山本勘助のせいで最悪の川中島になったわけだが

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1日曜8時の名無しさん
責任問題ですよこれは
2日曜8時の名無しさん:2007/12/09(日) 20:49:01.79 ID:24wUe8VW
逃げて逃げて〜
3日曜8時の名無しさん:2007/12/09(日) 20:50:22.39 ID:dZ/4HoE6
orz 失策にごさった
4日曜8時の名無しさん:2007/12/09(日) 20:50:25.44 ID:y4a+uGQS
>>1
スレタイ見てほうとう吹いちまったじゃねえかwww
5日曜8時の名無しさん:2007/12/09(日) 20:51:00.64 ID:0z4xAs1C
死んでお詫びしただろ
6日曜8時の名無しさん:2007/12/09(日) 20:52:46.94 ID:7i/OWF+9
>>1
小山田殿、成仏してください
7日曜8時の名無しさん:2007/12/09(日) 20:55:14.42 ID:0yVQRcI5
こんなローカル戦で命を捨てるなんてw
8日曜8時の名無しさん:2007/12/09(日) 20:55:16.12 ID:0TIFQMLN
鬼美濃が生きていたばっかりに・・・
9日曜8時の名無しさん:2007/12/09(日) 20:55:32.74 ID:/VH1FnJo
まあカンスコは、
もっとせめて流しのの戦いまで生きてれば
また話が面白くなったのに

カツヨリとか半分意味不
10日曜8時の名無しさん:2007/12/09(日) 20:56:12.31 ID:24wUe8VW
「そのとき歴史が動いた」だったかでは、にらみ合いの長期戦になっていたのを
武田と上杉の両軍とも霧が出たのを撤退のチャンス!と考えてコソコソと
移動を始めたのが偶然ぶつかって大混戦になった、って説をやってたけど。
11日曜8時の名無しさん:2007/12/09(日) 20:56:57.12 ID:phy5A5Ac
勘助が悪くない。おふくが悪い。
12日曜8時の名無しさん:2007/12/09(日) 20:57:15.11 ID:vFYGbxkA
まあカンスケ自体実在しないしな
13日曜8時の名無しさん:2007/12/09(日) 20:57:35.84 ID:8en53SoY
    | ̄ ̄ ̄|
    |     |
    |  山  |
    |     |
    |___|
    |
    |
   /⌒ヽ  啄木鳥戦法!
 ξ`=ω●´ξ  
  |: :|.   .|: :|9m  ビシッ!!
  |: :|.   .|: :|



    | ̄ ̄ ̄|
    |   .
    |  山  |
    |+  : :|
    |___|
    |
    |     ターン!!    ターン!!
   /⌒ヽ
 ξ`゜∀●´ξ ずっと俺のターン・・・・ごふっ・・・
  |: :|. *  .|: :| 
  |: :|. * *.|: :|   ターン!!
14雪斎:2007/12/09(日) 20:58:20.61 ID:g14z4Woh
決戦覚悟の戦いに、兵力を二分する啄木鳥戦法は、明らかに邪道。
これでは御仏の御加護は得られまい。
15日曜8時の名無しさん:2007/12/09(日) 21:00:08.56 ID:AEz3frUj
間輔はラインハルトで
宇佐美がヤン
くらいの用兵力の差があるな
16寿桂尼さまにスリスリ:2007/12/09(日) 21:01:06.37 ID:qxUWlrNt
偶然的要素は大きいだろうねえ。上杉の撤退のチャンスは、あの霧に
乗じるしかないわけでしょ。かしき云々も、武田の援軍が来るという
解釈だってあるから、それで即攻撃とは断言できない。
17日曜8時の名無しさん:2007/12/09(日) 21:04:51.94 ID:zBG/nvgc
あれは勘助、死ぬしかないよな。生き残ったら後で何を言われるか。
18日曜8時の名無しさん:2007/12/09(日) 21:07:56.53 ID:Ju9kP4QU
勘助 「ヘタこいたぁぁぁぁぁあああああ・・・OTL」

♪ズンズンズンズンズン
19日曜8時の名無しさん:2007/12/09(日) 21:09:15.54 ID:kgK2DGiD
兵力分散で大ピンチ
でもそんなこと関係ねぇ 
20日曜8時の名無しさん:2007/12/09(日) 21:09:50.44 ID:kgK2DGiD
信繁様討ち取られる
でもそんなこと関係ねぇ
21日曜8時の名無しさん:2007/12/09(日) 21:13:23.08 ID:4NSrS3vN
通信手段に劣る戦国時代で
兵力二分して主戦場で劣勢になるのはいかんなぁ
22日曜8時の名無しさん:2007/12/09(日) 21:32:44.56 ID://4DtOAp
動かざること山の如し、を無視すんな
23日曜8時の名無しさん:2007/12/09(日) 21:34:07.50 ID:kgK2DGiD
>>22
ばか者、兵力差が2対1になっても退かなかったのはまさに山だろうが。
24寿桂尼さまにスリスリ:2007/12/09(日) 21:35:49.83 ID:qxUWlrNt
だんだん、きつつきの戦法の存在そのものが怪しくなってきたなあ。

敵(上杉軍)は平原に布陣しているのではないから、1万2千の兵でわっと攻めるわけには
いかないでしょ。山道を縦隊で進まないとならない。妻女山も薪をとったり陣地作りで禿山
状態かそれに近いはず。武田軍の進撃が分からないはずがない。

1万2千は実質、城攻めに向かったのではないの?それが、上杉軍がどどっと降りてきた。
それで、本陣がひき付けている間に、城攻めの軍が敵の横腹を突く陣形に変ったと。

敵よりも少ない味方を2つに分けるのは、南北戦争でロバート・E・リー将軍も2回やって
いるから、さほどおかしいとは思いませんけどね。一つは第二次マナサスの戦い、もう一つ
は忘れた。片方でひきつけておいて、もう片方で背後か横腹をつく。ハンマー&アンビル
というのかな。
25日曜8時の名無しさん:2007/12/09(日) 21:40:59.34 ID:ClAPlaBd
↓合戦後、元気になった鬼美濃がひとこと
26日曜8時の名無しさん:2007/12/09(日) 21:42:23.38 ID:5Gug0F8i
1万2千も山登るより、せいぜい5千ぐらいで敵を驚かせて八幡原で討ち取った方がいい気が・・・
リスク高いし、兵も山登って疲れるやん。よっぽどこの策に自信があったのかな。
27寿桂尼さまにスリスリ:2007/12/09(日) 21:43:49.03 ID:qxUWlrNt
妻女山だって、たいして大きい山でもないし、そこに籠もるといっても、
1万8千もの兵を全部山の上に置いておけたか、はなはだ疑問で、山の
上には少数の兵しか居なかったのではないの?

そうすると武田別働隊は妻女山を含む上杉の布陣に対する先方攻撃隊という
形になる。奇襲作戦で上杉が慌てて移動したところを、武田本陣が上杉本隊
を横から突こうとして城から出てきたという解釈もできるし。
28日曜8時の名無しさん:2007/12/09(日) 21:47:23.97 ID:L1rVZyw4
啄木鳥戦法自体江戸時代の作り話なんだろ?
29日曜8時の名無しさん:2007/12/09(日) 21:49:37.08 ID:nAAzZQru
銀英のパクリでしょ
別動隊で挟撃しようとしたけどそこにはいないて
みったーまいやー対しゅたーでんのまんまだな
カンスケ=しゅたーでん
30寿桂尼さまにスリスリ:2007/12/09(日) 21:49:42.57 ID:qxUWlrNt
>26
そうなんだよ。きつつきの戦法を基礎にして上杉の敗走兵を待ち構えるなら、なぜ
武田本陣は川を前にして布陣しなかったのか、それが不思議なんだよな。
武田別働隊は、かなり大掛かりな夜襲部隊で、落ちていく上杉軍を武田本隊が政虎
の首を取ろうと海津城から打って出たのかもしれない。そのまま見過ごせば、
上杉の兵糧がある善光寺に逃してしまうから。そうすると、一気に突撃できなかった
ので苦しい原野戦になった理由も分かる。

31日曜8時の名無しさん:2007/12/09(日) 21:50:59.66 ID:wmk2ILW1
新田次郎原作「武田信玄」の方が全てにおいて優れているため何の感動もない合戦になってしまった。
勘助を主役にすることに無理があったのだから所詮こんな物かもしれん。

何とか盛り上げようとする意気込みは多少感じられたが・・・空しいだけだった。
NHKは国民の声に耳を傾けて選考しているのか疑問に感じる。
一方的につまらん物を押しつけられる視聴者に身になれよと言いたい。
32日曜8時の名無しさん :2007/12/09(日) 21:59:03.77 ID:RMOql7Td
なんかで読んだことがあるんだが、
山に登る軍勢をさらに二つに分ける、
一方が山頂に奇襲をかけ、もう一方は山の下に待機して
明朝の戦闘で武田本隊とは別方向から上杉軍に攻撃しようと
考えたのではないか?という見方もあるらしい。

つまり実質三つの部隊で上杉軍に攻撃を仕掛けることになる。
ただ上杉軍下山で予定通りの動きができなかった。
33寿桂尼さまにスリスリ:2007/12/09(日) 22:00:42.52 ID:qxUWlrNt
待ち構えるなら、川を前に待ち構えるのは絶対必要条件で、敵が
川で足を取られている状態のところに矢を放つ形にならないと
おかしいんだよな。武田本陣が敗走兵を待ち伏せするなら、もっと
後方の川を前にしないとおかしい。

だいたい「この霧は味方ばかりに有利とは限るまい」と言って、勘助
が「ぎょぎょぎょ」となるなんて、有り得ない会話でしょう。生き死に
を賭けた戦いならあらゆる可能性を考えるはずで、会話が間抜け過ぎる。
34日曜8時の名無しさん:2007/12/09(日) 22:04:54.51 ID:l+J3PiSO
まあ、上杉方にはタイムスリップした自衛隊(板垣を含むw)がいたんだ。
勘介も武田方も良く頑張ったほうだよ。
35寿桂尼さまにスリスリ:2007/12/09(日) 22:05:00.12 ID:qxUWlrNt
私も32の見方に同意だね。敵陣形の片方から乱していく、つまり
上杉の本陣から乱していくというのは、大いにありえることだ。九州
南朝を作った筑後川の戦いが、それに近い。夜明けとともに、山麓に
籠もる敵の陣の片方の端から追い落としていくやつ。
36日曜8時の名無しさん:2007/12/09(日) 22:08:38.85 ID:nAAzZQru
用兵は始めてか
てんぱったんだろうな
机上のくうろん
さすがだ
37寿桂尼さまにスリスリ:2007/12/09(日) 22:09:15.85 ID:qxUWlrNt
もう一つの仮説だけど、上杉は思いのほか犠牲が大きかったのでは
ないの?つまり、武田は深追いはできなかったけれど、上杉は膨大
な犠牲を払って春日山に逃げたと。翌年、ほとんど関東での軍事行動
ができていないよね。大将がカリスマ的で攻撃型だと、周囲の犠牲も
大きいはず。
38日曜8時の名無しさん:2007/12/09(日) 22:09:55.89 ID:wmk2ILW1
孫子の兵法を本当に知っている者なら「妻女山」に陣を構えた時点で上杉軍敗れたりと見るのが普通と言える。
なぜなら馬謖が既に証明しているからである。

勘助は「迷軍師」と呼ぶに相応しい。
39寿桂尼さまにスリスリ:2007/12/09(日) 22:15:55.83 ID:qxUWlrNt
上杉が2手に分かれて布陣していたかもしれないしね。
そうすると、武田が2手に分かれたのも理解できる。城に籠もっていては
敵に善光寺に逃げられると分かれば、海津城から出ざるをえない。
40日曜8時の名無しさん:2007/12/09(日) 22:23:52.07 ID:K8qGadnt
戦争では、気象予報と情報戦の失敗をした時点でダメよ。
41寿桂尼さまにスリスリ:2007/12/09(日) 22:41:44.41 ID:qxUWlrNt
確実に分かっている事。

妻女山は海津山を見下ろす位置にあるが、1万8千人も籠もることはできない。
武田別働隊は全軍突撃か山城攻撃か、その両方かのどちらかでなければ理解できない。
(ちょろちょろと兵を出せば犠牲を増やすだけ)
武田本軍は城から出ていた。待ち伏せは当時の戦法からして有り得ない位置にある。
(善光寺への道を取りきった、川を前にした位置に布陣していない)
当日は朝霧が濃かった。
主戦場は原野戦だった。
42日曜8時の名無しさん:2007/12/09(日) 22:41:47.23 ID:Pz2HseE1
>>33
勘助が恐れたのは信玄が大将として言うべきではない不安の吐露であって、
作戦の失敗じゃないと思う。

武田は政虎に別働隊の奇襲をかけて、それの成否がどうあれ、
撤退する予定だったんじゃないかな。
43日曜8時の名無しさん:2007/12/09(日) 22:43:10.50 ID:9BRJFh4w
宇佐美がもうやめよう、といったのに言う事を聞かない勘助ってどうよ?
44寿桂尼さまにスリスリ:2007/12/09(日) 22:43:27.93 ID:qxUWlrNt
41に列挙した事実(それらが間違いなく事実なら)、きつつきの戦法は
有り得ないと思うんだよね。
45寿桂尼さまにスリスリ:2007/12/09(日) 22:48:43.46 ID:qxUWlrNt
朝霧なんて、毎日のように出ていたんじゃないの?
46日曜8時の名無しさん:2007/12/09(日) 22:53:35.68 ID:GV1eQ2GS
>>45
旧暦とはいえ9月上旬だべ?
いくら山奥でも出る日と出ない日が
47寿桂尼さまにスリスリ:2007/12/09(日) 23:53:38.44 ID:qxUWlrNt
>46
あ、そう。すると前日に雨が降った。翌日は深い朝霧というのは予知可能な経験測だろうか?
晴れるまでは予測できたかどうか、分からないけど。
48日曜8時の名無しさん:2007/12/10(月) 00:13:18.38 ID:283Id2sf
つか霧が出るかでないかくらい
勘助ならば予測つくくらいの勉強してるだろうに
気象予報士クラスの知識は持っててもらいたい。
49寿桂尼さまにスリスリ:2007/12/10(月) 00:17:43.21 ID:/jeklGiv
今、周辺の地形図見てきたが、やっぱり武田本軍は待ち伏せ部隊では
ないと思うね。待ち伏せなら、なぜ犀川を前にして布陣しないのか、
合理的な理由がみつからない。上杉軍が善光寺にある程度の兵を残して
いたなら、武田本軍は善光寺急襲部隊だったかもしれない。それでは
かなわぬ、兵糧を奪われたらお仕舞いだと上杉軍が移動した可能性もある。
50日曜8時の名無しさん:2007/12/10(月) 00:22:39.89 ID:oPaFVBQy
田んぼや川の近くなら毎日出ると思うが
51日曜8時の名無しさん:2007/12/10(月) 00:29:54.88 ID:qampccGB
局地的な気象は、そこに住んでる奴でなければ判らないことがある。
地形と、寒冷前線の通過などによる温度変化が関わって、霧が出るパターンだったんじゃね?
52日曜8時の名無しさん:2007/12/10(月) 00:33:22.67 ID:283Id2sf
>>51
川中島が決戦の場となることは前から判ってるんだから
軍師勘助ならば気象のことくらいつかんどけよって感じなんだが。
なんだったら一ヶ月くらい住んどけ。
53日曜8時の名無しさん:2007/12/10(月) 00:46:57.18 ID:+Vb3YAdW
>>33
あれはこの作戦について自信満々で少々浮ついている勘助に対して
そう上手くいくとは限らないよ、という信玄の忠告と言うか
冷静な意見に見えた。
少なくともノベではそんな感じだった。
54日曜8時の名無しさん:2007/12/10(月) 00:51:23.18 ID:oh2vHLxP
スパイがいたんだな
55日曜8時の名無しさん:2007/12/10(月) 00:57:39.21 ID:tBluQKT7
オマエ等の拙い知識で語り合わなくてもちゃんと専門家が分析してるからそれを読め
56寿桂尼さまにスリスリ:2007/12/10(月) 01:10:18.98 ID:/jeklGiv
>53
前夜なら「忠告」も分かるがね。当日では、タイミングが悪すぎる。
でもまあ、そんなこと言っていたら小説的な面白みはどんどん減る
んだけど。生涯の総決算のような大事な場面で失策、それをとがめ
ない大将、それに感じてカンスケが突撃して死ぬというほうが、
ドラマとしては面白いんだろうけど。
57日曜8時の名無しさん:2007/12/10(月) 01:31:20.93 ID:XaQRed59
出陣前の腹ごしらえを我慢しとけばよかったのに。。
58寿桂尼さまにスリスリ:2007/12/10(月) 01:37:49.90 ID:/jeklGiv
あれも、謙信が先に動いたという、後でとってつけたような理由のように
思えるけど。相手から城は丸見えなのに、間抜けすぎるでしょ。山城の
取り合いなんか、武田の武将は無数にやっているはずなのに。
59日曜8時の名無しさん:2007/12/10(月) 01:48:00.09 ID:XaQRed59
>>58
確かにマヌケだよね。
でも、篭城中は兵糧節約してろくに食べてなかったから
ここぞとばかりにみんなでご飯たべたんかなぁ・・
60日曜8時の名無しさん:2007/12/10(月) 01:52:05.80 ID:245z1Zlo
川中島の合戦はデモンストレーションの場であって実際に戦闘をする意思は無かったらしいよ
偶然おきた事故みたいなもんだって

前にNHKの歴史番組で松平って人がゆってた
61日曜8時の名無しさん:2007/12/10(月) 02:00:34.27 ID:7pJa/sBp
>>60
何のデモンストレーション?
武器の新製品発表会?
62寿桂尼さまにスリスリ:2007/12/10(月) 02:16:48.86 ID:/jeklGiv
>59
武田側は兵糧に困らなかったと思うんですよ。上杉軍を迂回して甲斐・諏訪
から兵糧を送り込んでもいいし、城に蓄えもあっただろうし、旧暦の9月9日
といえば2ヶ月を足せば11月上旬だから、あの盆地は秋の取り入れの直後で
しょ。それに対して上杉軍は狭いところに1万3千人(5千が善光寺か)が
布陣しているわけだから、事実上、携行していた糧秣ぐらいしかない。
馬に大豆を食わせなければならないが、それが尽きれば馬を使えない。

上杉の陣は周囲の山から見えなかったのだろうか。見えたはずだし、スパイ
もいたなら、両者はある程度相手の動きは分かっていて、やる気満々でぶつ
かったのではなかろうか。

上杉にしてみると、雪が降ったら帰れないから、いつ撤退するか機会を探っ
ていたはずですよね。
63寿桂尼さまにスリスリ:2007/12/10(月) 02:28:05.41 ID:/jeklGiv

>60
小田原城から上杉軍を引き離すという意味だけなら陽動作戦だから、
陽動しかしていないのに大軍がぶつかったなら偶発事故とも言えます
よね。だけど、武田が2万、上杉が1万8千なら、両者足して4万人
でしょ。両方とも大将が出陣しているわけで、いつ戦闘が始まっても
おかしくないですよね。やる気ありませんなんてハンパな出陣では
ないですよね。
64日曜8時の名無しさん:2007/12/10(月) 03:06:15.15 ID:0d33VyNU
    ____
   /  ヽ、ヽ
   .|    ヽ i 
  (^'ミ/.´・ .〈●)   
  .し彡  r、_) |   ガクトはわしが育てた
    | '`ニニ'' /  
   ノ `ーm-i´ 
65日曜8時の名無しさん:2007/12/10(月) 05:07:08.91 ID:CFcI8E/4
>>61
ここは俺らの縄張り!ってデモンストレーション
66寿桂尼さまにスリスリ:2007/12/10(月) 05:50:59.08 ID:/jeklGiv
しかし、かなり大きな戦さなのに、戦いの実相が分からない、ウソが
いっぱい入ってそうな甲陽軍鑑だけってのも不思議だなあ。徳川家康
は甲信の侍を雇ったのだから、もっと記録が残っていてもおかしくな
いはずだが。
67日曜8時の名無しさん:2007/12/10(月) 07:35:46.30 ID:245z1Zlo
>>61
デモンストレーション - demonstration
抗議や要求の主張を掲げて集会や行進を行い、団結の威力を示すこと。
68日曜8時の名無しさん:2007/12/10(月) 12:02:07.25 ID:FKZLzzKi
>>57
つーか飯なんて毎日食べるんじゃないか?
対陣中はずっと飯食わないで、出陣の前にだけ飯食うものなのか?
「武田は動く。あれを見よ」が、意味わからなかった。
ちなみにウチは、毎日飯を食う。
69日曜8時の名無しさん:2007/12/10(月) 12:17:18.11 ID:Kqdy69hS
>>68
たぶん他の日とは違う時間帯に、炊煙が上がっていたんだと思う。
それで政虎に出陣を悟られた。
それにしても初歩的なミスだな。数時間後には霧が出ることは分かっているんだから、
それから炊いても遅くない。
それ以前に、隠密行動をするなら、糒を食べればよいわけだ。
勘助は海ノ口あたりが絶頂期で、その後は次第に劣化している。昨日はバカに見えた。
70日曜8時の名無しさん:2007/12/10(月) 12:24:19.94 ID:DqRcHiGH
>>69
霧が出るのは夜明け前。
それまで、飯炊くの待ってたら啄木鳥組が出陣できない。
71日曜8時の名無しさん:2007/12/10(月) 12:31:52.89 ID:QrV4yWnm
飯は雨が降ってたり、降った直後だったりすると炊けないんだよ
それぐらいわかれよ
72日曜8時の名無しさん:2007/12/10(月) 12:37:57.89 ID:q6FgQulS
炊煙は、別動隊が持ち歩く兵糧を含むから目立ったわけです。
73日曜8時の名無しさん:2007/12/10(月) 12:46:10.97 ID:vW90rDny
>>66
武田氏が滅亡せずに公文書が残せる程度まで残っていたら、また違ったんだろうけど。
明智光秀側の書状が残っていたら本能寺の変の真相も分かったろうに、というのと一緒。
74日曜8時の名無しさん:2007/12/10(月) 12:46:43.09 ID:EYKNfZ6x
>>68
そう毎日食べる、だから次の日戦うって解りきってるなら
次の日の分まで多めに作って弁当にする、だから炊煙が
普段より多くなるって事、炊煙が上がってるかどうかじゃなくて
その多寡の問題。
75日曜8時の名無しさん:2007/12/10(月) 13:13:54.02 ID:HRiU9VVM
( ・ωメ)「勝てると思ったから策出した
       まさかあんな結果になると思わなかった
       今は反省している」
76日曜8時の名無しさん:2007/12/10(月) 13:21:27.26 ID:H7Q4XjQt
甲陽軍鑑、北越軍談に依存している。

