. 【】決着【】大河民の幕末史【】真実【】 .

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603日曜8時の名無しさん
>>73
>>116-117
>>122-130
>>145-146
>>148-149

遅レスだが、斗南と猪苗代で選択肢があったのかという論争を読んだ

これは要するに明治2年当時に若松県大参事だった岡谷繁実(旧館林藩士)が
猪苗代での再興を新政府に上申したらどうかと若松組に助言したということじゃないのか?
それを、東京謹慎組は「会津に残りたい」と主張すると、新政府ににらまれる」と言う理由で
その主張を退けた、ということのように見えるんだが。

もし、中央政府から「猪苗代と斗南、どちらかを選ばせた」というのなら
>>127の水島純の回想にあるような
「若松の説の先祖以来墳墓の地云々の説を主張しますと」という言葉は出て来ないように思える。
あくまでも新政府から提案されたのは「陸奥領」であり、それに対して猪苗代という案を新たに出して「主張」するからこそ
「当路者の疑心は益々増長する」と読めるんだが。
新政府が二つの選択肢を出したなら、会津領内を選ぶことで「疑心」を持たれるのもおかしいし
若松組が東京組にそんな理由で説得されるのもおかしい。

若松県大参事というのは言わば地方公務員で、会津の領地を決定するような権限はないので
岡谷はあくまでも中央政府に上申することを勧めただけだと思うんだが
これが「中央政府から選択肢を示された」というように、一部で伝わってしまったように思える。