>>373-374 >NHKの「平清盛」の第24回にあらすじ
「大宰府」という名の役所で接待を受けたとしか判断できない。
(地名の「太宰府」ではない。NHKなら書き分けの慣例くらい分かっている)
大宰府政庁は12世紀前半に廃絶していることが発掘調査で分かっており、鴻臚館も11世紀のうちに消滅したものと考えられる。
結局の所、12世紀後半に大宰府の政治的実態が太宰府に置かれたのか、博多なのか、それ以外なのかは推測に頼るしかない。
その際に有力な根拠となるのが、鴻臚館の存在。行政の中心としての大宰府と、交通・経済の中心としての那津が
明確に分立していた時代ですら、博多には外交使節を迎える公館が存在していた、すなわちそれだけ重要な拠点と認識されていたことになる。
少なくとも清盛以前には博多に行政拠点が置かれた事実があり、「清盛がラーメンをすする」ような考証ミスとはならない。
清盛の時代には博多の開発が一挙に進み政治的拠点となったことが知られている。
仮に太宰府に存在していた強固な大宰府政庁を清盛が博多へ移転させたとなれば何らかの文献記録があってしかるべきだが、
そのような記録は特にない。つまり、清盛が博多に行政機能を持たせたとしても、世の人は何ら疑問を持たない状態だった、と推測できる。
>現地任用のノンキャリの大宰権少弐がいる所が大宰府というのはおかしい
まったく意味が分からない。お飾りのトップがどこに居ようが大宰府は大宰府なんだが。
何度も言うように、役所としての「大宰府」と、地名としての「大宰府」を明確に区別してから議論してくれ。
そもそも遙任の増加と在地領主(≒武士)の成長は一体をなすもの。
つまり、平安末期とは公家の官職が形骸化し、在地の武士こそが実力を発揮し始めた時代。
ヘタレ上級貴族が「あんなド田舎に赴任させられるなんて嫌でおじゃる」とダダを捏ねて
下級の木っ端役人や汚らわしい武士どもに汚れ仕事を押し付けたのが貴族社会崩壊の始まり。
信西が清盛に「どうして納税が過小なのか分からんから調べてこい」と言うような状況では
大宰帥や大宰権帥が一体どれだけ支配の実権を持っていたかすぐに分かるだろうに、
そういう時代背景をまるで理解できてないから、こんなケチくさい所を延々批判している訳か。
一度付いた地名はそう易々とは変わらない。大宰府政庁衰退後の太宰府は太宰府天満宮の門前町として栄えているので尚更。
例えば「京都」とは首都という意味だが、首都機能を喪失して150年(江戸から数えれば400年以上)近い現代でも京都という地名は京都のまま。
太宰府という地名は、「かつて大宰府政庁が置かれた土地」ということくらいしか意味しない。
官邸という言葉は「権力者の職場」くらいの意味しか持たない。そして、「官邸といえば給付の住居のはずだ!」というのは思いこみ。
あなたの言う通り、当時の日本に公人私人の区別はろくに無く、居住の場と執務の場は渾然一体。権力者が住む私邸こそが官邸。
白河上皇が院政を執る屋敷を建てれば「白河北殿」、平家が都の一角に邸宅街を形成すれば「六波羅殿」。どちらも官邸と呼んで差支えないだろう。
(ちなみに現代の「首相官邸」は首相の仕事場であり、住居である「首相公邸」は別にある。)
「官邸」というテロップをわざわざ出したということは、むしろ政庁ではなく原田の屋敷であるということの明示的な表現といえる。