なま板スレ改易されちゃいました。お市&てつを&茶々ネタは今後ここかなー
記憶にある限りの戦国物で、三姉妹が満足のいく描かれ方をされたことない。
それが不満だったが、なんか浅井氏寄りっぽい描写だし茶々も可愛いので
これからの描かれ方に期待をしたいのだが、あんま詳しくやる時間はないだろうな。
茶々を、お江の前夫との子を引き取って育てあげたり、
姪の千姫を気遣って秀頼側室の子をお初に養育させたり、
また、亡父に縁ある近江武士達や侍女達に心酔されたりする
心の優しい、気配りのできる貴婦人として描いてほしいのだが。
>>385 人格者だったらしいだけに、大坂の陣での失策が痛すぎたなぁ・・・
軍事戦略の分野でも叔父並みの才能を兼ね備えていて
徳川連合軍を撃退・壊滅できていたら・・・・
北条政子を超える女神と崇め奉られていたこと間違いなし?
>>386 司馬が書いた千代みたいに、大局を見ることのできる人物だったら
お初が調停に出てきたときに話に乗っただろう。
うまいこと動いて家康に口実を与えず、秀頼を前田並みの大名にすることも。
二人の妹に比べて政治センスに乏しかったのか?
それとも、すでに成人していた秀頼に大将の器がなかったのか。
大阪の陣は籠城戦だから、迎撃だけで相手を壊滅するのは不可能に等しいよ。
やったら確かに女神だね。
秀頼は武将としての器、人身掌握術ともに長けたひとかどの人物だったらしい。
だから家康にとって天下取りには最大に邪魔な人物だったから、誰がどう動こうと
秀頼は消えてもらうしかなかった。のだという史学家もいる。
大坂城から一歩も外に出たことがなく、合戦を指揮した経験もないんだから、
仮に才能があったとしたって器がどうこうって言えるレベルじゃないだろう。
それは単にその作家なり史家の願望を言ってるだけではないか。
成人して家康と会見したときに、若くて身体が大きいから家康が威圧感を受けたくらいのことは
あるかもしれないが
徳川に謀反を企てる者にとって担ぎ上げる神輿としてしては充分な器と
判断したのではないかな。家康自身が記した物の中にもその記述がある
わけだし。
391 :
日曜8時の名無しさん:2006/04/20(木) 23:02:32.31 ID:bwHIMSB/
茶々に兵法の心得はなかったのか。
>>390 太閤への恩義を感じている家や、徳川に取り潰された藩の浪人など
秀頼の名の下に決起すればかなりの勢力になるもんな
250年それを思い続けた毛利や奥州越なども秀頼が立ったら結集するだろうしね
外様もいいとこだもんね。前田や毛利なんてメじゃない。
茶々は貧乏くじ引いたと諦めたのかな。
千姫を城から出すなど、戦国のルールは守ってるから、
ヒスは起こしてないんじゃないか。冷静だったと思う。
今日のスタパにお市様が出ます。
395 :
日曜8時の名無しさん:2006/04/21(金) 18:06:12.99 ID:qZKtHh2Y
秀頼の書いた手紙の筆跡のみごとさが、
当時の京の公家たちの間で評判だった、
というのはある。
>>395 やっぱり武家より公家向きだったかもね。
お袋さんが(一応)藤原一門なんだから
公家になっていればよかったのに・・・
早々に大坂城を手放して、公家もしくは高家として
”家禄は少なくても家格は高い”存在になっていれば生き残れる道もあったのかな。
例えば1万石程度の家禄で江戸常駐(江戸城内に屋敷を構える)
千姫との間に子供が出来たらさっさと隠居。
まあこんな扱いはプライドが許さないだろうけれどね。
でもどんな状態になったとしても、
反徳川の旗頭として担ぎ出される危険はあるだろうから、
結局はダメだろうな・・・
一応清和源氏を名乗る家康のこと(かなり眉唾だが)
兄弟でも奥州藤原でも自分を生かしておいたことで平家が滅亡したことを
踏まえて反勢力になる可能性のある者を根絶やしにした頼朝をお手本にした
のだろう。
公家になっても出家しても、足利義昭のケースもあるし。
でも、羽柴家なんて所詮は秀吉一代で成り上がった家なんだから
時代が少し下れば脅威ではなくなるように思えるんだけど。
羽柴右大臣自身も野心家だったではなかったようだし。
秀吉は信長が呆れて語り草にさえするほど貢物を出したという話が残っている
成り上がりでも天下取りの後も、これは利用できると踏んだ人間には報奨を
惜しまず、金山などの財力に明かせて湯水のように与えたというから
秀吉のように成り上がった者で、尚且つ家康に恨みのあるものにとって
秀頼は謀反を起こす御旗としては立てやすい一番の人物だったと思われ。
長政の髑髏って残ってないの?
