1 :
日曜8時の名無しさん :
2009/06/07(日) 01:28:06 ID:uEBNCI47
2 :
日曜8時の名無しさん :2009/06/07(日) 01:32:11 ID:miBYYC94
次は、ふつうに「直江兼続を語るスレ」でよろ 別に直江が好きなわけじゃないけど、こういうスレタイ もうたくさんなんだよね
4 :
日曜8時の名無しさん :2009/06/07(日) 02:00:33 ID:dg7pPnsE
>>1 江戸時代から直江に関する文献、書籍は結構あるけど、人物的に肯定的な
に書かれてものがおおいんだよ。だからドラマでは肯定的な説を採用してるわけ。
君が義をかんじられず、大悪党で大嘘つきだと思うならそれでいいんだよ。
別に義でも何でも良いと言うか… そろそろ普通に進行したいがドラマ終わる11月まで無理なもんかねぇ…。
なぜ戦国板から移動? 史実の話したいなら向こうでやれば?
糞大河でも曲がりなりにも直江の肯定的イメージが一般に浸透していくのが 悔しくて、真性危地アンチが涙と鼻水を流しながらのたうっているんだよ
こんなスレ立てても伸びんよ 当のドラマが歴史おかまいなしなんだから
9 :
日曜8時の名無しさん :2009/06/07(日) 22:47:52 ID:qBh3XSJS
@ 日本で最初の図書館(誰でも書物を見れる寺)禅林文庫を造った (米沢藩校興譲館が出来る実に200年前)。 A 直江版と呼ばれる日本で最初の印刷本(銅活字)を造った (全61巻、国宝)。 B キリシタン禁教令後も景勝とキリシタン(信教の自由)を保護し続けた (「米沢藩領に切支丹これなく候」、との幕府宛書状あり)。 定勝時代に転換。 C 最上川上流の暴れ川で有名な松川に石堤を作り庶民生活の安寧を図った。 洪水を回避し開墾を奨励。 米沢30万石を約15年で実石高51万石まで引き上げることに成功(米沢は四方を山に囲まれ、開墾には不向きだが)。 その後1630年代から他藩でも新規開墾が盛んになっている。 米による経済だけでなく、紅花、青祖、楮、ウコギ等栽培を奨励し、家臣リストラせず逼迫する藩財政を潤した(兼続死後兼続の政策は無視されていたが、後に上杉鷹山が兼続の政策を自ら実践)。 半米半金税(半分が米半分は紅花等商品作物で納める:日本初の税制)を敷き民衆の商品作物を重視。 D朝鮮出兵で、貴重な論語や漢詩等を持ち帰り禅林文庫に収めた(他の武将から「馬の肥しにもなるまいに」と言われ「頭の肥やしに為り申す」と答えたと言う)。 E直江家の婿になり、いとこのお船と結婚(生まれた子供は早死) 側室も持たず、春日山林泉寺には、戦国武将の墓として珍しく、夫婦全く同じ大きさの墓が並ぶ。 F武田から菊姫を景勝の妻を迎えることに成功、武田家血筋も残すことに尽力(六男信清の子孫が今も米沢に在住)。 G伊達家存続に尽力(伊達政宗に小田原早期参陣を促す書状現存、佐竹対策で上杉領の上野を通らせた)。 H直江状(転封まもなく、内政忙しい。謀反など全くないことを説明(上杉家として一戦も辞せずとの考えはあり、謙信の二十三回忌で諸将に確認) 上方衆は、経済発展のための道路建設事業等まで「戦いの準備」ととらえた。 まあ、兼続ならずとも反論したくなりますわな。 I大将兼続自ら約500の兵で殿を務めた最上領からの電撃撤退作戦。撤退路は狐越街道という難所だが成功。 相懸引きは旧日本陸軍「日本戦史」でも取り上げられ撤退戦の手本となった。 敵将最上義光曰く「直江は古今無双の兵(つわもの)なり」と。家康も「聞き及びし、よりいや増しの武功の者」と賞賛。 J東北の地で初めて鉄砲製造を行った。約1,000丁と言われる。 K鉄砲の撃ち方指南書(1604年 鉄砲稽古定)を書いた。 今福・鴫野の戦い。上杉軍約五千で大野治長・後藤又兵衛(負傷)軍2万数千を打ち破り、大阪城に撤退させることに成功。 L数々の漢詩を残した(例えば、1599年の「春雁、花に背いて帰る」の詩には豊臣からの誘いを断って会津に帰る決心が読み取れ、また亀岡文殊堂にて1602年初詣詩会で奉納した「元日」の短冊には、つつがなく新年を迎えた人々を見て安堵する兼続の姿が浮かぶ) M1604年、四季農戒書(養子の本多政重が加賀藩へ行ったため、加賀藩に残っている) N米沢と庄内を繋ぐ「朝日軍道」を引いた(個人的にはNHK天地人のオープニングに流れる雪山の行軍は「朝日軍道」だと思う。 O神指城建設事業←若松城では城下が手狭。また小田山からの攻撃に弱い面(270年後の戊辰戦争で兼続が懸念した弱さが露呈)。平地に城下を大規模(若松の約2倍)にし道路も整備。経済が発展しやすいよう工夫。完成した神指城、是非見てみたかったです。 P上杉の人質となった真田信繁を侍従として丁重に扱い、「義」の精神を伝授。 Q第一次上田合戦で上田城防衛のため上杉軍の援軍を入れ、また「軒猿」と呼ばれる忍者を使い、徳川軍を翻弄した。 R今話題の世襲制限を自ら実践し、録を返上、直江家を断絶させた。 S会津⇒米沢へ、堀立小屋しかなかった小さな城下町へ三万人の上杉軍を無事生活 出来るように町割。その頃から景勝は「御館様」直江は「大旦那」と呼ばれていた。 農村や神社仏閣を回り、積極的に地元の意見を聞いていたという(宮内の熊野大社 に直江山城守名が刻まれた寄進の短冊現存、亀岡文殊堂等にもあり)。
10 :
日曜8時の名無しさん :2009/06/07(日) 22:51:47 ID:qBh3XSJS
関ヶ原の後、上杉直臣でない慶次は京に入っていた。 慶次の元には噂を聞きつけて様々な大名からオファーがあった。 しかし、慶次はたった一人の「漢」の誘いを待っていた。 待ち人来たる。「長く待たせてすまない。上杉家に戻ってくれないか?」 改易を免れ、大名として上杉家が存続することが確定した所で兼続は慶次に仕官を求めた。 石高は千石から僅か五十石。それでも彼は雪深い米沢を選んだ。 米沢市堂森に彼の自宅跡が残る。兼続と連歌を詠んだり酒を酌み交わしたり、地元の人に能面や槍等をプレゼントしていたという。 米沢での石高は、僅か五十石に減ったが、兼続の誘いが余程嬉しかったのだろう。 「畳は一畳、米は日に一合あれば十分」との名言を残して、彼は米沢行きを受け入れている。
11 :
日曜8時の名無しさん :2009/06/07(日) 22:54:17 ID:gSdNPZGS
米一合炊けば飯は茶碗二〜三杯分くらいにはなる
>>9 またデタラメよ〜
前のスレでもデタラメだって言われてんじゃん
いったい何処が「義」なんだ?
何故この板なのかな
誤爆スレ立てして引っ込みが付かなくなったんじゃね。 戦国板にも直江単独スレや天地人スレはあるから重複スレ乱立されても迷惑だが。
いい加減青祖じゃなくって青苧って書いてくれ。
>>1 は戦国板の住人相手にはアンチ活動が通じないから、もう少しライトな
大河板で布教活動しようとしてるんじゃないのか。
>>10 の米は「一日三合」だし、一夢庵風流記か花の慶次の創作話を書かれても・・・。
でもさ、秀吉の誘いを断ったって大河でやってたじゃん あれは「義」と言ってやっていいんじゃないかな
ドラマでは「義」なんて全く描かれてないから 切り離して考えよう?な?
>>19 実際は秀吉の誘いを断るどころか
誘いに乗って豊臣家の奉行を兼任して利益を共有し
上杉家を親豊臣反徳川にしてる
「義」どころか売国奴だよ
うむ 徳川が天下を取ることになるのに 予知能力がなかったのは致命的だったな
23 :
日曜8時の名無しさん :2009/06/08(月) 22:46:46 ID:fZzVfOdj
直江−景勝の主従そろって偽善はミエミエ 義なんて後から取って付けた言い訳に過ぎない
24 :
日曜8時の名無しさん :2009/06/08(月) 22:51:07 ID:bzUf295n
>>21 大河開始前から売国奴言ってるやつだろ。
豊臣家の奉行を務めてるとかいう何を根拠にしてるんだ?
佐渡のことか?毛利や伊達など領内に金山銀山を持つ大名は
みな奉行を置いて豊臣政権に献上するため山を掘ってるんだが。
上杉家を親豊臣反徳川にしたというのもよくわからないが、豊臣政
権内で反豊臣だったらおかしくないか。徳川と距離を置くのは東国
支配の利権を考えれば当然のこと。「関東管領」ということにこだ
われば関東を支配する徳川との対立も生まれる。
>>23 本人たちは「俺らは義と愛の武将」とは言ってないんだから、
偽善もなにもない。
>>25 まあまあそうカッカせず
おまいら信者は今が幸せだろう。誘致運動が功を奏して大河になって
皆のNHK視聴料が使われているんだから。説明責任あるだろ
何が義なのか説明してくれよ
27 :
日曜8時の名無しさん :2009/06/09(火) 08:11:17 ID:W92jh9Bh
倉庫に面白いスレが有ったので一部抜粋。歴史ファンなら、まずは過去の記録を訪ねてみましょう
15 :人間七七四年 :2008/07/01(火) 23:11:15 ID:6pf/IxEw
しらべればしらべるほど最上義光はいいやつだな
逆にイメージ先行で実態を知れば知るほど伊達家のカス集団ぷりが際立つ
伊達は2ちゃんでも始末に負えないしなんであんなに人気あるのかわからん
片眼で見た目がかっこいいからか?
どう考えても最上のほうが領主としても主君としてもいいだろうに・・・
58 :人間七七四年 :sage :2008/07/10(木) 01:14:02 (p)ID:ycvK7lGD(2)
伊達はアホだからな
天下を虎視眈々と狙ったといえばカッコイイが、結局いつも途中でバレて
協力者をさしだして首謀者は逃げるヘタレぶり
関ヶ原でもろくに活躍していないし、こんなアフォが大領持っていても脅威じゃないんだよ
116 :人間七七四年 :sage :2008/07/23(水) 20:30:00 (p)ID:vyKXeMze(2)
>>114 そうだね。直江大河の場合、伊達は出演ほぼ無しで空気でも問題ないし不自然でもない。
ただ義光公はちゃんと描かれないとどうしようもない。
>>113 の通り山形県が頑張ってんのをそこまで無視するNHKでないと信じたい。
ちゃんとしたイカス好敵手に描かれないと長谷堂近辺、滅茶苦茶つまらん。
ピンチの状況からの華麗な撤退戦を演出するには敵方も魅力ないとただの茶番だもの。
期待していいのかな。最近のNHKほんとわからんから…。昼ドラ大河だけはいやや
526 :人間七七四年 :sage :2008/11/19(水) 23:28:31 (p)ID:yN7ev/xF(2)
義光の発表がまだってのがな。
直江が大軍率いる戦の敵方をスルーは無いとはわかってはいるが、空気すぎ。
538 :人間七七四年 :sage :2008/11/20(木) 20:57:27 (p)ID:lhAliZ52(2)
糞ドラマ確定ならいっそのことスルーでいい
そのほうが苛つかんかもしれん
541 :人間七七四年 :sage :2008/11/20(木) 22:46:50 ID:Lixrx8z8
伝説になるほど酷い大河で、出番なしこそ勝ち組みたいになって欲しい。
義光公? むろんスルーですよ。
751 :人間七七四年 :sage :2009/01/04(日) 19:34:53 ID:N2O0eFkY
どうせお前らも義と愛の武将だかを見るんだろ?
※【義光】出羽最上氏総合スレッド【山形藩】(戦国板)より
嫉妬に狂った人々のエネルギーには感服しますね w
こういう連中のことを世の人は蔑みを込めて 『 田 舎 者 』 と呼ぶ。
>>26 25じゃないが、正論返されて「カッカ」て・・・
あと上杉系のファンは全国区だが、この大河の阿呆クサイ愛と義とやらには辟易してる
この上こんなところで、田舎の誘致合戦の遺恨をまき散らさないで欲しい
29 :
日曜8時の名無しさん :2009/06/09(火) 10:59:35 ID:k8gQF/UC
太閤秀吉は宣教師が奴隷貿易に加担している事を見抜いて 禁教令を出した偉人。 積極的に奴隷貿易をやっていた高山右近や上杉景勝は大罪人。 特に上杉は、小田原攻めで 「お前が何やってるか俺が知らないと思ってるのか? 関東で奴隷集めすんなよ?許さんぞ?(怒)」 と警告される始末。 その奴隷貿易に一番熱心だった直江兼続が、【愛】 で売り出し中w。
>>29 大河の内容がアレなのでNHKにクレームメール書くつもりだから
ついでに今度最上義光も主人公にしてもらえないか頼んでみてあげるよ。
だから少しいい子にしてなさい。ね。
32 :
日曜8時の名無しさん :2009/06/10(水) 21:07:29 ID:z4opVAX0
>>10 京都から米沢までの「前田慶次道中日記」持ってる方いる?
33 :
日曜8時の名無しさん :2009/06/10(水) 21:10:44 ID:SPzboY08
↑ 公立図書館なら全国どこでも借りれるはず。 ネットでも読めるけど。
34 :
日曜8時の名無しさん :2009/06/10(水) 21:56:13 ID:mLsY1KBh
で、兼続本人が「義!義!」と連呼してる人って言う一次資料ってあんの? 国替えの際リストラをしなかったとか、年貢の率を調整したとか、商用作物を推奨したとか、 百姓にユーモア溢れるお触書を発布したとか、秀吉からの引き抜きを断ったとか、 家臣領民と主の景勝や身内だけじゃないの?やさしかったのは。敵や他家に対して温情をかけたことあった? むしろ、春日山固めて景虎派を締め出そうぜ!とか、追撃して家康を挟み討ちにしようぜ!とか、 地元の人からは絶大的に愛されてるダーティな政治家みたいな印象を受けるよ。
だいたい謙信が「義将」に祭り上げられたのだって、 天皇神話を無理やり盛り上げようとした大戦直前期の 昭和9年ごろからだもんなあ。 楠木、新田なんかと一緒に「天皇に忠を尽くした人格者」 にいきなり祭り上げられたという。
春日山固めて景虎派追い出そうぜとか家康追撃して挟み撃ちにしようぜとかも 一次資料に無い後世の創作な件。
最上厨見分け方講座 その@ 『 何度でも話を蒸し返す 』 続きはいずれまた。※「 最上厨 」でググッてみてください。
>「義!義!」と連呼してる なんとかいう戦国ゲームでそんなカネツグがネタとして笑いをとった。 今度の大河でも普通の知性の持ち主で真に受けてるのはいない。 真に受けてるバカもいるだろうが、悔し涙にくれて一級資料を出せ なんていってる奴もそうとうやばい頭の持ち主としか思えん。
>>34 兼続は上杉家に対して義の人だからな。
秀吉が死ぬと関東侵攻を目論んでるし、家康が死んだときも
混乱がなかったから動かなかったけど、江戸から米沢に書状
を送って戦に備えるよう指示してる。
40 :
日曜8時の名無しさん :2009/06/14(日) 14:43:05 ID:/2JN/jSt
>>39 >>9 数々の資料や業績、彼自身の書状を総合すると、直江山城守の義・愛・楽の政治はあくまで上杉家(景勝)に対してのもの。
直江に対する秀吉や三成や学者連中(藤原惺窩とか)の評価(言葉)や彼への待遇を総合すると、彼らは上杉家の政治だけでなく「天下国家」の政治を直江に見て貰いたかったんじゃないか?
