表たちが侵略戦争だったと認めて正式に謝罪し、各補償をした上で国旗のデザインを新しいものにして、
国歌を新しく作曲するのが一番いいと思っていますが、いかがだろう。戦後60年でやっと清算され、
勇気が讃えられ、よっぽど国の価値が認められ、貿易も活性化して経済も復活してくると思うのですが。
この先、教育の現場でもスムーズになり、管理職と対立するくだらない職員会議も減り、いろんなことでいい方向に向くと思います。
http://www.h2.dion.ne.jp/~mixee/journal.html
http://shiryudoh.blog.ocn.ne.jp/ron/cat2119469/ Style of Asian - 58
スマトラの人々は非常に親切でした。どこに行ってもご馳走してくれるし、気にかけてくれる。そんなインドネシア人と
日本人の僕という間柄でしたが、過去に国同士では、暗い歴史があります。
ガライ・シアノッというインドネシアのグランドキャニオンと言われるところでは、巨大な防空壕があるのですが、そこは
旧日本軍がインドネシア人達に強制労働させ、作らせたところと言います。動けなくなった人間は、刀で切捨て、
大勢の人が崖から投げ捨てられたと言います。(*実際には現在のところ、その虐殺はなかったとの説もある。
インドネシア政府は虐殺があったという話は誤りだったとしている。)他の島々でも日本軍による虐殺があったという話は
ごろごろあります。肉親が食われたという話も耳にしました。
しかし現在、日本ではそのような虐殺はなかったという事を訴えています。
これが真実かどうかは分かりません。
ただ僕にはこんなインドネシア人達がよく言う言葉が印象的でした。
オランダ統治の300年間よりも、日本の3年間の圧制の方がきつかった。
(こう語り告がれている)
これが歴史の全てを物語っているのではないでしょうか?
この百人斬り事件については、これまでの論争の経緯から見て3つの論点があります。
1 百人斬りという事件は本当にあったのか否か
2 百人斬りを行ったとして2人を処刑した、中国国民党政府の戦犯裁判は正当なものであったか否か
3 事件の報道は妥当なものであったか否か
まぁ、「いわゆる南京大虐殺」に南京市外の「百人切りゲーム」が含まれるのかつうのもありますけど、黒田官兵衛は
関が原の戦いに参加したと言えるかといふような次元ですから、どうでもいいことです。
で、原告応援団(なかった派)のサイトを見ていたら、おかしなことに気がついた。
原告は、「中国の旅」(本多勝一;81年刊、元ネタは71年の朝日新聞記事)が、あらぬ噂を広めたといふてるのだが、
向井・野田と同じ連隊の将校が、それ以前にばらしてるのですなぁ。
<本多勝一がばらしたといふ原告の主張>
朝日新聞は昭和46年本多勝一という国賊が、「中国の旅」という支那のいうがままに裏付けもとらずに「南京で捕虜・市民30万人が
日本軍に虐殺された」などと書くという、ジャーナリストにあるまじき行為をしてからです。まだこの捏造本は朝日文庫として売られています。
http://www.tamanegiya.com/hyakuninn.html
<ところが、それ以前に同じ連隊の将校がばらしている>
「鎮魂 第3集」(陸軍士官学校四十九期生会発行)「野田大凱の思い出」(1967年)より
北支に上陸してからは、別々の戦場で戦うことが多くほとんど顔を合わせることはなかったが、中支に転じて南京攻略を目前にした一日、
南京東部の句容鎮付近で珍しく一日だけ進撃の止まった日があった。聯隊本部へ命令受領に行くと野田君も来ていて、
出征以来三ヶ月振りに会った。この時まで私はいつも聯隊本部から離れた第一線にいたので、新聞など見たこともなく、
野田少尉と向井少尉との百人斬り競争の噂は知らなかった。戦斗の数は俺の方が多く、敵を斬った数も俺の方が多い
筈だがとひそかに思ったものであった。
※注
野田少尉と同じ大隊副官という任務についていたといふのも面白い。「百人切りゲーム」なかった論の論拠の一つに、
後方にいて忙しい副官が前線で敵を切るなんてのはありえないといふ説を唱えるミリタリオタクがいるのですな。
また、もし百人斬りが捏造だとしたら、どうして二人の少尉がその当時否定しなかったのか、という当然の疑問に対して、
原告側は「すでに日本で報道され大騒ぎになっており、当時は否定することができなかった」と説明していましたが、
実際には彼等は日本での報道に触れる以前から周囲に百人斬りの件を吹聴していたことが分かります。
語るの落ちるつうことですが、ジパングの歴史修正主義者つうのは、これほどお粗末なのです。これで、中華人民共和国政府と
論争しようつう感覚がわかりませんな。
そんな覇気はなく、国内のアフォ厨房右翼が翼賛すればよしと思っているのでしょうかね?