>>397 高家って武家の中でも由緒と歴史がなければ難しいんじゃ・・・
403 :
日曜8時の名無しさん:2006/04/22(土) 10:02:25.42 ID:bSOMo0gc
>>401 それ以前に、どうやって長政たちの頭蓋骨を回収したのか。
小谷城は炎上して、長政の死体も炭化してしまったはずなのに。
>>403 信長公記 巻六 十五
八月廿七日夜中に、羽柴筑前守京極つぶらへ取り上り、浅井下野・同備前父子の間
取切り、先ず下野居城を乗っ取り候。爰にて浅井福寿庵腹を仕候。
去程に、年来目を縣けられ候鶴丸大夫と申候て、舞をよく仕候者にて候。下野を介錯し、
去て其後鶴松大夫も追腹仕り、名誉是非なき次第なり。羽柴筑前守下野が頸を取り、
虎後前山へ罷上り、御目に懸けられ候。翌日又、信長京極つぶらへ御あがり候て、
浅井備前・赤生美作生害させ、浅井父子の頸京都へ上せ、是又獄門に懸けさせられ、
又浅井備前十歳の嫡男御座候を尋出し、関が原と云う所に張付に懸けさせられ、
年来の御無念を散ぜられ訖。
406 :
日曜8時の名無しさん:2006/04/22(土) 15:01:58.19 ID:MClI5jgd
万福丸は関が原で磔かよ。
不破市乃丞の屋敷があるあたりじゃん。
京都や岐阜じゃやらんのね。
さすがにむごすぎるからか。
>>406 誰に見せるか、ってのが大事だからね。
もうちっと近江の中心の方が効果あると思うが。
408 :
日曜8時の名無しさん:2006/04/22(土) 19:50:30.01 ID:MClI5jgd
秀吉の死後大坂城は浅井の残党に乗っ取られました。
茶々本人は織田の一族のつもりだったようだが。
>>409 「春日局」ではまさに織田一族そのものでした。
お初もおごうもまったく同様。
親父や兄貴たちの敵を徹底的に持ち上げてましたな。
あの時代を生きていく三姉妹にとっては「滅ぼされた浅井の遺児」であることよりも
「豊臣の主筋である信長の姪」であることの方が格式の上からも重要だよ。
ん〜。
お市は実家が織田だから三七応援して柴田に嫁ぐなど織田一族として動いてたが、
三姉妹が織田一族として云々ってのは後世からみた意味づけじゃないかな〜?
しかも「春日局」なんてあの橋田脚本だよ…
戦国の常識で言ったら三姉妹はあくまで浅井家の者なんじゃないの?
秀吉が茶々の周囲に近江系の武士を集めていたことや
お初の嫁ぎ先が浅井家主筋である近江の京極家であるなど
三姉妹は近江や浅井に深い関わりを持ち続けたんじゃないかな?
徳川の系図にお江は「浅井達子」という名前で載ってるし。
浅井といより織田、だから柴田勝家
美濃の織田信孝連盟の証し
>>415 てことは、備前守はみすみす自らの首と城を敵に・・・?
朝倉が敗退して小谷は終ったものな
主の首で停戦して篭城組が救われると
ほしゅ
419 :
日曜8時の名無しさん:2006/04/25(火) 11:08:42.41 ID:d3uBh5Q/
よくがんばった
420 :
日曜8時の名無しさん:2006/04/25(火) 14:10:33.24 ID:49FTSCVM
せいぜい五、六歳で生家が滅んで、後は母のお市とともに
実家の織田家で信長の姪御様として手厚く養育されるわけだから、
本人の意識としては織田の姫君だろう。
本人だけでなく織田の一族もそう見ていたようで、
関が原後も織田信雄、織田有楽斎、織田老犬斎など、引き続き
大坂城に出仕し、あるいは起居していた織田の武将は多い。
各自それなりに寡婦になったお市や秀頼のことを一族の縁者として
気にかけていたんじゃないの。生活を依存してたアホもいるが。
大坂冬の陣も名目上の総大将は織田有楽斎だっけ。信雄は直前で逃げたが。
結局夏の陣の前には「巻き添えは御免よ」とばかり、有楽も逃げ出すが、
家康も別段とがめ立てするわけでもなく、落城後もそれぞれの家は無事存続。
421 :
日曜8時の名無しさん:2006/04/25(火) 14:13:43.22 ID:49FTSCVM
下の二人が京極、徳川家の嫡男の正室に迎えられたのも、
浅井の遺児としてではなく、信長の姪としてのブランド性ゆえ。
京極家は近江掌握、近江慰撫のためなんじゃないかね。
浅井の遺児という立場が有効だったと思う。
徳川に行ったのはむしろ、豊臣家の手駒としてでは?