だが、秀吉は直江の主君たり得なかったのは、景勝を見限って秀吉の家臣に成る「義」が無かったということ(春雁吾に似たりの一節)。
41 :
日曜8時の名無しさん :2009/06/14(日) 14:57:34 ID:aUSwmx8x
>>36 言いたいことはわかるが、
必ずしも「一次資料に無い=後世の創作」
にはならんだろ。歴史学勉強してこい
いや全く=後世の創作だろ じゃ無きゃ何なんだ それら政策が景勝でなく直江によるものだったなんて証拠何処にもない まあどれも大したことない政策だけど
政策の大枠は景勝との相談の上だろうが、一次史料からも細かな采 配は直江がやってるのは動かしがたい事実なんだがな。 追撃策は創作だろうけど。あの時点では秀忠軍も宇都宮に残ってる し、背後を考えれば追撃は無謀。景勝や直江の書状にある通り伊達 と最上の屈服が前提なんだよ。
44 :
日曜8時の名無しさん :2009/06/14(日) 23:03:12 ID:M5QywVqo
>>42 現存する書状や当時の各種資料からは、その資料を信用する以上、直江の打ち出した政策は独創的で、現代にも通じる優秀な政策だったのは明らかだろうけど。
一例を挙げれば、今話題の「世襲制限」なんて、自ら実践してる所とかね。
>>42 何をそんなに必死になってるのかがわからないんですが…。
>それら政策が景勝でなく直江によるものだったなんて証拠何処にもない
郷土史資料館なりに足を運んで、崩し字判読したりして、
それでも、「直江の記述が一切ない!」と仰ってるんでしょうか。
でしたら、2ちゃんねるなんかより、学術関係の雑誌に投稿した方がいいですよ。
じゃあさ 春日山固めて景虎派追い出そうぜ、とか家康追撃して挟み撃ちにしようぜ、とかって 直江が采配してたって資料あんの?
>>46 一次史料出せ→一次史料がない=創作ってのは違う
政策も直江のものじゃない→書状とか見なよ
って話の流れだから「じゃあさ」というのはちょっと違う。
上杉御年譜では春日山制圧は知らんが、遺言ねつ造に兼続も加担してる。
追撃の話は会津陣物語や名将言行録あたりかな。関ヶ原軍記大成にもある
かはわからん。
ただ研究書レベルでは、小説やドラマでよく描かれる御館の乱での活躍や、 三成と共謀しての家康挟撃説は否定的かな。 だからといって兼続がたいした人物ではないとか、いうつもりはないがね。
49 :
日曜8時の名無しさん :2009/06/16(火) 09:42:47 ID:SAAuw1s4
>>46 ここで聞くより、自力で探した方がいいんじゃないですか。
自分の目で確かめたことなら、人を煩わせずに済みますよ。
>>48 これらには否定的なのは分かった上で、一次史料がない=創作と言
い出すことに疑問を持ってるんだよ。
脚本家の創作、じゃなくて江戸時代の人間が創作した話だと見られてるっつー事な、 兼続の遺言捏造加担とか家康追撃策とかの話は。 上杉家御年譜だって複数の史料と照らし合わせた結果 通説とは違っていたが実際は年譜の記述が正しかったと言う場合もあるし 江戸時代に書かれた軍記などからとって書いた記述と思われる部分もある訳で。 上杉家の公式史料でさえ柿崎景家が謙信に誅殺されたと記載してるが 他の一次史料から検証すれば実際は誅殺された可能性は低く、 菩提寺に残された病死の記録の方が辻褄があってるしな。
52 :
日曜8時の名無しさん :2009/06/16(火) 17:39:37 ID:SAAuw1s4
なんかもう議論が、 ドラえもんにタイムマシーン出してもらうしかないレベルまできてるな。 とりあえず、「通説」を一つの妥協点として(異説等々も必ず明記して)先進まないか?
53 :
日曜8時の名無しさん :2009/06/21(日) 13:08:12 ID:HOLvyS27
>>9 なんか直江って、越後や会津時代より減封された米沢へ行ってからの方がイキイキ仕事してるよね。
会津時代は景勝も五大老だし東北の太守だったから領民となんか交わることは出来ない立場だっただろう。
やっぱ、領民とか家臣とかと交わるのが好きな人だったんじゃないかな?
鋤を前立てにしてるくらいだしな
>>53 領民や家臣が好きだなどという話がどこにあんの?
庄内は撫で斬り辞さずの圧政をもって臨む、と言ってたらしいし
畑谷城では実際に撫で斬りやらかしてるし
ウコギのような細かい作物まで生産者から取り上げているし
死人を帰せ、とゴネてきた領民をブッ殺しているし
上条、藤田、安田、杉原ら他の家臣には対立したり嫌われたりしてるし
殿様には覚えめでたいが、圧政家なおかつ他の家臣と仲良く出来ない嫌われ者という人物像しか想像できんが
明らかに間違った解釈してりゃそりゃね。
>>55 >>53 は米沢に行ってからいきいきしてるように見えるところから想像を
膨らませてるだけだろ。そんなにムキになるなよ。
米沢でも大量の侍層が入り込んだため収奪を強化してる。その点では愛民
という言葉とは程遠いが、その分安全などの面が保障されればいいので、
ただちに圧政だとはいかないだろう。庄内畑谷みたいな一揆や最上の話は
ちょっと違うし、ウコギの話は根拠が不明、死人を返せというのはあくま
で逸話。
上条は直江が嫌いというより、自分を中心から遠ざけた景勝にむかついて
る感じだけどな。直江を奉行によこせと言ったり、命令に従わなかったり。
藤田の出奔も直江嫌いではなく対家康の対応で家中と意見が食い違ったから。
安田は直江を「旦那」と呼ぶ与党。仲が悪いのは軍記物根拠だが、直江に戦
功を握りつぶされたという話も内容に矛盾があり、直江は安田を誉れある先
陣に推している(景勝に却下されたが)。水原の直江嫌いも彼の親戚が書い
た軍記物ソース。「東照大権現に楯ついた直江とうちの親戚は仲悪いです」
というPRにすぎない。
愛民とかはさすがに胡散臭いな。 兼続の功績と言われるもののほとんどは米沢時代じゃないのかね?
上条はでも、ちょっとは嫉妬みたいなものもあったと思うよ。 信濃だったっかな、派遣された時、「自分は景勝の側にずっといたかったんだが、、自分の居ない間、 北陸ではよけいなことしないように」とかいう書状を景勝の側べったりの兼続宛てにだしてるし。 直江のライバルだったのに、大河ではほとんど活躍なかったな。 本当かどうかしらんが、御年譜では上条が謙信死後、実城に入るよう勧めたことに なってるし、北条を討ったのも、上条の家臣だろ。武田との同盟の際にも、かわりに上条の娘が 人質として武田に行った説もあるんだけどな。
上杉家は謙信の時代から側近をやがて最前線に派遣してるから、 上条の川中島支配も流れはおかしくない。川中島の支配は容易で なく、村上が更迭、上条も一年ほどで須田に交代させられてる。 須田は真田を服属させたので、上条はうまくやれなかったのかも。 春日山に戻されたあとは活躍がない。 景勝は上条義春に「お前のおやじが直江を奉行によこせとしつこい。 お前からも異見してくれ」と書状送ってあきれてる。 上条は出奔して豊臣政権になにか上杉家の文句を話したらしいが、誰も 取り上げず石田・増田の直江あて書状で「(上条の行いは)してはいけ ないあきれ果てたことだ」と言われてる。
>>60 直江が上条を讒言した、説が有力なわけだが
上条が直江を部下にしたがったのも、直江が景勝側近でいると上杉に有害な存在になることを予見してのことだとも
有力な説かどうかは知らないけど、 兎に角、新発田、上条、藤田と武勇に優れた人物らが次々と上杉家から排斥されていく その間景勝の側に仕え武功が無いのに驚異的に出世するのが直江兼続 直江の讒言説、ホモ説は自然じゃないかな
兼続の出自から見て別に驚異的でもなけりゃ 功臣を当主の傍より前線に出すのは謙信時代からよく行われてきたことじゃん。 馬鹿馬鹿しい。
景勝の家督相続後、直江執政への流れは上杉家を近世大名に脱皮 させるためのステップだから、その中で多くの土豪の反発に合う のは当然。新発田なんかはその典型だし、上条は直江に嫉妬して る部分はあっただろうけど、一門であることを頼みにわがままを 繰り返したり、命令無視したり。藤田は出奔の時期から言って、 直江の讒言などはあり得ない。 衆道の関係だったのはあり得るけど、ホモではないし、衆道の関係 だから出世したわけでもない。
66 :
日曜8時の名無しさん :2009/06/28(日) 14:46:24 ID:Zq601MEv
藤田能登守は、家康の元に逃げた時、上杉の戦法や戦略上の要衝を家康や本多正信に聞かれ、上杉軍との正面対決は回避されることが決定された。 よって、会津征伐軍は途中、鷹狩り等でゆっくりゆっくり行軍。小山から進むことも考えていなかった様。 藤田は、家康と本多との会見の終わりに、景勝と直江について聞かれた折、こう答えたと言う。 「山城が主、中納言が従でしたら、天下は山城の手に落ちたかも知れませぬ(上杉との戦いを油断召さるな)」と。
鷹狩りしたなんて史実あったっけ? まあ軍記物のお話なんだろうけど。 でも、なんかその話って複雑だよな。 だって実際働くのは従の方だろ。 従としては兼続はいまいちだったわけ?
景勝には天下を望む気はないが兼続には上杉に天下を望む気があるってことじゃねーの。 二人の逸話は全体的に実直な景勝といらんことしいな兼続だし。
69 :
日曜8時の名無しさん :2009/06/28(日) 20:24:09 ID:nov7VAec
つまり直江は不義の輩ってことだよね
天下を望む気があるってことじゃねーの? ↓ つまり不義の輩ってことだよね どこが?
71 :
日曜8時の名無しさん :2009/07/04(土) 21:05:42 ID:xt6hXg7o
>>67 直江アンチの方って、批判の材料に必ず「軍記物」「軍記物」って言うけど、「名将言行録」とか「常山紀談」とか信頼できないと批判するなら、あなたが信じる資料って何?
「上杉家御年普」とか例を出して資料を挙げて見てくれ。
72 :
日曜8時の名無しさん :2009/07/04(土) 21:19:06 ID:MEFUtJFs
「水戸黄門」のどかご諸国漫遊なわけ? 全然旅に出てないのに・・・・・
73 :
日曜8時の名無しさん :2009/07/04(土) 21:25:41 ID:xt6hXg7o
>>72 もしかして、もしかして「水戸黄門漫遊記」と「名将言行録」を一緒にしてる?
74 :
日曜8時の名無しさん :2009/07/04(土) 21:33:02 ID:O4+3zR/q
天地人においては景勝景虎は兼続と出会ったことが最大の不幸 とりあえず景虎マジ気の毒
別にアンチじゃないよ。 むしろ、転封の混乱も収まっていない中、 そんな無謀なことは絶対しない人だと思うんだけどね。 この人の景勝、上杉に対する忠誠は本物だと思うから。 俺は、直江状で家康を怒らせたっつ−のも、家康の芝居じゃねと疑ってる。 景勝が上洛できない理由を述べたに違わないと思うけど、 礼儀を重んじる人だったと思うから。 兼続の書状を読んでごらんよ。きめ細やかな差配の出来る人だったことがわかるから。 景勝は自分の葬儀の際の僧侶の人数とかまで、指示するような人だから、 そんな兼続が寵愛されたのもわかる。
謙信の義は世(幕府)の為、兼続の義は上杉の為、 どちらも立派なものだが残念なことに天地人じゃまったく書かれてないんだよね 少なくとも為政者としては兼続はすごいだろ
為政者というよりやはりNo.2かな。 あとやはり、兼続の一番はあくまでも上杉家への忠であって、 鷹山のように民への愛とかには至ってないとは思うんだがね。
>>75 忠誠が本物、って直江の史実の何をもって言ってんの?
義といえるような史実が見つからないわけだが
上杉に対して不義だという史実が見つからないわけだが。
80 :
日曜8時の名無しさん :2009/07/05(日) 19:33:01 ID:aJ73IDJY
>>75 >義といえるような史実が見つからないわけだが
単にあなたが見つけようとしてないだけ。偉そうな言葉を使って書くならもっと勉強してから書け。
| 義の史実マダ〜?| | 前スレから待ってんだけど .\____ _/ マチクタビレターν ☆チン ☆チン 〃∧_∧ .ヽ___\(\・∀・) . \_/⊂ ⊂_)_ / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄/| | ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄| |
>義の史実マダ〜 せめて史料といえよ このゆとり頭
少なくとも史実の兼続はドラマと違って、景勝を差し置いてってことはなかったんじゃね。 あくまでも景勝の指示や許しに従って行動していたみたいだし、 景勝も兼続には万事すきなく用事を言い付けているって言ってるし。 研究者たちは、豊臣政権が兼続を重視したのも、当時景勝には後継者どころか兄弟もおらず、 兼続は兄弟代わり、後継者代わりと見なされていたのではとも言っている。 大友の家臣から、秀吉にかわいがられて大名に引き上げられた立花や 鍋島(豊臣政権からの仕置きは当主を差し置いて直茂に出されていた)とかとは違うんじゃね。 三成との共謀説も研究者は否定してるし。 まあドラマの兼続は上杉の家老の立場も忘れて、おもいっきり上杉への不義を働きそうだけど。
もともとは南化玄興の「何ぞ利を捨て義を取るものか」という評価と、 「義の家」のイメージのある上杉家を支えたってとこから昔から義の 武将って感じになったんだろ。明治以降は家康に逆らった武将の評価 が上がるし。上杉主従の場合は、不思議なことに江戸時代から評価は 高かったが。 TBS時代劇の関ヶ原でも「義」「正義」を連呼してたけどそっちでは「義の史実マダ?」 みたいなアホなことが言われないのは、昔のドラマというのもあるけど、ドラマ自体が 面白かったからだろう。 大河も独自の設定で武将のキャラに肉付けされるのは昔から。ドラマの中で 説得力がないからこういうゆとりが沸いてくるんだろうけど、「篤姫と小松 が友達だった史実まだ?」「勘助が姫しゃまを慕い、勝頼を後継ぎにしよう とした史実まだ?」「一豊の代わりに家臣が一両具足を皆殺しにした史実ま だ?」とイチイチ設定に文句言ってるのと同じ。
そもそも豊臣政権時代から「謙信の上杉家」が人気あったからな。 そこに火を点けたのが「甲州流軍学」に対抗した「越後流軍学」の出現、と。
86 :
日曜8時の名無しさん :2009/07/06(月) 13:37:43 ID:okaux2F4
関ケ原で石田三成と組んで、徳川を討とうとしたよね?徳川が伊達と組んで邪魔され、上杉は関ケ原に行けなかった。って本当?義があるなら、行くべきじゃあなかったか?
