【滝田栄】「徳川家康」(四天王)【山岡荘八】

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263日曜8時の名無しさん
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは、牧野康成は徳川秀忠軍に属して真田昌幸(西軍)が守る信濃国上田城攻めに参加した。
徳川方の刈り田働き阻止をめぐる偶発的戦闘で、康成は友軍の危機を救援することを命じたが、
これが城攻めにまで発展した。
しかしこの城攻めは秀忠に無許可で、しかも結果は「惨敗」であったため、
康成はその責を問われた。直接指揮をした部下の贄掃部を切腹させるよう命じられたが、
康成は自ら責を負うとしてこれを拒否した。
嫡男の忠成もこの命令に逆らい、贄らを伴い出奔したため大いに秀忠の怒りを買い、康成は上野国吾妻に蟄居処分となる。