龍馬伝視聴率低下の戦犯探し

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87日曜8時の名無しさん
184 :停止しました。。。:停止
真・スレッドストッパー。。。( ̄ー ̄)ニヤリッ
88日曜8時の名無しさん:2010/10/15(金) 09:08:30 ID:91l7DCr2
181 :日曜8時の名無しさん:2010/10/13(水) 22:03:48 ID:jRdilh79
集まった四十数藩の約五十人の重臣を前に、勝静が大政奉還に関する上奏文案を示し、上奏文提出の可否を問うた。
重臣の大部分はこの問題に関しては即答を避け、京都藩邸や国元と協議の末に回答するべく、二条城を退出していった。
この時、土佐藩の象二郎、孝弟、薩摩藩の小松帯刀、広島藩の辻将曹、岡山藩の牧野権六郎、伊予宇和島藩の都築荘蔵
らは城内に留まり、直接、もしくは、幕閣や幕臣を介して、将軍・慶喜に大政奉還を上奏するように進言した。これら
の重臣の熱弁を受けて、慶喜も大政奉還の上奏を決断し、十四日に高家・大沢基寿を朝廷に参内させ、上奏文を提出さ
せた。一方上奏文の提出と前後して、朝廷は薩摩藩、長州藩に「討幕の密勅」を発する一方、翌十五日に摂政や関白など
の公家が集まって協議し、大政奉還を勅許する方針を決定した。同夜、参内した慶喜は、朝廷から大政奉還を勅許する
内容の御沙汰書を授けられた。
89日曜8時の名無しさん:2010/10/15(金) 10:08:28 ID:91l7DCr2
179 :日曜8時の名無しさん:2010/10/13(水) 01:01:31 ID:CUDnTXx5
この龍馬の勝算というのは、土佐藩を交渉の場に引っ張り出してくることだった。なにしろ相手は天下の
御三家の一つ紀州藩で、こちらは浪士結社の海援隊なのだ。対等に渡り合うためには、自分たちの元締め
である土佐藩の力が必要だった。その後交渉の場は長崎に移され、五月十五日から交渉は再開された。長
崎は海援隊の本拠地であったから、龍馬は丸山の料亭などに遊んでは、こんな歌をつくって流行させた。
船をやられたそのつぐないにゃ 金を取らずに国を取る 国を取りて蜜柑を食う