87 :
日曜8時の名無しさん :2009/07/06(月) 14:01:54 ID:7ko7SABh
>>86 直江は挟撃を主張したが景勝が止めたと言われているな。他の大名と同じように上杉家も絶妙なバランスで東西を天秤にかけた
義を行動原理にしていたのはあくまで謙信まで、その謙信でさえ全てに義が優越するわけでは無い
自家存続より義が優越してしまうような武将はあまり誉められたものでは無い
東西挟撃策は作り話と言われてますな。 最上と伊達を滅ぼしたら南下する予定だったから 間違いではないんだが。
滅ぼすまでは予定してなかったんじゃない? 会津討伐後、最上は庄内、伊達は長井等の旧領を虎視眈々と狙っていたから、 ある程度圧力をかけるつもりだったんじゃないかね。
徳川家から恩謝が貰えず大坂に入って一発逆転に掛けるしか 窮貧をどうにもできなかった真田信繁や 旧家臣を救うためには一発逆転にかけて大名復帰を狙うしかなかった盛親と違って 上杉や直江は数万の家臣領民に責任があるからな。 律儀で義に厚いと思われるのは幕府からの信頼を勝ち取るのに役には立っても 義だけで家を滅ぼすのはただの自己満、 大名の資格無しといっていい。
三成の阿呆が一日で決着つけられたのが一番悪いがな 上杉も立ち行かん
>>85 越後流軍学は甲州流に対抗するために捏造満載
謙信の義だとか上杉の義などと言うのもそれで出来た捏造史観なわけだが
義というよりは漢なんだよな。 武門の誇りを守った。
関ヶ原で敗者の側になって減封されても、上杉家としての評価を 落としてない。 逆にいえば、勝ち馬に乗った小早川ら内応組は断絶、改易が多く、 前田利長は加賀を守ったとはいえ、力量に関しては残念な評価が下 ってる。利長は加賀藩の史料でも利家の遺言を守らずに帰国して奥 村・村井が「おいおい何帰国してんだよ」と笑止がったとされてる。 上杉は家康追撃も失策なのに(上杉の義云々が理由なら)美談にされ てるし、降伏の際も家康より先に秀頼にあいさつする相変わらずの態 度。大坂の陣の奮戦ぶり。大谷などともに、西軍についたのに江戸時 代を通じて好意的に扱われてる。
ヤンマガの「センゴク」では天地人に対するアンチテーゼが感じられるなw
江戸期は庶民にいたるまで嘲笑されたみたいだがな 長尾はろくな武勇が無いみたいな そのコンプレックスで上杉流軍学だの「義」の上杉だの 捏造がなされたみたいだ
99 :
日曜8時の名無しさん :2009/07/12(日) 11:28:54 ID:nkswga4K
>>98 直江状を出した一諸侯の家老でありながら身分お咎めも無く、徳川の世になっても江戸城下で屋敷(鱗屋敷)を与えられ、大名と同待遇を受けた直江。
嘲笑されたなんて、何を資料に言ってるんだか...。
アンチとして事実を「捏造」してるのは、アンタの方でしょ。妄想逞しいアンチさん。全く笑っちゃうよね。
上杉流軍学つーか越後流軍学を作ってたのは、 本家に対抗しようとした紀州頼宣じゃねーの? 宇佐美って(ホントは大関らしいけど)紀州藩士じゃね。 それから鱗屋敷に関しては、直接直江へってわけじゃなく、 景勝に下屋敷として与えられ、それを景勝が直江に与えたんじゃねーの。 もっとも幕府から重んじられたのは確じゃね。 幕府の命令とか直接直江宛のもあるから。景勝が在国してたつー理由もあるけど。
なんだ屋敷は景勝が貰ったのか
大名待遇でもなんでもないじゃん
>>94 武門の意地を守ったのは景勝じゃないの?
老中連中を呼び捨てにしていたというのは逸話で本当か どうかはわからないが、景明が死にそうになるとマナセ を派遣したり、本多政重を婿に入れてることなんか見て も特別扱いしてる様子はうかがえる。 秀忠御成のときも幕府からの贈答品は景勝、千徳親子に 次いで、直江と景明・政重親子が多く、本庄、千坂はそ の下(景明から幕府への献上品の時服はなぜか景勝と同 数)。上杉家中の直江家の存在の大きさを示していると ともに、幕府の側もそう認識していたのがわかる。 武門の意地を守ったのは景勝じゃね?みたいな話をするともはや このスレは必要ないことになるな。「上杉家を裏切らず、終生忠 義を貫いた」これで終了。
>>86-88 ちょっと前に出た週刊歴史ミステリーでは、関ヶ原の戦い直前に
石田三成が真田家に上杉家との仲介を依頼しているので、事前の密約が
有ったとは考えにくい、とか書いてありますね。
兼続に豊臣姓を与えたけど、30人ぐらいの武将に同じことしてるとか、
名将言行録が幕末から明治にかけて書かれた本だったとか、いろんなスレで
書かれてるのを見て、割と信じてたことがアレレとなって興味深かった。
あと政宗がらみの逸話についての考え方とかも。
逆に、今まで、文官としてはすぐれていたけど、戦闘指揮はイマイチだったイメージが、
武将としても中々すぐれていたらしいというのが意外だった。
ともかくページ数が少ないのが、唯一難点な面白い特集でした。
104 :
日曜8時の名無しさん :2009/07/12(日) 18:30:30 ID:roWKjGc7
景勝本隊(五十騎組)は会津白河方面、本庄隊・須田隊等は信夫口および津川口には大国隊等西部の諸将。 福島・米沢方面隊の直江隊は最上軍に数では劣らないが元々寄せ集めの二軍浪人集団(当然越後以来の部隊である直江本隊、溝口隊および猪苗代の水原等約五千は除く。浪人集団とは会津新規召抱えの前田慶次や上泉等寄騎衆を指す)。 よって、上方情勢が不明なままでは直江隊単独で山形盆地に深入りせず、庄内隊と挟撃しようとするのは当然。戦わずして勝つ(戦う前に勝つ)、が直江の作戦。 ところで、直江の凄い所は撤退決断の後の行動。 寄せ集め二軍集団を狐越街道から無事米沢へ送るため、なんと!!500程度の側近のみを連れて自ら殿となったのである(この辺の心意気は真田信繁にも通じる所がある:こんな処も慶次が直江に惚れた所なのだろう)。 その直江の戦い振りに対し最上記斯波家伝では言う。 「景虎勇武の残りたること(中略)、直江(個人)は古今無双の兵(つわもの)なり」とあの騙し討ちの天才、戦国の梟雄最上義光!!が褒め湛えている
>>104 その庄内との挟撃策におまえの妄想以外のソースあんのか?
あといちいち真田やら前田慶次だのを持ち出して、そこに惚れていただの
通じるものがあるだの、キモイ妄想まるだしのやおい臭い話で持ち上げるのやめたら?
確か兼続とその職跡を継いだ平林は 陪臣にも関わらず幕府から直臣待遇を受けてるよな。 陪臣は呼び捨て、敬称が付くのは直臣以上のはずなのに唯一「殿」付けされているとか。
以前どこかのスレで読んだけど、平林が殿と呼ばれたのは 米沢の古図に殿付きで邸宅が表されてることじゃなかった? 幕府から直臣扱いされてた話しは聞いたことないけど・・・
>>104 挟撃は可能性がないこともないが、
「福島・米沢方面隊の直江隊は最上軍に数では劣らない」
っていうのはあなたの妄想でしかない。
直江と互角な兵力を最上が動員した根拠を示さないと。
>>103 「名将言行録」って天下の三陪臣について?
あれは葉隠など江戸時代のにも載ってるので、名将言行録が本当の
ソースではないよ。もっとも、葉隠では堀直政がご当地の鍋島にな
ってるけど。
>>1 そもそも儒学の大義名分論から言えば、"軍事クーデター"によって当主の座を奪い取った景勝兼続主従は"纂奪者"なのだから、間違っても"義の人"などという評価にはなりようがない。
もっとも、儒学的評価なんぞに大した意味はない。
景勝兼続主従の評価されるべき点は、強烈な野心でもってなりふり構わず、ありとあらゆる手段を駆使してクーデターを実行したその力量なのである。
ところが今年のズレまくり大河ときたら、ただ流れ流され成り行きで……って、こ ん な 男は 直江兼続 じゃ ねえよッ!!!
景虎方の遠山某の方が、よほど兼続のイメージに近いんじゃないか?
だいたい"御館の乱"と言う呼称からして、勝者の側の一方的な価値観によるもので、それがそう呼ばれたという歴史的事実はともかく、後世の我々が公正中立的な視点で見れば、それは"中城謀反"と呼ぶべき実態であろう。
>>108 >葉隠など江戸時代のにも載ってるので、
あれま、その事は書いてなかったな。
どちらにしても、「信憑性を問う声は少なくない」のだそうですけど。
おれとしては、信憑性のある資料だけで有能な人だったらしい事はわかるので
あんまり大げさな表現だとかえってウソくさく感じてしまうんですけどね。
スレタイがらみだと、大河でもやってた、例の謙信の遺言の偽装の話。
そもそも景勝が謙信の養子になったという確かな証拠はない、という説が載ってました。
謙信が景勝の名と上杉姓を与えたことを示す資料は、景勝自身が書き残してる
だけだそうで。
まー、景虎を倒した後も、養子の件自体にケチをつけてる人もいないようだから
後継者としては、みなされていたんでしょうけど。
御館の乱と後継者については、研究者でもいろいろいってることが 違うからねえ。 最近は、謙信の晩年の側近や個人的に謙信に寵愛されたものたちが景勝派に なってることから後継者移行説もあるんだけど。 もしかしたら、大河ドラマとは反対に後継者景虎に納得しない側近たちや 越後国人衆たちが景勝を担ぎだした可能性もあるかもしれんね。 ただ、兼続が景勝の取次ぎの一人として登場してくるのは御館後なんで、 御館の乱と兼続の義は関係ない可能性が強いと思うよ。
>>111 乱収束後、時を経ずして執政体制を築いた兼続が、乱において枢機に参画したことがなかったなんて、本気で考えてんならどうかしてるよ(笑)
兼続が頭角を表したのは乱での功績による、と考えるのがまっとうな判断つうもんで、あんまり関係ないぽっと出の若者が突然抜擢されたなんて不自然極まりない。
両論併記や史料主義もいいけど、もう少し頭使わないと・・。
兼続が乱で功績があったのなら、狩野元信のように乱後なんらかの褒賞 があってもいいと思うんだけどね。 当時景勝の側にいたのにかどうか、全く否定はできないから功績がなかったと 否定することはできないと思うけど。 兼続が頭角を表すのは、景勝初期政権を支えていた謙信の側近たちが死亡、 あるいは政権中枢からはずされて、景勝専制が確立される過程においてという のが研究者の見解じゃないのかな。 乱後、兼続は何人かいる取次ぎの中の一人として登場してくるが、やがて 景勝への唯一の取次ぎとなり、景勝への書状はすべて兼続を通してってということ になってる。 兼続は上田衆だから、景勝の権力が確立するにつれて側近として頭角を表していく のは不思議じゃないと思うけど、わからないのは狩野だよな。 むしろ、乱で華々しい功績あげて景勝に認められたのはこの人のほうかも。
ごめん。 狩野元信→秀治 絵師になっとる・・・
>>113 >唯一の取次ぎとなり、書状はすべて兼続を通して…
武功も無いところを合わせて考えると
中国の宦官政治みたいなものだったのかもね
泉澤久秀は兼続より先に書状に登場するし、兼続と同時期にはほかにも数人が 奏者として登場する。その中で結果的に兼続が飛び抜けたのはもともと上田家 にける樋口家の格もあるだろうが、景勝が評価した「万事すきなく差配する」 という個人的な力量もあるだろう。 伊勢亀山城主松平忠明の「当代記」には「上杉家年寄悉皆人」とあって、 兼続が上杉家のあらゆる面を取り仕切っていたことが他家にも知られ、こ のようなケースはあまり例がなかったことがわかる。主君の寵愛だけでで きるものじゃない。 御館の乱で武功がないのは景勝の近習としてそばにあったからだと思う。 そういう意味では戦略立案などにかかわっていた可能性も否定はできない。
問題は「万事すきなく差配する」の中味だが、兼続の家中における地位からして、それが単なる行政事務能力を指すとは思わない。 また、その評価は長い時間をかけて形成されたとみてもよいが、やはり景勝の人生の切所における兼続の働きよるものだと考える。 そうなると、俺としてはやはり、御館の乱における景勝方の機敏で水際立った行動に目を向けざるを得ない。 そう言うわけで、史実と確定できないものもあるが、遺言偽造、柿崎暗殺、実城占拠、武田家買収、憲政謀殺等のうちのいずれか、又は複数に兼続が関わっていたと考えていいと思う。 異論は認める。
「思わない」だとか「だと考える」のは自由だけどさ 根拠が無いよ根拠がさ 「考えていいと思う」って何で? 景勝とホモだから重用されたと言うのも否定できないわけ
>>115 >中国の宦官政治みたいなもの
同時代の明朝にそっくりな状況ではある
明朝では皇帝の裁決を必須とする案件が余りに多いので
内閣が事前に上奏文を読み、裁決内容の原案を付けた状態で皇帝に渡す
(戦国日本の「奏者」の役割にほぼ近いか、狩野存命中まではせいぜいここまでだろう)
建前ではここで皇帝が正式に裁決をするはずなんだけど
実際には皇帝の代理として宦官が裁決業務を取り扱うようになる
つまり、内閣の原案は宦官により清書されてはじめて正式な裁決内容となる
この業務を担当する宦官の部署(司礼監)には原案に異論を付すことが認められており
裁決内容がこれによって変更されることが多々有った
後には、内閣の原案を無視して宦官が原案を作成するようにまでなる
(「唯一の取次ぎとなり、書状はすべて兼続を通して」となると、こういう真似が可能)
明朝も景勝も、元々の目的は君主専制の確立にあったのだろうけど
両方とも内臣(秘書が)必要以上の専権を振るうようになってしまった
景勝は粘り強く戦も巧みで、十分に優れた大名ではあったけれども
直江に権限を集中させ過ぎたことには、大きなマイナス点を付けざるを得ない
>>118 俺の話に決定的な根拠がないのは認める。
しかし、根拠のある話だけでは歴史の実相は決して見えやしない。
