★大河小者役に新参の原田種直(蟹江一平

このエントリーをはてなブックマークに追加
1日曜8時の名無しさん
★大河歴代小者役に新参の原田種直(蟹江一平
2日曜8時の名無しさん:2012/06/10(日) 21:05:42.34 ID:UVnWVh/8
 
 ●(ささやかな復活)
原田氏の台頭

 平安時代末期に起った保元の乱・平治の乱に際して、原田種雄と嫡子種直は平氏勢として活躍、平氏との関係を深めていった。
永暦元年(1160)、種直は平重盛の養女を室に迎え、大宰少弐に任じられて平家のためにおおいに気を吐いた。
 治承三年(1179)、平清盛が後白河法王を幽閉した時、種直の次男種国が警護役をつとめている。
しかし、平家が壇ノ浦で滅亡すると、原田氏は領地を没収され、種直は鎌倉に幽閉の身となった。
その後、開放された種直は、源氏に味方して家を保っていた弟種成を頼って早良郡へ行き、
のちに頼朝より怡土庄の地を与えられてささやかながら復活をとげた。
3日曜8時の名無しさん:2012/06/10(日) 21:10:06.08 ID:UVnWVh/8
第24回 2012.6.17放送予定
「清盛の大一番」

後白河帝(松田翔太)のもとで実権を握る信西(阿部サダヲ)の政治改革が始まった。信西は手始めに内裏を修復し、宮中行事としての相撲節会(すまいのせちえ)を
復活させるなど、精力的に行う。
相撲節会の資金集めもあり、全国へ税徴収を徹底させる信西は、清盛(松山ケンイチ)を鎮西(現在の九州)に送り、
税を納めない太宰少弐(=大宰府の役人)・原田種直(蟹江一平)からの取り立てを命じる。
4日曜8時の名無しさん:2012/06/10(日) 21:14:13.91 ID:UVnWVh/8
(蟹江一平さん) 小者役も似合う男

寧々〜おんな太閤記(2009年1月2日、 テレビ東京 小者の副田甚兵衛:蟹江一平)
天地人の キャスト ... 小者臭が漂った本多正純役 / 蟹江一平さん
5日曜8時の名無しさん:2012/06/10(日) 21:25:18.65 ID:UVnWVh/8
■某サイトより転載  (豊臣秀吉に小者認定された原田家)
「小身にて一家を立てる事は無い」との裁断が秀吉からくだされた。
http://www001.upp.so-net.ne.jp/Strumgeschutz-3/harada.htm
時代をさかのぼると、平安時代にさかのぼるようだ。
平安時代末期、源氏と平氏が戦った保元の乱・平治の乱では原田種雄と嫡子種直が六波羅に入り平氏勢として戦い、平氏との関係が深くなる。
1160年2月に平重盛の養女を種直の室として迎え、
自身も従五位下となり大宰少弐の職を継いだ。
種直の次男種国は後白河法王が幽閉された時の警護を命じられている。
元暦二年(1185)二月一日芦屋浦にて種直と種国(吾妻鏡では賀摩兵衛尉・嘉摩田種国)が源範頼と戦い、
種直の弟の美気三郎敦種が討ち取られている。
壇ノ浦で平氏が惨敗すると原田氏は岩門郷三千七百町の領地を没収され、種直も十三年近く鎌倉に幽閉される。