偽書とかよびようがない、他がないのだから。
77日曜8時の名無しさん:2007/12/10(月) 13:32:24.95 ID:LBoyDJ1X
時代が下ってるけど
冬の陣のときに大坂城西方、豊臣方の砦も
炊飯時の煙数が少ないのを蜂須賀家の老巧な武将に察知されて
敵方は少人数だから攻めちゃえと
進言うけて成功してるんだよな
78日曜8時の名無しさん:2007/12/10(月) 13:42:28.67 ID:inphugw2
>>69
三回くらい前に香坂との会話で
勝頼に敵大将の首を〜と妄想をしゃべっていた時に
耄碌したなあと泣けたよ>勘助

香坂も今回の作戦はヤバイと思ったんじゃないか?
あからさまに危ないと踏んでいたのは真田だったが
79日曜8時の名無しさん:2007/12/10(月) 13:47:10.56 ID:zMP5XPrp
脚本が勘助のサクセスストーリーではなく、戦国時代の人間の
生き様を描きたかったと言ってるからね。
主人公がスーパーマンでなく、弱さ醜さ愚かさも兼ね備えた魅力ある
人物だと思う。
勘助たちが捨石になって勝頼の時代に最大版図を広げ武田全盛期が来る。
滅亡したのは信玄の後継者を決める判断が甘く失敗したからと勝頼の力量。
最後の散り際に期待してる。
80日曜8時の名無しさん:2007/12/10(月) 13:50:48.29 ID:245z1Zlo
啄木鳥戦法だとか桶狭間の奇襲とか
ああいうのは全て後世の講談や軍学者の創作だからな
81日曜8時の名無しさん:2007/12/10(月) 13:56:34.77 ID:vvm368/p
ちゅーか夜に炊飯の煙の量とか山から見下ろして見えるもんかね?
光源は篝火と月の光くらいだろ。
82日曜8時の名無しさん:2007/12/10(月) 14:00:30.22 ID:inphugw2
>>81
昔の人は機械文明に頼らなかったから
視力がよかったんだよ
身体能力は今の人間の数倍はあったかもなあ
83日曜8時の名無しさん:2007/12/10(月) 17:29:44.73 ID:67372UFK
>>75
かわゆすwww
84日曜8時の名無しさん:2007/12/10(月) 18:29:54.39 ID:CE1FfD7D
>>81
見える。白っぽく見えるから目立つ。
打ち上げ花火の煙が見えるのと同じ。

85寿桂尼さまにスリスリ:2007/12/10(月) 18:47:16.93 ID:/jeklGiv
武田は翌日の軍事行動のために飯炊きをうんとした。
でも、上杉は炊かず、飢え過ぎになった?
そんなことはありそうにない。つまり、両軍とも翌日の軍事行動は予感して
いたんじゃないか?
86日曜8時の名無しさん:2007/12/10(月) 19:18:09.18 ID:VQGRyXiu
>>85
隠密作戦の為に干し飯食っていたかもな>上杉軍

干し飯とは炊いた米をがりがりに乾かしたもの
保存食に利用した
87日曜8時の名無しさん:2007/12/10(月) 19:27:06.72 ID:MBZuArG3
川中島古戦場では今でも深夜に行くと円陣を組んだ長槍の武者の霊
が出没したり、塾帰りの学生が落ち武者に追っかけられることがある。
88日曜8時の名無しさん:2007/12/10(月) 20:31:23.32 ID:rzRSJSoz
そんな急に煙をわんさか出してたら
これから行動しますとバラしてるようなもんだろ

武田は頭悪すぎwww
89日曜8時の名無しさん:2007/12/10(月) 20:43:34.74 ID:VlbBHBwn
第二次世界大戦でも米を炊く煙と湯気で米軍に見つかる→あぼーん。
が頻発したから米を食う軍隊の宿痾なんだよ…。
90日曜8時の名無しさん:2007/12/10(月) 20:46:57.12 ID:CE1FfD7D
やはり
城に入っていた武田
山に布陣していた上杉

ほんの少しの気の張り方が、明暗を分けたような気がするんだが。
91寿桂尼さまにスリスリ:2007/12/10(月) 21:19:03.16 ID:/jeklGiv
そもそも、から考えてみたんが、

海津城の築城:
北信濃の覇権確立と小田原城からの上杉軍ひきはなしのための陽動が目的。
ところが上杉軍が大挙して押し寄せ、妻女山とその付近に陣取った。
つまり、武田はやるき少ないが、上杉はやるき満々。

妻女山占拠:
妻女山占拠は武田にとって意外な出来事。砦に過ぎないところを大軍が占拠してしまった。
上杉は武田に糧道を絶たれるかもしれず、挟み撃ちにあうかもしれないところを占拠。

にらみ合い:
武田は敵から丸見えな城に陣取っているのが面白くない。どこか陣を移したほうがいいと考え始める。
上杉は、下手をすると糧道を絶たれ、妻女山付近に雪隠詰めを食らう恐れが出てくるし、雪が降り積もる
前に越後に帰らなければならないから、撤退時期を考える。

合戦前夜の両軍
武田は、過半の兵を上杉軍にあて、本陣で善光寺を急襲する作戦に出た。(きつつき作戦はない。理由は上掲)
上杉は斥候兵から情報を得て、善光寺死守のため、武田より先に移動。

合戦当日
武田本陣が犀川を前に布陣して、後方の善光寺を占領する前に、上杉本隊が追いつき、
武田と激突。武田別働隊は後方から戦場に追いついた。

が一番ありそうだと思う。でないと、なぜ、犀川と善光寺が合戦話から欠落している
のか理解できない。大した砦が合ったわけでもないのに、1万人の兵を山上に上げる
なんて無理。上杉の大部分は山麓に陣を張っていたはず。

それにしても野陣で雨に晒され、どうやってしのいだのだろう。その面からも早く善光寺
にもどろうという動機は働いたはず。「霜は軍営に満ち」というぐらい寒かっただろうから。

92日曜8時の名無しさん:2007/12/10(月) 21:53:01.45 ID:TxM7mWLq
テレビの紀行で見た限りでは妻女山には1万人も収容できそうにない。
93日曜8時の名無しさん:2007/12/10(月) 22:11:05.32 ID:ckdACjVH
 ちなみに南方戦線じゃ焚き火で飯炊くと煙を見た敵機が来るってんで
蝋燭で飯炊いたそうな。
  何時間かかるんだ?
94寿桂尼さまにスリスリ:2007/12/10(月) 23:36:51.13 ID:/jeklGiv
当時の兵隊はどうやって雨露をしのいだのだろう。
農家や寺に分宿するといっても、大軍で野陣となれば限度があるはず。
大将もテントみたいな幔幕のなかで、ほとんど吹きっ晒しですわな。
軍装は厚着だが、まだ木綿は普及していないはず。
かがり火や焚き火だって雨が降れば使えないし。
95日曜8時の名無しさん:2007/12/10(月) 23:43:39.60 ID:TVBvFHxn
どの風林火山関係のスレよりも話が濃い。
勘助に関しては生存も定かでない資料も少ないから
今までスレ立たなかったと思っていたが
レスは勘助からずれてるけど内容的に面白い。
96日曜8時の名無しさん:2007/12/10(月) 23:56:25.07 ID:245z1Zlo
妻女山に火を着ければ良かったのに
97日曜8時の名無しさん:2007/12/11(火) 00:03:53.11 ID:xfT7MNsL
前半は雪斎に良いようにあしらわれて、
後半は策をことごとく宇佐美に裏をかかれて…。
最初から最後まで勘助の凄さが伝わらなかったのだが。
これで良かったのか?
98日曜8時の名無しさん:2007/12/11(火) 00:35:48.11 ID:IsLh2W5X
しいていえば花倉の乱のみ……
99日曜8時の名無しさん:2007/12/11(火) 00:38:27.22 ID:6KoAhbFd
やっぱり破軍建返しがなかったのがいけないんだよぉぉ−−−−−−−−!!!!!!!!!!
100寿桂尼さまにスリスリ:2007/12/11(火) 01:51:46.45 ID:yowITllZ
>宇佐美に裏をかかれて

物語はこれで面白いのですけど、史実ではありそうもないと思うんです。
「私なら軍を二手にわけて・・・」
炊飯の煙を妻女山の砦から見たとしても、なぜ「きつつき」作戦を思いつくのか?
武田が軍事行動を起そうとしていることは炊飯から分かる。でも、それで「きつつき」は飛躍がある。

炊飯の煙なんか見なくても上杉には武田の動きが分かっていたのではないか。
北信濃は武田にとって新しい領地で、地元の豪族には上杉派がかなり残り、
武田軍に紛れ込んだり、策敵をして、武田の動きを察知していたのではないか。

武田が動き出したと聞いて、一番不安に思うのは、補給基地がある善光寺と、
その先の越後への道路でしょ。下手をすると延暦寺から冬に撤退した新田軍の
二の舞いになりかねない。

じゃあ、目の前に武田軍がいなければよし、いればぶっ叩いてやろうと全軍で
行動を起したのではないか。
101日曜8時の名無しさん:2007/12/11(火) 01:54:06.76 ID:SKwDMBdK
>>79
勝頼の時代が全盛期だと思えないな
版図は広がったけど家中はバラバラ
長篠に動員できた武田軍は川中島よりずっと少ない
上っ面だけ領土を広げても、兵を動員できなければ意味が無い
102日曜8時の名無しさん:2007/12/11(火) 02:03:28.71 ID:xfT7MNsL
そりゃあ長篠合戦の場合は織田軍と命運をかけて
直接対決するために進軍した訳じゃないからな。
動員数はあまり多くないよ。
元々長篠城を落として帰甲する予定だった作戦にすぎない。
まあそれを全面対決に持っていった織田の戦略勝ちだわな。
103日曜8時の名無しさん:2007/12/11(火) 02:35:18.39 ID:FtmzcBvC
でも変な戦いやねん
山に封鎖すればするほど
勝機あるのにな
きつつきするなら
善光寺軍との遮断だろー
104日曜8時の名無しさん:2007/12/11(火) 02:39:32.96 ID:wkVxOhtA
スレタイ吹いたw
105日曜8時の名無しさん:2007/12/11(火) 02:57:43.94 ID:bkRKpHTx
106日曜8時の名無しさん:2007/12/11(火) 03:02:08.73 ID:crKUyC3t
死ねよ老害
107寿桂尼さまにスリスリ:2007/12/11(火) 03:29:36.81 ID:yowITllZ
全盛期はやはり、三河に進撃して、徳川家康を三方が原の戦いで破ったあたり
じゃないですか。本願寺を根城にする一向宗と組んで織田包囲網を作り、もう
ちょっとで美濃に進撃するかって時。
108日曜8時の名無しさん:2007/12/11(火) 11:50:50.90 ID:EiSmXq18
再来年の大河って「三方が原戦」ちょっとだけでもやるんか?
109日曜8時の名無しさん:2007/12/11(火) 12:41:49.69 ID:0mFatRRs
>>108
相越同盟、甲相同盟に触れるならば、時系列的に入ってくる可能性はある。
110日曜8時の名無しさん:2007/12/11(火) 15:22:36.09 ID:bWhjdgtq
史実的に確定してるのは『少なくても上杉優勢』なのに『武田影響下のまんま』なんだよな。
霧で撤退〜遭遇戦にしては武田の人的被害が大きすぎる。
信玄がアフォで油断しまくりってのが一番状況の合理性だけはあるけど
経歴がそれを否定してるしな。
うーん、わからん
111日曜8時の名無しさん:2007/12/11(火) 20:14:46.17 ID:uR6Zpeyu
新説で善光寺が関係ってのはありそうだね。
112寿桂尼さまにスリスリ:2007/12/11(火) 20:37:26.61 ID:noMm1WRt
新田軍か鎌倉を攻めるとき、分倍河原で対岸に渡れず、結局は相模の兵が対岸で
夜襲をかけないと渡河できなかったのは、川に足を取られている間に、相手から
猛烈な矢を射かけられたからですよ。

原野で待ち伏せても落ち武者狩りはできません。犀川を前にすれば、犀川が天然
の堀となって、後方の武田別働隊と挟み撃ちにして、敵将たちをことごとく袋の
ネズミにできる。そのようにしたと断言はできないが、可能性の一つとして、当然
考えたはずですよね。諏訪から善光寺に至る街道と犀川の交点を押さえるのは、
戦略的に重要なはず。

武田が移動中に上杉軍が攻めてきたということなら、武田に本陣を踏み破られる
ぐらい甚大な被害ができたという蓋然性も高くなります。
113寿桂尼さまにスリスリ:2007/12/11(火) 20:41:48.26 ID:noMm1WRt
曹操が官渡の戦いで優勢な相手に勝利を収めたのも、たしか相手の
補給基地を押さえたからだと記憶しますが。
114日曜8時の名無しさん:2007/12/11(火) 21:14:38.17 ID:CujQ736L
三戦板に帰ったら?
115寿桂尼さまにスリスリ:2007/12/11(火) 21:32:38.26 ID:noMm1WRt
懲りなくてすいません。私、こういう戦さの再評価って好きでね。

もうひとつ、逆説を述べてコメントを終わらせます。

可能性の一つとして、上杉の動きを武田が先にキャッチした可能性
を指摘します。とにかく、戦いの実相はわからないのだから。

武田が自軍を二手に分けたこと自体は不合理とは思わないのです。
片方で退き陣をしている相手のしんがりを攻撃すれば、本陣は手薄に
なる。その手薄になっているところを武田が本陣を中心に攻撃する
という作戦を立てたなら、それは合理的だし、犀川の手前で本陣どうし
が激戦になった理由も肯定できます。

但し、上杉政虎としては、街道から越後に逃れることはできても、それ
はできない、自分のメンツにかけて武田信玄を倒さなければならない理由
があったと思うのです。前年の小田原城攻めに失敗し、関東管領の威信に
傷がついているから、殿軍のことなど気にしている余裕はない。しんがり
を気にせず、全部のウェイトを武田本陣に持っていったかもしれない。

その場合でも、善光寺に抜ける街道を押さえるのは武田にとって大きな
関心事だったはず。原野で待ち伏せしたって、相手はまだ指揮系統を維持
している部隊だから、捕捉できなければ上杉本陣は街道から善光寺に抜け
てしまう。その可能性を考えないのは間抜けすぎる。

いずれにせよ、きつつき作戦は話を面白くするための寓話だと思います。


116寿桂尼さまにスリスリ:2007/12/11(火) 21:36:16.12 ID:noMm1WRt
小田原城攻めは前年ではなかったですね。2ヶ月前に撤収しているのでした。
すいません。
117日曜8時の名無しさん:2007/12/11(火) 23:36:03.17 ID:T5X4JDTm
武田軍はどうして炊飯の煙を立てたのでしょうか?・・・
118日曜8時の名無しさん:2007/12/12(水) 01:15:07.10 ID:soWP+//O
まず、歴史上の戦闘で皆が皆寸分のスキも無く
知略の限りを尽くして戦ったとか思わん方がいいのかもしれんね
近代でも日本軍が炊事の煙で米軍にモロバレとかやらかしてるみたいだし、
戦争に大チョンボは付き物くらいのおおらかな気持ちでひとつ
119日曜8時の名無しさん:2007/12/12(水) 03:12:10.37 ID:qx32JL4r
>>117
あの煙を見た宇佐美が「これは武田の罠だ、武田は
まだ動かぬ」と深読みすることを期待した勘助の策。
120日曜8時の名無しさん:2007/12/12(水) 04:22:21.36 ID:qx32JL4r
>>118
ほとんどが行き当たりバッタリの出たとこ勝負

酒だ〜 気合だ〜 根性だ〜 逃げるやつは斬るぞ〜 ってノリでしょ
121日曜8時の名無しさん:2007/12/12(水) 06:00:44.93 ID:SAmoBS5c
>>119
勘助ヲタとはありがたいことよ。
あくまでもこれはドラマである。
122日曜8時の名無しさん:2007/12/12(水) 08:20:36.07 ID:Zf25sKxD
>>117
今回の対峙では決戦に持ち込むことが悲願だったから、その意味では成功。
戦果は微妙なとこだけど。
123寿桂尼さまにスリスリ:2007/12/12(水) 10:41:32.75 ID:UdVsbpdS
もう一回だけ。

腹ペコの上杉軍に、「おれたちはこんなに食ってるぞ」という示威行動だったとか?
似た例として、金ヶ崎城に雪隠詰めにされ、兵糧攻めにされた新田軍に対し、足利軍
がやった嫌がらせ。
124日曜8時の名無しさん:2007/12/12(水) 10:49:57.79 ID:JN/GssJD
>>123
考えられなくもないが、善光寺の後詰めを残している上杉に対して
武田がそこまで精神的なゆとりがあるとは思えないがな。
それから、アウェイといえホームの春日山からは越後勢の方が断然近い。
約1日で移動してるんだよ。
125日曜8時の名無しさん:2007/12/12(水) 11:11:44.99 ID:VYtLyJYf
葉月が妻女山に斥候していれば勝てた
126日曜8時の名無しさん:2007/12/12(水) 12:34:58.42 ID:TSqBwKCK
カンスケはオババを始末するべきだったな。
127日曜8時の名無しさん:2007/12/12(水) 13:04:26.87 ID:twtN5MS/
>>126
平家物語だかにそんなのあったな
浅瀬を教えた奴を源氏方が切っちゃうやつ
でも始末しても霧に隠れて逃げれたかもな
128日曜8時の名無しさん:2007/12/12(水) 13:05:52.79 ID:y4iO2fo2
表の史実には出てないけど大熊っていう上杉から決戦前に寝返った武将いたけど
あれが実は上杉への内通者だったんじゃないの。
決戦以降確か上杉へ何のお咎めもなく帰参したような記憶あるし。
これが公になると謀略を嫌う謙信の面子丸つぶれだし謙信と大熊で
全て計ったんだと勝手に推測。
129日曜8時の名無しさん:2007/12/12(水) 13:10:38.71 ID:twtN5MS/
>>128
大熊は最後まで武田に尽くして死んだと記憶しているが…
130日曜8時の名無しさん:2007/12/12(水) 13:15:28.60 ID:y4iO2fo2
>>129
wikiで確認したが確かに大熊は上杉にその後帰参してない。
むしろ長篠以降織田、徳川に寝返る輩多い中最後まで勝頼に付き従ったとある。
131日曜8時の名無しさん:2007/12/12(水) 14:23:06.69 ID:JN/GssJD
>>130
大熊は勝頼に最後まで忠義を尽くし、天目山で自害している。
>>128はぶっ飛んでるが仮説としては面白いね。
132日曜8時の名無しさん:2007/12/12(水) 14:34:46.54 ID:f/xeq/e1
>>128
……そういえば本間江州ってやつがいたな
大熊の心は上杉にあったが、武田からも恩を受けたので敢えて天目山で死んだとかなら泣く
133日曜8時の名無しさん:2007/12/12(水) 16:32:37.18 ID:ylq4k44P
>>131
ttp://www2.harimaya.com/sengoku/html/okuma_k.html