もしおまえが俺の話がおかしいと思うのならそれを指摘すればよいし、
おまえがより説得力のある見方を提示すればよい。
ちなみに俺はホモ説も排除はしない。
歴史のミステリーによると、御館の乱後の天正八年1580年に初めて、 樋口与六の名が史料上登場して、その資料から1ヶ月後の日付で奉行として 知行状を交付しているので、多分何らかの活躍があったんだろうと考えられて いるそうですね。 ちなみにこの時点で満年齢20歳。ただ、年齢も上杉家の記録にある享年60歳から 逆算した数字だとか。この当時の奉行ってどれくらい偉かったんでしょうね。 この年での抜擢って普通のことなのかな。 割と謎のある人物ですねぇ。 御館の乱の経緯が、どの記録にあるのかは知らないけど、 あんまり派手な活躍があったとすると、記録にないのはおかしいとなるし。 ホモ説の根拠は分からないけど、美貌により景勝に召し抱えられたとする、 新井白石の藩翰譜の記述は信用ならないとされている、と歴史のミステリーには 書いてありますね。
謙信の寵臣として有名な河田長親は永禄4年(1661年)から奉行人として、 謙信の政権中枢にいたことが確認できますが、河田系図の記載が正しければ、 このとき若干19歳です。 また謙信第一の家臣直江実綱を次ぐ者として期待されていた山吉豊盛が、 謙信側近として活躍始める初見史料は25歳の時ですから、兼続の21歳での 奉者登用が上杉家で前例のないほどのものであったというわけでもないと思います。 河田長親の登用を謙信の個人的な寵愛からとする上杉研究者は多いですが、 御館の乱中、ほぼ一人で長親が対織田戦線を守りきったことを考えると 有能な人であったことは間違いないとでしょう。 御館の乱での動静については不明ですが、兼続も景勝が「万ずすきなふ用所申し付ける」 と書状に書いたように其の有能さから寵愛されたことは間違いないと思います。 景勝の兼続への深い信頼を考えると幼少期から側近く仕えたという伝説も、 否定できないかなと思いますけどね。
うちの近所にいるな。 初めて店開いて雇った子があまりにも気が利いて努力家で…と出来が良すぎて その子が事情で仕事止めざるをえなくなった後 その子を基準に考えちゃって他のどんな子を雇っても 最近は使えない礼儀を知らない奴ばかりだと感じてしまって 上手く行かない店長が。
衆道とホモの違いがわかってない人がいるようだな ちなみに上杉家の正史『上杉家御年譜』では遺言ねつ造の場面に 樋口与六が登場する。
その遺言捏造話は、研究者からみれば、当時の兼続の身分からありえね−つ−ことで、 矢田や今福の兼続本は全く無視してたけどな・・・
ほんとかはともかく、そういう記述はあるということ。 謙信の死の傍らにいたかは微妙だが、景勝の近習なら遺言ねつ造に関わった 可能性はある。遺言ねつ造自体があったなら、だが。直江氏とのつながりも 考えれば。 矢田編の研究書とか今福本では完全に無視してるのであって、直江がそこに いたことへの見解は特に述べてない気が。
当時景勝の近習だったかどうかさえもはっきりしないからね。 矢田グループも今福も史料重視派だから。
>>125 逸話の史料性を認めない一方で、そのディテールにはやたら拘るから、そういうトンチンカンな話になるのだ。
なるほど、確かに当時の兼続の身分では、謙信の死の床に侍り、遺言を聞きただすようなことがあったとは考えがたい。
しかし、(遺言捏造が事実として)大河のように直江の奥方の独断とも認めがたく、当然景勝方の働きかけがあったとするのが穏当だろう。
ちなみに、(これにも異説があるが)直江の奥方は兼続の叔母に当たり、兼続は景勝方の工作員としてまことに適任とみることもできる。
とにかく、兼続が遺言捏造に関与したことを仄めかす逸話が存在するということは、よく念頭に置くべきであろう。
>>128 事故レスだが、叔母ではないな。
トンチンカンは俺の方だったようだが、文意を汲んでくれたまえw
>>129 叔母っていえば叔母じゃないの?母の兄の妻なら。
>>127 御舘の乱直後から武功があった将への褒賞を伝える役や取次
の役割を果たしてるから乱中も近習だったと考えても差し支
えはないかと。今福さんはガチガチの史料重視派ではなく、
わりと飛躍したことも主張してる。
131 :
日曜8時の名無しさん :2009/07/19(日) 09:36:45 ID:9KEEUjPw
>>128 全く推測の域を出ないね。
樋口与六名が現存する書状に出てくるのは、1580年、景勝から与六宛て船を送るって書状から。
1578年に与六が謙信の傍に居たなんてことはありえない。
興味(視聴率)本位でオモシロ可笑しく制作するテレビの影響って凄いね。素人がこんなに影響(洗脳)されるんだから。
1600年からの歴史的経緯や1601年の前田慶次道中日記および1602年の亀岡文殊堂の俳句会資料を見ると
>>104 っていいとこ衝いてるね。
推測の域をでないとか言ってる人が、長谷堂合戦での 直江軍の兵力が最上に劣らないなどという妄想を褒め てて笑った。本人か。
詳しく知らないから、単なるおれの印象だけど 兼続が景勝の近習だったという説は、年齢とその後の二人の関係から 逆算した推測な気がしますねぇ。 おれとしては、父親が奉行をやってたというのが確かなら、その補佐をしながら 徐々に頭角を現していって、若い腹心を募集していた景勝の目にとまったってのも 有りだと思うけど。
134 :
日曜8時の名無しさん :2009/07/20(月) 10:06:12 ID:5mPKvXsx
>>104 では、長谷堂合戦では直江勢より最上義光・伊達政景の兵力の方が多かった、と?
両軍の対峙兵力は如何ばかりだったのでしょう?
135 :
日曜8時の名無しさん :2009/07/20(月) 13:18:52 ID:ltskuyCR
>>134 >>104 は直江の最上侵攻軍は庄内勢が本隊だなどという妄想を吐いてる
から相手にしなくていいよ。
>>131 の、慶次の道中日記や亀岡文殊百韻
を見ると
>>104 がいいとこついてるって話になるのも意味不明。付属の
資料集のことかもしれんが、そんなのに長谷堂合戦に関する史学的な考
察はなかったはず。
>>133 重臣の子ならなおさら若いうちから主君のそばにあったと考えるほうが自然。
136 :
日曜8時の名無しさん :2009/07/20(月) 19:49:17 ID:1HChC4Pa
伊達が葦名を狙っているにも関わらず、 佐渡平定、金山開発に力入れすぎて その留守中に葦名を滅ぼされたというおマヌケ伝説は 史実なんですか。 その間、景勝は刀磨いていただけとか。
御館の乱で景虎を支持し、新発田の独立を裏で支えた葦名が滅んでも 景勝にとっては「ざまあみろ」くらいだろうな。というか秀吉の命令 がなければどうにもならない。
>>130 ああ、叔母でいいのか
寝落ち寸前で錯乱してたw
>>131 生憎だが、端から俺は推測をしてるんだが(笑)
あと、俺はたとえ兼続が謙信の傍近くに居なくても、遺言捏造に関与することは可能だと言ってるわけだが……日本語、読めてる?
さらに、兼続が遺言捏造に関与したという説は、少なくとも江戸時代にまで遡ることができる
なにもテレビが普及した時代に生じたってわけじゃないんだぜ(笑)
で、おまえはどうやら兼続は御館の乱に関わることもなく、また当時兼続は景勝の側近でもなかったと主張しているようだが、それなら兼続はその時、どこで何をしていたと「推測」してるんだ?
もし十分な根拠や説得力のある仮説があるなら、是非ご教示願いたいものだな(笑)
景勝の側仕えで春日山にいたんじゃなきゃ 父親と一緒に新戸城(?)にいたんじゃねーの。
131じゃないけど、信憑性のある史料がないんだから、 勝手な想像しかないんじゃないの。 兼続父の新戸城主って「上田史籍」だよね。 「古代史籍」で兼続父とともに家老と書かれてる深沢和泉、浅間修理、 上村美濃なんだけど、浅間修理は諸士略系譜には上田執権だったのは 父の石見の方で泉沢河内、上村美濃と一緒に勤めたと書かれてる。 上村美濃(尚秀)も兼続と同時期に取次として登場してきた人物の一人だよね。 なんか時代がごっちゃになってるのか?
129じゃないけど 「確かに当時の兼続の身分では、謙信の死の床に侍り、遺言を聞きただすようなことが あったとは考えがたい」って書いて、逸話の存在を念頭に置くことも大事だという主張 はもっともだと思うよ。兼続が主導したとは思えないけど、関わって動いていた可能性 までは否定できない。乱後すぐに取次やってることからも、乱中は親元にいて・・・な んてことより、早くから景勝のそばにいたと考えるほうがごく普通。
142 :
日曜8時の名無しさん :2009/07/24(金) 09:07:44 ID:T7FA626T
こいつの義は偽善ならぬ偽義(ぎーぎー)だよな ゲームではセミみたいにギーギー鳴いて五月蝿いけど 偽義ー偽義ーって言ってんだよ
つまらんレスだな
何かあるゲームでは直江がいっぺんに6人も出てきて ギーギー言うらしいよ
ゲームでは義バカの面白キャラですっかり人気なんだけど ホント何が義なんだろう?
身内ばっか依怙贔屓して徒党を組んだり、仲間内でつるんでヴイヴイ言わせたりするのも義なんだろう
147 :
日曜8時の名無しさん :2009/07/25(土) 01:39:45 ID:Fs/GG2YV
信夫地区では、30万石に減らされたおかげで 年貢の取立てが厳しく、伊達方面へ逃亡する百姓が多数 家臣はリストラしなかったが、百姓には逃げられた
リストラしてないとか、派遣切りの会社社長は見習えとか言われ てるけど、上杉家も会津移封後の新規召し抱えの衆はほとんど解 雇してる。侍層の数が異常に多くなるため、農民には負担がかかり、 逃散も多数発生する。しかし伊達も同様に逃散は多数発生し、上杉 家を真似て人返し令を作っている。
愛国無罪
まだ無双2のイカの叫ぶ義のが義らしいわ
そんなイカの雄叫び、かねたんの口癖 漫画の慶次さんのお友達の勇姿・・・ その程度のものでも一部の山形県民には 許し難い暴挙なのだ。
かぬつぐ君っつさ、ちょっと中二病入ってて、仲間内でつるんで大言壮語し、肩で風を切って伸し歩くみたいな感じ? 「義」とか言ってっけど、そんなの今時のチンピラだって口じゃ「仁義」とか言ってるし、所詮はその程度の話?
153 :
日曜8時の名無しさん :2009/07/26(日) 11:37:21 ID:ma3nnnfh
>>9 あと、21として佐渡鉱山の開発ってのもあるんじゃない。
でも直江山城守の本当の魅力はその「漢(おとこ)らしさ」だね。
関ヶ原前、徳川からの恫喝に対して次々と屈する諸侯。
謀反の疑いに対し前田利長は父利家の妻を人質に差出し、浅野長政は隠居。伊達政宗は忠輝の妻として五郎八姫を嫁がせることを強要され応諾等々。
そんな中、謀反の計画ありなどという言い掛かりに対する景勝・直江の態度(直江状)には強き者にただ屈することを潔しとしない彼らの意地と心意気があった。
そんな中やはり会津討伐が決定。本多正信は直江状の追伸として書かれた一節「内府(家康)様又中納言(秀忠)様御下向由候間、万端御下向次第可仕候」 にある種の小気味良ささえ感じながら。
最上義光との戦いでは、
『最上義光記』には「直江は近習ばかりにて少も崩れず、向の岸まで足早やに引きけるが取って返し。
追い乱れたる味方の勢を右往左往にまくり立て、数多討ち取り、この勢に辟易してそれらを追い引き返しければ
、直江も虎口を逃れ、敗軍集めて心静かに帰陣しけり」とある。この撤退戦は後世まで語り草になった。
最上義光は兼続を「上方にて敗軍の由告げ来りけれども直江少しも臆せず、心静かに陣払いの様子、
(中略)誠に景虎(謙信)勇武の強き事にて残りたりと斜ならず感じ給う」と評し、
家康も兼続が駿府を訪れた時「あっぱれ汝は聞き及びしよりいや増しの武功の者」とおおいに賞賛したという。
家康は武家として正々堂々と戦い、西軍が負けたら清く敗北を認め主家を守る為に
今度の一件はすべて自分の責任なので煮るなり焼くなりすきにしてくれと言い放った兼続にさらに正信は惚れこんだ。
本能寺の時の毛利が秀吉を追撃しないのと同じように卑怯なマネをしなかった上杉家を評価して、後に最上改易の際は山形城受け取りの大役を伊達政宗でなく上杉景勝に命じている。
旧日本陸軍参謀本部の「日本戦史」でもこの「相懸り引き作戦」は撤退作戦の手本として書かれている。
約二万とも言う大軍を狐越街道という超難所を抜けて米沢に無事帰還させたその戦い振りに最上記斯波家伝に言う。「直江は古今無双の兵(つわもの)なり」、と
現在、山形城傍の最上義光記念館には自ら殿をつとめた直江山城とその近習(朱槍を振るって活躍したという前田慶次を含む)と水原常陸介が鉄砲で前建を打ち抜いたと言われる兜(織田信長から最上義光が拝領したと伝わる)を見ることができる。
この織田信長由来の兜の御蔭で義光は命拾いをした。
>>153 あちこちに書き込んでいる暇があったら粗末に送ってやれ!
>>153 だから何が義なのさ?
ここは武勇を語るスレでない。内容も根拠無いことばっかだけど
156 :
日曜8時の名無しさん :2009/07/26(日) 12:47:14 ID:ma3nnnfh
>>155 上杉家の一家臣(家老)である直江に義というものがあるとするなら、それは上杉家とその家臣に対するものであって日本国や全世界に対するものでない。
そこを普遍的な愛だの義だのと曲解するからこのようなスレが発生するのだと思う。
直江にとっての「義」は上杉家に対するものであって、彼の幾多の業績から上杉家への「義」や「愛」は証明できると思う。
お前等 結論の出ようのない討論をして面白いの?