ブギティンギはさほど広くないうえに見所が多い。有名なコック要塞はただの陸橋のようなものだが
戦争時には峡谷を守る要害やったんやろう。シアノック谷はなかなか見晴らしがええ、パノラマパークから
はのどかな水田風景と山々を一望できる。公園の中には旧日本軍の地下要塞がある。入り口には日本兵が
銃剣を手にインドネシア人を使役しているレリーフがあった。日本軍は現地の人を強制労働させてたんやな〜と
重い気分になりながらチケットを買って入場した。地下壕は碁盤目のような単純なつくりで幅は人二人分はあり、
高さも腰をかがめることなく歩ける意外に広い造りである。薄暗い坑道を一人で歩いてるうちに昔の日本人は
こんなとこまで来て戦ってたんやなとすこしセンチな気分になってきた。日差しがまぶしい外に上がると
公園の管理人がいて 「Japanese?」 と聞かれたんで、内心中国でさんざんやられた戦争中の日本軍の悪虐
ぶりをまた聞かされるんかと思ってシンガポール人だと言おうとしたが、ニコニコ笑ってそんな風でもない。
片言英語でこれは日本人がオランダと戦うため作ったんだよ、オランダが逃げてインドネシアは独立できたんだ、
日本軍は強かったよと言ってるようだ。なんだ、怒られるんかと思ったけどそうではなく日本に親近感を
もってくれてるようだった。中国に長くいるとどうも日本に否定的イメージが焼き付けられてしまう。いやいや
日本国内にいても過去の歴史を反省せよって言う偽善者が多いんでうっとーしくてたまらんわい。
http://kailas8.ld.infoseek.co.jp/column.htm
私が日本軍の「慰安婦」にさせられた頃の、本当の悪夢…。
私の名前はマルディエム
インドネシアのジョグジャカルタに住んでいました。
インドネシアに日本軍が来たのは一九四二年三月 その時私は十三歳。
舞台で歌うことを夢見る、無垢な少女でした。
「女優にならないか」「ボルネオで大きな舞台に出られるよ」
そんな言葉を聞かされて、浮き立つ気持ちで汽車と船でバンジャルマシンに
連れて行かれました。
デッキのすみに歌手になりたき少女らを乗せ船は行く青きボルネオ
十三歳は歌手になれると騙されて皇軍兵士の「慰安婦」とさる
同じような少女たちが私の他に四十七人いました。
着いたところは、舞台ではありませんでした。
大きな建物の二十くらい部屋がある中で、十一号室に入れられ、
まだ生理もない私に、六人の男たちが襲いかかってきたのです。
いったい何が起きているのか、恐怖と痛さで、夢中で叫びました。
痛い!やめて!お願い!
でもやめてくれませんでした……
そこは、「慰安所」だったのです。
初潮さえなき十三歳初めの日六人の兵にレイプされしと
慰安所の十一号室に入れられて「モモエ」と呼ばるる十三歳よ
三時間に十一回も…、それはその日だけではありませんでした。
慰安所の前に住んでいた日本人の「チカダ」は慰安所を経営していました。
ある日私は、チカダに怒鳴ったのです。「痛くて出血しているのよ!」
血が床に滴り落ちていました。
「だめだ!」チカダは怖い顔で言いました。私は血のついた下着を彼の顔に投げつけました。
あらゆることが時間で決められていました。
昼の十二時からずっと…、夜になるとまた七時から真夜中まで
毎晩二十人から三十人の兵士が来る、まだ幼い私なのに
あと何時間こうしていなければならないのか、
http://members.jcom.home.ne.jp/eumeda/tanka/05marudhiemu.htm
http://www7.ocn.ne.jp/~hagw/60-kandageniti.htm インド・インパール戦線救援へ
インパール戦線の苦戦を救援するため志賀部隊が編成きれ、東部チモールから西部チモールのクーパン港に移動し、
四五年三月十二日の夕暮れ、三隻の駆潜艇に分乗し脱出した遠中爆雷を投下しスラバヤ港に上陸した。ジャカルタ郊外
のポゴールの兵舎に移動し、ビルマに向かう間の休養となった。
夕方になると兵舎の周辺に張られた鉄条網の外に、インドネシヤの子女がむらがり、兵隊の残飯と物々交換が
おこなわれた。残飯と性の取引をしたと語る青もいた。ジャワは水田が広がり、お米が豊富に思えたが、
