World's End Girlfriend

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73名無しさん@お腹いっぱい。
クラナド叩きする連中は例外なく after story を見ていない。(ゲームでもアニメでも)
前半、というか学園編がだるいのは認めるが、クラナドのテーマってそこじゃないじゃんどう考えても。

ちなみに俺はクラナドはアニメ版が好きで、特に最終回近辺の演出は神がかっていると思う。(AIR以上に。)
曲調が陳腐なヒーリングミュージックだっていうのは認める。だがそれは音楽だけだったらって話だろ。
ゲーム音楽もアニメBGMも広義の劇伴音楽に数えていいと思うけど、そこで真に重要なのはそれぞれの楽曲のクオリティではなく、
むしろ劇中でそれらの曲をどういう場面にあわせどういう風に使ったか。
それによって終盤に近づくにつれ、一つ一つの曲に最初はなかったイメージが仮想的にこめられていく。
クラナド最終話近辺は、そういう音楽の効果を最大限利用していて、
音楽が流れていたあらゆる瞬間の回想が音楽の中に畳み込まれる、という効果がある。
それが「泣き」の正体なわけじゃない。そうなってくると一曲一曲のクオリティとかほとんど関係なくて。
そしてクライマックスのメタ世界へ跳躍するようなアクロバティックな展開は、
こういう音楽のもたらす情動がなかったらただのトンデモな展開なわけであって、
音楽があってこそ成り立つ展開だと思うわけ。

まあだからと言っちゃ何ですが、ニカ板にクラナドスレが立つのはある意味正しいと思う。
ニカにしたって電子的な音響操作/加工で、聴いたことのないような/あるような音を作って、
それによって聴く側の潜在的な記憶を型にはまらないやり方で揺り動かすことで成立してるわけじゃん。
そしてだからこそ、型にはまるようになって、「郷愁エレクトロニカ」みたいなのが成立したら存在意義がなくなるわけでもあって。
(それはノスタルジーを喚起するような、変質してしまった古い記憶を、電子的に加工され変質された音響と感覚的に結び付けてるだけであって、
加工された音自体がほかのイメージを持つ可能性を自分で閉ざす方法論なのよね。)
逆に言えば単なる音いじりでは限界が見えてきた今こそ、
音楽の流れの中で音に対して潜在的な記憶を付与するやり方が探求されるべきで、
つまりは音楽的な形式の問題だけど、クラナドをそういう音楽と形式の関係の極端な例として意識するのは、
間違ってないと思うんだよね。

つまるところ after story 見ろ。