>>156 上杉家への義は当然だと思うけど、そういう意味では、よその武将も大抵そうですよね。
問題は兼続が「義の戦」とかを標榜していることだと思う、史実は別として。
大体秀吉が良い人過ぎるでしょ
このスレはドラマや小説の設定に対していちゃもんつけたいのか、 別に自分で義の武将と言ってなるわけでもない史実の直江を叩きた いのか。どっちにしても無意味。 史実の話をすれば義云々より上杉家の面目を保ったってことだろ。
>>153 戦術・戦略両面で手詰まりの状況下において撤退戦を成功させたのは、確かに賞賛に値するが、
「相懸り引き作戦」自体は当時既に確立されていた戦法であって、兼続はそれを踏襲・採用したに過ぎない。
兵力的に優勢で包囲セン滅の恐れのない直江軍にとって、それは単なる陣地防衛戦といっても過言ではなく、戦闘が防御側優位に推移したのは当然といえよう。
兼続自身が前線に留まり撤退の指揮を取ったことは、部隊の統制を保ち首尾よく撤退を完了するためのポイントであったが、
潰走の危険性が非常に大きい状況、及び戦力の中核となりうべき大身の将を欠いていたと思われる直江軍の状況を考えれば、むしろ当然の施策とみることができる。
最上義光が直江を賞賛するのは当然であろう。
一押しすれば直江軍は潰走するくらいの期待が、案に反したわけだから。
兼続自身、長谷堂合戦の敵将を「鮭延が武勇、信玄・謙信にも覚えなし」と激賞しているではないか(笑)
以上、撤退の局面だけ見るならば、兼続の采配振りは概ね良好だったと評価していいだろう。
唯一難点をあげるとすれば、庄内隊への配慮に欠けたうらみがあることか。
おまいら 直江が撤退戦で前線に留まって指揮をしたなんて 何を根拠にしてるんだ? 出典示して
>>163 直江殿軍は否定する意見もあろうが、俺はここでは一応「通説」として扱った。
根拠は幾つかあるが、とりあえず
>>153 にも挙げられている最上義光の発言を挙げておこう。
あと、「通説」に異を唱えるなら、それなりの論を立ててからにしてくれ、めんどいから。
>>163 もうそんくらい初歩のレベルの話になると
自分で調べたら?としか言いようがない。
少しググるだけで出てくるだろ。
166 :
日曜8時の名無しさん :2009/07/27(月) 08:18:59 ID:lbozBwcJ
>>156 その上杉に対する義の行動って具体的になに?
直江は豊臣政権に優遇されてた
自分を優遇してくれた豊臣家を支持するために、主家の上杉をリスクを負わせ、徳川と敵対する
どこが義なんだ?単なるエゴだろう
>>166 その前に君が「自分を優遇してくれた豊臣家を支持するために云々」
のソースを出したらどう?
勘違いしてるようだが、上杉家は家康が実権を握る豊臣政権から離脱したんだよ。
豊臣政権からの離反。「根拠なく謀反の疑いをかけられるならやってられないぜ」
というのが直江状。四月の直江状のあとも徹底抗戦の構えなわけではなく、讒人の
糾明や上洛延期を訴えたが、聞き入れられないため、開戦を決意した。
結果的には負けたけど、無理難題には屈しない態度を示したことで江戸時代以降の
上杉家の武家としての評判を高めた。
むしろ166のような直江なら戦国きっての策略家だな。蟄居中の三成とつるんで、公
儀を独占した家康を相手に、互角の勝負をする大乱を起こしたのだから。
国の為 と私腹を肥やす政治屋、役人が支配するどこかの国には都合がよい
>>167 直江が秀吉に優遇されたのは明らかだよ
豊臣支配下の佐渡の金山奉行を勤めてるし
豊臣傘下になってから上杉家中でとびぬけて高禄になったし
直江個人にとって豊臣政権が美味しかったのは間違いない
その現状維持のために三成と結託して上杉を危うくした
売国政策と言われても仕方ないよ
>>169 佐渡は豊臣領で、東西挟撃説があったことを信じてるの?
徳川政権下でも飛びぬけて高禄だけど?
景勝は直江にうまく操られてたなんていいたいのか?
貶めたいならもっと勉強したほうがいい。
http://www.geocities.jp/yoshipy/kobunn/sekitai/seta_10.htm 嘉永五壬子五月調之
三拾五巻之内
泉吉店
1ページ
関ヶ原軍記 巻之十
目録
一 本多中務太輔忠勝ほんだなかつかさたゆふたゞかつ
江州佐和山ごうしーさわやまの城へ検使けんし并
上杉逆心うへすきぎやくしんの事
一 内府公御出馬触たいふこーごしゆつばふれの事
返書を御覧有ごらんあり
芳札ほうさつ披見セしめ候貴僧拙者きそーセつしや
年来の好身よしみを存られ御懇志ごこんし
の段たん誠まことに旧友報志きーゆーほーし不及筆ひつしにおよば
紙ず候乍去さりながら上方関東程無ほどなく候故ゆへ
天下の雑説難止ぞーセつやみかたく候然れ共下々
雑説天下の御沙汰さたに及間敷およぶまじく
候事こと
56ページ
一 景勝かげかつ上洛延引しやーらくゑんいんに付御不審の
義 内府公の御所存難心得しよぞんこゝろへかたく候
去年五月会津へ下り領国りやーごくの
何が聞きたいのか全くわからんのだが。 江戸時代に関ケ原が起きた顛末が知られていたと言う話? 本の目次が直江状と似てる?
視聴料が無駄に使われてることを証明したドキュメンタリー これこそ兼嗣の言いたかった 義
>>166 上杉家自体五大老の一角で優遇されてるだろw
徳川は天下掌握のため、五奉行の中心人物である三成を引退させ、
前田に反乱の言いがかりをつけて屈服させ、次は上杉に矛先を向けた。
応戦は当然。
175 :
日曜8時の名無しさん :2009/07/30(木) 22:49:20 ID:IcuFaGJV
>>176 2chによる適応障害らしい、そっとしてやれ
>>174 応戦は当然ってあんた応戦してないじゃんw
179 :
日曜8時の名無しさん :2009/07/31(金) 00:21:49 ID:1ENp5Lju
ビビビのねずみ男謙信!!!!!!!!!!! ゲゲゲの伊達鬼太郎政宗!!!!!!!!!!!!!愛人は、猫娘御前!! ギギギの直江愛汁神金次!!!!!!!!!!!! こええええええええええええええええええええ 妖怪ランドの蝦夷トーホグ。。。。。。。。。。。。。。。。。
>>178 上杉が徳川家康に応戦するのは当然、という意味では。
上杉側からすれば、売られたケンカって感じだし。
会津征伐はともかく、奥羽の戦いはどうだったんだろうと思ってたら
歴史のミステリーによると、越後各地で地侍に一揆を起こさせたうえで、
上杉側から侵攻してるんですねぇ。なんか義の戦っぽくないなぁ。
景勝も兼続も、戦国時代に逆戻りすることを期待してたとしか思えん。
181 :
日曜8時の名無しさん :2009/08/09(日) 10:52:21 ID:6+aM6oyF
>>166 徳川は、上杉家は豊臣家を謀反を起こそうとしている、と難癖を付けたことを知らないの?
直江状(山城状)はそれに対する上杉家としての回答。
徳川からの言い掛かりに対しては、腰抜け対応を取った、前田・伊達および浅野等と違って、「世上の沙汰次第」にて決しようとしたのは上杉景勝(家)としての総意で直江山城個人の書状ではない。
豊臣家への謀反など毛頭考えていないこと、道を造るのは経済発展のため当然であること、武器を集めるのは、茶器等に金を掛けない田舎武士ならではであること。
それでも討伐するのであれば、上杉家として受けることを宣言したもの。直江状(別称山城状:最近福島市で見つかった)「内府様又中納言様御下向由候間、万端御下向次第仕可候」
ここまで書いても堂々と米沢・福島(伊達・信夫)30万石を安堵されたのは凄い!!
1601年の時点では、その後の政局はどうなるか解らない部分があったのに関わらず、奥州の中心に上杉家を残したということは、徳川家も、景勝・直江主従を相当認めていたということだろう。
東西挟撃がなかったって話だけどそれなら三成が敗れたって 振り出しに戻っただけだし、その後何で家康と一戦しなかったんだろう。 島津みたいに「領地減らされるぐらいなら受けて立つぞ、ゴルァ。」って言えば 良かったのに。
183 :
日曜8時の名無しさん :2009/08/09(日) 14:26:42 ID:EEWK4OWc
その「受けて立つぞ、ゴルァ」が言えなかったのは 最上や伊達に既にボコられて居て、堀ともケンカしていたから 周囲敵だらけの直江流外交の成れの果て
>>183 その状態って会津征伐の前に戻っただけだし
そんな四面楚歌でも勝てる策(家康を盆地に引き込んで云々)があるって
直江さんが言ってたよね。
>>182 西軍敗報後、上杉家中が降伏派と抗戦派に分かれ、兼続は最初抗戦派だったけど
最後は降伏派についたって話が残ってるね(どこまでホントかは分かんないけど)大将の統率力の差だろう
兵力に劣る側(東北方面では西軍の方が劣勢)なのに正攻法で敵を攻め、結局時間切れで撤退って所は
諸葛孔明の北伐と被る所があるね 文官上がりの将帥は勝つことより負けないことに拘るのかな
186 :
日曜8時の名無しさん :2009/08/09(日) 15:53:02 ID:4M2xZvqo
>>185 直江隊は長谷堂城を約半月(9月15日から9月29日まで)落城させられず、歴史家によっては戦術面に疑問を持つ方もいるようだけど、もし仮に4〜5日で長谷堂を落城させて山形城を囲んでいたらどうなったか?
それこそ、関ヶ原での敗報で直江軍は撤退できず、最上・伊達から混乱の中で大惨敗を喫していただろう。
狐越街道の終点である菅沢山・長谷堂に留まっていたからこその神業撤退劇が演じられた訳。
そう考えると、最初から関ヶ原の結果が来るまでは山形城進軍は考えていなかったように思える。
実際、酒田の志駄義秀とか鶴岡の下吉忠とかもそれぞれ、東根、谷地まで占領しても山形城へ進軍してないし。
187 :
日曜8時の名無しさん :2009/08/09(日) 15:58:38 ID:4M2xZvqo
>>183 関ヶ原の後じゃ、佐竹も援軍期待できないし、唯一上杉に味方するのは真田昌之(信繁)のみぐらいだろう。
直江を以てしても、勝ちは読めなかったんじゃない。上杉の大切な将士を無駄に死なせるだけだと。
西軍が破れてふりだしに戻っただけはありえんよね。 天下は決してしまったのだから。 もともと誰が上杉に味方できるかは、奥羽あたりのご近所づきあいの話ではなく 誰が徳川に敵対できるかの政治判断だけど、関ヶ原の後ときてはもはや論外。
>>186 伊達が中央の情勢が分かるまで日和見していたように、上杉が日和見していけない理屈は無いもんね
もっとも久々の実戦でうまく兵を運用出来なかったという見方も出来るけど(東軍でも例えば秀忠軍が苦労しているね)
関ヶ原での上杉の行動は研究者の間でも論議が多いからなかなか難しい
俺としては、上杉は一か八かの勝負より次善の策を選び、東北を平定してから南下する作戦を取ったものの、
そのせいで関東の東軍の動きを十分牽制できず、結果として(上杉が選ばなかった)一八の賭けに出た
家康の勝利に貢献してしまったと思う まあ結果論だけど
>>186 それだと結局何がしたいか分からないんじゃないか?
長谷堂攻めでの陣の取り方はたしかに、山形方面から援軍が来た際に
真っ先に矢面に立つ場所で、まず山形から兵を釣り出そうという狙い
があったという説もあるが。
最上攻めは書状などにあるように奥羽制圧後の関東侵攻が目的だった
と思う。戦後降伏したのは会津征伐前の徳川家が上洛延期や讒言者の
糾明を許さなかったのに対し、戦後は結城秀康の意見もあって柔軟に
対応し、謀反疑惑に関してはうやむやにしたというのがあるんじゃな
いかな。
守勢にたってて東北平定はないと思うぜ
192 :
日曜8時の名無しさん :2009/08/09(日) 20:37:44 ID:13fVtwtr
直江状は、往来物という初頭教科書の捏造だということが判明している。 よって、異同が多数ある直江状が存在するわけで。 原本なんて、もともとないから。 そんなモノを、上杉家は、歴代古案とかに収録するから、おかしくなる。 上杉は、甲陽軍鑑からも引用するから、謙信と信玄の軍記がにかよる。
前田慶次の次は直江状かよ笑 『鹿苑日録』ではショウタイ和尚が慶長五年三月末から四月一日まで伏見 に滞在。直江宛書状が四月一日付。四月二十二日には榊原康政が寺を訪れ、 褒美を与えてる。 慶長五年五月十一日には「自直江来状之返礼調之」。直江からの書状にさ らに返事を書いたらしい。 豊臣奉行衆の家康を諌止する書状を見ても、内容は精査が必要としても、 ほぼ同様の書状があったとする見方が最近は強い。
194 :
日曜8時の名無しさん :2009/08/09(日) 22:26:18 ID:HKIL340a
>>192 最近では、福島市の元庄屋の家から直江状とほぼ同様の内容の「山城状」というものが見つかっている(福島市は景勝・定勝時代は上杉領だった)。
あれ程長い難解な文書を「往来物」初頭教科書手本だとするには無理がないか?
そもそも何故徳川時代の仮名手本教科書に敵方の書状を手本とするのか?また何故直江なんて徳川太平時代には無名となっていた武将の書状を捏造してまで手本とするのか、全く不明。
直江状を往来物などとすること自体が捏造だと思うけど。証拠(往来物で直江状を記載したもの)でもあるのかね?
私見だが、現在直江状の原本が見つかっていない理由は、おそらく直江が無罪放免となったことに理由があると思う。
直江状原本が公になると、石田や安国寺、小西らが斬首で何故直江が無罪なのか説明がつかないという面倒な問題を抱えることになるため徳川方(本多正信辺り)が隠匿したものと考えられる。
。
つーか直江状は往来物として流通はしたが 往来物にしては明らかに尋常じゃない長さなんで 往来物のために書かれたと主張するのは無理がある。 往来物だったというのは写しが複数ある理由にはなるが 往来物になる前の原点があるはず。
196 :
日曜8時の名無しさん :2009/08/09(日) 22:34:41 ID:HKIL340a
>>191 直江隊のどこが守勢なんだ?