天目山じゃないが、武田家に殉じた事は確かだね。
子孫は、代々松代藩の家老を勤めたのが凄い。
134日曜8時の名無しさん:2007/12/12(水) 23:24:42.30 ID:wpJ56JIA
やる気満々だったのは武田の方、管領就任の示威行動の上杉としては
二百日対陣の時のように相手から妥協を引き出して武田にすんません
もうお帰り下さいとでも言わせ、面子が立ってあわよくば領土も少し
妥協してもらえりゃそれで御の字だった。
ところが信玄はやる気満々、管領なんぞに就任した輝虎にライバル心
剥き出し、上杉の方も相手が本気だと解ったもののこのままスゴスゴ
帰ったらそれこそ面子丸潰れ、かくて両軍意地の張り合いでにらみ合い。
(信玄はあまりに気に食わなかったらしく生涯上杉とは呼ばず長尾言うてた)
しかし降雪したら洒落にならんので上杉も霧が出るのを良い事に撤退開始
この時信玄の方はよせばいいのに管領に負け戦させてやりたくて追撃開始
帰る方向が解りきってる上杉軍は一丸となって行軍したものの、敵軍補足が
目当ての武田は文字通り五里霧中の行動、別働隊でも何でもなく霧中の索敵
失敗でバラバラになっただけ。

で霧が明けて見たら八幡原で鉢合わせ、この時も寡兵で無理に突っかからず
道明けてやれば良い物を武田ムキになって通せんぼ、上杉もこうなれば
もう武田が集結する前に戦うしかないので全員死兵になって攻撃開始

以前戦国板にあった川中島スレでの見解にこんな説があったな。
両軍の記録をつき合わせるとこんなのが浮かんでくるんだとか。
135日曜8時の名無しさん:2007/12/12(水) 23:40:49.20 ID:CJKJNblf
>>134
信玄は甲越和与を取り付ける為
元亀二年九月一色藤長に宛てた書状に「上杉輝虎」と書き送ってる
足利義昭に対し、どうか謙信と和睦できるよう力添えをしてくれと頼んでる
謙信も義昭の頼みだから渋々承諾した
136日曜8時の名無しさん:2007/12/12(水) 23:55:51.77 ID:wpJ56JIA
>>135
そりゃ時と場合があるでしょうよ…
和睦したい相手に礼を失したら纏まる物も纏まらん
137日曜8時の名無しさん:2007/12/13(木) 00:22:36.37 ID:KjucRDyx
>>136
>>134
(信玄は〜生涯上杉とは呼ばず長尾言うてた)
これを否定した訳だが

あと
「二百日対陣の時のように相手から妥協を引き出し」たい上杉が

「降雪したら洒落にならんので上杉も霧が出るのを良い事に撤退開始」
???
一月足らずで撤退じゃ前段の狙いと矛盾してるじゃん
138日曜8時の名無しさん:2007/12/13(木) 00:37:13.22 ID:UkiQJv5o
>>137
普段口にするのと外交文書で書くのとでは
まるでちゃうし。

>一月足らずで撤退じゃ前段の狙いと矛盾してるじゃん
最後に書いてるが別のスレで語られて他人の説を
こんな説もあったよと引っ張ってきただけだ。

あえて俺の見解付け加えるなら矛盾してようが
そのまま睨みあってても埒があかんし別段おかしくは
無いだろ、元々やる気無いと仮定すりゃ
上杉が退いても潰れるのは面子だけだが武田が退いたら
川中島の失陥で絶対退かないのは目に見えてる訳で
決戦する気がないなら留まってもまるっきり益の無いのは
上杉の方だろ。

何が気に入らんのかしらんがこんな仮定もあるよと紹介しただけで
これが真実だとか言うつもりねーよ。
139日曜8時の名無しさん:2007/12/13(木) 00:51:55.45 ID:KjucRDyx
>>138
気に入るも何も・・・書いてる事が無茶苦茶
「二百日対陣を狙って相手から有利な条件を引き出す」
という戦略なら
それを行う時期、季節、準備が揃って始めて行う物だろう
しかし現実は二百日どころか一月前後の対陣で終了

つまり何を根拠に上杉側がそんな戦略を立てていたと主張してるのか
サッパリ伝わってこない

『普段口にするのと外交文書で書くのとではまるでちゃうし。 』
こんなの屁理屈もいいとこだろ
普段信玄が誰に何を口にしてた事なんて誰が分かる?
バカらしい
それより後世残る形で謙信が山内上杉を継いだ事を認めてる方が
よっぽど重みが有る
140日曜8時の名無しさん:2007/12/13(木) 01:10:21.77 ID:UkiQJv5o
>>139
示威行動と最初にいってるだろうが、新管領として
威勢を示せればそれで充分、いつもやる気ねー信玄相手なら
その辺汲んでさして激戦にならずに済むだろうし
いきなり退いたんじゃかっこ悪いから少しは対陣って所だろ
その間に交渉して領土でも得られりゃタナボタでラッキーと
思ったがどうにもそうなりそうにもない、それどころか
下山したらガチで激戦になりそうだ、んじゃ霧に紛れて帰るか
って所だろ。

つか受け売りで紹介した説にそこまで噛み付かれても困るっつの。
141日曜8時の名無しさん:2007/12/13(木) 01:47:25.79 ID:KjucRDyx
>>140
「その間に交渉して」
と言うなら、交渉を持ちかけた文書でも残ってるのか?

「どうにもそうなりそうにもない」
訳が分からない
前回は二百日対陣してようやく交渉が始まった
それなら百日〜百五十日でも留まって様子見するのが普通

交渉を引き出そうと対陣した上杉が
一体何をもって「このまま対陣しても交渉は不可能」と判断したのか
それをまず書かないと意味不明
142日曜8時の名無しさん:2007/12/13(木) 02:26:16.79 ID:UkiQJv5o
停戦交渉してくりゃラッキーと思ってたって事だろ
上杉から交渉する必要はないっつか相手が交渉持ちかけてきて
こちらが承諾する形で堂々と引き上げられりゃ大成功だが
それは最も成功した場合の話。

示威行動だってのが解ってるだろうし信玄も適当にこっちを
あしらっていつもの展開になるだろう、ぶっちゃけ北信濃に
出陣した段階で最低限の目的は達成してる、後はなるたけ
威信を損ねない形で引くかだけ。

要は上杉軍に対して相手が下手にでてくりゃ何でも良かった

という「仮定」だろっつの、いい加減しつけーよ
143日曜8時の名無しさん:2007/12/13(木) 07:09:16.77 ID:KjucRDyx
>>142
上杉側の当初の思惑が
「一月対陣すれば武田から停戦交渉をしてくるだろう〜」という物だった
という仮定も異常だし

>>134を読み直してますます変だと思ったんだが
上杉軍が八幡原を横切ってるし
若槻山城布陣説なのかと思ってたら、川中島南部まで上杉が来てるのかよ

そしたら「停戦交渉してくりゃラッキー」どころか
「停戦交渉してこなかったら、決戦も考えられる」敵地に入り込んでるじゃんか

あと自分が支持したい(?)仮定を貼ったんだろうし
その文に変な箇所が有れば、そこを指摘されるのは当然起こり得る事だろう
噛み付く、噛み付かない、なんて言うなら初めから貼らなきゃいい
144日曜8時の名無しさん:2007/12/13(木) 08:41:52.80 ID:UkiQJv5o
>>143
まじでしつけーな…
>「一月対陣すれば武田から停戦交渉をしてくるだろう〜」という物だった
勝手に拡大解釈してんなよ、してくるだろうじゃなくて
してくりゃラッキーくらいだったんだろって何回言えば
いいんだ。

俺の解釈を箇条書きにしてやる
1・上杉の狙いは示威行動、だからできるなら戦いは最小限にしたい
 本音を言えば睨みあい位が望ましい。
2・武田は出てくるだろうが向こうも大決戦なんぞしたくないだろうし
 敵領深く侵攻した(が今回もうやむやだった)と言う事実が欲しい。
 向こうがもっと消極的なら交渉してくるかもしれない、そこまでは
 考え難いがそうなれば更によし(上杉側にとっての最良の展開)
3・ところがいつもと違って武田はやる気満々、決戦も辞さない姿勢を
 見せて困った上杉軍、武田は退路は断つわ横っ腹みせて海津に入って
 下からうなるわやりたい放題、出てきてすぐに退いてもかっこ悪いし
 どうしたもんかと立ち往生。
4・元々武田が上杉さんにゃかなわねーから、今回も手堅い布陣で
 長対陣にしますよ、とでもすりゃとっとと引き返して武田は恐れ
 をなした!とでも気炎を吐けば充分だった謙信
5・やべーちょっと洒落になってねーぞ、今回は武田を舐めすぎた
 冗談じゃねーやと霧を利用して帰ろうとしたら戦意満々の信玄が
 追撃かけてきた。

そう考えると両軍の訳わからん機動に説明がつく、なるほどな、と
俺はこう解釈してる所に、交渉なんて有り得ない、訳が解らないと
言われたから俺の解釈を言ったまでだ。
要するに上杉は武田の戦意を読み誤った、停戦交渉してこなかったら
決戦もなにも、武田が決戦してくる事は絶対ないだろう、今回はいっちょ
派手にいったるか、という謙信の過信と読み違い。
あくまで仮説で変な箇所はあるだろうが、突っ込まれた所が交渉の実現性
とか言ってくりゃ、解釈の前提ににズレがあるって説明せざるを得んだろ
解った?

支持してるかといわれりゃ、成る程それならあの会敵地点も頷けるって
思ったんで支持してるんだろうが、そうだったに違いないとかまでは
言うつもりねーって何度言わせるんだ。
145日曜8時の名無しさん:2007/12/13(木) 09:40:26.88 ID:KjucRDyx
>>144
だから
敵陣深く入り込んで、八幡原渡って、停戦交渉も無い、
さらに武田は手堅い布陣で長対陣に持ち込んだ〜
こんな状況で一体どうやって
「(謙信が越後へ)とっとと引き返」す事が出来るんだっつーの

>交渉してくるかもしれない、そこまでは考え難いがそうなれば更によし
つまり謙信は(敵領深く侵攻した事実が欲しくて)八幡原を渡った頃、
「停戦交渉の可能性は低い」と見てたんだな?
なら帰路をどう確保するつもりで八幡原を横切ったのよ?
まさか「霧に紛れれば易々と越後まで帰れる」と最初から謙信は思ってたんだよ〜
なんて言い始めないよな

>交渉なんて有り得ない、訳が解らないと言われたから
「一月の対陣で停戦交渉なんて有り得ない」と指摘してる
それを上杉側が当初から目論んでいた〜という仮説を否定してるだけだよ

>そうだったに違いないとかまでは言うつもりねーって何度言わせるんだ。
別に・・・誰が、どれだけこの説に入れ込んでるか、なんてどうでもいい話だけど
146日曜8時の名無しさん:2007/12/13(木) 10:09:48.08 ID:UkiQJv5o
>>145
謙信が武田はあくまで決戦をさけると避けるだろうと
頭から思い込んでるって仮定であって、退路をどう確保する
もなにも整然と退けば武田は手は出して来ないだろうって
思い込んでるのが前提だ、冷静に理屈で言えば確かにそんな
都合良くはいかねーよ、一方的な謙信の過信と言ってる。
だがやってみたら武田はガチで決戦するつもりだった
謙信にすりゃ完全に予想外、本音は決戦なんてしたくねーけど
こうなったら霧にまぎれて脱出すっか…やべ追ってきた。
こーゆー仮定だ。

まとめるとだな、戦略面で謙信が調子こき過ぎたそれに尽きる
だが信玄も完勝狙った戦術で分進合撃のタイミングが霧で
狂って大損害って仮定なわけだ。
両軍の戦術機動のおかしな所に当てはめた推測だろうよ。
謙信はそこまで馬鹿じゃないと言われればそうかもなとしか言えん。

もう俺の方から言いたい事は無いが、最後にあんたの思う川中島の
経緯を聞いてみたいもんだな。
147日曜8時の名無しさん:2007/12/13(木) 10:10:45.99 ID:UkiQJv5o
やべ、あげちまった、他意は無い
148日曜8時の名無しさん:2007/12/13(木) 10:44:12.11 ID:UrJNQ/OI
謙信も信玄も、どう思ってたかなんて誰にも分からないだろう。
第4次川中島の発端に理由があるんじゃないの?
迷ったら原点に帰る。

第5次は退陣だけで終わり、それ以降は終結している。
第4次には、それなりの意味があった戦であったことは確か。
149日曜8時の名無しさん:2007/12/13(木) 11:07:12.46 ID:HakhEbYM
横レスだけど、

>どう思ってたかなんて誰にも分からないだろう。
そりゃそうだ。
で、発端というか、経緯、政治状況、当日の伝えられている資料というか伝聞、etc-----
と同様にどう思ってたというのもこういうスレじゃ意味あると思うよ

>>148
150日曜8時の名無しさん:2007/12/13(木) 11:11:17.81 ID:2/OB3AFQ
第四次川中島決戦の謙信の行動が示威行動だったとすれば、なぜ海津城を背に
越後への退路を立たれるような妻女山に陣を敷いたのか?
越後との連絡を絶たれるような位置に陣を敷くということは、退路を立たれるだけでなく
兵糧の補給もできなくなり、雪隠攻めされる危険もあり、このような危険な行動が
ただの示威行動とはとても思えない。
151日曜8時の名無しさん:2007/12/13(木) 11:21:49.79 ID:EmL0CAiU
>>150
その通りです。
示威行動じゃなくて挑発行動に近いような気がする。
何のためにやったのかは、このスレで意見を出し合う要素だと思うが。
春日山に政景の15000〜20000人を確保しながらなんだよね。
一方、武田は駿河に近いところの兵まで動員してカツカツ状態で臨んでいる。
なんとなく両方とも決戦覚悟のような・・・うーん。
152日曜8時の名無しさん:2007/12/13(木) 12:23:51.30 ID:EJ3WFGtE
何でこんなに中二病が蔓延してるんだ、このスレ?
俺様理論のオンパレード
別にいいけどもっと高度な内容にしてよ
できないのならageるな
底辺でオナってろ
153日曜8時の名無しさん:2007/12/13(木) 12:44:47.42 ID:KEpPD089
ここまでマニアックに語れる奴らはある意味尊敬する。
154日曜8時の名無しさん:2007/12/13(木) 12:50:14.75 ID:hq3ApfjP
なにこの良スレ
155日曜8時の名無しさん:2007/12/13(木) 12:57:31.21 ID:HakhEbYM
いい感じだとおもうけどね

どんどんやってよ

156日曜8時の名無しさん:2007/12/13(木) 13:55:02.61 ID:+vzWJazM
>>151
何のため…
やはり上杉としては対信濃防御壁を完璧な形で固定したかったんだろう。
武田が北上を諦めるって意味でね。
領土欲の希薄な上杉にとって、稼ぎがしらである日本海交易を守るのが最重要。
関東管領の仕事もしなくちゃならん。
それと今川義元亡きあと、いずれ駿河が草刈り場になり
信玄のスケベ心がそっちに向くって読みもあったと思われ。
157寿桂尼さまにスリスリ:2007/12/13(木) 20:59:48.04 ID:QcPesWSj
前言を翻してコメントすると

>それから、アウェイといえホームの春日山からは越後勢の方が断然近い。
>約1日で移動してるんだよ。

う〜ん。腹ペコ上杉への「俺らはたらふく食ってるぞ」説は取りやめましょう。
上杉は、大兵に囲まれた城みたいに、それほど雪隠詰めにはなってないでしょうからね。

でも、そうすると、このまま和睦したところで、春が来れば、海津城から春日山まで1日
で移動できるところまで信玄が上杉に肉薄したってことですよね?上杉に危機感は大きい
ですね。海津城はできたばかりで、まだ北信濃全部を掌握していないでしょうが、時が
立てば武田の傘下に入るでしょう。

長野市が県庁所在地として発達した理由は、やはり街道の要衝ということでしょうか。
そうすると、信玄は海津城の築城で更に別のところの蚕食も図るかもしれませんね。

謙信がそう考えたら、合戦は避けられなかった理由は、より上杉の側にあったと考える
のが筋ではないでしょうか。
158寿桂尼さまにスリスリ:2007/12/13(木) 21:14:35.88 ID:QcPesWSj
今、地図を見ましたが、善光寺から越前に抜ける道は険しそうです。

そうすると、海津城が目の前に現れた上杉にしてみれば、
1.北信濃を信玄に平定される恐れ
2.春日山を直接突かれる恐れ

があったということですね。やはり上杉の危機感は大きいですよ。
159寿桂尼さまにスリスリ:2007/12/13(木) 21:18:53.43 ID:QcPesWSj
上の方で、上杉は示威行動で済ませようとしたというコメントがあり
ますが、158に挙げた理由で、それはないと断言させていただきます。

座視すれば、地侍らは上杉に戦意なしとみて武田になびくでしょうから、
上杉は青田狩りをしてでも刈り入れ後の兵を動員して武田と戦う必要が
あったと思うべきですね。
160日曜8時の名無しさん:2007/12/13(木) 21:23:27.70 ID:AgLj6/9P
仮に駿河で今川義元が健在だったら川中島後の武田はどういう
侵攻路をたどったんだろう?
あくまで上杉にこだわるか三河・美濃北部かあるいは上州を攻めるか?
161寿桂尼さまにスリスリ:2007/12/13(木) 21:38:31.12 ID:QcPesWSj
それと、郷土防衛戦争になった場合、どちらに戦意が高いかという
ことも重要ですね。上杉にしてみれば、武田との間に長期の和睦な
ど有り得ないから、郷土防衛戦争に近い要素が多分にあったはず。
それに対して、信玄の側は戦国特有の国切り取りの一環でしかない
はず。その場合、戦力を温存したい地侍らは、適当なところで合戦
をやめるから、自軍の本陣を直接危険に晒す場合もあるかと思い
ますよ。

>160
その場合、信長が死んでいますよね。すると美濃北部ということに
なるのではないですか。中仙道を押さえている信玄にとってみれば、
斉藤道三亡き後の北美濃は、さしたる敵将はいないから草刈場だった
はず。信長が北美濃平定に苦労したのは動員兵力がまだ足りなかった
からで、信玄ほど動員兵力があれば、信長がした苦労は必要なかった
と思います。
162日曜8時の名無しさん:2007/12/13(木) 21:41:43.87 ID:nVHZu6bp
>>160
川中島前後を見てると上野を攻めてるから、当面は上野だろう。
信濃と上野の二方面から越後を狙う戦略だったかも知れない。
あと飛騨も狙った可能性がある。
163日曜8時の名無しさん:2007/12/13(木) 22:28:55.34 ID:fZtYjKaJ
数で勝ってるんだから全軍突撃すりゃよかったのに
二手に分けるから隙が生じる
上から見下ろす状態なんだから大群でせめかかればびびって逃げただろうに
アホや
164寿桂尼さまにスリスリ:2007/12/13(木) 22:40:17.59 ID:QcPesWSj
>162
短期的に上野はあるかもしれませんね。
でも、信玄の生涯の目的は、あくまで京に武田菱の旗を立てることでしたから、
上野は一地方戦の意義しかないですね。北条とはまだ同盟関係にあるから、あまり
やりすぎると北条との関係も悪くなりかねない。厩橋奪取の目的はあくまで上杉
打倒のためだったはず。
川中島を戦って、戦力の20%程度も失ったのに勝敗がつかなかったことは両軍とも
痛手ですね。その後の天下取りの大戦さに参加する機会が失われたというか、相当
遅れたわけですからね。やはり、桶狭間と川中島で得をしたのは織田と徳川という
ことでしょうね。北条の目は関東にしかなく、天下取りの野心はなさそうですから。
165寿桂尼さまにスリスリ:2007/12/13(木) 23:02:14.70 ID:QcPesWSj
三方が原の合戦の前後に、信玄が足利義昭の手紙作戦にのって、本願寺
衆徒と武田・今川連合軍で織田信長を挟み撃ちにしようとした行動から
見れば、信玄は海にも抜けたいし、京都にも旗を進めたいという強烈な
意識を持っていたと考える必要がありますよね。
166日曜8時の名無しさん:2007/12/13(木) 23:48:45.04 ID:K87nsJes
実際の信玄て上洛するつもりだったの?
167日曜8時の名無しさん:2007/12/14(金) 00:04:33.82 ID:jRt5WwCn
>>166
その話はねー

むかしむかしなにげなしに諏訪か伊那の人に
いわゆる上洛戦といわれるものは領地拡張や保全だったという説がありますね
武田の兵農未分離やら兵站から言っても
と言ってしまったのよ