日本軍の徴発で住民は飢えていたのである日本兵専用の慰安所の集落もあった。
上陸一番乗り
戦記にもはっきり残っているでしょうが、バンタム湾というところに今村均中将の中枢部隊がいました。それから
メラク海岸というのがありまして、岬の先ですがそちらにも上陸部隊がある。そちらに我々宣伝班の
グループがいたわけです。私の記憶では石本統吉、カメラマンは日活多摩川の糸田頼一、助手は僕、その他に
何人かいたような気がします。(略)上陸するとき(1942年3月1日)に「なぜ撮影しないのか」と僕が石本さんに言ったら、
「周ちゃん、君がやれよ」と。石本さんは記録映画の人ですから。それで僕は船の中をかけずりまわって
12ボルトのバッテリーを充電した。でも糸田さんが全然その気にならないのですよ。怖かった面もあるとは思いますが。
とにかく当時は徒弟制ですから、カメラマンがその気にならないのに、僕が勝手に撮るわけにはゆかなかったのです。
そのときに持っていた機材はパルヴォのシングル。下に弁当箱のようなものがついていて、撮ったネガが
そこに落ちるやつです。結局、カメラマンが動かなかったので、助手の方も動けなくて。だから上陸は撮影をしていません。
ジャカルタに乗り込む前に、その手前のある集落で一泊しました。それはオランダ人の住宅、もうみんな
逃げていますから空っぽです。そこへ宿を割り当てられました。まず、そこでは冷蔵庫が動いていました。
開けると甘いものもあるし、市場に行くとキャラメルが山のようになって売られている。日本にはそのころ
砂糖がなかったですから、兵隊はそれだけで腰を抜かすわけです。翌朝、味方の戦闘部隊をとにかく追いかけた。
部隊の戦車とトラックは全部接収したものです。日本のトラックは、上陸のときすでに潮を
かぶっていてほとんど使えませんでした。上陸のとき、僕たちは富士のフィルムを梱包して持っていったのです。
大八車に載せて陸揚げするわけですが、僕が見ていたら、重いから、それを海の中へドボンと落としてしまう。それで
全部水に濡れてしまった。(略)僕は毎日新聞の記者と2人でインドネシアの運転手を雇った。占領軍ですから、
車なんか全部徴発ですよ。略奪ですからね。それでジャカルタまで一晩かけて帰った。
http://users.ejnet.ne.jp/~manuke/zatsu/eiga/kikuchi.html
インドネシアは日本軍の占領下に入る前に、数百年にわたってオランダの植民地であった。しかし、オランダの支配には
誇りを持って懐かしみ、オランダ語を使う老人達もいる反面、日本軍の侵攻に対しては、思い出したくない悪夢と
いう印象が強いという。この違いはどこから来るのだろうか。当時の日本軍が、相当残酷なことをしたと思わざるを得ない。
また現在でも、インドネシアでは欧米人は尊敬されるが、日本人は尊敬されないというのを聞いたことがある。
欧米人は仕事を離れても、インドネシア人に無償で教育を施したり、文化を教えてくれたりするそうであるが、
日本人は単に打算的で、仕事以外は全く閉鎖的で現地に溶け込もうともしないという。現地の人たちの最大の
不満は、インドネシアに進出している日本の企業に就職しても、日本人ではないという理由だけで
給料も安く、いくら優秀な人材でも高いポストに就けないことだという。これでは、現地の人たちに顰蹙を
買うだけである。こんなことをしているから、未だに日本は何をしでかすか分からないと、アジア諸国に根強く残る
日本軍国主義復活への不安感を拭い去ることができない。莫大な円借款のために日本に遠慮をしている
彼らの気持ちが分からないようでは、真の友人となるべきアジアとの精神的な距離を縮めることなどできない。
http://www.keicho.com/indonesia/garuda8.html
940 :
農NAME:2006/02/25(土) 08:36:35
http://www.nikkei.co.jp/kansai/relief/28894.html インドネシア独立の経緯を長々と書いたのは、次のような私の体験と関連するからである。
インドネシアのスマトラ島の地図をひろげると、西海岸にそって高い山々が連なっている。南緯4度あたりに