山形城は孤立して、長谷堂なんて無理攻めしなくても、熟柿が落ちるのを待つばかりになっていたし、伊達だって福島からの本庄・須田・安田・岩井・甘糟連合軍の北上と山形から直江(前田)・水原・溝口・春日隊と庄内軍の挟み撃ちされれば勝ち目は無かったし。
どこをどう見れば上杉が守勢なんでしょうか?関ヶ原が長引けば、上杉が奥州を束ねて佐竹・真田との関東侵入は十分考えられることだったと思う。
>>198 上杉軍が攻めてはいたから、確かに守勢では無い
とは言え、既に上杉の勝ちが全く消えていたのもまた事実
最上に10月まで粘られた時点で、関ヶ原が長引こうがもはや関係無し
上杉軍は峠越えて攻め込んでるんだから、10月(新暦11月)になったら
本格的に降雪が始まる前にとっとと帰らないと敵中で野垂れ死ぬだけ
9月末までに決着をつけられなかったんだから、論外
徐々に寒くなっていくのは確かだが勝ちが全く消えたとかいうのは 完全に根拠がない
201 :
日曜8時の名無しさん :2009/08/16(日) 09:37:23 ID:UlTjR5R+
838 名前:日曜8時の名無しさん[sage] 投稿日:2009/08/15(土) 16:28:46 ID:BBwKMxmR
>>837 >直江に「傾き滅びそうな家を継ぎ、助けたい」と言わせ
やっぱり直江は上杉家臣のくせに豊臣のために働き、
上杉にリスクを負わせる売国家老だったんだ
839 名前:日曜8時の名無しさん[sage] 投稿日:2009/08/15(土) 17:02:23 ID:yG6aKlCD
>>838 「絶を継ぎ、傾を扶く」は『中庸章句』の一節。
直江は、文字通りに「豊臣家を継いで再興したい」なんて言ってるわけではない
直江が君臣の筋目を説き、儒者が現実論を唱えてるのがおもしろいってこと
840 名前:日曜8時の名無しさん[] 投稿日:2009/08/15(土) 21:03:34 ID:vtPLGwU+
直江が豊臣政権から利益を得てなければ「傾を扶く」は「義」かもしれないけど
秀吉に可愛がられて、豊臣の金山奉行を兼任して、それを言うのはエゴだよな
そして主家の上杉を傾かせてるだから笑える
841 名前:日曜8時の名無しさん[sage] 投稿日:2009/08/15(土) 21:43:19 ID:RaxyE587
直江のことは置いといて、自分に利益をもたらしてくれた主家を
不利な状況下でも守ろうする行動は義とは呼べないのか?
君臣の関係とはそういうものだと思うが。
第一、豊臣家の金山奉行とか利益を受けてるなんて話自体がソー
ス不明の妄想でしかないんだが。
アンチも他人が出してくれた史料をいちいち曲解して直江をおと
しめてないで、たまに自分で見つけて来たらどうだ?
842 名前:日曜8時の名無しさん[sage] 投稿日:2009/08/15(土) 22:36:59 ID:vAIZ0NqC
直江は私生活ではもろに学者肌で
仕事以外には清貧だったと言われてるしなあ。
利益と言われても長安のように莫大な私財を溜め込んでいたなんて話は残ってないし。
利益を貰ったから、裏切れば利益をもっと得られる可能性があるのに
それまでに受けた利益の恩に報いようとするのは義のはずだけどな。
843 名前:日曜8時の名無しさん[] 投稿日:2009/08/15(土) 22:42:14 ID:BWwtue63
>>841 主家を守ろうとするなら、サッサと徳川に恭順すべき
やっぱ藤田は忠臣だった
直江がやったのは佐渡奉行じゃなかったっけ?
「奉行を兼務したり、三陪臣として遇してくれたり、
豊臣はおいしい。豊臣が続いてほしい
だから主家には悪いが徳川と対決してもらおう」
これのどこが義なの?
藤原惺窩が言う通りの奸臣そのもの
202 :
日曜8時の名無しさん :2009/08/16(日) 11:32:48 ID:ud3Z5E0j
>>201 関ヶ原前、直江が会津に帰る途中の近江にて「絶継傾扶」は、義ではありませんか?
と直江が惺窩に問答したのは事実らしい。
ある小説では、惺窩はそれには直接答えず、その後に「また、戦乱の世が始まるのか、苦しむのは民ばかり」と嘆いたらしい。
それに対し、直江は「惺窩先生は、学者であっても男児でない」と言ったという(真偽は不明)。
>>202 せいかは結局家康に仕えなかったけど、秀吉ぎらいでもある。
普通に考えれば、儒学者が「主家乗っ取りするやつに従ったほうがいい」
というのはおかしい。
204 :
日曜8時の名無しさん :2009/08/22(土) 20:32:06 ID:o5D3cGW3
★これが上杉の「義」だ!★ 「上杉は武田を救ってくれるのでしょうか?」 「当家は義の上杉、きっと救うことでありましょう」 「しかし、殿からはハッキリとした返事が得られませんでした」 「それは、殿がウソをつけない性格だからでありましょう」 爆www 演じてる奴らも真顔で演じてるから一層笑える
205 :
日曜8時の名無しさん :2009/08/23(日) 12:03:13 ID:gbkXB/rK
>>202 惺窩は、子供の頃、別所長治に攻められて父・母を失っている。
直江の問いに対し、直接答えず、戦国の世に逆戻りすることを懸念した心情は十分理解できる。
けど、そういう惺窩先生は直江が学者であっても男児で無いと言ったとされることも理解できる。
藤原惺窩は、徳川家康のやり方を決して好んではいなかったようだ。徳川幕府開府の折の徳川幕府の先生になって欲しいという家康の誘いに対して惺窩自身は断り林羅山を推挙している。
206 :
日曜8時の名無しさん :2009/08/23(日) 13:06:54 ID:NwynHz5O
時代の大変わり目に 謙信公の義を貫くのか 上杉を生かすために義を捨てるのか 平和のために友を捨てて嫌な徳川に忠誠誓うのか 理想のために戦乱を起こすのか 難しい選択と思うけど
惺窩は家康には請われて講義に行ったら家康がラフな格好で授業受けに来たから 「学問舐めてんじゃねーぞふざけんな!」と激怒して帰っちゃったんじゃなかったか。
208 :
日曜8時の名無しさん :2009/08/23(日) 18:51:49 ID:vA7kNaAU
立花宗茂は毛利軍(輝元)のみならず、秀頼側近にも大阪城籠城を進言した。 けど、秀頼側近にしろ誰一人として籠城を決意するものは大阪城には居なかった。 そんな大阪城を見て、既に統治能力を失っていることを見抜いた景勝・直江主従は、徹底抗戦する意味、意義を見失い、今後は徳川のもとで新しい国造りを志向せざるを得ないことを悟った。 そして、正々堂々と家康に謝罪する道を選んだ。なんて男らしい「漢」だろうと思う。敵の参謀本多正信や慶次が惚れるのも十分理解出来るね。
209 :
日曜8時の名無しさん :2009/08/23(日) 20:04:18 ID:3btQvfwL
どこが義なわけ?なんてアホっぽいスレに真剣に答える奴って偉いよな。
>>209 確かに…
義だの愛だのなんていっても、そんなの所詮ただのお題目に過ぎないってことくらい、すぐに気づけよなー
211 :
日曜8時の名無しさん :2009/08/25(火) 13:01:50 ID:+h9JRyvA
まー三成が捕縛されるは、西軍総大将毛利が大坂城を明け渡しちゃ もう義も抵抗も糞もないだろう。 あまりに呆気なさ過ぎ。 なぜ決戦なんてしたんだよ…応仁大乱みたいな感じで戦国逆戻りこそ直江の頭にあったんでは?
>>212 たぶんそれはある。
家康危篤の報を聞いたときもいくさの準備させてるし。
すでに上杉には自力で大乱を起こす力はなかったが、万が一に
備えたんだろう。
自己完結乙
214 :
日曜8時の名無しさん :2009/08/28(金) 15:20:16 ID:DuSnp9Fp
>>208 そんな大阪城を見てってあんた、関が原後の家康に従うまでにいつ見たのさ?
家康に従って大阪に鉄砲浴びせるのがどこが義なんだよ?
立花宗茂似たいな奴が義だったんなら分かるが
215 :
現時点での新情報☆ :2009/08/28(金) 15:30:17 ID:+VV1yGlD
●自動車税 一台につき年5万円増税 (2003年管氏の高速無料化案での試算) ●ガソリン代170円/L 値上げ★ により現在の二倍以上に。(CO2削減用設備技術をガソリン代に乗せる) ★6月24日付けでは暫定税率廃止は見送り ●エコカー減税廃止 ●環境税 光熱費と合わせてCO2 25%マイナスだと1世帯あたり年36万円の負担増 (GDP3.2%減により所得は年間22万円減り 光熱費負担は年14万円増える為) なおかつ 全ての家を断熱性が高いエコハウスとし、9割に工事費込みで100万円前後のエコキュート 太陽光発電や高効率給湯器の導入義務付け、次世代自動車以外の購入禁止で達成できる数値。 (自民党案では環境税は年7,7万) ●固定資産税 5万円増税 ●所得税 5万円増税 ●地方税 5万円増税 ●株取引におけるキャピタルゲイン課税 増税または総合課税に変更 ●配偶者控除廃止 〇次年度よりこれらの控除が廃止 ●扶養控除廃止 (■子供手当て・初年度は13000円■…外国人未入籍児含む) …この二つにより子育て世代含め 2000万世帯に★平均7万円の増税 ●住宅ローン減税廃止 ●介護保険料 増税 ●健康保険料 10〜20%増税 ●たばこ税 値上げ ●酒税(発泡酒ワインウイスキー値上げ) ●エコポイント廃止 ●★四年後じゃなく2,3年後からでも?★★★ 年金保険料 (上乗せ年金用) 職種に限らず(自営パートバイト派遣その他も)収入の15%徴収 ! ★自営と公平にすれば会社員の労使折半はなしか?★夫婦は足して割り徴収(120以下は免除のレスあり) 給与以外にFXや株式での収入、配当や利息収入家賃収入等があれば合計した収入の15%徴収。 ※ 税金と社会保険料金一体化して番号制 にするので、滞納は税金と同じような重罰? ●消費税 4年後10〜15%増税 (基礎年金用) 年金未払い未加入の無年金の人に基礎一律七万円支給
上杉が降伏したのは西軍の中でもかなり遅くて 降伏した時には毛利の騒ぎも知ってるんだから 見てってのは比喩的表現だろ。情報は逐一集めてんだから。 豊臣への謀反の疑いってのは確定してないし徳川とも戦ってないと かばってくれたのは秀康だったりするしな。 前田対徳川も上杉対徳川も知らぬ存ぜぬしようとした豊臣へ 返さなきゃいかん義理なんかないわ。 宗茂だって大坂攻めの頃には「豊臣への恩は関ケ原で返し終わった」って 徳川方で参戦してるだろ。
上杉主従は理不尽な謀反疑惑をかける家康に反発 家康は当時豊臣政権を牛耳る実質最高権力者 家康は上杉方の上洛延期や讒言者の糾明も認めない 上杉主従「やってられんわ」家康と敵対決意。すなわち豊臣政権から離反 家康は秀頼の命を奉じて会津へ出兵 三成挙兵 三成「内府違いの条々」を発する→豊臣政権への謀反人は上杉でなく家康 三成「越後あげるから味方になりなよ」景勝「OK」 関ヶ原 家康の謀反人レッテル撤回。「内府違いの条々」はなかったことに。 逆に三成が謀反人。毛利らは三成に踊らされて加担した。 上杉は謀反人レッテル復活。 秀康「上杉ってほんとに謀反したかどうかわからんやん」 家康「まぁそうかなぁ」 上杉「わかってくれたらいいわ」 上杉上洛 豊臣から徳川へ転んだってわけではない
218 :
名無しさん@そうだ選挙に行こう :2009/08/30(日) 08:01:21 ID:SoCL1nUE
上杉は最初から徳川と豊臣の争いについてはほぼ中立。 上杉が豊臣派であったとするのは、三成が勝手に挙兵したから挟撃の密約があったのではないか、とする後世の歴史家の推測。 確かに、上杉は討伐されたら佐竹と組んで徳川を総大将とする(豊臣の)上杉討伐軍に白河口で一撃を加える計画はあった。
中立ってあんたw 喧嘩吹っかけられて集団リンチされかかって中立ってw 中立で居られると思っていたのが間抜けってこと
220 :
日曜8時の名無しさん :2009/09/14(月) 18:06:54 ID:ieAMDkvQ
「義」というのは「我」を「主」の下に書く時の通り 我を抑えて主を上に立てるものである この直江の場合は逆だ 主 我 これが義 直江を表現するには 我 主 こんな字が相応しい
我 主 なんて読もうね? 実際、直江は主人の景勝よりも多くの家来で自分の周りを固めさせていた、と言う記録もあるしね
222 :
日曜8時の名無しさん :2009/09/23(水) 18:44:38 ID:s6UkUjUB
>>221 密謀では兼続は恨みを買って襲撃される場面があったよなあ。
上杉の政治に対する不平不満をまさか当主たる景勝に向ける訳にはいかず
景勝を憎めないので景勝の側近である兼続に怒りの矛先が向いたという話で。
実際兼続の先代にあたる直江信綱はそれで殺されてるしな。
ただ兼続の馬廻りが景勝の馬廻りより多いというのは事実誤認で
実際は兼続自身も含めて景勝の馬廻りだったのではという説もあるけど。
たとえ徳川に屈しても、生きる道を選ぶのが「義」とか言うなら、 対織田の時の、滅亡すら覚悟した悲愴な決断は何だったのか。 家康が信長よりは天下人として許せる人である、という解釈を明確にしないと、 矛盾感は禁じえない。
225 :
日曜8時の名無しさん :2009/09/25(金) 18:16:55 ID:X8hLK7RK
>>222 島津家の記録じゃなかったかな
直江は主人を差し置いて30騎だったかで
景勝は10騎だかで周囲を固めさせていたとか
本末でなく主従転倒
鎌田政近の書状だけど、景勝上洛に「もちろん尚井山城も御供なされている」 と書いてるってことは当時から直江は有名だったってことだな。 馬廻の数については鎌田自身が見たわけではなく他人から聞いた話で、「こ れはもはや子供の噂話」と言っていて信用していないようだが。一緒の行列 ならどうやってそれぞれの馬廻数を分けて数えたのか疑問だし。
景勝の馬廻り十騎じゃ誰も信じないよなそりゃ。 景勝の身分なら数十騎はふつういる。 直江の連れていたとする馬廻り全部足しても少ないくらいのはずだが。
家来も(家来の方が?)有名・有力というのは 竜造寺隆信−鍋島直茂 のような関係と 見なされていたのでしょうか
葉隠ではなぜか天下三陪臣に直茂が入って小早川、直江と並んでる。 堀直政涙目w 外から見たら二人は似てる部分が多いかもしれないが、直茂は隆信 のいとこで義理の弟なので一門扱い。直江の場合は一門ではないが 家中では景勝の「御館様」に対して「旦那」と呼ばれる不思議な存 在。景勝に一門衆がいないというのも大きいんだろうけど。
直江を準一門扱いにしようという動きは謙信→景綱主従の時代から見られた事だが 謙信・景勝の親類縁者の少なさは大名として異常だからなあ。
>>227 あくまでも噂で、実際見たことじゃないようだから、
確かなことは言えないが恭順の意を表すために、
馬廻衆とかの供揃えは少なくしたんじゃないか。
それでもなんぼなんでも少なすぎるだろ会津中納言の馬廻りが10騎って。 上杉当主になる以前、まだ謙信が生前だった頃でも馬上40騎は景勝に付き従ってるぞ。 当然上杉当主になり五大老になり越後から会津に移った後なんだから この頃から比べものにならないくらい増えてるはず。 直江の馬廻りと言われた連中全部を景勝の馬廻りとしても数えても、 普通の景勝の馬廻り衆からはかなり絞ってる事になる。