そしたら温厚な人がむきになって
そんな兵糧や経済がどうのこうのよりも軍隊の強さでしょ!etc
と喰ってかかられた

それ以来あまりその話はしない
そのときは信州だから漠然とむしろアンチかも、という気もあったんだけどね
168日曜8時の名無しさん:2007/12/14(金) 00:07:10.36 ID:JNj+nN6h
晩年信長と対峙する頃には対抗上上洛して将軍抱え込むなりしたかったかもしれないが
越後とやりあってる頃は領土広げたいだけで上洛とか天下とか考えてなかったと思う。
169日曜8時の名無しさん:2007/12/14(金) 02:09:33.21 ID:ViWa07AZ
>>167>>168
俺もそう思うなぁ、信玄は領土増えりゃどうでもよくて
最晩年にちょろっと思った程度で上洛にそんなに拘ってた
様には思えない。
170日曜8時の名無しさん:2007/12/14(金) 02:11:25.99 ID:0A81axKR
歴史にifはないが、俺が信玄なら、今川との盟約を破らず、信濃から三河を攻める。遠江今川との挟み撃ちで。
そして、三河を今川と分割し、尾張の織田を今川・斎藤との連合軍で粉砕。
返す刀で美濃を切り取り、浅井・朝倉と同盟し、六角を滅ぼし上洛。
足利義輝を奉じ、管領となり畿内平定。
正三位大納言叙任を奏請。
そして、実質的に天下を掌握する。
中国の毛利と同盟し、若狭武田を乗っ取り、上洛命令に応じない大名を朝敵として追討。
171日曜8時の名無しさん:2007/12/14(金) 02:16:55.67 ID:0A81axKR
海津城に香坂を城将としてそれなりの兵を置けば上杉も南下できないので、上洛する気になっただろう。
本当、山本勘助のせいで最悪の川中島になったわけだ。
172寿桂尼さまにスリスリ:2007/12/14(金) 04:56:38.85 ID:iQb07aq7
まあ、これは今川義元が健在だったらというIF話ですからね。
川中島からは少し下った時点で考えてくださいよ。
信玄も越後か今川を併呑しないと天下への可能性なんてないわけで。
ただ中仙道を下って北美濃を取れば、岐阜(関が原を越えれば京までさえぎるものはない)を掌握
できたろうから、魅力だったはず。
信長も美濃を取るまで天下なんて考えていたかどうか。岐阜城を取ってから
でしょ、天下布武の印を使うのは。
173日曜8時の名無しさん:2007/12/14(金) 06:35:16.46 ID:ViWa07AZ
>>159
武田に海津があれば上杉にも飯山城があるし、海津があるからって
北信濃全域が時間が経てば武田のものってのはこの時点では早計と思います。
飯山が上杉にあればこその一日移動な訳で、逆に武田が春日山に一日で
迫れる訳では無いでしょう、危機感が無いか有るかで言えば有るかも
しれないけどそれで即決戦思考になる程の危機感なら第四回以降だって
激戦になると思いますが。

地侍が離れるといってもそもそも謙信の北信濃出陣の名目では既に追われて
頼ってきた者の失地奪回な訳で、彼等が今更どっちにつくも何も無いと
思いますが。
そしてそうした事情がある以上彼等の不満を抑える為に何もしない訳にも
いかないし示威行動としての出兵の可能性はあると思いますよ。
174日曜8時の名無しさん:2007/12/14(金) 07:40:38.25 ID:ATtZINmz
>>172
>>(関が原を越えれば京までさえぎるものはない)

信長の場合は木曽三川(木曽川・長良川・揖斐川)の水運による補給路確保や
浅井との同盟、同盟破綻後も美濃や近江の連中(武田で言えば真田や相木の
ような人達)を上手く使っていたからそういう状況だったわけで…。
中仙道も江戸幕府になってから整備されたルートだから当時は大兵力の移動
にはあまり使えないルートだったんじゃないかな?
(武田も木曽から美濃方面ではなく伊那から東三河方面に進出、関が原の秀忠
遅参も真田の抵抗というより街道未整備等による大兵力の移動・補給等が困難
だったってのが原因のようだし)

そういうこと考えると美濃から近江を経て京へって志向があっても上杉の関東
進出の二の舞になりそうな気がする。
175寿桂尼さまにスリスリ:2007/12/14(金) 09:19:43.17 ID:iQb07aq7
>174
中仙道の件、う〜ん。そうかもしれないですね。
甲斐と府中(武蔵国府)の間は南北朝時代までに整備されていたけれども
甲斐と北美濃の間は、わからないですね。甲斐からは一回、塩尻峠に出て
伊那、飯田、中津川、恵那、美濃加茂(黒川)に出てくる線はあるけれども、
確かに、戦国時代までに大軍が移動したという話は聞きません。平安時代に
全国の国分寺を結ぶための道路整備はあったようですが、それでも、大軍が
移動したという実績がないから、かなりしんどかったのでしょうね。

そうすると、武田としては越後か駿河・遠江に出ざるをえないのですね。
176寿桂尼さまにスリスリ:2007/12/14(金) 09:26:36.26 ID:iQb07aq7
>173
まあ、でも国境まで来てるし、その後が示威行動だったのは戦えば両軍
アウトだったからかもしれないし(戦力ダウンしてますからね)、川中
島で和睦はないでしょ。北信濃の反武田派は越後に遁走しているわけで。

177寿桂尼さまにスリスリ:2007/12/14(金) 09:36:14.79 ID:iQb07aq7
>示威行動としての出兵の可能性

ないとは言わないが、両軍ともありったけの兵を連れてきて、大将どうしが
にらみ合っていれば、ふとしたきっかけで野戦になるのはしょうがないんじ
ゃない?上杉軍が妻女山に登った時点で、どこかで衝突せざるをえないので
は?武田からしてみれば、妻女山(戦闘部隊)と善光寺(補給部隊)の間を
遮断しているのだから、相手が動きだしたら、そのまま易々と帰してやるか
な?前にも書いたけれど、犀川を前にして武田が布陣したら、上杉は逃げ場
がないですよ。どっちの行動が早かったか分からないけど、どっちが先でも
衝突せざるをえないのでは?
178日曜8時の名無しさん:2007/12/14(金) 10:59:11.29 ID:QdA/H99K
ここの連中は信長の野望でもやっとけ。
179日曜8時の名無しさん:2007/12/14(金) 11:26:09.19 ID:3aWe74WP
>>173
飯山城は信越国境にあり、越後にとっては玄関のような存在だろ
割ヶ嶽を破却された直後だから謙信にとっては飯山しか残されてない
春日山と目と鼻の先にある飯山城の争奪は危険極まりない
第一回〜第三回までの流れと内容を知っていれば
とても示威行動なんて余裕は謙信に無い事くらい分かるよね

謙信にとって致命的なのは後詰が出来ない時期が有るという事
これを鑑みれば野戦に持ち込んで起死回生を狙う戦略は当然だし
それしか残されてない
180日曜8時の名無しさん:2007/12/14(金) 11:39:24.67 ID:bKSKefiP
馬鹿じゃねえ??
ここの住人どもは??
ゲームヲタのたまり場か?
ドラマをゲーム感覚で語るんじゃねえよ!!
この残飯ゲームヲタが!
キンモ〜!!!
181日曜8時の名無しさん:2007/12/14(金) 12:44:36.60 ID:7t/ZondM
>>173 >>179
飯山城(高梨氏)は玄関なんてもんじゃないよ。越後府中まで40kmしかない、最後の要。
それも平坦な道が多い。大軍を動かすには便利なのだが、非常に危ない道でもある。
謙信は危機感を感じて、飯山城から10km強の越後国内に田切城てのを作ってます。

182寿桂尼さまにスリスリ:2007/12/14(金) 17:30:48.02 ID:iQb07aq7
はっきりしているのは、飯山城が絶えず武田の脅威に晒される状態になれば
、関東への出兵なんて全くできない、ということですね。その後のにらみ合い
は越後だけを守るつもりだったかもしれませんよ。関東への出兵はことごとく
意味のないものになっていますから、管領としての行動はあきらめて越後一国
を守るつもりなら、飯山死守、北信濃放棄という方針もありうる。そうなれば
その後、戦いをしないという選択もありえる。
183日曜8時の名無しさん:2007/12/14(金) 23:39:31.23 ID:ViWa07AZ
>>182
それには同意ですが、だからこそ自分には第4回目は示威行動に
思えるんですよ、謙信としては北信濃より実際は関東に力注ぎたく
武田と決戦なんぞしたくなかったように思います。
威嚇程度にしておいて牽制計りたかったんじゃないかと。

とにかく上杉軍の決戦当日の機動が本当に伝説どおり
武田が啄木鳥の戦法をとり、謙信がそれを完璧に読みきった
と解釈するのであれば兎も角、そうでないのであれば私には
撤退コースにしかみえません、霧を利用しての撤退ではないと
すれば、あの上杉の進軍はなにが目的だったのだろうか?
ただ貴方の>>91の善光寺急襲説はそれに対する解答としては充分な
説得力があり仮説にしても思い切り納得できたので真実かどうかは
兎も角これは納得です、てかここがやはり謎過ぎる。

後一つ釈然としないのは確かに決戦で武田を粉砕できればそれに越した事は
ないだろうけどここで乾坤一擲の決戦にでますかね…?
相手の力量は解ってて、これから関東攻略が有るのに大損害覚悟で
…とまぁここまで書いて謙信ならやりかねんとも思えてきましたわ。
ふむむ、しばし再考してみよう。

しかしまぁ確かに大河ドラマ板でやる内容の物じゃないんだろうなぁ
史実の議論をゲームとか煽ってこられてるし、ここまで細かい事
やれるゲームがあったらやってみたいわ、てな訳でさいなら。
184日曜8時の名無しさん:2007/12/15(土) 00:05:49.80 ID:0UodAMGj
まぁ理路整然と撤退すれば武田は背中を攻めてこないだろう
と、謙信は思った
帰路など確保しなくても大丈夫だろう
と、謙信は調子に乗った
信玄は絶対大決戦も追撃戦もしてこないだろう
と、謙信は思った
「思った」「思った」「思った」で小学生の感想みたいだった
まるで現実味が無いし、根拠も、それを導く材料すら無い妄想だわな

犀川から千曲川対岸まで16km
その間、目前の敵に横腹を見せ、背中を見せ、半渡を晒して退却
そんな帰路に「理路整然」も糞も無いw

あと武田にとっては信繁、諸角の右に出る家臣はいない
副将信繁、信虎>信玄二代に渡って忠節を貫いた諸角
どちらも家臣の中の家臣で新参の者達とは格&重みが違う
そのような重臣が二人同時に、偶然死ぬ、というのは極めて不自然
武田軍の中枢を謙信に狙われた結果だろうな
185日曜8時の名無しさん:2007/12/15(土) 00:25:19.61 ID:mnngBy7E
>>184
そう謙信が思い込んでるって仮定で構築している
仮説だろって何回言えば解るんだ?
まぁ何度言ってもお前の小学生並の読解力じゃ解らんか
「理路整然」と「整然と撤退」じゃ意味がまるで違うからな
わざわざ括弧でご苦労さん
186日曜8時の名無しさん:2007/12/15(土) 00:46:52.07 ID:0UodAMGj
>>185
まぁ普通なら謙信がそう(敵に背を見せても攻撃されない確信)思い込んだ理由〜
類似したケースなどを交えて説明する所から始める
しかしそれをせず「謙信はそう思い込んでたんだよ!」では
横から「お前は厨房か」だの、「ゲームでもやってろ」云々と、馬鹿にされるのがオチ
187日曜8時の名無しさん:2007/12/15(土) 01:08:08.60 ID:mnngBy7E
>>186
思い込んでたんだよ!と主張した上でだからそれが真実だ!
とまで主張すりゃそりゃ厨房かもな。

仮説ってのは原因の解らん事に対し仮の原因を当てはめる事であって
いわば想像だ、原因に仮の物を当てはめてる以上言う通り妄想の類でもある。
そんなのは解りきってる。
揚げ足取りなどいくらでもできるわ、それを今更何を得意気にいってるんだ?
俺は何度も言ってるぜ?仮説だと、大体最初からそうやって遊んでた流れに
こんな仮説もあったから持ってきたよと。

この仮説が下らんと思うのは良いが、だったら唸らせる仮説たててみろよ
俺は>>91の仮説の方が納得できたからこれはこっちの仮説より優れてるなと
納得したが、そこまでいうならお前はさぞかし凄い川中島の仮説立てられるん
だろうな?別に真実でもいいぞ?知ってるならだが。
188寿桂尼さまにスリスリ:2007/12/15(土) 01:36:48.74 ID:vg5Rz5J2
>183
>第4回目は示威行動に思えるんですよ

まあ、ここは置いておきましょ。

でも、見れば見るほど、武田にとってはハンマー&アンヴィルの形なんですよね。
犀川を前に武田本陣が布陣すると、川を渡ってくる敵を矢で捕捉することが容易になります。これが金床。
そして上杉の後方から武田別働隊が押す、こちらがハンマーです。ハンマーが強烈なら敵の陣形・命令系統を寸断
することができる。きつつきとは、この形だったのではないか?
(海津城の堀に押し付けるやり方もあるが、それだと北側が空きすぎる。)
鎌倉末期の北条氏がよく用いた手です。
現代戦ではもちろんマッカーサーの仁川上陸作戦がそれです。
でも、上杉の方が若干動きが早く、武田に布陣を許さなかったのかもしれません。
189日曜8時の名無しさん:2007/12/15(土) 01:43:03.20 ID:0UodAMGj
>>187
話の前提に理由付けの無い物ばかりを材料にした場合
それは仮説でも何でもない
結論に根拠が無い
その結論へ行き着く仮定に説得力が無いわ、説明しようとすらしないわ・・・
そのような意見は妄想の産物でしかなく、仮説にすらならない

実は武田の別働隊は善光寺へ向かった、謙信は若築山城に布陣した等
色々説は有るだろうが
どれも結論に到るまでの両者の動機、状況を説明してるから仮説足り得る
おかしな脳内物語を突っ込みたければ「お前なりの仮説を言ってみろ」?
アホくさ
190寿桂尼さまにスリスリ:2007/12/15(土) 01:53:52.82 ID:vg5Rz5J2
>188
自己レス。
しかも、犀川と善光寺の間に武田軍8千人ばかりが割り込んだら、妻女山麓に布陣する
上杉軍が善光寺にたどり着くことはできなくなりますよね。実際には、そうならなかった
けれども、その戦略上の利点は、必ず考慮されたはず。
191日曜8時の名無しさん:2007/12/15(土) 02:13:48.31 ID:mnngBy7E
>>190
なるほどなぁ・・・
鎌倉の北条の戦術とか良く知らないけど前例があったのか
それなら案外冒険じゃなかったのかな・・・

>>189
アホ臭いならもういいわ、こっちも人間の過信が前提だと
言ってる物にそれ以上説明なぞつけれんし、それを真実とか言う
つもりも無い、最初からずっとそう言ってるものに対しあくまで
妄想だなんだいわれてもね。
俺はお前の納得する説が聞きたかったしそれが納得できるものなら
受け売りでも素直に聞いたよ、だがもう聞く気にもならんしどうでもいい。
192日曜8時の名無しさん:2007/12/15(土) 02:33:16.59 ID:0UodAMGj
>>191
あのなぁ
謙信が過信していた、という結論を出すなら
そこに到るまでの説明が不可欠
その部分を問われた〜にも関わらず「謙信は思った」の連呼だけでは・・・
とてもじゃないが話に説得力など生じない

結論(仮説)を出すためには、そこへ到る内容が肝だという事
肝をすっ飛ばして強弁ばかりしていても意味が無い
193日曜8時の名無しさん:2007/12/15(土) 03:08:22.41 ID:mnngBy7E
>>192
これは元々川中島における両軍の機動の不可思議さに
元々謙信はやる気がなくて帰った所を追撃されたって
解釈だと納得できる部分があるからという仮説であって
あそこまで踏み込んでおいて決戦しないで撤退するのは
最初から武田の戦意を軽視してなきゃやれないって仮定

>>91の方が納得できてしまったので今更何とも言い難いが
つまり最初に上杉の撤退にしか見えない戦術機動があって
その戦術機動に説明をつける為に付けられた仮説だろ。

謙信はこう思った>だからこうなった って仮定ではなく
結果がこうだった>きっと原因はこうだろう って仮定
俺自身はこちらもやはりまだありえると思ってるが
>>91の方が説得力あるなぁといった所、肝は上杉の行動の
理由付けでしかない。
その理由により納得する仮説を聞かされりゃ成る程それもありそうだと
納得するって事、これでこちらのいいたい事が解らんなら何も言えん。
194寿桂尼さまにスリスリ:2007/12/15(土) 05:16:49.45 ID:vg5Rz5J2
>191
私は南北朝時代を戦争史の観点からめちゃめちゃ調べた時期があって、それで会社クビに
なったんですよね。

北条氏が持っていた軍事基地は、鎌倉街道沿いに入間川(狭山)、稲城(対岸は分倍河原と武蔵府中)
それから鎌倉そのものですが、前二者は川を前にしているんですよ。攻めてくる新田軍を防ぎきれな
かったのですが、川を前にした要塞で防いでいる間に関東各地から後詰の兵を進撃させるよう試みて
います。鎌倉は西側が丘陵になっていますよね。この西側の丘陵の上で敵をひき付けている間に、
山之内から今の大船方面に兵を突出させ、今の源氏公園当たりに敵兵を追い詰める作戦構想が練られて
いるですよね。新田軍との最後の攻防がそうです。この山之内から突出した部隊が、源氏公園付近に
至ろうとしたけれども、大船駅の南側でほぼ全滅しているんですよね。

もう一例は、昔のことなので記憶がはっきりしないのだけれども、足利尊氏が京に去って、中先代の乱という
のが関東に起きて、鎌倉につめていた何人かの武将が征伐に出かけて逆に討ち取られているのだけどれも、
その時も、このような川を前にして引きつけ、後詰の軍を他から呼び寄せて叩く作戦をやっていたと思います。
女影原の戦いがそうだったかな?

武田の武将が鎌倉時代の戦史を研究したかは分かりません。でも、あの地形・陣地配置を前提とすれば、
日々戦争に明け暮れていた人たちなら、必ず考えることだと思います。
195日曜8時の名無しさん:2007/12/15(土) 06:47:22.62 ID:0UodAMGj
>>193
「あそこまで踏み込んでおいて決戦しないで撤退」した?
この結果自体が妄想じゃんか
まぁ百歩譲って仮説だとしても↓こうなる

×結果がこうだった>きっと原因はこうだろう って仮定
○結果がこうだったという仮説>きっと原因はこうだろう って仮定w

要するに「結果」も「原因」同様、碌に説得してない主張だし
その原因は何かと思えば、「謙信はこう思ったのだ」なんて実に御粗末な物

変な仮説を吹聴せんが為、
滅茶苦茶な仮定を塗りたくってるだけにしか見えんね
結局「結果」&「原因」どちらも仮定で、納得できる説明が一つも無い
196日曜8時の名無しさん:2007/12/15(土) 09:58:42.87 ID:mnngBy7E
>>194
鎌倉の地形や大船駅や源氏公園は存じませんが
立体的な想像が出来てるんですなぁ・・・凄い。
会社クビになるほどとはそんなに面白いんですか
色々調べてみようかな・・・お薦めの本などありますか?