デンポ山がある。標高3159メートル、広大な裾野(すその)をもつ、富士山に似た秀麗な山である。このデンポ山を望む地域をパセマ高原という。
パセマ高原には巨石記念物が多く遺存している。ドルメン(大きな石を4個の石で支えた卓石)、メンヒル(立石)、壁画のある古墳、
人物や動物の石像など。1967年8月、私たちはパゲララムの軍隊のゲスト・ハウスに泊まって、これらの遺跡を自動車でめぐり、
調査をおこなった。
ある日、私がタンジュンテバク村に行きたいというと、郡長の表情が一瞬かわった。後でわかったことだが、旧日本軍がこの村の
住民300人を虐殺したからである。すなわち、前述の敗戦後の混乱期に日本軍が武装解除されたとき、武器引き渡しをめぐる争いで、
多くの住民が殺されたのである。そういえば、この調査には数人の兵士が連日同行したが、これは対日感情の悪い地域なので
私たちを護衛するためであった。
◇インドネシア
インドネシア・ジャワ島チマヒ出身のスハナさん(七〇)は一九四二年、無理やり慰安婦にされたとしている。
家の前で遊んでいると、日本の軍服を着た五、六人の男に車に乗せられた。両親は留守だった。男たちは刀を持っており、
抵抗できなかったという。
連れて行かれたのはオランダ軍の旧兵舎だった。ほかにも多数の女性と通訳兼雑役係がいた。
一週間は何もせず、八日目から兵士の相手をさせられた。
「食事と衣料の支給はあった。現金をもらったことはない。いつも『お金は、あとで』と言われ続けた。一人の将校から二度、
軍票をもらったが、額は覚えてない」
外出はいっさい許されなかった。二年半ほどたって、突然家に帰るように言われた。両親はすでに死んでいた。
http://www.geocities.co.jp/WallStreet-Bull/8536/slave.htm
943 :
農NAME:2006/03/03(金) 13:12:14
水がもれなくて移植が出来れば可能だよ
尾澤 僕も後藤君と同じ平成14年度の前期隊で硫黄島に行かせてもらいました。その後は沖縄と東部ニューギニア、
あともう一回硫黄島に行って、また沖縄に行ってという感じです。
中村 全部で何回行った?
尾澤 五回です。大学のボランテイァ団体に入っていて、その紹介で日本青年遺骨収集団の方に来るようになりました。
硫黄島では前期隊だったので、やはり悔いを残したままでは終われないという思いでずっとやりはじめました。一番印象に
[残っているのは、硫黄島もそうですが、東部ニューギニアのウエワクという日本軍の大きな基地があった所に行った時のことです。
ホテルから現地まで行くのに車で一時間、山道を歩いて一時間、ニューギニア人が、途中にあった木の橋を見て
「これ誰が作った橋かわかるか」
「知りません」
「これは日本軍が作った橋だ」
と教えてくれました。もう60年も前に作った橋なのに、いまだに一回も補修されないまま使われているというのです。また、ウエワク
東飛行場というのがあるのですが、その飛行場も「実をいうと旧日本軍のウエワク飛行場をそのものをほとんど補修しないままいまだに
使っている。でも、それに比べて韓国がODAで作ってくれた橋は三年に一回は補修しないと駄目だ。だから日本人というのは、
それだけ器用で丈夫なものを作るんだよ」と教えてもらいました。
ニューギニアでは、ご遺骨を日本人に売って金にするというビジネスがあり、それが成り立っているところです。しかし僕らの
行ったところは凄い親日家の人で、お金はいらない、こっち側から人間も出すから一緒に掘ろうよということを言ってくれました。
作業したところはちょうど野戦病院跡のちょっと上の方で、ニューギニア人は結構大雑把なのですが、ご遺骨が出てくると
細かくやってくれたりしました。そこで初めて僕は、完体という形で出てきたご遺骨を見ました。そして一つのご遺骨を掘って行くと、
そのご遺骨の胸のあたりのところに頭がもう一個あった。それを横にまた掘って行くと、横に寝ている人の腿のところに
頭が二つあって、2メートル四方のところに四人の人が重なるようになっていました。苦しんで死んだというより、
頭の後ろに手を組んでお昼寝をしている状態です。
http://www2.odn.ne.jp/~seinen/backnumber/05_01/top.htm