>>232 謙信配下時代の景勝の馬廻りも
40騎どころか山吉家臣なんかを取り込んでいって
上田五十騎衆なんて呼ばれてるのに
最終的には百騎近くまで膨れあがってるよ。
これに上杉家当主になった後は謙信の御馬廻衆や
解体された古志衆も取り込んでるからもっと増えてる。
「実際は直江も含めて全員景勝の馬廻りだったのに
見た人が勘違いした」と言われるのも当然。
実在の人数がどうこうではない 遠く島津の噂話にまでなるほど 直江の増長は目立っていた、ということだな
235 :
日曜8時の名無しさん :2009/11/18(水) 18:52:17 ID:Xxer4vXS
北高全祝はいつ死んだんだ。 「生きる道=義」の解釈が兼続一人の独断だと苦しい。 せめて高僧禅師に再会して、助言でも頂戴しとけば、 もっと上手く誤魔化せたろうに。。
妻夫木も兼続も、正直被害者だろ。 ちゃんと作ってれば、ここまで嫌われる事もなかった筈だ。
>>234 というより家老のわりにはそれ以上の知名度があったってことだろ。
直江の馬廻が多いことは手紙を書いた本人が噂話と否定してるし、
「もちろん尚井山城も上洛した」というのも景勝とセットに見られて
いたということ。
直江状で家康がキレたときも豊臣奉行達は、「上杉」ではなく「直江は
不調法だから」となだめてるし。
238 :
日曜8時の名無しさん :2009/11/21(土) 10:47:46 ID:v1JxDuLX
でもさ 次の坂の上の雲では美しい日本人像が見れそうだから期待したいね 直江なんてこんな功績無いのにしゃあしゃあと出世するクソ武将見た後だから 余計にスッキリしたいよね
ドラマの直江はたしかにひどいな。 なぜ直江執政体制をしく必要があったのか、重臣の合議じゃなく直江が 単独で120万石もの大国の切り盛りを任されてきちんとこなし、 独立志向の強い国人やわがままな一門を克服して景勝の支配権を 強固にしていく姿が描かれてないからな。本来はそこがきもなんだけど。 謙信をマンセーして上杉が一枚岩だったことにしたり、新発田の乱 をカットしたりするとこうなる。
徳川を背襲しなかった点からみて、義を語る資格は 兼続じゃなくて景勝にあるんだが・・・
史実の話するなら、そもそも追撃するしないは議論になってない。 上杉は逆賊認定された徳川に代わって、豊臣政権の東国支配役を務めようとしただけ。
242 :
日曜8時の名無しさん :2009/11/22(日) 17:25:54 ID:zOq8Yjlu
243 :
日曜8時の名無しさん :2009/11/22(日) 17:37:49 ID:MrpaIwSO
直江状時点では直江は景勝の意向が内府との全面対決だと思っていた。 しかし、革籠原で直江のその認識が間違っていたことに自ら気がついた。 ってことだけ。西軍が勝つか東軍が勝つか、「上杉家(景勝)大事」の直江にしてみればどうでもいいこと(語弊がある書き方かもしれないが)。
直江状は家康の詰問に反論しただけで、その後も軍事的性格の薄い 神指城の築城を続けている。 革籠原決戦は創作。景勝と直江は離れた場所にいて、なかなか 連絡もとれずにいた。追撃がどうのという話にもなりえない。 内府ちがひの条々で豊臣政権に復帰した上杉は、公儀の力をバックに 東国を従えようとしてるよ。
要するに義など何も無いってことですね スレ終了
246 :
日曜8時の名無しさん :2010/01/18(月) 10:16:04 ID:a6xGJxza
@ 日本で最初の図書館(誰でも書物を見れる寺)禅林文庫を造った 。 興譲館や各地に藩校が出来る実に200年以上も前であり、政治家としての先見性が判る。 A 直江版と呼ばれる日本で最初の印刷本(銅活字)を造った (全61巻、国宝:上杉家子弟のため禅林文庫に所蔵)。 B 蛮天連教令後も景勝とキリシタン(信教の自由)を保護し続けた(「米沢藩領に切支丹これなく候」との幕府宛書状あり、幕府も見ぬふり)。 景勝の息子、定勝時代に転換。 C 最上川上流で暴れ川で有名な松川に石堤を作り洪水を防止。治水をすすめ、庶民生活の安寧を図った。 治水を進め、表石30万石を約15年で実石高51万石まで引き上げることに成功(米沢は四方を山に囲まれ平地が少なく開墾には不向きだが)。 その後1630年代から他藩でも新規開墾が盛んになっている。 また、米だけでなく、紅花、青祖、楮、ウコギ等栽培を奨励し、家臣リストラせず逼迫する藩財政を潤した(兼続死後兼続政策は転換されたが、後に上杉鷹山が兼続政策を自ら実践・実行)。 半米半金税(半分が米半分は紅花等商品作物で納める:日本初の税制)を敷き民衆の商品作物栽培を奨励。 例えば紅花は山形藩(河北町)や仙台藩(村田町等)までも普及していき、他藩財政も潤している。 D 朝鮮出兵で、貴重な論語や漢詩等を持ち帰り禅林文庫に収めた(他の武将から「馬の肥しにもなるまいに」と言われ「頭の肥やしに為り申す」と答えたと言う:まさに傾奇者)。 E 直江家の婿になり、いとこのお船と結婚(生まれた子供は早死) 側室も持たず、春日山林泉寺には、戦国武将の墓として珍しく、夫婦全く同じ大きさの墓が並ぶ。 F 武田から菊姫を景勝の妻を迎えることに成功、武田家血筋も残すことに尽力(六男信清の子孫が今も米沢に在住)。 G 伊達家存続に尽力(伊達政宗に小田原早期参陣を促す書状何通か現存(仙台博物館他)佐竹等への対策で上杉領上野を通過させた)。 H 直江状(会津転封まもなく、公共工事等で内政忙しい。謀反など全くないことを説明(上杉家として一戦も辞せずとの考えはあり、謙信の二十三回忌で諸将に対決方針を確認)。 豊臣(家康)衆は、経済発展のための道路建設事業等まで「戦いの準備」ととらえた。 まあ、兼続ならずとも反論したくなりますわな。 I 兼続自ら約500の兵で殿を務めた最上領からの電撃撤退作戦。 撤退路は狐越街道という難所だが成功。その相懸引き作戦は旧日本陸軍「日本戦史」でも取り上げられ撤退戦の手本となった。 敵将最上義光曰く「直江は古今無双の兵(つわもの)なり」と。家康も「聞き及びし、よりいや増しの武功の者」と賞賛。 J 戦争抑止力としての鉄砲を重視、東北の地で初めて鉄砲製造を行った。約1,000丁と言われる。鉄砲の撃ち方指南書(1604年 鉄砲稽古定)を書いた。 今福・鴫野の戦い。上杉軍約五千で大野治長・後藤又兵衛(負傷)軍2万数千を打ち破り、大阪城に撤退させることに成功。 L 数々の漢詩(例:1599年の「春雁、花に背いて帰る」の詩には豊臣からの誘いを断って会津に帰る決心が読み取れる。亀岡文殊堂1602年初詣詩会で奉納した「元日」の短冊には、つつがなく新年を迎えた人々を見て安堵する兼続の姿が浮かぶ)。 M 1604年、四季農戒書(養子の本多政重が加賀藩へ行ったため、加賀藩に残っている)商品作物の奨励と仕事を楽しくするための心得等。 N 米沢と庄内を繋ぐ「朝日軍道」を引いた(天地人のオープニングに流れた雪山行軍は「朝日軍道」を彷彿とさせる。 O 神指城建設事業←若松城では城下が手狭。小田山からの攻撃に弱い面を見抜き(270年後の戊辰戦争で兼続が懸念が露呈)。平地に城下を大規模(若松の約2倍)にし道路も整備。経済発展を工夫。 完成した神指城、是非見てみたかったです。 P 上杉の人質となった真田信繁を謙信の景虎に対するが如く、侍従として丁重に扱い、「義」の精神を伝授。 第一次上田合戦では上田城防衛のため上杉軍の援軍を入れ、また「軒猿」と呼ばれる忍者を使い、徳川軍を翻弄。 R 世襲制限を自ら実践し、直江家の録を返上し断絶させた。 S 会津⇒米沢へ、堀立小屋しかなかった小さな城下町へ三万人の上杉軍を無事生活できるよう手配し町割。 その頃から景勝は「御館様」直江は「大旦那」と呼ばれていた。 農村や神社仏閣を積極的に回り、地主や農民の意見を聞いていたという(宮内の熊野大社に直江山城守名が刻まれた寄進の短冊現存、亀岡文殊堂等にもあり)。
247 :
日曜8時の名無しさん :2010/01/18(月) 11:00:49 ID:a6xGJxza
前の続き 21徳川秀忠に藤原惺窩と朱子学を紹介。道徳や愛、義等の政治がいかに大切かを説き、幕府の正教として朱子学を導入することに成功。 藤原惺窩は幕府に入ることを拒否。弟子の林羅山を紹介。その後の日本の道徳教育(愛や義の大切さ)の礎を築いた。 直江の義と愛の逸話はまだいろいろ(魚津城や新発田(新潟)開港)等あれど、まあ、ざっとこんな所でしょう。
何度目だ 前に指摘受けたところや根拠のないところは修正しないとね。 アンチの嫉妬スレなんだからageる必要もなかった。
249 :
日曜8時の名無しさん :2010/01/18(月) 11:04:33 ID:a6xGJxza
前田慶次が直江に心酔していたことを表す逸話。 関ヶ原の後、上杉直臣でない慶次は京に入っていた。 慶次の元には長谷堂での活躍の噂を聞きつけて様々な大名からオファーがあった。 しかし、慶次はたった一人の「漢」の誘いを待っていた。 待ち人来たる。「長く待たせてすまない。上杉家に戻ってくれないか?」 改易を免れ、大名として上杉家が存続することが確定した所で兼続は慶次に仕官を求めた。 石高は千石から僅か五十石。それでも彼は雪深い米沢を選んだ。 米沢市堂森に彼の自宅跡が残る。兼続と連歌を詠んだり酒を酌み交わしたり、地元の人に能面や槍等をプレゼントしていたという。 米沢での石高は、僅か五十石に減ったが、兼続の誘いが余程嬉しかったのだろう。 「畳は一畳、米は日に一合あれば十分」との名言を残して、彼は米沢行きを受け入れている。 寂れた堂森で直江と慶次は、酒を酌み交わし、未来を語り合ったことだろう。 とこんな感じで「大河天地人」を纏めてくれたら視聴率30%越え達成しただろうと思う。
小説とか漫画の逸話ね、それ。 「畳は〜」も創作。 50石というのも嘘。 天地人でそういうしっとりした友情の場面が描かれなかったのはたしかに残念だが
251 :
ケネディ大統領も :2010/02/17(水) 08:51:45 ID:zqI+W3aa
朝鮮出兵で、貴重な論語や漢詩等を持ち帰り→略奪 リストラしない→地元民の負担 50万石→豊穣時に50万石 半米半金税→米以外でも税金を取る 藩を立て直す為に死力尽くしたと思いすが 「義」と「愛」で形容するのは... 魅力の有る人だと思うがそんなになぜ奉るのですか? 邪教の様で抵抗感じます。
直江の蔵書は実際には五山の僧侶から譲られたものがほとんどで、 本当に朝鮮から持ち帰ったかは不明。余分な人間のリストラは実行 している。家中の侍を四分の一にした場合、戦があった時に対応で きない。寛永総検地の結果が51万石であり、豊穣時の数値ではない。 米沢藩は武士階級が多く、領民の負担が大きいが、治安維持などの 恩恵に対して過剰な年貢取り立てがあれば領民は逃散するだけ。直 江の半石半永制度や余剰分の買米制度は郷村を助けるものだったと して鷹山時代に評価されている。 史実の話したいなら「愛」などを持ち出すこと自体ナンセンス。
>>252 残念ながら寛永の豊作の時で51万石だ
米沢の高い石高は伊達家の業績だ
藩による買い上げ制度などどこの藩でもやっている
>残念ながら寛永の豊作の時で51万石だ ソースは? 米沢藩は半石半永なので米や特産品の買い取りして、そのお金を 次の年貢に回せる。直江時代の水利事業で町も耕地も広がってる んだから、すごいすごくないは別にして実際の石高は当然上がっ てるだろ。
検地は収穫量もある程度評価されるだろうけど (上田などのランク付け)、それよりも新田開 発や田畠の面積を確実に把握したことのが大き いんじゃね。 検地した年の「収穫量」じゃなく、その土地か ら「収穫できる量」が石高。 米沢藩領は蒲生時代の検地で30万石弱、上杉 の寛永検地で51万石で飛躍的に実高が伸びた ことは間違いない。 米沢市史には新田開発など何点か石高1、5倍 の理由が挙げられているけど、豊作だったから なんて書かれていないよ。
アンチの言ってる豊作時が〜なんて 「どっかのアンチがそんなこと2chに書いてるの見た」とか そんな程度なんだろ。
>>254 51万石が豊作時じゃない実高だ、というソースをまず出すべきじゃないの?
間違いない、とか希望的観測多すぎ
>>257 30万石の「表高」に対する「実高」であって、実際に収穫される量の意味じゃない。
田畠の等級に合わせて上田だと1反あたり●石、中畠だと●石みたいな基準をベースに
あとは面積をかけて計算していく。「収穫できた量を藩で集めたら50万石だった」と
いう話じゃないぞ。検地に対する根本的な勘違いだ。
江戸幕府の検地も、原則的には太閤検地の方針をひきつぐ。 太閤検地とちがうのは、間竿の長さが6尺1分に短くなった点で、このため租税量がふえたといわれる。 だから30→51万石程度は水増ししてカウントされて当たり前で、 この程度では増産したと言えない
元禄検地は六尺一分だが、寛永検地の米沢藩の場合は六尺五分で 太閤検地より丈量が長い。
ちなみに幕府が定めた基準も米沢よりは短いが、この寛永期は六尺四寸。 太閤検地の時代よりも大きい寸法の竿で検地が行われている。 だから太閤時代の竿を使うんならもっと大きな実高の数値が出ることになる。 そこのネット辞書は正確ではない。
262 :
ケネディ大統領も「直江兼続」の政を参考していた。 :2010/02/19(金) 11:02:38 ID:XfHH2VKv
>>262 よくコピペで見かける。
そしてよく反論されている。
突っ込み所多し。
>L 数々の漢詩(例:1599年の「春雁、花に背いて帰る」
の詩には豊臣からの誘いを断って会津に帰る決心が読み取れる。
『鹿苑日録』天正19年3月7日条には豊光寺承兌が細川幽斎から
贈られた「花の後帰るを雁の心哉」という句を直江にあげたことが
記述されている。「春雁似吾〜」の漢詩はどう考えても幽斎の句に
対応したもので、1599年の句ではない。「豊臣の誘い」という
のも意味不明。
>その頃から景勝は「御館様」直江は「大旦那」と呼ばれていた。
景勝の「御屋形」に対して直江が呼ばれるのは「大旦那」ではなく
「旦那」で、越後時代から呼ばれている。
など
>>246 は間違いが多い。上田合戦の軒猿云々はどこから持ってきた
話なのかすら不明。
>>262 ほとんど全部デタラメ
ケネディが尊敬したのは鷹山。
鷹山が直江を見直したとか言うのもデタラメ
鷹山の話は全くのデタラメとも言い切れないけどな。 鷹山の改革の時に鷹山召し抱えの儒学者は、 米沢藩の歴史や反省点、改革の仕方などについて 記述した中で、直江時代の政治を「国風偵素淳朴 にて、国安く民豊」かになったと述べているし、 鷹山の側近たちは直江を顕彰する歌会を開いている。
>>264 直江の「花に背いて帰る」の詩は、
唐詩の銭起の帰雁の詩「不勝清怨却飛来」のパクリだって
作家の誰かが言ってたよ
しょせんはパクリです
>>267 どこの作家か知らないが、読んでみればまったく似ていないことが分かるぞ。
ここは直江が義かどうかを語るスレだろ 業績を語るのは、何した人なのスレ行けって 一体何が義なんだ直江って
直江状のイメージじゃないのか。
271 :
レベルが低すぎてごめんなさい。 :2010/02/22(月) 09:30:08 ID:bCsu1+vu
「E側室を持たない」が仲が良いと限らないと思う。 墓を並べて建てたのは本人の意思? 防御壁に使う為?