>>195
啄木鳥が無かったとするなら撤退に見える機動を
撤退と解釈して何がおかしい、w付きで結局人を馬鹿にしたいだけか
まだ話せるかと思ってレスしたがもういい、お前と話す事はこれ以上なんもね
197日曜8時の名無しさん:2007/12/15(土) 12:01:53.70 ID:0UodAMGj
>>196
啄木鳥が無かった、だの
謙信は越軍の生死を信玄の判断に委ねていた、だの
武田は軍を二つに分けず、全軍挙げて越軍を追撃した、だの
ここらへんの創作話は「仮定(妄想)だ」という自覚を持ってるようだ

しかし↓の部分
上杉軍は「決戦しないで(敵の大軍に横腹や背中を見せながら、)撤退した」
こんな物を「結果」と断定するのは頂けない
しかもその「結果」から、上記の如き仮定を数多く導き出したのだ、と主張してる
が、所詮この撤退説も仮定(妄想)に過ぎず
本来なら疑いの目を向けられて然るべき内容だし

従来の説に近い物、武田による善光寺襲撃説、さらに謙信による広田砦襲撃説(ここに諸角の墓が有る)
これら其々の説、その過程において上杉軍が、
武田に対し効果的な挑発行為を行ったのではないか?なんて仮定なら幾らでも考えられる
よって「啄木鳥が無い」からと言って「謙信は決戦の意志が無く、ただ撤退した」
などとは到底、限定出来ない
198日曜8時の名無しさん:2007/12/15(土) 12:28:32.05 ID:5vWd3Gbm
議論活発でそれなりに面白くて結構なんですが

最後にきて萎えますよ
>などとは到底、限定出来ない

仮定、仮説が成立するとかしないとかどころの話じゃないです

199日曜8時の名無しさん:2007/12/15(土) 14:05:09.60 ID:xxvavA71
つーか謙信が思ったのを前提にしてんだよ
とか散々言っといて
>>193になると
誰にも分からない結果から原因はこうだろうと考えたらしい
突っ込まれて二転三転
200日曜8時の名無しさん:2007/12/15(土) 20:19:09.79 ID:8rF1wPI8
妻女山に出す兵力を1万くらいにしておけば、武田もここまでピンチに陥らなかった
ような気がするけど、やっぱり必要だったのだろうか。
201日曜8時の名無しさん:2007/12/15(土) 20:31:00.30 ID:hK55e21k
>>200
まぁ逆転するから
202日曜8時の名無しさん:2007/12/15(土) 20:37:20.53 ID:8rF1wPI8
それにしても、妻女山という”山”は東京で言うと高尾山のような高い山じゃなくて
せいぜい丘のような登りやすい山なんだろうな。
203日曜8時の名無しさん:2007/12/16(日) 01:13:31.01 ID:1Wo968a7

カンスケ「あれれ?失敗しちゃった♪」

シンゲン「ばかー!」
204日曜8時の名無しさん:2007/12/16(日) 02:16:41.82 ID:XmpViK1q

カンスケ「あくまで陣形は鶴翼!」

シンゲン「無理しちゃってー、このこのっ♪」
205寿桂尼さまにスリスリ:2007/12/16(日) 06:31:34.44 ID:pNP9LJn6
>196
南北朝時代のことについて、特にお勧めできるような本はありません。
強いていえば「太平記」の原本ですけど、これは注釈つきとはいえ古語が
難解なうえに、傍系の話しが多すぎて閉口します。吉川栄治の太平記も、
はっきりいって駄作だと思います。天皇の側から見ているから、足利尊氏
や尊氏に従った人たちの行動を正しく評価できない。戦史の素材としても
ほとんど役にたたない。吉川栄治の平家物語が傑作・秀逸なのに、なんで
太平記が駄作なのか理解できないぐらいです。だから、私は武家の側から
見たかったのです。そのために、細々とした資料を積み重ねていったわけ
です。
206日曜8時の名無しさん:2007/12/16(日) 07:27:28.03 ID:gHfql+F9
妻女山は今も昔も小さい割りに急勾配な山です。

今でも人が移動するに適した道的なものは無く、急勾配で木々が乱立する山を進むには縦1列が限界。

そこに夜、武装して体重負荷な1万2千人が移動となれば、急勾配故の滑落等の危険があり、頂上に到達するまでに時間がかかり過ぎてしまう。
下山も条件は同じ。

啄木鳥奇襲部隊に気付かれずに越軍が夜に移動するには松明無しの下山となり、その夜だけで登山側、下山側で相当数の滑落負傷者が発生します。

まして当時のポニー系軍馬を率いての移動なんて不可に等しい。

これから奇襲を、これから下山し濃霧の中進軍を、の双方が合戦前に消耗しまくり。

啄木鳥戦法があったのなら、それは妻女山ではなかったのでは…

越軍の大軍が布陣するにも適していない。
207日曜8時の名無しさん:2007/12/16(日) 07:35:55.21 ID:UtEP74yV
>>当時のポニー系軍馬
この時点でもう考慮する価値もない意見だな
208日曜8時の名無しさん:2007/12/16(日) 07:42:25.00 ID:ibWIlYtY
>>206
妻女山の麓に陣を張ったという説も有るとか
犀川の付近に居れば飲み水には困らないし
ただ川や丘などの地形は変動が激しい
戦国時代と江戸時代、そして現代までに、かなり変化している場合がある
川中島周辺もそうだとしたら、まず地形の再現をしない事には始まらないのかもしれない
209日曜8時の名無しさん:2007/12/16(日) 08:28:32.15 ID:AfAcP5yw
>>134
それってNHKの歴史番組の受け売りじゃん
210寿桂尼さまにスリスリ:2007/12/16(日) 11:51:24.50 ID:pNP9LJn6
>妻女山は今も昔も小さい割りに急勾配な山です。

いくら時代が異なっても、1万人が籠もるとなれば、山にある程度の規模が
あって、曲輪、武者だまり、食料備蓄庫、井戸・水溜めなどの設備を備えた
半恒久的な城とするための普請作業が必要です。

だけど、戦闘部隊だけ連れて来て10日間のにらみ合いでは、どれだけの
ことができたかは甚だ疑問です。山麓に野陣を敷き、妻女山には見張り小屋
を建て、山麓の高いところに本陣を急こしらえした程度のことだったのでは
ないでしょうか。
211日曜8時の名無しさん:2007/12/16(日) 11:58:05.06 ID:2bPrxAfq
大河板でやんな
212日曜8時の名無しさん:2007/12/16(日) 12:17:13.72 ID:lsKEPZCx
これは誰も知らない事かもしれんが妻女山自体は独立した山でなく後ろ
の方に深い山系があるわけで、一万人位の人員を収容することは不可能と
いうわけではない。
213寿桂尼さまにスリスリ:2007/12/16(日) 12:26:35.48 ID:pNP9LJn6
もう一つの仮説を立てれば、状況がもっとはっきりするのでは?

武田が自軍を二手に分けず、全軍を妻女山麓に展開する上杉軍に突撃
させていたら、戦闘はどのようだったか?鶴翼で漸進的に行くのでも
いいし、弓隊を先にたて、槍衾で突撃し、騎馬兵で迂回攻撃をするの
でもいいのだけれども、更埴から善光寺に抜ける街道が、上杉の退路
になってしまう。これは愚策です。

街道と犀川の交点がどこにあったか、地形が変っているから位置は
掴めないけれども、通常は浅瀬に簡単な橋(または浮橋)を掛けて
いるか、またはそのまま渡渉できる場所が交点だったはず。深みに
むけて街道を整備はしないでしょう。

一万人が横に展開すると、どれぐらいの長さになるか、実際には分
からないけれども、1m置きなら1キロ、これが2重3重となれば200
〜300mぐらいでしょうから、八幡原を真一文字に結んでふさぐ事も
無理だし、上杉が必ずここを通ると期待して、道もないような野原の
どこかに布陣して待ちぶせして待つ事も無理。必ず、街道のどこかに
布陣して、上杉の退路を断つ作戦にでたはずですよね。

補給部隊のある善光寺と妻女山との間は10キロ以上ありますから、
この10キロの糧道を上杉が守れるはずもないし、それは武田側から
すれば、この糧道を絶つ、できるだけ善光寺に近い場所で絶つとなれ
ば、この街道と犀川の交点を押さえるのが、最も合理的ということで
はないでしょうか。

この糧断ちが成功しなかったことは、上杉の行動がいち早かったという
ことではないですか。

214寿桂尼さまにスリスリ:2007/12/16(日) 12:31:10.43 ID:pNP9LJn6
>212
「深い山系」で1万人の上杉と1万2千人の武田の合計2万人余が大合戦を
する場面を想定しているんですか?
215日曜8時の名無しさん:2007/12/16(日) 13:27:22.55 ID:Ex+F/Jog
>>212
戦国時代妻女山と称していたのは斎場山(512m)のことなんだね。
知らなかった。
写真を見ると赤坂山と繋がっている。その奥にはもう少し高い山々がある。
これなら1万の布陣は可能だろう。
216日曜8時の名無しさん:2007/12/16(日) 13:34:27.89 ID:3yyvILYG
バカだよなこのすれの奴ら
山頂に全軍収容してると思ってんだもん
217日曜8時の名無しさん:2007/12/16(日) 13:47:30.97 ID:Ex+F/Jog
>>214
寿桂尼さまにスリスリ氏
>>212氏は、そう言ってる訳ではないと思う
斎場山ー赤坂山には尾根づたいに海津城に通じる道があるようだ
ここら辺一帯は古墳があって、完全なる山や丘という雰囲気でもなかったのかもな
当時は
218日曜8時の名無しさん:2007/12/16(日) 14:46:30.36 ID:XDD2LpAz
妻女山って、今は来るまで頂上までいけるらしいね。
219日曜8時の名無しさん:2007/12/16(日) 14:49:48.34 ID:KVTSNgjY
甘樫の丘だってそうだしね
当時は屋敷兼要塞だったらしいが
220日曜8時の名無しさん:2007/12/16(日) 14:58:09.71 ID:DjKyyAEt
>>218
夏にキツツキ号っていう周遊バスで上まで上がったよ
勾配が急で山頂以外で夜営するなら無理っぽかったな
221日曜8時の名無しさん:2007/12/16(日) 15:06:20.75 ID:oKvQVmCW
スレタイは聞いたとこ悪いけど
凄く為になるいいスレだ。
どこよりも歴史を学べるには此処だな。
勘助今日で見納めだね。
絶対泣く・・・自分
222日曜8時の名無しさん:2007/12/16(日) 15:25:06.27 ID:B/eRKsMK
キツツキ戦法自体江戸時代の創作だったりするけど
まぁロマンがあって良いじゃないか
>>10で言われているようにNHK歴史番組や近年の研究では霧の中の偶然遭遇説が強い
223日曜8時の名無しさん:2007/12/16(日) 16:02:08.59 ID:hbyleeEr
>>210
一万人も居たかどうかってのも分からないよね
石高、そして謙信の軍役帳を見る限り、兵数は四千〜五千程度だった可能性もある
二次合戦の際に、川沿いで長期対陣をしてるけど、
その時の事を考えたら、妻女山の麓にも陣を置けるのでは
224日曜8時の名無しさん:2007/12/16(日) 16:10:29.54 ID:KVTSNgjY
よく言う一万石で250人というのは
こんだけ出せ!ということであって
動員稼動数とは違うのではないの

225日曜8時の名無しさん:2007/12/16(日) 16:14:34.28 ID:2lGsV39Q

      ./..::::             i    ヽ
     /.:::::::::::.            /     ヽ
     .i::::::::::::::        i  ./      |、
     |::::::::::::::         i .人ェュ、_    )、
    丶:::::::::::     ノ   .レ'´ /´:::::    / ヘ    
     i':::::ヽ::   ''''´ ヽ .,イ  i::::::    _  V.i
   ┌-t::::::::::::  .___ X ! /:::  _,,ィク´  .i |   
    .!ヽ:ヽ:::::/ ̄´;;;;;;;;;;;;;;;ヽ, ヽ ::::::: fエィ'´   ノノ.   >>1
    i ヽ |:::::|;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;:ノノi  :::::::::     ィヽヽ
     !`゙イ、::ヾ;;;;;;;;;;;;;;;;;;;/:::ヘ  i::_::: -‐‐</ ヽヘ
     `ヽ(ヽ、__`>─'''´ ,r  .ゝ (. `)‐-クi ):  i:::ヘ
      .i.ヽi-‐'ヽ/ ,:::-‐'´ゝ‐-、_,,ィ'´==ッ' 〉ノ /::: iニヽ
      .| ::::i   i (ヽ、__,, -‐=ニ''´  ̄// // !::::  ./|ヾ゙\
     ,,イ、:::ヽ、 ヽ\ `゙‐`''‐--─''´/ / i/i::::  :::||>メミノ三
    i'´゙〈::ゝ::::::::`'ヽヽ::::::..  ̄` ´ ̄   ノ:::/:::  ::ノノ爻》彡
  ノ´) 《ム、:::::...  ``ヽ、:::..       /:::::!:::: /ミ矢父<
三タ〈 父メミ`ヽ::::::::..  `'-、..__,,.--‐'´ :::/:::./爻爻ノ.ノミ
226日曜8時の名無しさん:2007/12/16(日) 16:33:44.68 ID:hbyleeEr
>>222
遭遇したにしては、やたら武田側の被害が大きいような
撤退や殿というのは、ただ逃げるのではなく、
退路を邪魔したり、迫り来る敵に攻撃を加えながら行う物では

謙信は陣を払う際、武田の気勢を挫く戦術、これを考えて撤退しなければ
多くの重臣達を失っていた筈
だからこそ武田の副将クラス、譜代の臣を討ち取って、武田を一時壊乱
しかる後に越後勢はほぼ無事に帰国できた

さらに年内にも、関東へ再度出兵までしてるようだし(唐沢山攻めか)
川中島のダメージ=越後兵の死傷者数も、
軍記物で言われてるほど多くなかった、とも取れる

あと戦後、謙信は血染めの感状を幾つも発給しているけど
これは合戦の最中、自軍の戦働きを監督&評価できる環境だったという事では
濃霧に覆われた乱戦だとしたら、諸隊の内、どの武将が活躍したかは把握できない筈
227日曜8時の名無しさん:2007/12/16(日) 16:44:36.69 ID:hbyleeEr
>>224
確かに、謙信の期待を上回って応えたり、応えなかったりは有ったかもね
越後における、それぞれの戦国領主、
その領内の事情(飢饉や抗争)によっては、軍役に応えられない事態も有ったかもしれない
一方で、傭兵集団が全国を渡り歩いていた、という戦国の風習も有った
キナ臭い川中島と港湾支配で儲けが出始めた越後
今こそ雇ってもらおう関東〜北陸から傭兵が集まっていたかもしれない
それでもたかが知れてるとは思うけど
228寿桂尼さまにスリスリ:2007/12/16(日) 17:57:48.80 ID:pNP9LJn6
>215
>斎場山ー赤坂山には尾根づたいに海津城に通じる道があるようだ
>ここら辺一帯は古墳があって、完全なる山や丘という雰囲気でもなかったのかもな
>当時は

だから、私が言っているのは、
1.そもそも、動きが取りずらいところに、わざわざ兵を押し込める必要はないということ。
  (馬と馬に食わせる大豆も含めて)
2.場所があっても、多少なりとも軍営として機能させるには土木工事が必要だということ。
3.そんな好適地があれば、海津城を作っておいて、そのような場所を見逃す武田は馬鹿すぎるということ。
4.仮に上杉が大兵団をもって山上を占拠していたら、武田側は山道づたいに、ちょろちょろとと兵を出す
  方法しか取れないから、上杉からすれば山道付近さえ守れば良い形になり、山道付近で武田側は皆殺し
  になってしまう。1万人がわっと攻城なり突撃なりできるような場所ではないということ。

それらを総合的に勘案すれば、きつつきは多分に創作だろうということです。
229寿桂尼さまにスリスリ:2007/12/16(日) 18:00:33.51 ID:pNP9LJn6
妻女山が、あたかも海津城に対する付け城のような役割をしているかのように
語る記述は、どうも無理があるでしょ?幾ら、あれこれと可能性を考えたところで。
230啄木鳥のヒント:2007/12/16(日) 18:05:47.62 ID:d6U8FSnj
雪斎「勘助、花倉城の戦いを覚えているか。真上と真下、脆いものよのう。」
231寿桂尼さまにスリスリ:2007/12/16(日) 18:07:35.79 ID:pNP9LJn6
>228
もし、山上に上杉が大兵団をもって立て篭もっていたら、山麓はほとんど
がら空きにあるから、そこを武田が数千人規模で守れば、上杉は撤退もできず、
糧道も断たれ、誰にも気づかれずに山を下ることすらできないでしょ?斥候兵
さえ出せないほど山麓が危険(つまり、そこが上杉の軍営である)であれば
こそ、大兵団が一挙して移動することが可能だった考えざるを得ない。
232日曜8時の名無しさん:2007/12/17(月) 01:19:01.05 ID:jDFZXfbV
山焼きすれば一発よ
233日曜8時の名無しさん:2007/12/17(月) 15:19:18.25 ID:tXNjbBE9
野戦においての戦術面ではからっきしだったな
篭城作戦から追撃するような戦いにしなかったのはなぜか
234日曜8時の名無しさん:2007/12/17(月) 15:23:33.34 ID:Lv/a0tfX
>>230
ワロタ。
まずその前にまず渦の中心核を撃たねばなるまい。
235日曜8時の名無しさん:2007/12/17(月) 15:48:54.68 ID:BYBmtBmz
46 2007 風林火山 内野聖陽 (山本勘助) 18.7%
45 2006 功名が辻 仲間由紀恵 (千代)上川隆也(山内一豊) 20.9%
44 2005 義経 滝沢秀明(源義経) 19.7%
43 2004 新選組! 香取慎吾(近藤勇) 17.4%
42 2003 武蔵 MUSASHI 市川新之助(宮本武蔵) 16.7%
41 2002 「利家とまつ」 唐沢寿明(前田利家)松嶋菜々子(妻) 22.1%
40 2001 北条時宗 和泉元彌(北条時宗) 18.5%
39 2000 葵徳川三代 津川雅彦(徳川家康) 18.5%
38 1999 元禄繚乱 中村勘九郎(大石内蔵助) 20.2%
37 1998 徳川慶喜 本木雅弘(徳川慶喜) 21.1%





(´~ω~)おつかれ様
236日曜8時の名無しさん:2007/12/17(月) 15:51:07.22 ID:dkvW4Si+
義経に負けたのかよw
237日曜8時の名無しさん:2007/12/17(月) 18:22:11.89 ID:Cv7v2SA/
慶喜が意外と取ってたのが驚きw
あてにはならんな
238日曜8時の名無しさん:2007/12/17(月) 19:43:38.56 ID:qtTz/SLS
やっぱ勘助の失態だよ。
おふくばあさんの素性は、勘助の大叔父の庵原さんの奥さんじゃん。
大叔母にあたる人を取りこめないんだから、もうだめぽ。

239日曜8時の名無しさん:2007/12/17(月) 20:27:55.16 ID:yxVBdyKu
妻女山後ろから武田軍が奇襲は
史実?であっても無理だろ
240日曜8時の名無しさん:2007/12/17(月) 20:50:38.76 ID:eiF3sZHt
memo

えーっと、一万石が2万5千俵
仮に4公6民として、一万石の税収は1万俵
1万俵で250人となると一人平均で40俵

一日5合として年間ざっと180升で大体5俵弱
ただこれはあくまで大人一人の純食料
妻やら子やらでざっと3倍で14俵とする

あと副食調味料燃料やらはたいしたことはないだろうが
服も着るしなんやらかんやらで平均40俵というのはかなりきついなあ
家族・下層の郎党などは本当に食費プラスαくらいだったろうし
武具やら戦時の食は支給だったと思うけれども

祖国防衛戦争と侵略戦争では動員数も違うだろうなあ
241日曜8時の名無しさん:2007/12/17(月) 20:57:05.22 ID:eiF3sZHt
あと、250人云々は江戸初期の話
この時代特に甲越あたりは兵農未分離
つまり、武士(軍勢)が完全に被扶養者層ではないということ


memo
242日曜8時の名無しさん:2007/12/18(火) 10:14:15.23 ID:C0q6gJ6b
ごはんの準備してるところバレバレなのに
霧がかくしてくれるからダイジョブだってとかいうカンスケは耄碌したんではないでしょうか
敵は強敵だとわかってなかったのかな
243寿桂尼さまにスリスリ:2007/12/18(火) 10:32:33.35 ID:ae2BqkJE
>242
だから、それが事実ならですよ。事実でないでしょう。「いつもより、
たくさん煙が挙がっている」という記述自体がおかしい。「いつもより、
長い時間、煙が挙がっている」なら理解できる。飯炊きのキャパシティ
が100あったのに、50しか使っていなかったの?釜の数や大きさを
考えれば、そんな余裕の数を持っていたとは思えませんね。
244日曜8時の名無しさん:2007/12/18(火) 12:09:39.75 ID:mxU2xrw0
カンスケはウサミの言葉を素直に聞いて軍を引いていれば良かったのに
245日曜8時の名無しさん:2007/12/18(火) 12:12:31.25 ID:zOuo2hZ9
常に目一杯のキャパで動くわけ無いだろ
ゆとり脳って信じがたいほど無能だな
246日曜8時の名無しさん:2007/12/18(火) 19:02:18.99 ID:Bc5dVUq5
キツツキ自体が創作だし
247日曜8時の名無しさん:2007/12/18(火) 19:10:59.74 ID:oO9nVVHS
>>243
何とか甲陽軍鑑を擁護してみると
あれだけの軍勢が一度に食事をする日は無かったと
つまり家康が褒めた甲州武士らしく
夜営の見張り、その自覚を各々しっかり持っていた
だから普段は食事の時間を隊ごとにずらすなどして
飯炊きは一日の内、分散されて行われていた
そうなると半分の窯で用足りていたが
全軍を挙げて行動するとなると一度に飯を炊かなければならなかった
そこを見抜かれたと香坂弾正は思って書き残したの