秀吉には他にも養女がいたが、実の両親や兄弟が生きている養女では不都合。
親兄弟がいなくて姉が手元にいて、甥の未亡人であるお江は好都合な存在。
織田ブランドもあったと思うが、子供のいない秀吉にとって政略結婚に使える
女子が他にいなかったというのが理由ではないかと。
423 :
日曜8時の名無しさん:2006/04/25(火) 14:59:00.88 ID:49FTSCVM
んー、でもお初が京極高次に嫁入りしたときはまだ一万石程度の
小大名だったみたいよ。近江は慰撫しなければならないほど
荒れていたわけでもないし、
こちらは秀吉の覚えめでたい側室お竜のコネでのお取り立てでしょう。
424 :
日曜8時の名無しさん:2006/04/25(火) 15:09:41.10 ID:49FTSCVM
高次の母は浅井氏で高次も小谷で育っているから、
浅井の遺児との親戚婚みたいなものかな。
>>420 >家康も別段とがめ立てするわけでもなく、落城後もそれぞれの家は無事存続。
なぜ家康は織田一族皆殺しなどの厳罰で処断しなかったんだろう?
家康は信康事件の件で織田に猛烈な怨念を持ってたはずだし、
信康たちの無念を晴らそうと思わなかったのかね?
頼朝は父・義朝を討った長田忠致親子を凄まじい方法で惨殺したという・・・
織田家で恐ろしい存在だったのは信長個人だけってことでしょ。
実際本能寺の変後に残されたのはヘタレばっかりだから
わざわざ”江戸の仇を長崎で”ってことをする必要もないんじゃないか。
>>426 それなら、なおさら一族皆殺しがやりやすかったような。
しかも徳川家への謀反という明白な罪状もあったんだし。
徳川にとって織田を甘やかす(家名存続させる)利点など無かった。
羽柴を潰したんだから織田も族滅しておくべきだったのでは?
(もっとも、織田はその後も謀反を起こそうとはしなかったが)
有楽斎は豊臣(茶々)が隆盛の時には後見人面でべったり侍っていたけれど
落ち目となるやさっさと水面下で徳川に鞍替えした。
大坂の陣の時の実態は徳川の内通者だよ。
(それを思えばギリギリまで説得しようと頑張ったお初の方がよっぽど実がある)
それに関ヶ原で本家が潰れた後は、いずれも分家筋の少祿大名ばかり。
今更目の色変えて潰さなければならない存在じゃない。
家康が頼朝を手本にして色々なことを倣っていたのは事実だけれど
全てを頼朝に擬えていたわけじゃないだろう。
頼朝の長田親子に対する憎悪は並々ならぬものがあったといえるけど
家康は織田に対して憎悪を感じていなかったのが実のところか。
家康は信康たちを排除したがっていて、信康事件は渡りに船だった・・・?
織田を潰したら、当時戦々恐々としていた外様大名がどう思ったかとか…
家康のバランス感覚じゃないかな。
潰すなら家光ぐらいになってからいちゃもんつけて改易させればいいんだが。
そうしなくて済むほど、力も何も一切失ってたってことでは?
信康切腹事件については、旧来の太閤記などにあるような、信長に命ぜられて無実の信康を
泣く泣く斬った、という説はあやしいという見方が最近は主流らしい。
信康は勇猛だったがそれだけに粗暴で、領民や家臣たちに対して傲慢な振る舞いが多く、
諌めようとした榊原康政に対して刀を抜いたという話もある。
信長に対しては、家康側から信康処断の許可を得に行ったという説もある。
信長の死後も信康の墓はみすぼらしく放っておかれたままだった。
もしそうだとすれば、家康が織田を恨む理由はない。
信康は築山殿とセットなのかな。