「篤姫」ネタバレスレッド その4

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259日曜8時の名無しさん
時代考証担当者が語る大河ドラマ『篤姫』
12月15日に行われたこの講座で、大石学先生から聞いたお話をまとめました。

最終回放送の翌日ということで、今回はネタバレを気にせずに話せると大石先生。
まずはその最終回から。
この回で悩んだのは、小松帯刀をベッドで死なせるのか、それとも畳の上で死なせるのか。
あそこは、大阪大学医学部の元になる病院。調べてもらって、ああいう形になった。
天璋院と静寛院がごはんのお代わりを盛るシーンは、勝海舟の記録に残っている有名なエピソード。
ただ解決の仕方が若干違っていて、勝はしゃもじだけでなくお櫃ももう一つ用意させた。

・実は二説ある篤姫の生年。
(ここからは配布資料に記された篤姫の年表を解説していく)
天保6年(1835)12月19日(「追録・旧記雑録、斉興公、斉彬公」『鹿児島県史料・旧記雑録追録8』) 
天保7年(1836)12月19日(「天璋院様御履歴」徳川記念財団所蔵)
大河ドラマでは、肝付尚五郎(天保6年生)と同じ年の生まれにしたかったことから
6年説を採用している(大石先生としては7年説だと考えている)。

・画面には映らなかった小道具のミス
(年表の解説をしながら、スタッフから借りてきた小道具を紹介していく)
このまま蔵に眠ってしまうよりは、いろんな人に見せてほしい。
借りるときは、どんどん使ってくださいと言われた。

(1)「一」と書かれた紙

(2)「篤子」と縦に書かれた紙
これは小松清猷が広げて見せているが、台本では小姓が広げることになっていた。

送られてきたビデオをチェックをしていると、台本と違っていておやっと思うシーンがある。
その一つが第47話。天璋院から今日はお酒を飲んでもいいと言われて喜ぶ本寿院。
この後、廊下を帰っていくところで本寿院は泣くのだが、これは台本になかった。
泣かないと本寿院はただの酔っ払いになってしまっていた。
こんな風に、脚本は現場でさらに練り上げられていく。

(3)ペリー来航のときのオランダ風説書、別段風説書
中は開かないが、表紙だけでなく、中の文章も作ってくださいと言われる。
何も書いてないまっさらな紙とは、役者も芝居が変わってくるのだと。
外交資料館で調べて全部渡したのに、NHKはズルを。
4ページ以降は全部、3ページ目のコピーだった。書いてあれば何でもいいのかと(皆笑)。

(4)江戸の藩邸から参勤交代で薩摩に帰る途中の島津斉彬に届いた書簡。
文章は自分で考えた。しかし小道具を見たら年号が違う。
ペリーが来航したのは嘉永6年なのに、なぜか寛永6年になっている。
あわててビデオを見直したら、うまく画面から切れていてギリギリセーフだった。

(5)日米和親条約(英語版)
ペリー役の人が本物の外交官ぽく見えたので尋ねたが、
外国人ばかりのプロダクションから呼んだと言われた。
史料は、M.C.ペリーと書いてあって、下にシュッと線が引いてあるサインだった。
このサインを書く場面は入れたほうがいいと伝えた。
しかし役者さんには大変なプレッシャーだったらしく、
借りてきた小道具にも何度も練習して書いた跡が残っていた。
ビデオで見ても、サインするときに緊張して手元が震えていた。
(このシーンの撮影は私も見学してましたが、
TAKE1はもっと震えたようなサインになってNGだったと)

つづきもできる限りすぐ書ければと思ってます。
(屋敷Dのお話の残りの分は後回しにさせてください)