【栃木】「(イチゴの苗を)即刻抜いて麦を育てろ」 戦時中イチゴ栽培農家弾圧の歴史、県元職員が戦争の愚かさを伝える [転載禁止]©2ch.net

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1海江田三郎 ★
http://www.tokyo-np.co.jp/article/national/news/CK2015030902000233.html
太平洋戦争中、高級品だったイチゴが不要作物とされ、栽培が制限されたという歴史を知る人は意外に少ない。
全国有数の生産量を誇る栃木県の元職員の男性が今春、こうした経緯を自ら調べ、一冊の本にまとめた。
十三年間かけて、県内各地で八十人以上から証言を得た。イチゴを育てただけで弾圧されたという信じ難い出来事が、
戦後七十年の今、戦争の愚かさを伝える。 (大野暢子)

 栃木県都賀(つが)町(現栃木市)の男性は、戦前から戦中にかけ、観光イチゴ園を営んだ父親の記憶を語ってくれた。
約百四十アールで露地栽培し、春から初夏にかけての収穫期は、入場料三十銭で園を開放
電車の中に園のポスターを張るなど、東京向けの宣伝にも力を入れ、一日に最大約三百人が訪れた。
 しかし、太平洋戦争が激しくなると、食糧増産のため、行政がコメや麦の生産を奨励するようになった。
男性の父親は、県の役人に「(イチゴの苗を)即刻抜いて、麦を育てろ」と非難されたという。
 食糧不足が深刻だった時代。赤々としたイチゴは庶民には手の届かない高級品で、憧れだった。
また、行政からは「ぜいたく品」として目の敵にされた。この男性の父親は悩んだ末、終戦を前にした一九四二年ごろ、栽培を断念した。
 著者は、宇都宮市の川里宏さん(81)。栃木県農業試験場に約三十年勤め、
栃木産の品種「とちおとめ」の源流の一つに当たる「女峰(にょほう)」の開発などに関わった。
 九二年に退職するまで、高品質のイチゴを生み出そうと研究に打ち込んできた。
その傍らで気掛かりに感じていたのが、戦後に産地の発展を支えたイチゴ農家の高齢化という課題。
「農家の苦労や成功談を記憶として引き継ぎたい」と考え、退職の二年前から二〇〇三年まで、生産者からの聞き取りを続けた。

 調査の範囲を県外に広げると、同様の証言が神奈川県寒川町や静岡市の資料からも見つかった。
警察官に畑から根こそぎ苗を引き抜かれ、自身も留置場に連れて行かれた農家や、イチゴ農家というだけで地域で差別された話にも触れた。
 一方、終戦翌年の四六年には、既に東京の果物店でイチゴが並んでいたことをうかがわせる資料もあった。
露地栽培のイチゴは秋に苗付けし、翌年の初夏にかけて収穫する。終戦後すぐ、栽培を再開した農家がいたことになる。
 戦後、農業への統制が解除されると、栃木県ではイチゴ生産が本格化。今では県が品種改良や全国へのPRを主導し、
収穫量が四十六年連続日本一の「イチゴ王国」に成長した。
 「イチゴの振興に携わる人は、こうした歴史も忘れないで」。川里さんはそう語り掛ける。
 聞き取り調査の結果や国内外のイチゴ生産の歴史をまとめた「草苺(いちご)の歴史」は、今月末にも自費出版する。