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沖縄県にNHKラジオ放送局が開局したのは,1942年(昭和17年)3月19日である。
1925年(大正14年)に日本ではじめてラジオ放送が開始されてから間もなく, 沖縄県にも放送局をという陳情が,当時の県知事から東京に対し何度も行われ, 昭和12年には大分・青森・福島など14局と並んで建設計画が決まった。
しかし,本土から運ばれる建設資材の不足から工事が遅れ, 結局,太平洋戦争が始まってからの開局になった。
沖縄放送局の第1声は,1941年(昭和16年)12月8日の,日米開戦の臨時ニュースであった。
開局前であったが緊急事態なので,試験電波で伝えたという。
これをきっかけに,那覇市内のラジオはたちまち売り切れ, 3月の開局時には,受信機の数は2,000台に達した。
戦時下の放送は,大本営発表の戦況やこュースが中心だったが, 学校放送や講演,経済ニュースもあり,音楽や演芸番組も放送されていた。
ローカル放送もあった。
沖縄放送局にはアナウンサーが3人もおり,10・10空襲の際には, 軍の許可も待たずに進んで警報を叫び続けたという。
しかし,当時のラジオ受信機の普及率は県内12万世帯の2%にも満たなかった。
1945年(昭和20年)3月23日,沖縄放送局は被弾して放送機が破壊され,3年間の短い命を閉じた。
21人の職員は解散し,一部は通信隊として従軍し,うち7人が戦死を遂げた。
その名前を刻んだ慰霊碑が,いまも摩文仁丘の一隅にひっそり建っている。
戦後,アメリカの施政権下におかれ,NHK放送局再開の動きはなかったが, 1949年5月,川平朝申氏の民政府や米軍への熱心な説得によって, はじめて住民向けのラジオ放送局AKARが誕生した。
「琉球の声」として翌年正式に放送を開始するが,NHKも協力し, 当初は,全放送時間の75%が,短波で中継されたNHK番組であった。
川平朝申局長は,この放送局をやがてNHKに準じた企共放送へという構想を持っていたが, アメリカはこれを容れず,商業放送へ移行させていく。
日本本土のテレビブームを受け,1959年(昭和34年)に沖縄テレビOTVが開局, 琉球放送RBCもテレビ放送を開始した。
しかし,その放送は,NHKの人気番組「ジェスチャー」「それはわたしです」「のど自慢」 「わたしの秘密」「紅白歌合戦」や学校放送番組などの提供を受け,スポンサーをつけて放送していた。
同じ頃開局したラジオ沖縄にも「三つの歌」「今週の明星」「うたのおばさん」などがNHKから提供された。
とりわけ,1964年(昭和39年)9月からの日琉マイクロ回線の運用開始で, 本土と同じナマ放送が受信可能となったが,「NHKニュース」は民放のOTVで放送されるという珍しい現象が起きた。
「あまねく沖縄全域において受信できるように放送を行うことを目的」として, 受信料による公共放送局・沖縄放送協会(OHK)を設立する.
OHKは,1972年5月,本土復帰と同時に109人の職員を含め,そのままNHKに引き継がれて新NHK沖縄放送局が誕生した.