かな?
248寿桂尼さまにスリスリ:2007/12/18(火) 21:53:19.15 ID:ae2BqkJE
飯炊き以外の要素は、ありえないのかねえ。
斥候も出していたろうし、土豪・縁者からの通報もあったかもしれないし、そこを
最初から飯炊きに持っていく、その事について、何の疑問も持たないのだろうか?
249日曜8時の名無しさん:2007/12/18(火) 21:55:59.70 ID:BvZN61tI
飯炊きはドラマになりやすいから
250日曜8時の名無しさん:2007/12/18(火) 22:16:08.01 ID:JvzD495p
甲陽軍鑑は武田からの視点であるから、
上杉が何をもって事前に啄木鳥隊を悟ったのか、
憶測でものを書いている。
だからきっと「なんでばれたんだろう」と、
うんうん頭を悩ませつつ考えて出した結果が、
炊煙だったわけです。
251日曜8時の名無しさん:2007/12/18(火) 22:57:44.97 ID:xfY9g19o
第4次川中島をアニメーション化してある
http://www.furin-kazan.jp/nagano/index.php
252寿桂尼さまにスリスリ:2007/12/18(火) 23:36:48.83 ID:ae2BqkJE
251のアニメと、下記のWikiから想像する合戦の様相
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B7%9D%E4%B8%AD%E5%B3%B6%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84

前提
Wikiの図によれば、第2次の戦いが粟田城と旭山城の中間で起きている。
これは、両城の間に、通り道ないし渡渉地点があったと推測できる。だからこそ、
渡渉されないように、両軍が口を押さえてにらみ合いになった。

アニメによれば、妻女山の麓に猫が瀬という原がある。上杉軍は、なにも全軍を山上に挙げる
必要はどこにもない。だから、妻女山には望楼と本陣を置き、大半の軍はこの猫が瀬を中心に
千曲川の東側に布陣したはずだ。つまり、当初の武田と上杉のにらみ合いは、千曲川を挟んで
両軍がにらみ合ったものだった。

武田軍の作戦:
有り得ない作戦として、全軍で猫が瀬・妻女山を攻めること。これでは、八幡原から犀川まで
がら空きとなり、敵は善光寺補給部隊と合流してしまう。

有り得る作戦
その1.明け方の夜襲。これで敵の群集心理を突き、八幡原方面に遁走させる。
その2.犀川の渡渉点(たぶん、二つ)を確保して、上杉軍を茶臼山、犀川と千曲側の交点、
妻女山の三角地帯に閉じ込めること。別働隊が千曲川を渡渉すれば、この3角地帯が、上杉
軍にとってはミートグラインダーになってしまう。

実際の動き
理由は不明だが、上杉軍の渡渉行動はすばやく、犀川の渡渉地点を抑えに向かった武田本陣
と八幡原で遭遇して合戦となった。上杉は千曲川西岸にも殿軍を置いただろうから、武田
別働隊の到着は2時間以上遅れた。
253日曜8時の名無しさん:2007/12/18(火) 23:42:47.79 ID:T2S4hPWC
軒猿?
254寿桂尼さまにスリスリ:2007/12/18(火) 23:45:58.75 ID:ae2BqkJE
>250
誰が作戦をリークしたか分からないから飯炊きを理由にしたのかもな。
255寿桂尼さまにスリスリ:2007/12/18(火) 23:54:43.54 ID:ae2BqkJE
アニメにあるように、もし上杉が妻女山上に全軍を布陣したのなら、
武田が猫が瀬に3千、千曲川西岸に5千の計8千人ばかり布陣すれば、
上杉軍はにっちもさっちも行かなくなり、下山できないまま山上で
餓死・降伏するしかなくなる。そんなバカなことは有り得ないですわな。
256寿桂尼さまにスリスリ:2007/12/19(水) 02:23:34.54 ID:t7t3h6p7
アニメには市村の渡しと丹波島の渡しと、二つの渡河地点がでてくる。
武田本陣が待ち伏せをするなら、広い野原でなく、はじめから、この2地点でなければ
おかしい。しかし、この二つの渡河地点に至る前に、上杉本軍が到着したと考えるのが
妥当と思われる。
257日曜8時の名無しさん:2007/12/19(水) 06:42:09.02 ID:LpRlxREM
待ち伏せる本陣より、上杉軍をツツキ出す部隊の方に人数を多く割いたのは何故なん?
258日曜8時の名無しさん:2007/12/19(水) 08:06:05.47 ID:2+IP0x/B
>>257
城の上から防戦する方が強いから。
籠城戦で、圧倒的に兵力が劣る城側がしばしば勝ち残るのと同じこと。
啄木鳥が返り討ちにあったら、その時点で武田の敗北が決定する。
259寿桂尼さまにスリスリ:2007/12/19(水) 08:54:14.08 ID:t7t3h6p7
>257
実際の兵力の配分は分からないけれども、上杉軍が8千なら、それと
同じぐらいは差し向けた方がいいと思ったかもしれない。夜襲が完全
成功を収めるためには、上杉を千曲川の西に追いやり、更に打撃を加
え続けなければならないから。

待ち伏せのほうだけれども、犀川の渡河点が市村の渡し、丹波島の渡し
の2つだけなら、対岸で待ち伏せて盾を並べ、その隙間から矢を一斉に
放てば相当の効果を挙げる。馬で移動して矢を放っても、川の流れに足
を取られている敵は、突貫攻撃ができないので、相当に犠牲を払うこと
になる。だから、野原で待ち伏せれば苦戦を強いられるが、犀川の北岸
に渡り、浮き橋かもっと恒久的な橋(あったなら)を落としてしまえば、
自軍に優勢な相手を敵としても戦える見込みがある。
260寿桂尼さまにスリスリ:2007/12/19(水) 09:04:01.45 ID:t7t3h6p7
更に言うと、川中島周辺は、南の口が狭いが、北に向けて広がっている。
夜襲が成功し、武田別働隊が上杉軍を追撃するとして、狭いところから
広い場所に陣形を広げていく形にならざるをえない。それに比べて、
待ち伏せ側は、犀川の北に渡ってしまえば防衛すべき場所は限られてくる。
(渡ってしまうまえに上杉軍が襲来したので、犀川と善光寺の間に自軍を
割り込ませるという武田の目算は外れたのだろうと想像する。)
261日曜8時の名無しさん:2007/12/19(水) 11:30:06.85 ID:cPYMVX00
100mの山でも全力で登ったらバテるからな
山を本陣にしたのは良かった
実際は500mの山でいくら急襲しようとしても見張りがいるんだから絶対バレるし
武田の考えは甘すぎた
262日曜8時の名無しさん:2007/12/19(水) 11:53:24.87 ID:oAEZHqbM
最期はあっけなかったな、無駄死に感も。
宇佐美の進言通り軍を引いても良かった気がする。
263日曜8時の名無しさん:2007/12/19(水) 15:06:52.28 ID:UPBxyUrf
戦場の状況描写がド下手というか放棄しちゃってるから、
有効とか無駄とか分かんねんだよなw 合戦シーンとして成立してない。
264日曜8時の名無しさん:2007/12/19(水) 20:30:49.37 ID:xpDTIGeX
そのような意見は既に出ているだろうが、今回の勘助の最期は、
太平洋戦争の特攻隊を連想させるものがあった。いくら、戦術
の失敗があったからといって、軍師がやぶれかぶれ式に玉砕
してゆく姿はいただけなかった。
265寿桂尼さまにスリスリ:2007/12/19(水) 20:59:09.87 ID:t7t3h6p7
>実際は500mの山でいくら急襲しようとしても見張りがいるんだから絶対バレるし
>武田の考えは甘すぎた

麓の兵を退却させれば、山の兵は孤立する。自分たちだけで残ることはできない。
266日曜8時の名無しさん:2007/12/19(水) 21:13:58.25 ID:P8/W4Hzd
でも、お前らよりは遥かにすばらしい!!
267日曜8時の名無しさん:2007/12/19(水) 21:34:42.80 ID:IkzEim76
信繁、諸角と一緒で、信玄を守る為に突撃せざるを得ない状況だったのでは?
268日曜8時の名無しさん:2007/12/19(水) 21:39:18.28 ID:WuSh6KSV
>>264
太平洋戦争の特攻隊と違って、別働隊が来れば戦況を逆転できるのがわかってたから、
それまで時間を稼ぐ目的はあったところが違うかな。
あと、この作戦がバレバレだったことにより勘助が軍師として限界だったのは見えていたから、
捨てる命としては比較的適切なものだった。義信をちゃんと本陣に突き返したりもしてたし。
269日曜8時の名無しさん:2007/12/19(水) 21:52:58.25 ID:A7BUDKRd
敵が妻女山に登ってしまっている以上、
小牧・長久手のような野戦陣地を築いて
包囲すべきじゃないかと思うのだが
なんで武田はそれをやらなんだのだ?
270寿桂尼さまにスリスリ:2007/12/19(水) 22:37:00.78 ID:t7t3h6p7
>269
だ、か、ら、妻女山に登っていないんだよ。見張り小屋と本陣を置いているだけだった。
271日曜8時の名無しさん:2007/12/19(水) 22:46:13.49 ID:4LWzMQss
んー相手が腰を据えて居座る構えを見せている以上、
こっちも陣地を築くのが定石じゃないの?
272日曜8時の名無しさん:2007/12/20(木) 02:26:42.98 ID:U3mJBLBZ
>>267
それを状況描写で伝えられれば良いんだけど、
実際は、みんな奮戦してるなか妄想始めて、
気付いたら単騎になってたわけだしなw
273日曜8時の名無しさん:2007/12/21(金) 01:25:33.07 ID:UUdLCfE+
キツツキ戦法で山から追い落とすより霧の出た時ふもとで軍勢を二分して待ち構えたほうが良かった。ウン
274軍師山本勘九郎:2007/12/21(金) 01:28:16.30 ID:UUdLCfE+
そして下山した上杉軍を霧の中左右から挟み討つ!!
275日曜8時の名無しさん:2007/12/21(金) 05:37:10.00 ID:Krjx4zlK
>>269-270
そのような物理的な理由だけではなかったのではないかな?
両軍の間に何らかの事前の駆け引きがあり、迂闊に手を出せない状況にあった。
ええ、単なる仮説ですがね。

276日曜8時の名無しさん:2007/12/21(金) 07:32:58.37 ID:qC4bVHpi
グーで負けたからチョキ出すべきだったと結果見てから言われてもw
最初は勝つに違いない最良の方法と思ってるわけだから。
277日曜8時の名無しさん:2007/12/21(金) 16:16:48.14 ID:aVVwhKhs
兵を二分してどうやって勝つんだ
篭城してれば勝てたのにアホや
278日曜8時の名無しさん:2007/12/21(金) 19:09:33.29 ID:6L0uZ1Rv
最後の二回でカンスケの面目まるつぶれ
279日曜8時の名無しさん:2007/12/21(金) 21:11:55.26 ID:JTMnUGcU
まぁ勘助ってずーっとけっこうエグい事やって生きてきたじゃない。
すげー頑張るんだけど、結局啄木鳥見破られて謙信には勝てずに
ブチ殺されるんだよな、って思って見てた。その一点でブラックさが
相殺されてチャラになってる気がするw
280日曜8時の名無しさん:2007/12/21(金) 21:21:13.85 ID:ag9S7a+F
香坂弾正が
第4次川中島は一歩間違うと武田家滅亡になりかねない的な事言った時
もしや原作無視して勝頼命の勘助が
勝頼一人残して武田一家(特に義信)全員地獄に道連れ
とかやってくれるのかと期待したこともあった
281日曜8時の名無しさん:2007/12/21(金) 21:23:20.63 ID:nrcTWleb
>>280
原作にも似たような台詞あったよ
282日曜8時の名無しさん:2007/12/21(金) 21:36:49.00 ID:ag9S7a+F
つまり一瞬妄想しちゃったんだよ
勘助の啄木鳥戦法は越後に見破られたんじゃなくて
特異な価値観の勘助がわざと謙信を誘ったんじゃないかと
んな筈ないのはわかってんだけど
283日曜8時の名無しさん:2007/12/22(土) 09:07:35.64 ID:V86XXqQf
平蔵まで無駄死にさせちゃったし
284日曜8時の名無しさん:2007/12/22(土) 09:32:44.00 ID:XpjRJFiN
ツッこむべきなのか。
285日曜8時の名無しさん:2007/12/22(土) 14:04:31.54 ID:Vv6UB3Pr
宇佐美の分かっているのは自分だけとでもいいたげな口ぶりはやめてほしい。
周りが熱をこめたセリフまわしなのに、宇佐美だけが妙に冷めている。
286日曜8時の名無しさん:2007/12/22(土) 14:07:13.94 ID:AmveCBgR
「首を獲った」旨、陣を引いた後の軍議の席で
正式にガクトに報告されてるのに・・・・
「取り返した」ってどう言うことよ?
誰か教えてくれー!
287日曜8時の名無しさん:2007/12/22(土) 14:18:59.89 ID:2dcLJPHG
早い話、首実検する予定でしたが、
輸送中に首を強奪されたのでできなくなりました。ちゃんちゃん
ってことなんでねえーの
288日曜8時の名無しさん:2007/12/22(土) 14:28:02.88 ID:AmveCBgR

これでプロって言えるのか・・
俺でも脚本家になれそうだよ・・・なんかガッカリだよ。
289日曜8時の名無しさん:2007/12/22(土) 15:30:53.16 ID:HcMtNVv/
信長 KING OF ZIPANGUの三大合戦の演出こそ真の戦じゃ
290日曜8時の名無しさん:2007/12/22(土) 16:01:52.49 ID:Bpe0H3AL
全盛期の山本勘助伝説
・1日で3城攻略は当たり前。半日で8城攻略も
・城が落城し、武将全員負傷の状況から1人で逆転
・グッとガッツポーズしただけで敵の城が炎上
・謀略で地震を起こしたのは有名
・戦場に立つだけで敵武将が泣いて謝った、心臓発作を起こす武将も
・関が原の戦いが始まったきっかけは勘助の謀略
・大阪の役が始まったきっかけも勘助の謀略
・敵の朝鮮人のヤジに流暢な朝鮮語で反論しながら敵艦船を撃墜
・あまりに強よすぎるから、合戦では輿の上から動かずに戦った
・その輿から放った矢によって敵大名を討ち取る
291日曜8時の名無しさん:2007/12/22(土) 16:12:22.09 ID:ZpWTOQgC
・ヤマカンの由来
292日曜8時の名無しさん:2007/12/22(土) 17:21:25.92 ID:V86XXqQf
一年間見てた主役が最後に首切られて再び合わせられる描写
なんか生々しくて哀しい
293日曜8時の名無しさん:2007/12/22(土) 20:34:33.99 ID:dtUtRkfn
>>261
 啄木鳥戦法ってのは、あくまで相手方が妻女山に全軍で攻めてきたって、
「勘違い」してくれないと成立しない。上杉としては、全軍で来たのなら、一旦
渡河して八幡パラで陣形を整える(整えられる)という行動になるんじゃないか。
しかも霧が完全に視界を奪っているときの退避行動。と好意的に解釈してみる。
294寿桂尼さまにスリスリ:2007/12/22(土) 23:09:07.13 ID:bMMqI8Hy
実にアラの見える最後だった。全体としては良かったが、あまりにアラが。
側近も兵隊もおらず、大将らだけ、だだっ広い野原で勘助の首と胴を向かえ、
エイエイオー。エキストラを何十人か雇ったのなら、そのまま残しておけば
よかったのに。

カンスケ〜、カンスケ〜、と叫んで屍骸がころがる戦場をさまようジャニタレ
テレ朝フウリンもひどいと思ったが、なんで素人目にもヒドイと思えるいいか
げんな場面を作るのだろうか。
295日曜8時の名無しさん:2007/12/22(土) 23:14:28.72 ID:RvxlT0Au
タケシンとウエケンの戦いはフーリンのメインのおかずのはず
それがあんなんじゃつまらんわね
296日曜8時の名無しさん:2007/12/23(日) 00:40:17.06 ID:AaCk1P1+
>>294
昨日初めて見たんですか?
残念な出来でしたね
川中島は今だ納得できる映像化はされてませんね
摺上原や鎌倉炎上、姉川合戦、関ヶ原などは大河でも頑張ってると思いますが
川中島だけは大河でも、映画でもイマイチな物ばかりです
297日曜8時の名無しさん:2007/12/23(日) 00:55:02.78 ID:TT9e8Yeu
合戦の経過の元ネタが甲陽軍艦だからなぁ。
実際どんな状況だったのかは分かってない。
分かってるのは川中島で大規模な合戦があって双方に甚大な損害が出て信繁が戦死したことくらい。
298日曜8時の名無しさん:2007/12/23(日) 11:23:13.61 ID:RMd550+S
合戦シーンがショボいのはNHKのデフォルト
こればかりは本物の軍隊を投入する中国の歴史ドラマには負けるw

つーか騎馬武者がどいつもこいつも馬上で刀を振ってるのは
いい加減にやめろバカとゆいたいです
299日曜8時の名無しさん:2007/12/23(日) 11:26:15.17 ID:yVBu/ABN
>>298
エキストラ、環境など差がありすぎますからね

>騎馬武者がどいつもこいつも馬上で刀を振ってるのは
そう、撮影上の問題もあるからかまわないけど
どういつもこいつも、は勘弁だよね
300日曜8時の名無しさん:2007/12/23(日) 16:01:56.49 ID:RMd550+S
そもそも馬上から刀を振り下ろして足軽雑兵に届くのか?

考証以前にドラマの絵作りとしてもおかしいだろ
301日曜8時の名無しさん:2007/12/23(日) 16:09:50.76 ID:yVBu/ABN
槍、薙刀、それに弓なんかだと、どうしても引き画になるのではないかと思ったが
その問題は、本人だけ写していれば済むか
302日曜8時の名無しさん:2007/12/23(日) 16:51:04.75 ID:Kr/HXF9y
評判がじつにいい風林火山

12/19京都新聞(駿河台教授)今村庸一評

【歴史への洞察力】新趣向「風林火山」の魅力


大河ドラマ風林火山がクライマックスを迎えた内野聖陽演じる山本勘助は壮絶な最期を遂げる。
ドラマは山本勘助と武田中心の井上靖の原作とは様々な点で趣を異にしている
今回は武田、今川、北条、長尾と当時の複雑な東日本の勢力図が細かく描かれていた。
この中で貧しい山国甲斐の武田(市川)と豊かな海を持ち京都にも往来できる越後の景虎(Gactと)との
キャラクターの対照が配役にも生かされていた。こうした背景から両者が激突した川中島の戦いとは、
実は異文化の衝突だった、という新たな視座を提供。今川義元が織田に滅ぼされた桶狭間や
景虎が上杉を継いで関東管領に就任、八幡原の戦いまでのそれらの出来事が相互に関連している
事実に光を与えたのも制作側の歴史に対する深い洞察が感じられた。
番組後の千住のテーマ曲も歴史ロマンを駆り立てた
新人の起用も実に見事だった。Gact,柴本は新鮮な輝きを持ってデビューを飾った。
内野聖陽を始め、「風林火山」は俳優として大きく成長する契機となったはずだ。
川中島を訪れる人にとっても、このドラマは印象深い作品になるに違いない。
303寿桂尼さまにスリスリ:2007/12/23(日) 21:24:09.11 ID:3JoQ+iCe
>296
いや、風林火山はずっと見てました。大河を欠かさず見たのは初めてです。
来年は一回も見ないと思う。
でも、上田原の合戦といい、砥石崩れといい、とてつもなくしょぼい。
エキストラの問題はありますが、それ以前じゃないだろうか。
もっと近景を工夫すれば、あのエキストラの数でも、それなりに迫力は出せた
と思います。
信玄の前で、戦っている兵と、まだ戦っていない予備の兵と、多少とも両方が
いないとおかしいでしょう。目の前でですよ。そこからガクト謙信が飛び出て
くる形にすれば、もっと迫力が出たはず。

信玄の何十メートルか先で、だだっぴろい野原でマバラに兵が戦っているなんて、
いくらなんでもおかしいでしょう。
304山本勘助:2007/12/23(日) 21:30:30.34 ID:c1YwT6Ny
そもそも下から槍で突き上げられるのと馬上で刀を振り回すのとどちらが強いか?
2方向から槍でつつけば簡単に武将など討ち取れると思うが。
そこにいくまでに守りの足軽がいるとは思うんだがね。
305日曜8時の名無しさん:2007/12/23(日) 21:38:29.77 ID:wZ0r2Qxw
金の問題もあるだろうが、日本では監督を筆頭に合戦を撮る人材が無いんだろう。

306寿桂尼さまにスリスリ:2007/12/23(日) 22:06:16.55 ID:3JoQ+iCe
>304
馬上で刀ふるうなんて、弓と槍が尽きた状態に限られるんですよね。
攻める側にしてみれば、馬上の武者を倒す必要はない。槍で馬を突けばいい。

馬上で長槍を振るうのは西洋の騎士でもあるから、実際にあったと思うけれども
基本的には馬上武者の役割は射手のはず。あとは、敵の背後に回りこみ、馬を
捨てて歩兵となって戦うことですね。
307寿桂尼さまにスリスリ:2007/12/23(日) 22:11:05.17 ID:3JoQ+iCe
日本の刀は刀身が60センチが基本です。定規2本ぶんでしかない。
しかも片手はふさがり、右利きなら右側しか斬れない。そんなバカな
戦いはないわけです。