開放された種直は源氏に味方させていた子 種成(早良種成)を頼り早良郡へ行き、後に頼朝より怡土庄の地を与えられる。
建仁三年(1203年)に筑紫郡岩門より怡土郡五郎丸(三雲)に移り住み、伊勢(怡土)ノ山(現在の高祖山)に館を構える。
建長元年(1249年)原田種直から4代目の種継・種頼親子が怡土城(朝鮮式山城。吉備真備などが大宰府の守りに築いた。)
の一部を利用して高祖城を築き、麓に館や武家屋敷を構える。
文永十一年(1274年)10月の「文永の役」では原田種照・種之兄弟が六千五百騎を引き連れて防戦するも、
八幡宮(箱崎宮?)裏手の深田で討ち取られる。種照は42歳であった。
弘安三年(1281年)の「弘安の役」では原田種照弟 種之・種房が今津で防戦している。弘安の役の功により原田種房は大宰大監に任じられる。
6日曜8時の名無しさん:2012/06/10(日) 21:36:22.79 ID:UVnWVh/8
 天下に号令しようとした小者の原田種直の小説が掲載されていたサイトがありました。
http://blog.goo.ne.jp/araki-sennen/c/63b1a79b0dddb5e10b1f73ada7d2a302
筑紫遷都。(安徳台の原田種直)

7日曜8時の名無しさん:2012/06/13(水) 02:24:55.22 ID:rDVLPqQD
家盛の娘が出てくるだろうか? 史実どうりならば、原田 種直と結婚する事になる。
家盛に娘がいた事を知らない人もいるな。
そして、娘は子供を産んでいるので、平家盛の子孫は続いている事になる。

原田 種直(はらだ たねなお)は、平安時代末期から鎌倉時代初期の武将。父は大宰大監原田種雄、妻は平重盛の養女(重盛の叔父・平家盛の娘)。
8日曜8時の名無しさん:2012/06/13(水) 02:27:10.54 ID:rDVLPqQD
家盛の娘は甥の重盛の養女となり、平治2年(1160年)2月に原田種直に嫁いでいる。
9日曜8時の名無しさん:2012/06/13(水) 03:36:37.30 ID:UM1hX0d6
原田種直の子孫に吉松氏がいるけど、音楽の吉松隆さんの先祖なのか?
10日曜8時の名無しさん:2012/06/13(水) 14:34:19.58 ID:FwlGzBYq
>>9  吉松性は、四国にもいるね。 資料が少なくて、僕にはわからないな。

 もしかして、秋月氏の家来の吉松氏のことかな?

 原田氏の子孫の一部が、秋月を名乗った事は知られているね。
 その秋月氏には、吉松と言う家臣がいた。
http://www2.harimaya.com/sengoku/html/akizuki.html

吉松家は、豊臣秀吉の九州征伐に敗れた秋月種長が、甘木(福岡県)から高鍋・串間へ
配置替えとなった時、秋月氏に従って串間へ入ったと伝えられおり、
その後江戸時代 を通じて武士と同格の家柄でした。
近世において庄屋をつとめ
http://misakiuma.net/yoshimatsu/about-yoshimatsu.htm

http://www.shikoku-np.co.jp/national/okuyami/article.aspx?id=20030212000110

四国の吉松の場合
吉松光久(????)〜(????)
【官位】:備後守 【通称】:十右衛門
■父:吉松播磨守光義
■妻:長宗我部元親女 ■子:吉松筑後守光勝
吉松氏は土佐郡秦泉寺城主の秦泉寺氏の一族で清和源氏の後裔。始め本山氏に仕え土佐郡万々城主。
十右衛門は土佐郡朝倉の奥地を領していたが長宗我部氏の圧迫により降伏。
元親の女をめとって備後守を称し姻戚となって活躍した。子の筑後守光勝(四十右衛門)は
永禄六年に土佐郡大垣内城を攻めて城主伊藤入道を打倒し、改めて大河内城主となって五千貫を領した。
11日曜8時の名無しさん:2012/06/16(土) 22:22:16.21 ID:fE1W/RwY