ニューギニアの慰安婦ぅ?何馬鹿な事を。ニューギニア戦線はガダルカナルと同等か、それ
以上に悲惨なのだよ。投入兵力14万人のうち生還出来たのは1万2千人、消耗率90%以上。
昭和18年1月ブナを失陥、9月にラエ・サラモアから撤退。以後、フィンシュハーフェン
マダン・アレキシス・ウエワク・アイタペ・ホーランジアと撤退する。制海権・制空権共に
無く、食料・弾薬の補給は途絶え防戦もままならない。結局ジャングルに逃げ込み、68・78
戦隊はサルミで解隊(全滅)ソロン・マノクワリ方面で細々と露命をつなぐ。それでも
何とか生き抜けたのは現地人が椰子の実から澱粉の取り方を教えてくれたからである。
それは日本兵が現地人に簡単な計算と英語を教えた【お返し】であり、今でもサラワケット
方面の遺骨収集では、現地人が暖かく迎えてくれる。当時は生きるか死ぬかの瀬戸際であり
また食料の窮乏激しく、そのような状態では性欲がわくはずがないとの兵士の証言である。
しかし慰安所はウエワクには存在していた。これはあくまで慰安所であり、ウエワク地区が
比較的平穏だった昭和18年末までである。従軍とは兵士・部隊と同行するカメラマン・新聞
記者を指すのであり、彼らはしばしば作戦に同行しており、命の危機に何度も遭っている。
日映カメラマン・吉田一氏のサムライ零戦記者、毎日新聞記者鈴木英二氏・サムライの翼に
詳しい。又、ラバウルにも慰安所があったが、これも同地区が比較的平穏だった時代である。
元252空所属・海軍中尉角田和夫氏、元343空海軍飛曹長中村佳雄氏の記述に詳しいが、いず
れも【従軍】慰安婦という記述はない。彼ら元搭乗員・陸上戦闘員いずれの回顧録にも
従軍カメラマン・記者というのはあっても、ついにぞ【従軍慰安婦】という記述は出てこな
い。事実そのようなものは存在していないんだから、記述のしようがないのだ。
*漫画家の水木しげる氏(二等兵)はラバウルで片腕をなくされています。
伊藤清氏(元海軍飛曹長/撃墜23機)の言葉を紹介する。
『今に日本人はあまりに自分のことだけ大切にして他人のことを省みないですね。自分が
好き勝手に生きるのが民主主義じゃない。責任を果たして初めて自由は手に入る。義務を
果たして初めて、平等の権利が生まれる。そういうことが置き去りにされてますよ。あの
戦争で、日本の繁栄を信じて戦った戦友たちも、まさかこんな国になるとは思わなかった
でしょう。現代の若者が、自分たちの父や祖父が国の為に働いたんだ、という意識を回復
しないと、日本なんて沈没してしまいます。自分の国を愛する気持ちがなければ、いくら
経済大国だ、なんて言ってもダメですよ』伊藤氏の言葉には、自分たちが命をかけて守ろう
としたこの国が、社会の内側から破綻してゆく歯痒さがにじみ出ていた。」零戦最期の証言
T・P200より抜粋。
*『伊藤氏大丈夫です。そのような不貞の輩は我々が撃墜します!』
http://www.katogi.com/history/seiichi03.htm もう少し勉強したまい。
僕らは、日本がかつて、中国に対し「非人道的な無差別爆撃」を行ったという事実を、みんなが確認すべきだと思う。
ともすれば、国内的には、東京大空襲や、広島、長崎の悲劇だけがクローズアップされて、
日本はまるで、無差別爆撃の一方的な被害者のように思われているが、実はそうじゃないって事をだ。
規模はまるで違うが、日本も重慶無差別爆撃では加害者だったということを、絶対に忘れてはいけないと思う。
だからといって、別に中国に謝罪しろとか、補償すべしなんて言っているわけではない。
ただ、空襲や爆撃に関する話が、日本が被害者だったというシチュエーションでしか語られないことが、異常だと思うのだ。
アメリカのやった非人道的な無差別爆撃や、原爆投下に対して怒るなら(日本人なら怒るのが当たり前だ)、
そのときに、中国人も同じ思いを抱いているかもしれないという、可能性に思いを馳せるべきなのだ。
これは土下座しろ、と言ってるんじゃないし、自虐でもないから、誤解するなよ。
要は、知識と想像力の問題なのだ。
自国の歴史に無知で、かつ、他国の人の心情に対する想像力を欠くとき、日本人は国際社会で孤立してしまうだろう。