でも、槍は長いです。小田原城で槍を見たが、2メートルは確実に超えていて、
太くて長い。また、日本の弓はボウガンと違い、相当に遠くまで飛びます。
武田騎馬軍団というが、馬だけの部隊は限られていたはずですね。必ず、周りに
足軽が数人いる中世初期の形に近かっただろうと想像されます。
308日曜8時の名無しさん:2007/12/23(日) 23:52:42.16 ID:AD77jvh6
CGで遠景に雑兵をワラワラ増やせばいのに。つかここが使い所だろうよぉ〜
トンボやら火花やらに使うより効果的だと思うな。
309日曜8時の名無しさん:2007/12/24(月) 00:03:49.30 ID:dQdPCRvV
>>308
同意
310日曜8時の名無しさん:2007/12/24(月) 00:14:07.94 ID:pH16792d
たったの310get(´・ω・`)
311日曜8時の名無しさん:2007/12/24(月) 01:22:24.26 ID:/ErUQN7p
>>308
そこでPC-8001で制御された馬の人形の出番ですよ。
312日曜8時の名無しさん:2007/12/24(月) 12:19:01.79 ID:kiCSFxlB
>1はどうゆう意味で スレを たてたのかあー (緒方風味)
カンスケの戦術が糞だと いいたいのかー
ドラマ自体の演出が糞だと いいたいのかー
どっちだあー
313日曜8時の名無しさん:2007/12/24(月) 16:40:38.86 ID:poRiZ/Xw
>>307
昔テレビ番組で「戦国時代の刀を再現してみよう」というコーナーが有った
当時の製法を残された史料に基いて、忠実に作った所
普段見慣れている日本刀と違ってバカでかい刀が出来上がった(野太刀?)
確か女性レポーターの身長より大きかったような
一緒に居た専門家は「馬上で振り回すから長くないといけないんです」
なんて解説していた

あと他の板でセンゴクとかいう漫画が話題になった時
馬上で槍を使い出したら周囲の侍が驚いたという描写があるらしい
どっちが正しのかは分からないけど
314寿桂尼さまにスリスリ:2007/12/24(月) 17:06:29.44 ID:CAuAsDJ/
>313
常識で考えてくださいよ。馬上で大太刀を振り回したら、馬が怪我をする確率
が高くなるでしょ?槍ならともかく。
315寿桂尼さまにスリスリ:2007/12/24(月) 17:11:09.00 ID:CAuAsDJ/
刀身60センチの日本刀なんて、せいぜい2kgか3kgです。しかし、実際の
武者は、相当な力持ちと考えれば、ばかでかいサイズの太刀を振り回しても
不思議はないんです。でも、そんなバカでかい太刀を馬上で振り回して、実際
に合戦ができるのか?馬を斬ってしまうのがオチでしょ。
316日曜8時の名無しさん:2007/12/24(月) 17:16:09.18 ID:poRiZ/Xw
>>314
馬上用の刀なりの扱い方が有るんじゃない?
上から振り下ろして雑兵の頭を割るには最適だったかもしれん
槍だって下手な使い方をしたら柄が馬の頭に当たるだろうし

これも記憶に残ってる曖昧な情報なんだが
戦国時代に使われた野太刀は江戸時代になると
「こんな物は使えない」と判断されて小太刀に削られてしまった
だから現代には戦国時代で実際使用された太刀が殆ど残ってない(?)
317寿桂尼さまにスリスリ:2007/12/24(月) 17:26:52.33 ID:CAuAsDJ/
大太刀は、やはり徒歩武者の道具でしょ。

>馬上で槍を使い出したら周囲の侍が驚いたという

さあ、漫画を根拠に色々言われてもね。

考えられるとすれば、弓矢を使うのが普通だからでは?歩いている相手に、遠まきに矢を放って、
弱った相手を家来がブスリとやるのが効果的ですね。但し、これは南北朝時代の戦い方。

武田の騎馬軍団は馬で密集突撃して、一体何を道具に戦ったのだろうか?長槍
なら分からないこともないですが。
318寿桂尼さまにスリスリ:2007/12/24(月) 17:31:47.35 ID:CAuAsDJ/
>316
だから、上で言ったでしょう。片手で、片側しか戦えない道具を使うのですか?
相手は馬のすぐ傍まで来てしまいますよ。相手にすれば、馬の尻に斬りかかれば
馬上の武者はすぐ落ちてしまう。
西洋の騎士はデフォルメされているぐらい長い槍を使いますが、ああいうことなら
分からないでもない。
319寿桂尼さまにスリスリ:2007/12/24(月) 17:36:05.75 ID:CAuAsDJ/
たしか、モンゴルの騎兵は全員が弓手だったような気が。。。
320日曜8時の名無しさん:2007/12/24(月) 17:57:21.42 ID:poRiZ/Xw
>>317
センゴクという漫画は読んで無いので俺も偉そうな事は言えないな
しかもその漫画内のシーンすら実際確かめてない伝聞だし
学問・文系>日本史>武田信玄について語ろう
に書いてあったレスだった

けどこの漫画を評価してる戦国時代ファンが一部に居るのは確か
戦国板や個人プログで度々褒めてる文章を見かける
ある程度時代考証をしてる作者が
「馬上で槍を使ったら周囲に驚かれた」などという勇気ある(?)描写をしたのなら
それなりの根拠が有る様にも思う

>>318
当時は馬上の周辺には家来が居て、横合いの攻撃カら主人を守っていたのでは
当時の史料にはよく「何騎」という表記が有るけど
それは一騎が十名前後の足軽を率いていたんだよね
その主人が下馬して槍で戦うにしても、横腹を突かれない様に下人達が守っていた
なんて図が学研の本に載ってたな
321日曜8時の名無しさん:2007/12/24(月) 17:59:19.58 ID:dQdPCRvV
すれ違いついでにいわゆる日本刀が戦場で活躍したのって、いつだろう?

平安も鎌倉の、騎射の後の馬上打ち物を行うときは主力兵器が長めの刀〜
野太刀やら薙刀やら長刀だっと思う
長めの得物で、突き倒し、ぶん殴り、その後でトドメをさすのに使ったんだろうね

室町・戦国は歩兵の台頭によって悠長な一騎打ちもないだろうから
だいぶ話が違ってくるだろうけど

まあ、今回のビジュアルは、どこにいる敵に斬りつけているんだ?
という意味で萎えた






322日曜8時の名無しさん:2007/12/24(月) 18:01:55.17 ID:dQdPCRvV
×平安も鎌倉の、
○平安や鎌倉や南北朝の
323日曜8時の名無しさん:2007/12/24(月) 18:02:21.40 ID:poRiZ/Xw
間違えた
×武田信玄について語ろう
○大河ドラマ「風林火山」を日本史版的に見る

「武田信玄について語ろう」だとセンゴクなる漫画は嘘だと指摘されてるw
324321:2007/12/24(月) 18:11:05.31 ID:dQdPCRvV
いけね、
>>321には、槍も抜けてる、とにかく長物というほどの意味

以下独り言
日本刀、それも剣術は平和な時代の武器だろうね。
戦場の修羅場では補助的・護身的道具。
(近代軍隊の拳銃の如く)
脚光を浴びたのは幕末かな?


325日曜8時の名無しさん:2007/12/24(月) 18:46:11.77 ID:L2lnUHPE
漫画のセンゴクは、従来にある合戦イメージに対して、間違えているところを指摘するのはいいけれど、
では実際の合戦はどういうものかという回答は出せていない。
326日曜8時の名無しさん:2007/12/24(月) 18:47:43.67 ID:ag5qlmhX
>>313
その板で話題になってたが馬上で使う武器として
棍棒もポピュラーだったようだな
327日曜8時の名無しさん:2007/12/24(月) 19:51:21.75 ID:dQdPCRvV
>>326
鉄板貼ったやつね
328日曜8時の名無しさん:2007/12/25(火) 00:39:21.45 ID:JGq4kEWC
当時の近接の主力は長槍。
騎馬隊の役割は側面からの突撃。
敵の横っ腹駆け抜けて混乱させたところに足軽突入なんですお
あと馬は高価なので生きたまま捕らえて戦利品
329日曜8時の名無しさん:2007/12/25(火) 01:48:46.29 ID:1vdcu/n9
でも考えてみたら戦国期の日本で馬上槍って特に発達してないよな。
騎兵の機動力を生かすには、槍を正面に構えての突撃が有効だと思うんだが。

普通の日本槍を馬上で振り回したら、うっかり柄の後ろの部分で馬の尻打っちゃわない?
それこそ野太刀振り回す方が扱いやすい気がしてきた。
330日曜8時の名無しさん:2007/12/25(火) 13:13:17.94 ID:tbTwKToN
>>313
いや、別に無理して再現して作らなくても
普通に室町時代の刀なんて残ってるから。
国立博物館とか行ってみ。
331日曜8時の名無しさん:2007/12/25(火) 14:32:56.19 ID:NYO2OGe5
当時の日本の馬って小っちゃかったんでしょ?
332日曜8時の名無しさん:2007/12/25(火) 14:50:56.33 ID:lTluHiYi
>>329
そうなのか?

しかしこのスレ、タイトルはともかく、いいスレになってきましたね

所詮、本当のことはわからないにせよ、あれこれ考察・妄想etc入れ混じってぶつけるいいスレ
333日曜8時の名無しさん:2007/12/25(火) 19:50:23.46 ID:Ny3HPRbz
歩兵が長槍、騎乗では刀が主力だったと聞いたんだが。
334日曜8時の名無しさん:2007/12/25(火) 20:24:55.54 ID:61DUuHnT
川中島からだいぶ外れてきてるので悪いスレになったと思ってる。刀はどうでもいいから早く川中島の話に戻ってほすぃ。
335寿桂尼さまにスリスリ:2007/12/26(水) 02:53:52.51 ID:tMkdK846
う〜ん。
西欧中世の戦いの記述を参照していて、こういう文章を見つけた。
Cavalry could be arranged in several ways, depending on the situation.
While a clump of horsemen was no doubt effective, cavalry in tight formations
wielding lances became devastating forces.

これは、horse archers (馬上の弓兵)が郎党数人を連れて戦っている中世初期の状況ではなく、
兵種ごとに分化した後期のことだ。

要約すると、騎馬隊の使い方は時と場所によるが、槍を持った騎馬隊が鋒矢の陣形(三角)を取って密集突撃
することが、非常な打撃力となった、ということだ。

これは、確かに合理的に思える。歩兵の槍ふすまといっても正面にしか使えない、横や背中は弱い。機動力の
ある馬で回り込んで、長槍を抱えて一斉突撃すれば、敵の弱点を突ける。

やはり、長槍が主要な武器で、刀は二次的な使い方だったと推測する。
336寿桂尼さまにスリスリ:2007/12/26(水) 02:55:49.59 ID:tMkdK846
追記:
鋒矢の陣形とは、別の記述にあったので、上掲の英文には出ていないが、
別の英文にはある。
337日曜8時の名無しさん:2007/12/26(水) 09:44:00.28 ID:Doj5J4wW
国土が起伏に富む日本の戦国時代で
騎兵が密集体形で戦っていたという史料を示さんと説得力ないぞ。
338日曜8時の名無しさん:2007/12/26(水) 13:59:33.92 ID:3ea4U/do
そもそも「上杉軍も武田軍とほぼ同じ三千の死者を出した」というのは、
上杉側の史料とかの根拠のある話なのかが知りたいわな。
死者数の割に上杉側には重臣級の戦死者出てないんでしょ?

そもそも敵の死者数把握なんていい加減なもんで、
実際には武田が判断した上杉の死者数=上杉軍が実際に数えてみた死傷者の総数
で、うち実際の死者数は五分の一くらいでないかと思うんだよね。
武田の死者数は誇張の気があるにせよ(そもそも三千というのは
漢文では「沢山」という程度の意味)弟が死んだんだから、
それなりの数でいたんだろうという感じで納得はしてるが・・・。
339日曜8時の名無しさん:2007/12/26(水) 14:21:24.11 ID:In5HaK9y
槍ってのは密集隊形で使うもんだからな。
戦国日本の騎兵が歩兵を多数連れた1隊が
多数集まった状態での戦闘を想定するなら
前を固める歩兵が槍を持ち、
馬上の武士は槍より刀や金棒などの小回りの効くものを使っていただろう。
>>321
倭寇が日本刀を持って中国人相手に大暴れしてるぞw
中国人の剣では日本刀より短いためリーチが足りずにアボン、
槍では日本刀の方が小回りが利くので懐に飛び込まれてアボン。
だそうだ。
>>338
武田側は弟とその賦役が討ち取られ、総大将が怪我をし
上杉側は小物しか死んでいない以上考えられるのは
・武田は大将格を守る雑兵も殺され壊滅状態に陥っていた
・武田側は陣形を崩し大混乱状態だったが
上杉側は最後まで隊形を崩すことは無かった。
のどっちかだろうな。
340日曜8時の名無しさん:2007/12/26(水) 14:51:56.00 ID:RvfczSmX
>>338
うん
謙信はこの後すぐに関東方面へ出兵してる

信繁、諸角以外に川中島で討ち取られた初鹿野忠次って武将な
今まで山本管助のような使者か足軽大将だと思ってた
でも小田原包囲の時に氏康への援軍として、甲斐から一人派遣された大将だったんだな

武田は他にも「油川彦三郎、安間弘家、三枝守直らのような上級武将も討死に」
したそうだし
341寿桂尼さまにスリスリ:2007/12/26(水) 16:05:51.49 ID:tMkdK846
結局、馬上槍だったか馬上刀だったかなんて、誰も見た人間がいないのだから、
それぞれの想像でいいんだよ。
342寿桂尼さまにスリスリ:2007/12/26(水) 16:08:26.93 ID:tMkdK846
>前を固める歩兵が槍を持ち、
>馬上の武士は槍より刀や金棒などの小回りの効くものを使っていただろう。

え〜!馬の前を歩兵が守るだって?最初の陣形はそうかもしれないが。
343日曜8時の名無しさん:2007/12/26(水) 16:21:40.23 ID:9VGdkoXa
騎馬隊の真髄は突撃なんだって。
混戦で足止めて刀振り回してたらいい的。
344日曜8時の名無しさん:2007/12/26(水) 16:34:49.05 ID:Doj5J4wW
騎兵での密集隊形を取ってない以上騎兵=将校が戦闘に参加する段では
弓や投石の射ち合い、長槍での衝突も過ぎてすでに乱戦状態に入ってるだろ。
片手は手綱をさばかなければならんのだから接近してきた敵を捌くには
槍を使うよりは片手で扱え敵の攻撃を払うこともできるもの、
金棒や鎚とかの方が有用じゃないか?
鎌倉時代の一騎打ち方式なら長い獲物を振り回したほうが有利だろうが。
345日曜8時の名無しさん:2007/12/26(水) 17:38:30.00 ID:4AorcUI2
今回の大河では武田側がやる気満々みたいな描かれ方だったけど、
実際大激突になったのは不測の事態だったんだろうな。
12000は奇襲部隊ではなくて妻女山への押さえであって、真の目的は
8000の本隊での善光寺急襲(少なくともその姿勢)。それを炊煙バレか
間諜バレかは別として上杉方の知るところとなり、秘かに回りこまれたから
武田方は待ち伏せ喰らって大被害になった、ってことかな。

第五次も大規模戦闘なしってことは終始一貫武田としては戦う気なし、
(必要無し)ってことでしょ。特に五次は弔い合戦の趣でもおかしくないのに。
346寿桂尼さまにスリスリ:2007/12/27(木) 02:54:12.06 ID:I2ZPEFgs
>鎌倉時代の一騎打ち方式なら長い獲物を振り回したほうが有利だろうが

この頃の馬上武者は槍など持っていません。自らは弓の射手で、槍は郎党に
持たせています。騎馬武者同士の一騎打ちなんて、戦闘ではほとんどなく、
馬の周りに郎党が数人控えて、数人同士の戦いが主流です。

問題は、弓の射手であった騎馬武者が、川中島合戦の頃には、何を武器に
して戦ったのか?ということです。武田騎馬軍団があり、長篠の戦いでそれ
が滅んだのなら、騎馬武者だけの集団があったと思うしかありません。

三方が原の戦いも、武田軍はかなりの機動力を発揮しているから、騎馬軍団
で徳川軍を追撃したのだろうと思います。では、彼らは、何を手にし、どの
ような戦い方を基本としたのだろうか?ということです。

ローマ時代の歩兵主体の戦いでさえ亀甲戦法があったのだから、何にも工夫が
なかったということは、有り得ません。

347日曜8時の名無しさん:2007/12/27(木) 03:37:14.45 ID:FI7Ed/4/
>>346
武器は振り回さずにシンプルに馬群で敵兵を飲み込みだと思うよ。
348日曜8時の名無しさん:2007/12/27(木) 07:39:09.22 ID:pixaFG2D
武田騎馬軍団とかなかったといわれてると思うんだが。
長篠は多勢の織田に武田が押し切られただけで最強騎馬軍団が鉄砲に負けたとか講談の世界。
349寿桂尼さまにスリスリ:2007/12/27(木) 07:44:59.90 ID:M9KwWZ2d
>348
え〜。馬防柵もないし、三段構えの鉄砲撃ちもなかったの?
現地に行くと、地元が馬防柵を復元しているよ。あれも講談が根拠?
地形的には、それらしい場所とは思うが。武田も織田・徳川も細長い谷あいを
挟んで対峙した感じで、武田から攻撃を仕掛けたのなら、盾だけでは足り
なそうだけど。
350日曜8時の名無しさん:2007/12/27(木) 07:55:02.48 ID:IzrCHDwi
真田六連銭を勘助に渡したことを伝えたかったんじゃねーの?
351日曜8時の名無しさん:2007/12/27(木) 08:25:35.26 ID:IDLOJEUy
そもそも1000人の鉄砲隊に一斉に命令する方法なんてないと思われ。
1本でも物凄い騒音出すのに1000本もの鉄砲が鳴り続けてるところで
音声で命令伝えるのは不可能。最初の「撃て」だって,1000人並んだ
鉄砲隊の端から端まで聞こえるとは思えん。
352寿桂尼さまにスリスリ:2007/12/27(木) 09:14:00.70 ID:M9KwWZ2d
号令なんか必要なくて、3人一組で変りばんこにやればいいじゃないの。

異説を唱えるのもけっこうだが、しっかりとした根拠を挙げてもらいたい。
353日曜8時の名無しさん:2007/12/27(木) 09:25:09.12 ID:IDLOJEUy
>>352
>号令なんか必要なくて

もうちょっとマシな釣りしてくれよ
354日曜8時の名無しさん:2007/12/27(木) 09:33:33.25 ID:djBCMEk2
当時の火縄の場合、次の準備までどの位の時間を要するのかな。
それにも寄ると思うが。
三段撃ちは作戦でも何でもなくて、必要に迫られて出てきたものだろう。
355寿桂尼さまにスリスリ:2007/12/27(木) 20:03:26.87 ID:M9KwWZ2d
三段撃ちは別に珍しいことではなくて鉄砲が発達した場所では通常にあったよ。
アメリカで先込め銃を100丁ぐらい見たし、うち2丁は実際に手にとって見た。
関が原の鉄砲をみたが、南北戦争時代の先込め銃と大差がないぐらい発達した
ものだった。パーカッションキャップが火縄になっている程度だった。火薬は
分からないが、南北戦争当時も紙に包んだ黒色火薬を詰め、鉄の詰めた程度だ
あら、南北戦争を遡る事350年に、このように発達した鉄砲を大量に使用して
いた日本の有様に、驚嘆を覚えざるをえなかった。

http://www3.ocn.ne.jp/~zeon/sengoku/nagasino.htm
356日曜8時の名無しさん:2007/12/27(木) 22:09:54.50 ID:g4tmMmh0
三段撃ちによる戦果はそれほど大したものでもなくて
通常の戦闘で勝ったって説はかなり前にNHK自身が
歴史番組でやってたような気がする
357日曜8時の名無しさん:2007/12/27(木) 22:15:38.50 ID:ppzQ58ny
だって、穴山とか信廉とか二代目典厩とかが真っ先に逃げ出したんだからな。
まともな戦いの形にすらなってなかったわけで。
このときに四郎が勘助の義理の息子の言うとおりに穴山を処刑しておけば
武田はもう少し持ったかもしれないが。
武田軍団が案外しょぼい烏合の衆であることを認めたくなかったんだろうなあ。
358日曜8時の名無しさん:2007/12/27(木) 22:46:26.17 ID:67u0o/Yh
>>357
>四郎が勘助の義理の息子の言う通とおりに
って、>義理の息子 なんて物語上の設定じゃん。
359日曜8時の名無しさん:2007/12/28(金) 00:40:37.86 ID:+Ew6McER
でもまぁ三段だが、四段だか知らんが、考えつくのは予想できるよな。
連発できたら有利じゃね? って考えるのは自然。となれば、
じゃあいっぱい買って、並べてみる? ってw 
そんな突飛な発想じゃない。あとは経済力の問題だな。
360日曜8時の名無しさん:2007/12/28(金) 20:51:53.92 ID:qH4gYHCN
武田家というのは地元有力大名の連合国家という色合いが
かなーり強かったのが信玄没後にドンドン求心力が低下して
勝頼はいろいろ頑張ってイイトコ見せたりしてたんだけど
やっぱりだめぽだった、という話もNHKでやってたな。
361日曜8時の名無しさん:2007/12/29(土) 02:22:16.01 ID:0v9lgpRN
>>360
それでも武田一族なんだけどね
勝頼を裏切った穴山信君なんて信玄の姉が母だし
板垣、甘利、飯富、穴山、勝沼、初鹿野など、力を持った領主は殆ど武田一族
しかも信玄〜勝頼の頃に武田の中心だった
高坂、馬場、内藤、秋山あたりは信玄によって引き立てられた連中だし