 原田種直(蟹江一平)は、今後、大河で何回出てくるかが気になる。

 史実どおりなら、壇ノ浦の最後まで関わるんだがな
12日曜8時の名無しさん:2012/06/17(日) 20:49:58.76 ID:9RXklpj+
 茶好きの小者としての扱いだったな。
  一応、平氏の味方になりましたという解説はあったが
13日曜8時の名無しさん:2012/06/17(日) 20:53:12.00 ID:8cIOwXNY
お父さんに似ているね。
14日曜8時の名無しさん:2012/06/17(日) 20:57:36.40 ID:DxksnDz7
NHKは平岳大といい2世俳優好きだな
どちらも息子の方が穏やかそうだ
15日曜8時の名無しさん:2012/06/17(日) 21:04:03.83 ID:9RXklpj+
>>13
  リアルで、親子の葛藤エピソードがあったらしい。
2007年(平成19年)6月26日放送の『スタジオパークからこんにちは』に出演した際、序盤は差し入れのおにぎりを頬張りながらの
和やかなトークが進行したが、悪役を長年演じてきた父の影響でいじめにあい、
父に反抗した時期があったと告白した。
「少年時代に親子でバッティングセンターへ行き、黙々とバットを振り続ける父の後姿を、
アイスモナカを食べながら見ているうち、『一番辛い思いをしていたのは父だった』と悟った」と語り、
父からの手紙が番組内で読み上げられると、大粒の涙を流しながらのトークとなった。

栗田桃子と言う、女優の姉がいるようだね。

1613:2012/06/17(日) 21:18:18.11 ID:8cIOwXNY
>>15
レスありがとう。
そうだったんだ。お父さんとそういうエピソードが
あったんだ。悪役上手いもんな…「炎立つ」でも
食えない陸奥の豪族を演じていたっけ。
息子も、娘も演劇の世界へ…。
17日曜8時の名無しさん:2012/06/17(日) 21:44:02.20 ID:I4aR4zcP
古い時代劇を見てると親父の若いころがコイツと顔がそっくりでマジ笑える
18日曜8時の名無しさん:2012/06/17(日) 23:33:34.77 ID:+9pJfy4q
>>14
蟹江は息子のほうが相当うざいよ。

どんど晴れのメイキングでもひとりで場違いのはしゃぎようで、
他の出演者から、「あいつどうにかしてくれ」 の雰囲気がばんばん漂ってた。

蟹江息子と同類のうざさが鶴瓶の息子。
19日曜8時の名無しさん:2012/06/18(月) 10:35:10.32 ID:zasvOBx1
信長の家臣に原田直正とかいなかったか?
20日曜8時の名無しさん:2012/06/18(月) 11:05:55.39 ID:hLDRUOo5
原田(縞)直政の妹が信長の側女になって
信長の庶長子・信正を産んだというけどね(諸説)
21日曜8時の名無しさん:2012/06/18(月) 13:26:05.67 ID:tVbyChvI
信長の家臣で調べていたら、明智光秀の孫って、江戸時代に豊臣秀頼の家臣になっているんだな。

織田 昌澄(おだ まさずみ、天正7年(1579年) - 寛永18年3月26日(1641年5月5日))は江戸時代の旗本。
津田信澄の長男。生母は明智光秀の娘。別名、信重。通称庄九郎、三左衛門、主水、
道藤堂高虎の家来として文禄の役に出陣する。後に藤堂家を去り、豊臣家に仕える。大坂冬の陣で藤堂高虎の部隊などと戦って活躍し、
豊臣秀頼から褒賞を受ける。なお、大坂の陣に際し、長男勘七郎は戦死している。大坂城落城後、徳川方に出頭するものの、
高虎のとりなしを受けて徳川家康は助命する。以後、剃髪して道半斎と号する。
元和4年(1618年)11月、将軍徳川秀忠に旗本として召し抱えられて、近江甲賀郡内などで2000石を与えられる。以後、束髪して主水と称する。
寛永18年(1641年)3月26日死去、享年63。
正室は安西氏。子女は2男9女。次男信高が家督を相続する。
22日曜8時の名無しさん:2012/06/18(月) 13:40:28.53 ID:tVbyChvI
原田種直の子孫は、豊臣秀吉に自分の領地を過少申告して、秀吉の気分を害して、
小者認定された。