>>271 というより婿だからだろ。
コピペにいちいち突っ込んじゃだめ。
273 :
日曜8時の名無しさん :2010/03/04(木) 00:03:28 ID:3flPKQTS
>>264 山形県南陽市の熊野大社や高畠の亀岡文殊堂には、寄進者の名前で「大旦那 直江山城守」という記述があるよ。
「旦那」と呼んでいたのは他の武将(色部とか水原とか)連中。
上田合戦で上杉の援軍がいたことは、真田の動員兵力(本体約一千、矢沢隊約500)からも当然。
当時の上杉と真田の関係から上杉の草(軒猿)が真田軍にいても全く不思議は無い。
春雁吾に似たり吾雁に似たり
洛陽城裏花に背いて帰る
は、確かに小説では確かに細川幽斎が「花の後帰るを雁の心かな」の一句を直江にどのように表現するか?
という場面ででてくるね。
でも小説は小説。実際には慶長4年の大津で読んだかも知れないし、事実は判らないよ。
>>273 草がいても不思議ではないかもしれないが、あたかも本当に
いたかのように功績として記述するのはいかがか。それこそ
小説の世界。
また、「大旦那」は寺社の場合、有力な檀家や高額寄付者を
指すので、景勝の「屋形」に対する呼称ではないよ。
幽斎の句が直江に贈られたのは小説ではなく史実
日本初の銅活字も現在は否定されているし、日本初の図書館なんて
誰が言ったのか。突っ込んだらきりがない。
ソース不明のものを並べてコピペするのはアンチに攻撃されるネタ
になるだけ。
275 :
日曜8時の名無しさん :2010/04/11(日) 09:08:35 ID:MEAIyTl1
>>274 禅林文庫が「日本初の図書館」と言ってるのは多分、あくまで比喩的表現で、要するに「身分を問わず大人も子供も貴重な書物に触れ合える環境を造った」ってことだろ。
「旦那」の意味が檀家や高額寄付者を指すだけの意味だと言うなら、なぜ色部等武将連中も直江を旦那と呼んでいたのだろう。
逆に突っ込まれるよ。
銅の活字本にしても「銅」だったかどうかが一部学者に否定されているのは事実だが、木の活字本だったにしろ日本初の印刷(活字本)を行った(またその印刷物が残っている)ってのは事実だろ。
直江の政策が鷹山と酷似してるのは、少々齧れば誰でもそう思うよ。
事実は事実として認めなきゃ。
276 :
日曜8時の名無しさん :2010/04/11(日) 18:26:28 ID:E0toUT5b
274はただ神社に書かれた「大旦那」は「大檀那」の意味だって言ってるだけで、 兼続が旦那と呼ばれていたことを否定してるわけじゃないと思うよ。 兼続の文選印刷は慶長12年とされてるから、残念ながら日本最初じゃないんだよ。 少なくとも家康が慶長10年11年に行ってるから。 だからといって兼続の偉業が薄れるってことはないと思うがね。 鷹山が直接兼続を讃えたことはなかったと思うが、 側近たちが兼続を偲んだ詩会を開いたりしてるね。
>>275 禅林文庫が身分を問わず大人も子供も自由に書物に触れられたとは
思えない。むしろ直江コレクションというべき貴重な本を収蔵した
だけで、どう活用するかは今後の話だったと思う。直江は禅林文庫
作ってすぐ死んでしまったが。
活字本は銅活字でなければ日本初ではないよ。戦国武将で出版事業
に手を出したのは家康と直江くらいしか知らないから珍しいことで
はあるけど。
コピペの人はいろんなスレに貼ってるけど、それなら妄想は除外して
淡々と業績を書いていくだけでいいんだよ。無理にすごいことを強調
しようとして嘘だらけになってしまう。
278 :
日曜8時の名無しさん :2010/04/11(日) 20:49:58 ID:14Sa6ZjM
>>277 一部学者に否定されてるからといって、通説では直江が日本で最初の銅活字本「文選」69巻を印刷したってのは通説だろ。
それなりの辞典を引いてみれば判ること。
禅林文庫についても誰でも行ける法泉寺という寺の中に自己の収集した書物を全て収蔵し開示したことが画期的なのであって、どう活用するのかはその収蔵本に興味がある人に任せていたんだろう。
教育に対する、直江のその先見性が否定されるものではない。
関ヶ原の後に家康から直江への書状の中に「史記」だったか忘れたけど、確か収蔵本を借りたい、なんてもあったよね。
>>278 そもそも銅活字のソースが不明なんだよね。
古活字研究の第一人者の川瀬一馬は慶長五年に要法寺で出版された『法華経伝記』
と同じ活字が使われていることを指摘して銅活字を否定した。
大河にからんで出版された矢田俊文編『直江兼続』、花ケ前・横山昭男監修『定本
直江兼続』、今福匡『直江兼続』あたりもこの説を踏襲している。もう銅活字だと
いう話は過去の説になっているんだよ。
家康が所望したのは『律令』『群書治要』。それだけ蔵書家として名高かったとい
うことで、十分すごいこと。尾ひれをつける必要はない。
>>279 多分そうだね。直江の印刷技術は朝鮮→五山経由だろうけど。
281 :
sage :2010/04/12(月) 00:00:07 ID:IE5pPf5u
まあ、文選印刷に関しては、今福氏の直江本にはっきり木版だと書いてあったから、 今後はそっちが通説になる可能性もあるね。 禅林文庫に関しては、まだ教育機関としての体裁はととのってなかったけど、 のちの元禄の学問所や鷹山の興讓館の源流となったのは研究者も書いてるから、 お二人さんの言い分はどちらも正しいんじゃないの。 家康が求めてたのは「史記」じゃなくって、「律令」「群書治要」。 金地院崇伝が兼続に問い合わせた書状が残ってるね。
282 :
sage :2010/04/12(月) 00:08:41 ID:oYLLQbfp
なんか不要なレスしたみたいでスミマセン。 251は無視してください(笑)
283 :
日曜8時の名無しさん :2010/05/22(土) 08:46:31 ID:QcNWCAkQ
直江状、専横の限りを尽くす徳川内府に対してのこの一節。 「この直江兼続、尋常にお相手いたす...。 参れ!!」 ですね。直江の義は。
284 :
日曜8時の名無しさん :2010/06/10(木) 22:33:08 ID:Zu+8YsVI
↑やはり「直江状」ですか。
285 :
日曜8時の名無しさん :2010/06/10(木) 22:56:22 ID:37Ba0qaz
直江の義=現代に日本初の「藩校」である禅林文庫に貴重な蔵書の数々を遺してくれた所。 そして徳川幕府(秀忠)に愛や義(要するに道徳)が大切であることを説き、直江の心の師匠とも言うべき藤原惺窩が提唱した朱子学を導入することに成功したこと。
直江版(文選69巻:国宝)を林羅山(徳川幕府朱子学の祖:秀忠・家光の先生)は激賞している。
288 :
日曜8時の名無しさん :2010/06/26(土) 14:18:31 ID:Pi9BslYC
ここまでのスレを以って、直江兼続の「義」は疑い無く証明されました。 以上
アンチの妬みスレいちいちageんなよ
当時は一次産業の全盛期。一般人に学問なんて必要ない時代。 そんな中で将来を見据え誰でも利用できる学問所を私費を投じてまで建設した直江って、やはり凄いわ。 天地人でも御館の乱なんてどうでもいいから、そういう先見的な部分や石高1/4になっても藩財政を潤した政治実績の部分(借金財政からの立て直しが必要な現代にも通じるその政策:秀吉をして天下の仕置きが出来る人物と言わしめた)の部分を重点に造り込んで欲しかった。
291 :
日曜8時の名無しさん :2010/08/01(日) 10:32:44 ID:IJHrmUcf
まあ、こんな訳の解らないアンチスレが出来るほど直江山城守兼続の戦国武将随一ともいえる凄い業績は一般的には知られていなかったということ。 天地人でそれが払拭されたか? 答えは「否」だが。
292 :
日曜8時の名無しさん :2010/08/21(土) 17:42:02 ID:KeA2wTir
民放で良いからスウィーツでない本当の直江のドラマが見てみたい。 それも、前田慶次や最上義光もフツーに出てくるもの。 内容 政策では殖産興業事業 港整備事業(後の北前船の航路となった酒田・新潟・直江津) 鉱山開発(豊臣末期には金・銀産出のなんと全国の6割!!が上杉産出で豊臣へ納入したとの記録) 染料栽培の奨励(青芋や紅花、後に鷹山の米織に発展) 食用樹(栗・柿・ウコギ)の奨励や新田開発。 暮らしの安寧と生産性の向上を図る治水事業(直江石堤等が一般的に有名)。 禅林文庫や国宝文選、詩歌等に見られる文学と教育への傾倒。 魚津城兵の若輩であった直江山城への信頼(12将の直江宛書状)。 武田信玄入道六男修理太夫信清の保護。 真田信繁との漢同士の契りと義の伝授。 キリスト教等の信教の保護と寺社仏閣への支援。 長谷堂での大将自ら殿を努めたその男意気、等等。 これを全て盛り込んだら大河級のドラマになっちゃうけどね。
293 :
日曜8時の名無しさん :2010/11/27(土) 11:26:07 ID:14xhSNcK
あと、直江が町割した米沢城(周辺)の造りって凄いね。 東口に向かって密かにまた見事に「鶴翼の陣」になってる。それに原方衆を配置。そして墓石までも戦時用。 もう一度大戦があっても良い様に、上杉を守るように実に練られた町割になってる。 感動。
294 :
日曜8時の名無しさん :2010/11/27(土) 11:27:49 ID:14xhSNcK
要するに直江の「義」=「上杉家への義」ってことだろう。と思う。 秀吉の「中央で30万石」の誘いにも屈しなかった理由がここにある。
295 :
日曜8時の名無しさん :2010/11/28(日) 20:55:03 ID:FgPGxpVn
実在の人物を 全国区・日本史レベルの偉人として持ち上げるため捏造エピソードで塗り固め 地方レベルの武将・為政者としての実績をことごとく否定するという 斬新な手法で描かれた大河ドラマ それが天地人
>264 政治のあり方には、領民への配慮も感じるけどね。 「国を成すには、人を成すを以てとす」という教えを基本としていたように思う。
297 :
日曜8時の名無しさん :2011/01/09(日) 15:35:57 ID:03ex45s5
そう思う。 亀岡文殊堂に奉納されている「元日」の詩を見ると領民への「愛」を感じる。
主君の命で農民を虐殺したよ まさに「義」
299 :
日曜8時の名無しさん :2011/01/09(日) 22:00:25 ID:OWK7jeD+
298 またバカアンチが書き込みか...。藤島一揆を未だに最上残党の乱でなく農民一揆と見ていらっしゃるのかな? また、主君とは? アンチはもうちょっと貶めのための貶めでなく少しはマシなこと書きこめよ。
パパイヤ鈴木が痩せすぎだぞ 天地人のヘボ甘糟やったトラウマからだな
301 :
日曜8時の名無しさん :2011/05/14(土) 17:09:13.80 ID:qFYQDEkp
直江の政策って一石二丁政策多いよね。 生垣が食用のウコギ、とか墓石が鉄砲楯兼用とか。
302 :
日曜8時の名無しさん :2011/05/14(土) 17:18:13.89 ID:qFYQDEkp
寺であり教育施設であり書物所蔵所でもある禅林寺とか。
直江津駅 は信越線と北陸線の交わる駅です。(例えばNHKBS木造駅舎) でも確かかなり前から上越市(多分平成大合併以前だと思うけど) しかも 直江津駅から信越線(長野駅方面)に一駅で春日山駅 しかも上越市役所前 直江兼続なおえかねつぐ →直江の港→ 直江津 となったのかと ガキの頃 鉄ヲタで直江津駅 でも直江津市でなく上越市 ??なんで?? とずっと思っていたのを解消したのが天地人
だって 春日山にいた頃はまだ若かったろうに そこで名を残した。 残念ながら上杉は徳川に敗れ 会津から貧しくて脆弱な米沢に押し込まれてしまった だが直江兼続は上杉家老として、領地として厳しかった米沢を豊潤な米どころにした! バンジャーイ!
米沢を含む置賜は、太閤検地の時に既に15万石はあった。 厳しいどころか豊かだった。伊達家の統治によるものだ。
306 :
日曜8時の名無しさん :2011/05/21(土) 11:26:28.33 ID:Ush/Dghg
米沢って直江の領地になった時6万石じゃなかったっけ?
その時は、米沢15万石に信夫・伊達郡を合わせて上杉30万石
どー見ても直江って不義の輩だろ 上杉家臣のくせに豊臣に尽くすって
309 :
日曜8時の名無しさん :2011/10/15(土) 04:01:41.22 ID:4/phneIw
家康との実力差を感じて景勝に諫言した某を粛清しようとしたからな
310 :
日曜8時の名無しさん :2011/10/16(日) 16:59:10.67 ID:WZJUjjaM
↑?
311 :
日曜8時の名無しさん :2011/10/24(月) 06:46:48.95 ID:24RStC0U
直江厨は捏造だらけだから手に負えない 辺境の東北人くおりてぃなのかなぁ
それはアンチも…ry
313 :
日曜8時の名無しさん :
2011/11/11(金) 08:58:18.45 ID:R8L6evoc 米沢市の住民が、川西町他周辺から、 ザワ衆と蔑まれる原因を作った男 米沢国替え時に、川西あたりから過酷な年貢を取り立てたのだろうか?