「奇跡の詩人」データ収集スレッド 2

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996/15読売新聞(1)
[時代の肖像](10)日木流奈くん 思想家・森崎茂さん(上)(連載)
2002.06.15 西部夕刊 10頁 写有 (全2412字) 
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 ◆心の振る舞い、科学とは別次元

 NHKスペシャルで「奇跡の詩人」として紹介された十一歳の脳障害児
日木流奈(ひきるな)くんの著書が読まれている。シンプルだが意味の深い言葉に
共感の輪が広がる一方で、“やらせ”を疑う人たちの番組への批判も続出している。
日木流奈現象とも呼べそうなこの話題から、私たちの時代のどんな相貌
(そうぼう)を読み取ることができるか、福岡市在住の思想家森崎茂さんと
考えた。
                             (小林 清人)

 流奈くんは生誕直後の三度の手術のストレスから脳に障害を負った。動くことも
話すことも不自由で、わずかに動く手を母親に支えてもらって文字盤を指さし、
母親がそれを読み取るという方法で言葉を伝える。五歳から詩を書き始め、
『伝わるのは愛しかないから』『ひとが否定されないルール』など多くの本を著す
かたわら、講演もする。テレビ番組の作り方に説明不足もあって、「母親が手を
動かしているのでは」といった疑問が出されている。

 「“やらせ”を問題にする人は、表現は個人に属するという抜き難い臆見
(おっけん)にとらわれているのだと思います。本当に表現は個人のものだろうか。
イエスや釈迦の言葉は、だれのものでもない匿名性としてあります。いい言葉は、
実はだれのものでもないんじゃないでしょうか」

 テレビの映像を見る限り、どこまでが流奈くんの手の動きで、どこからが母親の
ものか判然としない。だが、森崎さんは「その判然としない所にこそ可能性がある」
と言う。

 「流奈くんが五歳の時に初めて文字盤を使って意思を伝える場面がありましたね。
『わたす さかな ぱぱ』と。これを母親は『夕食に食べた魚がおいしかったので、
お父さんが仕事から帰ったら食べさせてあげて』という意味に取る。お母さんは
『わたす さかな ぱぱ』ですべてわかったんです。そこで言葉を補ったとして、
それの何が問題ですか」

 「親子で長く濃密な会話を重ねてきて、流奈くんの手の動きと母親の手の動きは
分離できないほどになっているのではないか。息子の手の筋肉のわずかな動きで何を
伝えようとしているかが母親にはわかるということです。とても微妙な所ですが、
仮に流奈くんの言葉が母親との合作に近いものだったとしても、それはある匿名の
領域に開かれていると見て間違いないと思います。その匿名の言葉を語っているのが
流奈くんであるということもまた紛れもない事実だと考えていい」
1006/15読売新聞(2):02/06/16 14:23 ID:???
 流奈くん自身、こう書いている。〈私は私であって、あなたではない。けれど、
私は私であり、あなたである〉

 「哲学者のメルロ=ポンティも同じようなことを言っています。〈私が他人の中に、
他人が私の中に存在する〉と。ポンティはそれを幼児における自他の癒合として
言っているんですが、私は人間存在のあり方として言えることだと思っています。
せんさくをするより、流奈くんとお母さんとの間に窮屈な自己同一性を超えた新しい
存在のあり方の萌芽(ほうが)があると見た方が私の心は広がります」

 疑いを解くには科学的裏付けが必要だと指摘する識者もいるが、森崎さんは
このような科学主義の考え方に断固異を唱える。

 「科学は人間の精神現象の一つの枝葉です。枝葉に過ぎない科学が精神現象
そのものを解明することは原理的に不可能です。科学は要素還元主義をベースに原因と
結果が相関する限られた領域で妥当性を持つだけです。つまりロケットやコンピューターを
統御することはできても、心の振る舞いを合理的に説明することはできない。人が生きて
いるという事実は科学とは全く別の出来事です」

 この発言は、例えば精神病理学者木村敏氏の次のような文章を思い出させる。
〈生命それ自身を合理的に認識することはできない。認識するという行為自体が生命に
根ざしてしまっているからである〉(『生命のかたち/かたちの生命』)

 「番組を見て強いインパクトを受けました。そのことに科学的裏付けが必要でしょうか。
人間はいいものに触れて、なぜか感動するんです。その『なぜ』について、科学が何かを
言うことはできません」

 “やらせ”か否かをめぐる議論に対しては、もう一点、これも科学主義のはらむ問題と
重なることだが、どうしても言っておきたいことがあるという。それはいわば倫理や
人間性の次元にかかわっている。

 「流奈くんの言葉は世界を肯定するポジティブな姿勢で一貫していますが、このような
感性の起源は、障害のある子を無条件に受け入れた母親との関係にあります。そのように
して受け入れたわが子を使って“やらせ”まがいのことをしたとすれば、その行為はその子に
対する完全な裏切りであり、存在の全否定につながる。そんなことは絶対にできないだろうと
いうのが私の直感です。そうでなければ、流奈くんがあんないい顔をしていられるはずがない」

 「そんなむごいことをやれば、母親自身の人間が壊れてしまいますよ。人間性の根幹を
自ら損ねるようなことをやっているんじゃないかと人々は疑っているわけですが、科学的に
検証されていないからと言って、そこまで疑ってかかっていいものだろうか。科学的である
こととか実証的であることとかにこだわりすぎて、ものごとを見るまなざしが浅ましくなって
いるように思います」

 表現を個人の所有と見る思い込みも、科学主義も、目下ますます高じつつある現代の病だと
いうのが、森崎さんが言いたいことのようだ。「伝わるのは愛しかない」という痛切な言葉は、
おそらくだれの口から発せられても美しく響くに違いない。
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 ◇もりさき・しげる 思想家、針きゅう師。1949年生まれ。九州大卒。
著書に『内包表現論序説』、論文に「『部落』の背景・『感性』の現在」(『乾坤』8号)などが
ある。近く『GUAN1―内包存在論草稿』(私家版)を刊行予定。福岡市在住。

写真=「科学というイデオロギーが世界を覆いつつあることに強い危機感を感じている」と
森崎さんは言う=江口聡子撮影