結局、小者なら他人の家臣で、いいじゃんとされて、居城没収で、流転人生
秀吉に佐々成政の家臣になれといわれたが、佐々没落→その後、加藤清正の家臣になるも追放された。
清正と不和となり領地没収のうえ追放処分を受け、嘉種・種房兄弟は唐津城主寺沢広高に食客として遇され二千石を与えられた。
ところが、寺沢家は島原の乱によって改易処分となり、ふたたび浪人となった原田嘉種は江戸に上り、天海僧正と出会い、
慶安四年(1651)天海の紹介で会津藩主保科正之に二千石で仕えるようになった。
このとき、嘉種はすでに六十七歳の高齢であったが、保科正之に手厚く遇されたという。
嘉種のあとは種長が継ぎ、子孫は会津藩士として続いた。
23日曜8時の名無しさん:2012/06/18(月) 13:43:57.30 ID:tVbyChvI
原田氏って小者ながら、日本史上の大きな戦に、多数参加していて面白い家でもあるな
http://www2.harimaya.com/sengoku/html/harada_k.html

来年の大河ドラマ、八重の桜に、原田の子孫が会津藩の重臣役で出演すると面白いんだが
24日曜8時の名無しさん:2012/06/18(月) 15:25:35.71 ID:zasvOBx1
原田甲斐とか原田芳雄とか原田知世とか原田真二とか原田泰造とかいるよな
25日曜8時の名無しさん:2012/06/18(月) 17:07:50.61 ID:grInPsdi
陽だまりの樹で西郷してるのびっくり
26日曜8時の名無しさん:2012/06/18(月) 19:44:41.03 ID:P0Dkg/Nb
横顔が敬三そっくりだったw
27日曜8時の名無しさん:2012/06/23(土) 00:38:22.67 ID:6lbk/IfG
うちのご先祖様が大河に出てるの初めて見たわw
28日曜8時の名無しさん:2012/06/23(土) 20:41:54.35 ID:fnwKAGOL
大宰大監原田氏って、現地任用の官人のトップということでいいのかな!
29日曜8時の名無しさん:2012/06/24(日) 00:24:42.49 ID:1chF2nJn
長官は大宰帥(だざいのそち)といい従三位相当官、大納言・中納言クラスの政府高官が兼ねていたが、
平安時代には親王が任命されて実際には赴任しないケースが大半となり、
次席である大宰権帥が実際の政務を取り仕切った(ただし、大臣経験者が左遷された場合、実務権限はない)。
帥・権帥の任期は5年であった。
また、この頃は、唐宋商船との私貿易の中心となった。

四等官は、帥、権帥の下に
弐(すけ) : 大弐(だいに)、少弐(しょうに)
監(じょう) : 大監(だいげん・だいじょう)、少監(しょうげん)
典(さかん) : 大典(だいてん・おおさかん)、少典(しょうてん)
が置かれ、そのほか令によると主神・大判事・大令史・大工・史生・医師・算師など50人の官人が置かれていた。



















30日曜8時の名無しさん:2012/06/24(日) 00:30:50.13 ID:1chF2nJn
本来公家の官職である大宰少弐に、初めて武士が任命されたのが、武藤 資頼であった。
武藤 資頼(むとう すけより、永暦元年(1160年) - 安貞2年8月25日(1228年9月24日))は平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての武将。
。大宰少弐職は資頼の子の資能に継承され、以降世襲となる。資能は少弐を称し、その子孫は北九州の名族の少弐氏として発展した。
(少弐は、本来は、官職であったが、苗字になってしまった。)
当時武藤氏は大宰府の責任者として大宰少弐の地位にあったため、資能の代から少弐姓を名乗るようになったという。
31日曜8時の名無しさん:2012/06/24(日) 00:36:39.53 ID:1chF2nJn
>>28 の 考えで、ほぼ合っていると思うよ。
http://homepage1.nifty.com/kitabatake/kani85.html

