アバン フューチャリング信西 『コイケヤポテトチップス!』の調子で、『すなわち天下大乱!』
朝廷サイド
まさかの後白河帝爆誕により、乳父である信西は一気に時の人に。俺少納言なのに超人気者wwヤッベwwと調子こく信西だが、
清盛はあのバカタレが帝などと憤懣やるかたない。しかし、信西はこれで思うままの政ができると得意満面だった。
ま た し て も×∞裏切られた崇徳上皇はボロ泣きしながら法皇を恨み、そして法皇は上皇に許しを請いながら写経していた。
そして1155年10月、後白河天皇が正式に即位。宴の席では、後白河帝のお気に入りに、公卿でない藤原成親と、
冗談ではないですよね塚地藤原信頼ちゃんが近臣として傍に控えていた。信頼ちゃんも面白くないそんな中、崇徳上皇から
歌が届けられた。詠い上げるとそれは、上級者向け横読み折句で、あな憎し…と猛烈な恨みが込められていたのだった。
怒り狂った後白河帝に慄いた鳥羽法皇は、なかったことにして!と嘆くが、後白河帝は白河院のスタンド(好きなように鳥羽院を
苦しめられる能力)を発動、俺の天下じゃと法皇を圧倒。そんな法皇を心配し清盛が参じたが、鳥羽法皇は写経を続けていた。
上皇に殺される朕を守って!と怖がる法皇だったが、清盛は仲良くしようずの平氏の俺ルールを語り、かくして上皇に法皇の写経、
法華七譬の長者窮子が送りつけられ、清盛は父子の仲直りのええ話を説いたものですよ説是我子ですよと口説きにかかるものの、
感情がぶっ壊れた崇徳上皇は無表情で写経を切り裂いてしまう。やがて法皇の病重くなり、上皇挙兵の噂も立ち出した。
信西は俺が、いや法皇様が治天の君として方向を示されよと進言。有事の際は鳥羽法皇を武士が守れという誓文が命じられた。
1156年7月2日、法皇は危篤状態に。崇徳上皇は鳥羽の御所へと輿を向けたが門前で仇とみなされ拒絶される。
上皇は輿を降りて問い詰めるが、安芸守清盛が頭も下げず進み出た。崩御を知らせる鉦が響く中、傷心の崇徳上皇は崩れ落ちた。
そこへ喪黒f…頼長がいた。
平氏サイド
信西ワイプ時にみずらのバカタレだった奴が帝になったことが気に食わない棟梁清盛だったが、自邸に戻ると、一門の男子が
何やらニヤニヤソワソワしていた。その中心には時忠がドヤ顔で連れてきた異母妹、パーマ璃子滋子がいた。皆々が俺の嫁!と
テンションだだ上がりの平氏男子だったが、時子と時忠は滋子の入内を目論んでいた。しかし、当の滋子はそんな話ごめんだと
ばかりに日本式に中指を立てるのだった。病に臥せている鳥羽法皇からもののふどもは誓詞を提出しろと命が下った。
清盛は相変わらず仲良くしようずの姿勢を崩さない。そんな甘チャンな棟梁に不安を感じた池禅尼は、忠正にいざというときは
頼 む とフラグを立てた。天変地異的に源氏の御曹司が来て喧嘩して帰ったが、清盛の許に信西が訪れた。法皇と上皇が
仲良くしようがしまいが、もう時はわくわく天下大乱!身の振り方考えとけ!と言う。そして遂に危篤となった鳥羽法皇の御所を、雨の中警固していた清盛は、父のいまわの際に
訪れた上皇に向かって剣先を向けた。身の振り方を決めた清盛は、法皇方に誓文を出していたのだった。
源氏サイド
武蔵国の義賢の館ではいつもの河内源氏DNAが荒ぶっていた。義朝の息子、小悪党役なら浪岡源義平が義賢を襲っていた。
鎌倉悪源太△の容赦ない仕打ちで、義朝は源氏重代の太刀友切を奪還。そこへ為義が現れ、子に甥を殺させてまでした
義朝に掴みかかろうとするが、ペシャア×3とこける始末。そんな父と祖父の姿を見た鬼武者は勉強サボリながら、身内で殺すの
ダメだよねと言ってたら、スパルタママ由良御前にシバかれた。落ち着かない義朝は常盤とイチャイチャしたりしたものの、鳥羽法皇から
誓文の命が下ったらさくっと書いた。そんな時通清が、為義との和解を改めて請うが、断った。が、正清は、俺、ついてゆけねッスと
去っていく。ぼっちになった義朝は清盛邸を訪れるが、戦になれば武士の出番だヒャッハーな源氏と仲良くしようずの平氏は
その一門の管理および経営の信念に決定的な違いがあり、刀が出るわ殴るわの大喧嘩となる。で、義朝、いいのか。
摂関家サイド
悪左府頼長は内覧の権限を取り上げられ政治の場からハブられつつあったが、同志の鸚鵡はわかってくれるよねと余裕こいて
いたら、身に覚えのない近衛帝呪詛の疑いをかけられていた。いきり立った頼長は鳥羽法皇に直訴を申し出ようとするが、
関白の兄忠通がその道を塞いだ。父忠実も、綱紀粛正と乗じて苛烈な政を行ってきた頼長を非難した。もう菖蒲若ちゃんでもない
悪左府を、とうとう父は見限ったのだった。そして味方を失くした頼長は、鳥羽法皇崩御の雨の中、崇徳上皇の前に現れた。
おまけ 4サイド激突