例えば越後のように
揚北本庄(秩父平氏)新発田(佐々木源氏)中条(三浦和田)
柿崎、宇佐美(大見氏) 越後毛利氏(大江氏)
上条、山本寺、八条上杉(上杉一族)と 大熊(その家臣)
古志長尾、上田長尾、三条長尾(長尾一族)
これほど別々の家が乱立してる訳じゃない

武田にとって痛かったのは典厩の子、信豊がヘタレ
信玄の弟、信廉がヘタレ
だけでなく血縁が近い穴山が裏切るなど、一族内部から崩壊していった
362寿桂尼さまにスリスリ:2007/12/29(土) 07:04:45.83 ID:AXysIvRp

織田信長の領国に比べると、GNPが格段に低い(信長の6分の1)とかも
NHKでやっていましたね。中央統制型というより企業コンソーシャムみた
いな性格があったとも。具体的に自ら資料を調べているのではないですが、
なんとなく、武田家の崩壊過程を見ていると、NHKの解説の通り受け取って
よい感じがします。
363日曜8時の名無しさん:2007/12/30(日) 08:12:31.47 ID:QargdIXU

テーマが勘助から逸脱してる
364日曜8時の名無しさん:2007/12/30(日) 08:29:57.17 ID:HEUlUj8I
>>362
尾張と美濃を治めた時点で石高は全国No.1じゃなかったっけ

>>363
山本勘助という名前は武田家家臣の共同ペンネームのような存在で
要するに「悪いことやったのは全部コイツなんですよ」という設定
という説はまだNHKではやってなかったかな
365日曜8時の名無しさん:2007/12/30(日) 17:32:26.05 ID:DfXq+H2m
でも勉強するには凄くいいスレだ。
みんな凄く熱く語ってる。驚いているよ、物知りで。
ちょっとアンチスレと間違えちゃうけどね。
366日曜8時の名無しさん:2008/01/01(火) 21:03:17.47 ID:8QiyugIw
三千人の鉄砲名人育てるより千人の射撃上手を育てて
2千人を弾こめ役にして上手い奴が打ちまくった方が
効率いいと思うけどなー
三段撃ちっていっても三列に分けて交代交代で撃つような
事はしなかったんじゃないの?
367日曜8時の名無しさん:2008/01/01(火) 21:39:27.71 ID:gwpmZfa2
そもそも1000人が誰かの指示で規則正しく一斉射撃する必要ないんじゃない?
50人に1人か10人に1人か知らないけどリーダー決めて指示は最初の「撃て」と「止め」だけでいいと思う。
全戦線に渡って敵が同時に攻めてくればともかく左端の射手達が発砲する時に
右端の射手達が射程内に敵がいないにもかかわらず一斉射撃に付き合う必要ないし
「射程内に敵が入り次第各自自由に撃て」というシンプルな指示で十分な気がする。
例え10人一組でも一斉射撃させてしまうとヘタすると1人の敵に全員の弾が集中して他は無傷なんて
可能性もあるかもしれないし各個バラバラに撃ってくる方が攻める身になってみると遥かに近寄りがたい。
野戦といっても射手達は実質的に城の城壁の鉄砲狭間に張り付いて待機しているようなもんだろうし。
368日曜8時の名無しさん:2008/01/01(火) 22:12:58.54 ID:gwpmZfa2
>>366
それなら余計なスペース使わないし面倒くさい運動に神経使わなくて済むからいいよね。
土塁の後に全員しゃがんで射手が射撃し「次よこせ」。背後の装填手達が「はいよ」と銃を手渡す。
不運にして射手が被弾か疲労でもしたら2番目に上手い奴が交代
装填手は1人になるからその小グループの射撃ペースは落ちるだろうけど大した問題じゃないし。
三段撃ちとかやれば見栄えはいいだろうけどなんだかリアリティを感じない。
まあ素人が脳内イメージだけで語ってますがw
369日曜8時の名無しさん:2008/01/17(木) 16:21:03.93 ID:tCfFfrga
>>362
確かに、当時は新潟県(越後)は現在のような米どころではなかったしね
気候が温暖で平野と低い丘陵が広がっている愛知県(尾張)は、石高多そうだ
今も中京工業地帯で日本の中でもGDP高いし
信長は運がいい
370日曜8時の名無しさん:2008/01/17(木) 17:00:49.61 ID:lSRa6ols
ほとんど伝承レベルの人物を無理に史実にはめようとしたから中盤以降失速したんだと思う。
武田家入るまでのオリジナル展開は制約ないためか、なかなかの疾走感だったし。
371日曜8時の名無しさん:2008/01/17(木) 18:29:27.89 ID:i4H58oEM
尾張56万石、美濃54万石、伊勢57万石、近江77万石、越前50万石。




372日曜8時の名無しさん:2008/02/01(金) 20:31:21.10 ID:hrYX051R
>>370
単に原作がクソなんじゃ?

前年のテレ朝のドラマも酷かったし
373日曜8時の名無しさん:2008/02/01(金) 23:04:10.42 ID:3Q7wt4kc
原作はクソじゃないぞ。
古臭いだけ。
374日曜8時の名無しさん:2008/02/02(土) 11:28:51.01 ID:1ukInz7J
原作はクソ。
心理まで描写された登場人物が極端に少なく
2人か3人だけでやってる、学芸会の説得力のない台本みたい。
まるで幼児の世界把握。
はっきり言ってあれは原作者オナニーしながら書き溜めたろ。
375日曜8時の名無しさん:2008/02/02(土) 21:16:42.87 ID:h93KRpsI
心理描写が少ないなんて言い出したら三国志とかもそうじゃん。
376日曜8時の名無しさん:2008/02/03(日) 16:56:57.31 ID:3kwECUGA
テレ朝版の風林火山は山本勘助が信玄のためにひたすら女の世話を焼く話だったな。
で、最後に戦闘中に行方不明になってエンディング。

こんな話が大河になるのか?!と驚いていたが
大河も原作パートに入ってからはドンドン失速していった。
377日曜8時の名無しさん:2008/02/03(日) 17:32:02.13 ID:zHVEvfLC
井上靖生誕100周年記念ドラマで、原作は醜い異型の偏屈な老人の軍師勘助と
滅ぼされた諏訪の悲劇の姫との愛の物語だからしょうがないよ。
最初のオリジナルの戦国活劇に、原作の無償の愛の世界を接木しておかしくなったけど。

自分もアクションや戦争ものが好きなのでオリジナルの部分のほうが面白かったが。
台詞も原作に忠実に作られてるから。三船の「風林火山」とも見比べてみた。
本来は2時間映画でいいくらいなのだが、戦国と幕末以外は衣装も小道具もセットが大変で
資料も少なく時代考証も難しく、何回も映画化され恋愛要素もある内容で、たまたま100周年と
いうことで選ばれたらしい。
大化の改新をやりたかったらしいが上層部に却下されたとか。
でもマイナーな戦国前期の関東の戦や武将が映像化されて知ることができて良かったと思う。
378日曜8時の名無しさん:2008/04/12(土) 16:37:41.32 ID:ARFeEKtz
631 :日本@名無史さん [sage]:2007/12/27(木) 11:03:27
         〃〃∩  _, ,_
         ⊂⌒( `Д´) < 啄木鳥失敗なんてヤダヤダ!
           `ヽ_つ__つ
                  ジタバタ
          _, ,_
         (`Д´ ∩ < 信繁討ち死になんてもっとヤダヤダ
         ⊂   (
           ヽ∩ つ  ジタバタ
             〃〃
        〃〃∩  _, ,_
         ⊂⌒( つД´) < 越後になんか負けたくないもん
           `ヽ_ ノ ⊂ノ
                  ジタバタ

         ⊂⌒(  _, ,_) < もう勘助の責任でいいよね……
           `ヽ_つ ⊂ノ
                  ヒック...ヒック...

         ⊂⌒(  _, ,_) 
           `ヽ_つ ⊂ノ  zzz……
379日曜8時の名無しさん:2008/05/14(水) 15:07:04.21 ID:/Lo7d3fP
山本勘助は架空の人物、実在しないデッチアゲの武将。
武田の暗黒面や失敗した作戦の責任を負わせて川中島で死んだことにされた。
380日曜8時の名無しさん:2008/05/15(木) 09:48:47.28 ID:LPWg47IQ
勘助のせいじゃなくて演出家のせいだよね
行儀よく二列に整列して前になれ状態で攻めに行く姿が
なんとも見窄らしい
こういう時のCGじゃね〜のかね
381日曜8時の名無しさん:2008/05/16(金) 22:07:24.51 ID:ND0lVOXD
このスレタイ見るたびに勘助涙目wwwの図がまぶたに浮かぶ。
382日曜8時の名無しさん:2008/08/05(火) 10:20:07.64 ID:7geVtKjC
>>380
もうこの手の大規模な合戦の描写は中国ドラマはもちろん韓国ドラマにすら負けているからな。
383日曜8時の名無しさん:2008/10/10(金) 23:52:47 ID:944OlTNS
                                          (^ω^;) (;^ω^)
384日曜8時の名無しさん:2008/10/28(火) 01:10:32 ID:naa6XZg/
へたな吉本芸人の漫才みてるかんじ
冷や汗が出る
385日曜8時の名無しさん:2008/12/18(木) 22:12:10 ID:Y1dbpeQE
このスレも無事に1周年を迎えることが出来ました
386日曜8時の名無しさん:2009/05/05(火) 20:15:08 ID:MAqldCZc
ほしゅ
387日曜8時の名無しさん:2009/05/06(水) 09:51:29 ID:nJFHxPQx
保守の必要を感じないが
388日曜8時の名無しさん:2009/05/06(水) 23:45:16 ID:6aJhELN4
戦国時代大河は高視聴率とりやすいという有利な条件にもかかわらず
戦国時代大河史上最低の平均視聴率に甘んじて無残にも失敗作に終わった

【風鈴火山】

理由はどこにあるのか?
類似題材を扱った大河ドラマ「武田信玄」の平均視聴率は歴代二位の超高
視聴率・39.2%を誇っている。一方で、風鈴がその半分にも満たない平均
視聴率18.7%という悲惨な失敗作となったのはなぜか?

歴代大河ドラマの平均視聴率ベスト10 の多くは戦国時代もの

第1位 独眼竜政宗(1987年、渡辺謙)・・・39.7(初回28.7、最高47.8)
第2位 武田信玄(1988年、中井貴一)・・・39.2(初回42.5、最高49.2)
第3位 春日局(1989年、大原麗子)・・・32.4(初回14.3、最高39.2)
第4位 赤穂浪士(1964年、長谷川一夫)・・・31.9(初回34.3、最高53.0)
第5位 おんな太閤記(1981年、佐久間良子)・・・31.8(初回32.7、最高36.8)
第6位 太閤記(1965年、緒形拳)・・・31.2(初回35.2、最高39.7)
第7位 徳川家康(1983年、滝田栄)・・・31.2(初回34.9、最高37.4)
第8位 秀吉(1996年、竹中直人)・・・30.5(初回26.6、最高37.4)
第9位 いのち(1986年、三田佳子)・・・29.3(初回26.6、最高36.7)
第10位 八代将軍吉宗(1995年、西田敏行)・・・26.4(初回22.1、最高31.4)

歴代幕末大河ドラマの平均視聴率ベスト3

篤姫(2008年、宮崎あおい)・・・24.5(初回20.3、最高29.2)
勝海舟(1974年、渡哲也/松方弘樹)・・・24.2(初回30.5、最高30.9)
翔ぶが如く(1990年、西田敏行)・・・23.2(初回26.9、最高29.3)

389日曜8時の名無しさん:2009/06/03(水) 22:16:15 ID:JcY/TER2
武田の癌 (o^o^o)
390日曜8時の名無しさん:2009/06/03(水) 22:55:09 ID:TcwYpdnM
もう終わってるスレだろ
自分が立てたからってわざわざageるなよ>>1
391日曜8時の名無しさん:2009/06/03(水) 23:17:46 ID:JcY/TER2
「今宵はここまでに・・・」 (^ε^)
392日曜8時の名無しさん:2009/06/06(土) 23:33:01 ID:WDvqVCBS
山本勘助の名は(戦後に発見された市河文書を除き)『甲陽軍鑑』以外の戦国時代から江戸時代前期の史料には見えない。
勘助の生涯とされるものは全て『甲陽軍鑑』およびこれに影響を受けた江戸時代の軍談の作者による創作であると考えられている。
各地に残る家伝や伝承も江戸時代になって武田信玄の軍師として名高くなった勘助にちなんだ後世の付会である可能性が高く、
武蔵坊弁慶の伝承・伝説と同様の英雄物語に類するものとするのが史家のあいだでは通説である

元禄年間作成の松浦鎮信(天祥)の武功雑記によると、山本勘助の子供が学のある僧で、
わが親の山本勘助の話を創作し、高坂弾正の作と偽って甲陽軍鑑と名付けた作り物と断じるなど、
早くから世上に流布された名軍師としての存在を疑われることがあった。
ここでは、山本勘助という人物の存在は認めながらも、甲陽軍鑑は偽作であり、
軍鑑にあるような信玄の軍師ではなく、山県の家臣であると論じている。

明治24年(1891年)、東京帝国大学教授田中義成は論文『甲陽軍鑑考』を発表して、『甲陽軍鑑』の史料性を否定。
『甲陽軍鑑』のみに登場する「軍師山本勘助」の実在を否定して、勘助は山県昌景配下の身分の低い一兵卒がモデルであろうとした。
田中は『甲陽軍鑑』は軍学者小幡景憲が高坂弾正に仮託して書いた創作物であるとし、
『武功雑記』(肥前平戸藩主松浦鎮信著、元禄9年(1696年)成立)の記述を根拠として、
『甲陽軍鑑』は勘助の子の関山派の僧侶の覚書を参考にして書かれ、
この僧侶の覚書では顕彰の意味で父を誇大に活躍させており(この時代の家伝の類では通例である)一兵卒に過ぎない勘助が武田家の軍師とされてしまったと断じた。

実証主義歴史学の大家である田中義成の見解は権威あるものとされ、
田中の高弟渡辺世祐などもこれを支持して、以後は『甲陽軍鑑』を歴史学の論文の史料として用いることが憚られるような風潮となる。
活動はおろか名前自体がその他の史料での所見が無い山本勘助の活動もまた史実とは考えられなくなり、
更に進んで架空の人物と考えられるようにさえなった。

『甲陽軍鑑』に記された”山本勘助”と『市河文書』の書状に残された”山本菅助(やまもとかんすけ)”とを直接結びつける記録は発見されていない。
『甲陽軍鑑』の作者が実在の”山本菅助”をモデルにしているとの説も可能性の域を出ず、
架空の人物を創造した可能性とともに、今後の検証が必要である。
393日曜8時の名無しさん:2009/06/07(日) 19:39:52 ID:I4q3/ljg

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394日曜8時の名無しさん:2009/06/17(水) 23:04:40 ID:Ltl0JYoI
玉砕大河
395日曜8時の名無しさん:2009/08/02(日) 13:55:12 ID:9Bb7G0sO
やっぱり山本勘助はいた? 群馬、存在示唆する書状
http://www.asahi.com/culture/update/0728/TKY200907280229.html

 戦国武将・武田信玄の軍師として知られ、NHKの大河ドラマの主人公にもなっ
た山本勘助。一般の知名度とはうらはらに、歴史学界では実在が疑問視されてい
た。だが、そんな勘助の存在を示唆する書状が群馬県で見つかった。

 同県安中市の市学習の森ふるさと学習館の佐野亨介学芸員らが昨年5月、市内
の旧家で見つけた。山梨県立博物館の海老沼真治学芸員が調べたところ、使われ
ている紙や書状の様式、筆遣いなどから16世紀後半〜17世紀初頭のものと判
明した。

 書状は武田信玄の花押(サイン)が入ったもの。2通あり、あて名は「山本菅
介」「山本菅助」となっていた。

 「菅介」あての書状は、菅介の信州・伊那での活躍を賞し、百貫文を与えると
述べている。「菅助」あては、信玄が菅助に宿老・小山田信有の病状を見てくる
よう命じた内容だ。

 海老沼さんは書状について「『山本かんすけ』という人物が、大きな武功を立
てて褒賞を受けたことや、信玄の側近的な地位にいて武略にかかわる職務に携わっ
ていたことをうかがわせる」と指摘する。

 勘助は江戸時代の軍学書「甲陽軍鑑」に登場する。だが、この書は他の記録と
の矛盾が多く、他の史料にも名前が見あたらないため、歴史学者の間では勘助の
実在を疑う声が強かった。「甲陽軍鑑」以外では、60年代に発見された武田信
玄の書状に「山本菅助」の名が出ている。

 戦国時代の文書では異なる漢字を使った人名表記は珍しくない。山本勘助と同
じ音を持つ武将が信玄の側近にいたことが明らかになったことで、これまで歴史
学界で大勢を占めてきた非実在説は修正を迫られることになりそうだ。
396日曜8時の名無しさん:2009/10/08(木) 13:32:21 ID:qUYzKRQE
山本勘助の名は(戦後に発見された市河文書を除き)『甲陽軍鑑』以外の戦国時代から江戸時代前期の史料には見えない。
勘助の生涯とされるものは全て『甲陽軍鑑』およびこれに影響を受けた江戸時代の軍談の作者による創作であると考えられている。
各地に残る家伝や伝承も江戸時代になって武田信玄の軍師として名高くなった勘助にちなんだ後世の付会である可能性が高く、
武蔵坊弁慶の伝承・伝説と同様の英雄物語に類するものとするのが史家のあいだでは通説である

元禄年間作成の松浦鎮信(天祥)の武功雑記によると、山本勘助の子供が学のある僧で、
わが親の山本勘助の話を創作し、高坂弾正の作と偽って甲陽軍鑑と名付けた作り物と断じるなど、
早くから世上に流布された名軍師としての存在を疑われることがあった。
ここでは、山本勘助という人物の存在は認めながらも、甲陽軍鑑は偽作であり、
軍鑑にあるような信玄の軍師ではなく、山県の家臣であると論じている。

明治24年(1891年)、東京帝国大学教授田中義成は論文『甲陽軍鑑考』を発表して、『甲陽軍鑑』の史料性を否定。
『甲陽軍鑑』のみに登場する「軍師山本勘助」の実在を否定して、勘助は山県昌景配下の身分の低い一兵卒がモデルであろうとした。
田中は『甲陽軍鑑』は軍学者小幡景憲が高坂弾正に仮託して書いた創作物であるとし、
『武功雑記』(肥前平戸藩主松浦鎮信著、元禄9年(1696年)成立)の記述を根拠として、
『甲陽軍鑑』は勘助の子の関山派の僧侶の覚書を参考にして書かれ、
この僧侶の覚書では顕彰の意味で父を誇大に活躍させており(この時代の家伝の類では通例である)一兵卒に過ぎない勘助が武田家の軍師とされてしまったと断じた。

実証主義歴史学の大家である田中義成の見解は権威あるものとされ、
田中の高弟渡辺世祐などもこれを支持して、以後は『甲陽軍鑑』を歴史学の論文の史料として用いることが憚られるような風潮となる。
活動はおろか名前自体がその他の史料での所見が無い山本勘助の活動もまた史実とは考えられなくなり、
更に進んで架空の人物と考えられるようにさえなった。

『甲陽軍鑑』に記された”山本勘助”と『市河文書』の書状に残された”山本菅助(やまもとかんすけ)”とを直接結びつける記録は発見されていない。
『甲陽軍鑑』の作者が実在の”山本菅助”をモデルにしているとの説も可能性の域を出ず、
架空の人物を創造した可能性とともに、今後の検証が必要である
397日曜8時の名無しさん:2009/10/08(木) 17:06:08 ID:pETMTq4L
その論調も今となってはもう古いな。>>395の書状で
さらに甲陽軍鑑の山本勘助像に近づいた。
398武田マンチカン:2009/10/11(日) 13:53:30 ID:L4wTR3mA
これを見ずして風林火山
武田軍のゆるキャラ
http://www.youtube.com/watch?v=vXrkutDVN8M
399日曜8時の名無しさん