大宰府の職員一覧が、紹介されていたサイとがあった。
名誉職の大宰府主神が、大宰帥より上になっているみたいだね。
32日曜8時の名無しさん:2012/06/28(木) 22:22:00.38 ID:A2fUeEJG
この清盛が大弐になったころ少弐って、現地任用でしょうか!
それとも京都から公家が派遣されるのでしょうか?
33日曜8時の名無しさん:2012/06/28(木) 22:54:26.95 ID:wJzT4ezH
>>32 清盛が、 少弐に武士がつけるようにしたんだと思う。

藤原住友は、大宰少弐(しょうに)藤原良範(よしのり)の子で、. 中下級貴族の出身とされる。

平清盛が大宰大弐になったことがあり、その後には清盛の弟の頼盛が大宰少弐になっている。
34日曜8時の名無しさん:2012/06/28(木) 23:00:37.65 ID:wJzT4ezH
永万元年(1165年)に二条天皇が、永万2年(1166年)に摂政・近衛基実が相次いで崩御
・薨去したことにより、二条親政派は瓦解して後白河院政派が息を吹き返した。

頼盛は7月に大宰大弐となり、仁安と改元された8月27日には従三位に叙せられて、
平氏で3人目の公卿となった
35日曜8時の名無しさん:2012/06/28(木) 23:05:21.77 ID:wJzT4ezH
>>32
原田種直【はらだ・たねなお】自身が、1181年に、在地武士として、少弐に出世しているよ。

平安末期の武将。岩戸少卿・大蔵大夫と称す。
父は大蔵種平。妻は平頼盛の娘という。筑前国(福岡県)の所領3700町と伝えるが
定かでない。
原田荘・岩戸郷を本拠として,博多筥崎の油座を押さえ貿易港今津を支配した有力府官。
大宰大弐平清盛による保元3(1158)年の宇佐宮式年造営のとき,
大宰大監として肥後国の拒捍使(税を徴収するために派遣される官人)を務め,
福原遷都(1180)に際しては後白河法皇を守護し,
治承5(1181)年には大宰権少弐に任官。
平家の鎮西支配の一翼を担った。
平家一門を大宰府に迎え,菊池隆直,源範頼と戦うなど活躍したが,
文治1(1185)年壇の浦の戦で平家が滅亡したとき,源氏に降った。
のち許されて,所領は没収されたが,筑前国怡土郡に住したと伝える。
36日曜8時の名無しさん:2012/06/28(木) 23:08:40.98 ID:wJzT4ezH
37日曜8時の名無しさん:2012/06/28(木) 23:23:00.64 ID:wJzT4ezH
 ややこしい事例だが、清和源氏の初代の源経基は、皇族だった。

源経基(?〜961):
     清和源氏の祖先。父は清和皇子の貞純親王。939年武蔵介の時、平将門の謀反を
     密告。平将門の乱の鎮定に向かい、のち藤原純友の乱の鎮定に従った。
その後大宰少弐として勢力を張ることとなる。
38日曜8時の名無しさん:2012/06/28(木) 23:26:25.50 ID:wJzT4ezH
http://www.geocities.jp/ajitama767/scenario/sanpo-ban/s03tsunemoto.html
平安時代の頃、天皇陛下さま直系の皇族は、とてつもなく大所帯になって
皇族のみなさんが暮らす財政が大変厳しくなっていました。
そんな事で、第52代天皇、嵯峨(さが)天皇さまの頃になると、お家(いえ)
を継ぐ必要のない人たちは、皇族から出て行かざるを得なくなります。

皇族から離れた人たちは、その証(あかし)をどこかに残したいと、揃って
「源(みなもと)」あるいは「平(たいら)」の姓を名乗ります。
それが源氏、平家の誕生です。
第56代天皇、清和天皇(せいわてんのう)さまの、六男の息子にあたる
源経基(みなもとのつねもと)くんも、例に漏れず、皇族から離れます。

そうなると、とたんに世間の目は厳しい。
“天皇さまの孫”なんて肩書きは、全然通用しません。
都(みやこ)にいても面白くない!と、FA宣言をして、武蔵国(むさしのくに)
の、介(すけ=副知事)のポストを手に入れます。
そして、同じ時期にやはり皇族を離れた、興世王(おきよおう)くんと一緒に
武蔵国(むさしのくに)へ向かい、今の鴻巣市の大間に、お堀のある城館
(じょうかん)を構えました。そして、ふたりで、武蔵国のトップを名乗ります。
938年のことです。
39日曜8時の名無しさん:2012/06/28(木) 23:37:49.74 ID:wJzT4ezH
これも、ややこしいけど、平親信も、公卿として、大宰大弐となっている。
http://www.ktmchi.com/rekisi/cys_42_14.html
平 親信(たいら の ちかのぶ、天慶9年(946年) - 寛仁元年6月12日(1017年7月8日))は、平安時代中期の公卿。
桓武平氏高棟王流。中納言平時望の孫。
伊勢守平真材の子。母は越後守藤原定高女。
子に平重義・平行義・平理義らがいる。従二位・参議。

康保4年(967年)東宮守平親王(のちの円融天皇)雑色として出仕。
天禄2年(971年)文章生に補される。
その後、円融天皇の六位蔵人・左衛門少尉・検非違使などを経て、
天延3年(975年)叙爵。その後、筑後権守・阿波守・右衛門権佐・防鴨河使・
越前守・修理大夫・皇太后宮(藤原詮子)権亮・山城守などを歴任した。

長保4年(1002年)10月10日従三位に叙され、翌年に正三位に昇叙。
更に寛弘4年(1007年)造宮賞により従二位になる。

寛弘7年、大宰大弐として下向。長和3年(1014年)大宰大弐を辞任し、
翌年参議に任ぜられる。長和5年に参議を辞し、寛仁元年(1017年)6月10日に
疫病のため出家し、同月12日に薨去した。享年72。
40日曜8時の名無しさん:2012/06/28(木) 23:56:17.77 ID:wJzT4ezH
●やはり、大宰少弐は、平安時代の中期ぐらいまでは、若い貴族が出世するための
途中通過地点だったことが多いよ。

それから、平安時代の中期以降になると、大宰少弐が筑前守を兼任する例が多く見られる。
http://www.sewayaki.jp/ken39/yasu/rekichi/rekichi11.html
小野小町の祖父・小野篁は、大宰少弐だった。

島田忠臣と言う貴族も、橘三夏と言う貴族も、大宰少弐だった。


小野 篁(おの の たかむら、延暦21年(802年) - 仁寿2年12月22日(853年2月3日))は、
平安時代前期の官人、学者、歌人。参議小野岑守の子。
官位は従三位・参議。異名は「野相公」「野宰相」、
その反骨精神から「野狂」とも。
http://www.ktmchi.com/rekisi/cys_36_11.html

http://www.city.fukuoka.lg.jp/shishi/column_c201.html

41日曜8時の名無しさん:2012/06/29(金) 16:57:33.66 ID:qQ7UYNN1
wJzT4ezHさん、>>32です。いろいろ回答ありがとうございます!
「太宰少弐」とは、筑前守を兼ねていることから中下級公家・受領クラスのポストだったようですね。
鎌倉時代以降は、武藤氏(後に少弐氏に改称)のようですね(>>30さんから)。
42日曜8時の名無しさん:2012/06/29(金) 18:41:42.77 ID:whbamA3h
原田種直についても24回の描写では、壇ノ浦の後に再登場の場合の
描き方が矛盾をきたすはずだ。それは次のようなことになるからだ。

24回 鎮西の暴れ者に手を焼き兎丸に脅される官人

50回前のあたり 安徳天皇と平清盛無き後の平家を守って鎮西で
孤軍奮闘。最後まで抵抗して最後は源氏につかまり13年幽閉。

どうせこれも平氏と婚姻関係があったからだとか強弁したり
50回前あたりで再登場しないのかもしれない。

しかし、この時代は、御恩と奉公のドライな関係で
実際、平家の傘下の武士もほとんど離反しているし、
源氏だって幕府を開いてから内紛の連続だ。
後世の武士道の忠誠心のような例は少ない。

ここからは完全に私見だが、
その中で原田種直の平氏への貢献は、ドラマになったと思う。
おそらく、代々大宰府の少弐として働いてきたが、朝廷がきちんと
統治せず外敵への防備もしないことを不満に大蔵一族はもって
いただろう。国の前線であるが、同時に自分たちが土着した
土地でもあるからだ。そこに、「国際的な視野」や「武力」と
「中央での権威」持つ平清盛に強く共感した部分もあったの
だと思う。
そのような共感もしくは私淑を描ければ、ドラマに厚みが
出たと思う。ある意味「武士の世」というドラマのテーマも
補強したはずだ。

そしてのその流れで幼帝と平家を支える姿を描けば
視聴者の共感もえられたと思う。

それを、兎丸に脅されて退蔵していた税金を払いだす。官邸の
官人として描いてしまった。本当にもったいないと思う。

これも登場人物の一人一人の一生を年表にして研究するという
過去の大河でやってきた作業をしていないことから来ていると
思う。
43日曜8時の名無しさん:2012/06/29(金) 18:42:20.42 ID:whbamA3h
原田種直についてもその描き方がひどい。
この一族は日本の最前線で戦ってきた一族だからだ。
兎丸に怯える雑魚キャラ扱いはもったいなくバチあたりだ。

そもそも、原田種直は藤原純友の乱を鎮圧した
大蔵春実の子孫で、大蔵氏の嫡流なのだ。
大蔵・原田の一族は
代々大宰府の現地任用官最高位の大宰大監・少監
(大宰府の第三等官・管内の軍事警察を管轄)を世襲してきた。
大蔵一族が拠点とした大宰府の南9kmの基山(基肄城)麓の
原田(筑紫野市原田)に原田種直が館を構えて原田を名乗り出す。
一族はここから大宰府に馬で通勤していただろう。

この一族の戦いは次のようなものだ。

941年  大蔵春実が藤原純友を大宰府で破る。

1019年 「刀伊の入寇」を、大宰権帥藤原隆家の下で
大蔵種材ら防戦しかし、中央の命令なく勝手に戦闘した
として何の恩賞もなし。

1274年 「文永の役」では原田種照・種之兄弟が六千五百騎
を引き連れて防戦するも、八幡宮裏手の深田で討ち取られる。

1281年の「弘安の役」では原田種照弟 種之・種房が今津で
防戦。弘安の役の功により原田種房は大宰大監に任じられる。

1597年 原田信種は加藤清正配下で朝鮮出兵、蔚山城の戦い
で病死。

また、原田種直末期の平家を強力に支援をしたが結局助命
されている。おそらく、その一族の現地勢力としての力が
十分あったからだろう。(一族の一部が源氏側にもいた
という両サイドに賭けていたからでもあるが・・・)
44日曜8時の名無しさん:2012/06/30(土) 17:44:49.32 ID:sLCwPH5+
パパも小者感漂う悪役を演じさせればはまり役。葵の福島正則とかそんな感じだった。
でも昔は狂気を漂わせる悪役をよく演じててドラマで見るたび怖かったw

最近はいい人の役も多くなってきてるけど「悪くはないんだけどひたすらウザイ近所のおじさん」
みたいなのがほとんどのような。そこら辺の芸風は息子に継承されてるな。
45日曜8時の名無しさん
再来年の大河黒田24騎の中で貴重な九州出身者である
原伊予守種良に期待したいが・・同じ扱いな予感